地図皿 若き陶工の異国への想い

 
 1616年に朝鮮陶工李参平が肥前有田(佐賀県)の泉山で良質の磁石鉱を発見して以来、有田、秘境大川内山に藩窯が置かれた伊万里は窯業の中心地となり、色絵磁器の優品を作ってきた。伊万里の港から積み出されたことから、この地方で作られた焼物全般は伊万里焼きと呼ばれた。海外文化にも影響を及ぼした伊万里焼、豊かな歴史を持つ有田、伊万里の窯業、そこに働く陶工の人生は多様なテーマで文学に描かれる
イメージ 2  日本地図、世界地図を描いた染付大皿は江戸後期に数多く製作され、伝世品も多い。 武家や豊かになった庶民の間で、テーブルを囲んで大皿に盛られた料理を小皿にとりわけ楽しむ卓袱料理の祝宴が流行し、伊万里焼日本図皿(写真右:神戸市立博物館所蔵、『図説 日本古地図コレクション』より)の需要が大きく伸びた。 地図文は異国を意識するようになった人々の好奇心を刺激する人気の意匠になった。主に天保年間(1830-1844)有田で焼かれ、外山の窯跡から陶片が出土している。


 有田陶磁美術館開館七周年を記念して、1961年に出版された永竹威氏の『肥前やきもの読本』の第三章 「史話 肥前陶工抄」に地図文大皿を作った下南川原の若い陶工峯吉が登場する。
 峯吉は下南川原の窯焼き兵太夫の息子だ。 兵太夫は大物手洗鉢を宗廟八幡宮や勧請寺に寄進した程の轆轤の名人だが、不窯が続き窮地に陥り、窯焼きの名代札を返納して農家になる。 しかし慣れない農作業で収穫もままならず、窯焼きとして再出発を期し名代札の再交付を願うが叶わず、借金を負い、不遇のうち病に倒れ生涯を終えた。
 文政十二年(1829)の春、九代柿右衛門は大坂の蔵屋敷詰めの藩吏より、「余りにも不出来なので、用立て出来ず。 気の毒だが返品をする」との書状を受け取った。 大阪に送った赤絵小皿百十九個の内七七個が返品となったのだ。
 柿右衛門は翌日祖先の墓を訪ね無力を詫び、ここ数年、南川原一帯の窯の出来が悪くなったことを不安に思った。 亡き友人、同職の兵太夫の窯場が傾きかけていることを思い冥福を祈った。
 内山の大火の翌年である。
 その夜嵐の中、十五歳になった峯吉が柿右衛門を訪ね、父の念願であった窯の再興の助力を頼んだ。柿右衛門は借金返済を同職皆で行い、名代札の再交付を取る約束をする。
 復活した峯吉は、長崎に出稼ぎに行った仲間から、土産にもらった異人絵図や日本諸国絵図を見入り、時代の変化を感じ、そこに描かれる異国に憧れる。


、、、長崎の番所をとおり過ぎる異国船上で異人達が遠目鏡を見て両手をあげている絵図をみた峯吉は、皿山を出て海の彼方の南ばん国に出稼ぎにゆきたいと、いった夢を描いたものである。黒船の両側に車のついた版画や、日本の絵図の中に見出される九州の島々の形や、横広い版画に世界諸国の地図を描いてあるのをみると小躍りして喜ぶ峯吉である。


 若い窯焼き峯吉の、遥かなる異国へのあこがれや、異国絵図に見入る喜びは、若い陶工のひとりひとりに相通っていった。峯吉は親ゆずりの器用さで尺八寸の大皿を、自由にこしらえてはこの皿に日本の地図を描いた。


彼の遥かなる願いは、いつのまにか、大皿に世界の地図絵を描く力となったのである。峯吉は染付の地図絵だけでは、物足りなく波文様を土型で浮き彫りにして、皿の天地に二羽の鶴を染付で描き、自ら「地図皿」と銘打っては、安眠をむさぼり、特権に名を借る内山の赤絵屋を驚かしたのである。


峯吉は地図を浮出した大皿に、思うままに日本の島々の形をかき、夢にみた未知の国の天ジュクの国や女人国、エゲレス国などを描いた。大皿の裏には本朝天保年製、肥前国南川原山とかいては、遠い異国への思いを走らせたのである。


 永竹の『肥前やきもの読本』は 肥前窯業の歴史、肥前陶磁の魅力、史話、および詳細な年表からなる(第三章の「史話」は1961年初版にのみ所収。その後の増補版には含まれていない)。 著者は「歳月とともに―後書にかえて」で史話について記す。 


近世時代に生きた、肥前陶工の足跡を、旧記により、伝え話により、私的な解釈で史話としてとりまとめたものである。 、、、お断りしたいことは、ある程度の虚構をまじえた史話として構成したものの、小説といったものではないことである。つぎに文中の陶工名は、筆者が好みのままにとりあげたもので、 、、、かならずしも実在した陶工とは限らないことである。 また現存する陶家に直接、間接に縁故のある陶工名や史実があるが、陶工達の思索のあと、作陶態度などは、往時の陶工の心を心とした私自身の全くの創作であることをご諒承ねがいたいと思う。


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 史話の舞台、江戸時代後期の佐賀藩は飢饉、イメージ 1台風、異国船の出没する長崎沿岸の警護の負担で財政は悪化し、殖産興業による藩政改革に取り組んでいた。 農業の保護、主要産業の育成や交易を進め財政は潤った。ドル箱の陶磁器産業は大量生産を実現し内外に販路を広げたが、量産に走り技術が落ち粗悪品も増えていた。 有田内山の文政の大火(1828)後、職を失い外山や、長崎、他の窯業地へ出稼ぎに出たり、異国の存在に刺激を受けた陶工達の間に封建社会より抜けだそうとする意識も芽生えていた。
 多くの日本図、世界図が出版され、その中心は長崎であった。 江戸時代中期から出版されていた浮世絵師石川流宣の日本図や、十八世紀末に出版された地理学者長久保赤水の経緯線の入ったより正確な日本図、世界図、それらに倣った地図が、寺子屋ができ、大衆文化の生まれた時代に普及、活用されていた。 流宣図は正確さより、大名、名所、宿場の情報が詳しく参詣旅行に活用されベストセラーとなった。 
 長久保赤水の世界地図を簡略化し、まわりに伝説の国女人国、小人国などの人物絵、異国船、方位図、長崎からの海里数表が描かれた「世界万国日本ヨリ海上里数王城人物図」(写真右上:神戸市立博物館所蔵、『図説 世界古地図コレクション』より)などの色刷版画が庶民の間で流行した。
 人文地理学者応地利明は、「絵地図は、それを描いた人々、またその描かれた絵地図を受容した人々の、当時の生活世界や観念世界に関する知覚内容を図の上に表現したものだ」と云う。(『地図絵の世界像』)
 正確な測量を基に制作された伊能忠敬の日本全図も完成し、1821年に幕府に提出されていたが、厳重な管理下に置かれ一般の目には届かなかった。
 当時流布していたのは流宣図、赤水図を倣った地図であったが、皿の意匠となったのは行基図だった。近世各地の土木工事の指導をしたことから奈良時代の僧行基により最古の日本図が制作されたとする。 各国が楕円のような形で描かれ連ねられているもので行基の描いたものは残っていないが、これにならって描かれた同様の図を行基図と呼んでいる。
 皿の意匠が単純な行基図となったのは、正確さより、工芸品のデザインとしての面白さからと思われる。 日本のまわりに朝鮮、その東に小人国(コヒトシマ)、松前蝦夷琉球国、伊豆諸島の南に女護国(あるいはニョコノシマ、女人国)が描かれる。 日本図の中には富士山、琵琶湖が描かれ、伝説の国も含み意匠はパターン化し量産された。
 地図皿は円形、長方形の他、扇面型、水車型など多様で、海の部分は青海波、蛸唐草や網目、松葉文で埋められ、地図の周りに鶴や雲、南蛮船、煙を吐く黒船や方位図が描かれる。
 テーブルを囲む宴席の皿の国名は一方向でなく、周囲から読めるように方向を変えて書かれている。 豊かになった町人の祝宴の皿は尺八寸(径54.54センチ)前後の物も多い。
 江戸中後期の贅沢品をとりしまる幕府が経済統制を逆手に取り、地図皿は藍一色ですっきりした粋な意匠で、小紋等と共有する庶民の美意識を感じさせる。
 日本図の場合、型押しで国を盛り上げ、国境を線で描く。 型造りは有田外山、南川原山の窯で多用された技法といわれる。
 数は少ないが伝世する世界図皿は中央に日本を置き、アジア、ヨーロッパ、南北アメリカ、オーストラリアを配し、日本からの海上里を示す表を付ける。小人国は一万五千里、女人国は一万四千里等とある。


 二つの伝説の国の起源は女人国は羅列国、小人国は雁道、又は韓唐という。女人国は今昔物語に出てくる女ばかりが住み男性が入ると戻らないという国で、此の国の女は実は鬼で男が行くと食われてしまうと伝わる。奘 三蔵法師)の『大唐西域記』など世界の伝説にある雁道は、雁の来る道の果てにある渡り鳥の故郷で、大雁に導かれ行き着つくとそこに住むものは人の様に見えるが実は龍だった。本朝図鑑網目に韓唐:「この国不有人」とある。
 ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』(1735年に完全版刊行)でガリヴァーは、唯一実在の国日本に短期間滞在するが、小人国、大人国、飛び島、馬の国など空想の国を訪ね冒険する。 1609年刊行の中国の『三才図会』、『三才図会』を下敷きに寺島良安編纂、1713年刊行の『和漢三才図会』、日本の「ガリヴアー旅行記」といわれる1774年刊行、谷遊子の『和荘兵衛』には小人国、長人国、不老不死国など伝説上の国が登場する。 海外に目を向け、未知の国を想像し夢を膨らませた時代の共通の世界観の表現だ。

 伝世された地図皿の多くは高台内に「本朝天保年製」の銘を持つが、天保18301844))以前の文政年製(1818-1830)、以後の嘉永年製(1848-
1854)、又一重角福の銘もある。
 有田外山の十八世紀後半から大正時代まで使われたとされる窯黒牟田多々良の元窯跡から地図皿の陶片が出土している。
 陶磁器研究家水町和三郎は『伊万里染付大皿の研究』の染付地図皿の解説に、「地図皿は有田内山或は大外山では製産されないで専ら外山で製産されてゐる。 外山の内でも特に黒牟田、南川原山はその主産地であらう」(ママ)と記す。
 海事史学者で古地図、地図皿のコレクター、南波松太郎は「カタカナで国名が書かれているのは加賀産、加賀国が極端に大きく書かれている」(「地図皿と器物に描かれた地図のいろいろ」『古地図にみる世界と日本:地図は語る―夢とロマン』)と指摘する。 銘は大日本文政年製とあり、変り形の四角が主で、伝統の幾何学模様や二羽のコウモリが羽を広げた図等の華美な枠模様がある。
 伊万里地図皿より半世紀ほど早く、江戸中期の科学者平賀源内が長崎留学で学んだベトナムの焼物の技法を取り入れ、讃岐の志度で作らせた源内焼の地図皿がある。 緑、黄、紫の三彩でより正確な日本図世界図を国名、国境を陽刻で描き、実用というより知識人の観賞用といわれる。
 
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 「兵太夫」、「峯吉」の名は史料に見ることが出来る。

 宮田幸太郎著の『有田皿山の制度と生活』には皿山代官の下南川原庄屋 兵太夫他二名の庄屋と登心遣一名宛て、藩の殖産の方針に従い職務を果たしたことに対し褒美を与えるとの文書が残る。


  文政三年
  鳥目一貫文ずつ
                  下南川原山庄屋    兵太夫
                  広瀬山庄屋      弥平次
                  谷・稗古場登心遣   十兵衛
                  土伐庄屋       武吉


其方共儀、庄屋・登心遣など仰せつけ置かれ候処、かねて心がけ厚く、窯火入れなど度数相増し、或は土伐り出しかた行き届き、旁、心遣行届き、御運上銀(を)御日限通りさきに納めかた相整い、神妙の至りに候。 右の次第御小物成所へ申し達し候処、御ほうびとして左に書載の通り御酒頂戴仰せつけられ候者なり。
 

 中島浩氣の『肥前陶磁史』では 立林兵太夫、峯吉は「南川原の名工達」として取り上げられている。 


    立林兵太夫は下南川原の名陶家であった。そして彼は窯出しする時
   に特殊品だけは直ぐそれを長持の中に匿くして誰にも決して見せ
   なかった変わり者で、それは自分が工夫した意匠を模倣されるの
   を嫌ったのであろう。 
    こうして彼は天保七年(一一九年前、1836)十二月二十六日に
   死去し、 、、、 


    維新前の窯焼で下南川原の立林峰吉(森之助の祖父)が盛んに製造
   したが、彼は天保九年四月六日に死去しており、、、


 「史話」では兵太夫は早世したが、この資料では九代柿右衛門と同じ1836年に六十一才で死去したとある。
 
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肥前やきもの読本』永竹威 (金華堂書店 1961
肥前陶磁史』中島浩氣著、永竹威編 (肥前陶磁史刊行会 1955
『有田皿山の制度と生活』 宮田幸太郎(神近桂二、1975
伊万里染付大皿の研究』水町和三郎(桑名文星堂 1944

『古地図にみる世界と日本:地図は語る―夢とロマン』(神戸市立博物館開館一周年記念特別展図書 1983

『図説 世界古地図コレクション』三好唯義編 (河出書房新社 1999

『図説 日本古地図コレクション』三好唯義、小野田一幸(河出書房新社  2004

『小さな蕾』2000年2月号No.379  (創樹社美術出版 2000

『続 ガリヴァ―旅行記 (飛び島・馬の国)』岩波少年文庫) ジョナサン・スウィフト中野好夫訳(岩波書店 1980