平岩弓枝: 赤絵師


1616年に朝鮮陶工李参平が肥前有田(佐賀県)の泉山で良質の磁石鉱を発見して以来、有田、秘境大川内山に藩窯が置かれた伊万里は窯業の中心地となり、色絵磁器の優品を作ってきた。伊万里の港から積み出されたことから、この地方で作られた焼物全般は伊万里焼きと呼ばれた。海外文化にも影響を及ぼした伊万里焼、豊かな歴史を持つ有田、伊万里の窯業、そこに働く陶工の人生は多様なテーマで文学に描かれる。

御宿かわせみ」、「はやぶさ新八御用帳」などの時代小説シリーズの人気作家平岩弓枝はやきものにまつわる作品をいくつも書いている。
「やきもの師」、「赤絵獅子」、「火の航跡」、「青の背信」、「お吉の茶碗」、「夫婦茶碗」などで、その中で有田を舞台にしたもの、有田の陶工や有田焼が登場するものがある。
平岩弓枝自選長編全集 第八巻』に載る「作品と私のこと」というエッセイに、平岩は母が茶道をたしなみ、やきものが好きだったことから、陶芸家や陶磁器商との付き合いがあり、「身分不相応なやきものが日常の食器としても使われていることがあった」と書いている。
平岩は「やきものへの関心は、どうやらそれらを作り上げる人間の方に魅力を感じてスタートしたというふうで、それは、物を書いている人間としては当然のことだと思う」とふり返る。江戸時代、そして現代の焼物師像を描くにあたり、歴史を調べ、綿密な取材を重ねている。
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平岩の最初のやきもの関係の作品はTVドラマだった。1961年、NHK福岡の
術祭参加ドラマ「かくれ赤絵師」の脚本で、江戸後期、藩の厳しい取り締まり
をくぐり、禁制の赤絵作りに命をかけた有田皿山の女性赤絵師の悲劇を描く。    
 江戸時代、有田焼赤絵(色絵磁器)は佐賀鍋島藩貴重な財源で、陶技が他領に漏れないよう採石から、土作り、成形、焼成、絵付けまですべて分業にし、伊万里大川内山の藩の御用窯で本焼きし、それに有田赤絵町で上絵をつけた。
 その総仕上げの色絵付けに携わる赤絵屋は、皿山代官が監視と保護にあたった。寛文年間(16611673)に上絵業者は十一軒と決められ(その後1779頃、五軒が加えられたが)、秘法漏洩防止策として絵の具の調合は一子相伝、長男のみに伝えられた。職人たちの移動には厳しい規制が加えられ、他国の商人は赤絵の買い付けはできなかった。藩は製品を幕府や大名に献上し、輸出も独占した。しかし有田の赤絵の評判は全国に広がり、技法を得ようと忍び込む者は後を絶たなかった。
職人にとってはとても窮屈な環境で、腕のある細工人や絵付師の中には御用窯を脱け出し、密かに窯を築き赤絵を密造する者も出ていた。見つかれば直ちに鉄砲で撃たれ、死ぬものも多く、さらし首が行われた。
ドラマはそんなかくれ窯の一つで起きた悲劇である。
   
文化・文政(18041829)の有田皿山のはずれ応法山の窯では、若い夫婦、弥平とおはるが法度を犯し赤絵を焼いている。六十五歳の作爺こと作右衛門は、御用赤絵屋宮永平兵衛の次男で、赤絵の秘宝を盗み覚えたかどで目を傷つけられ、家を追い出されて二人を手伝っている。おはるは作爺に絵付けを習い、作爺が「おはるにまさる花ダミ手は有田皿山に一人もおりやせん」というほどに腕を磨いた。
作爺は「御用窯のない自由な他国へ行って、思う存分俺の技で赤絵を焼くんだ」と夢み、チャンスをねらっている。
 
赤絵窯の焼成の前に、弥平とおはるの赤子多吉が熱を出す。祭りの唐人囃子が聞こえている。唐人囃子に化けた抜荷仲間が小道具箱に赤絵を隠し運び出すので、間に合わせる為、やむなく窯に火を入れる。二人は窯から離れられなくなり、多吉は手遅れで死ぬ。
きれいに焼き上がった赤絵を見せられるが、悲しみに沈むおはるは「赤絵があの子を殺した。多吉が死んだ今となっては仇と同じだ。割ってやる」といい、「二度と赤絵は描かない」と心に決める。
 
 唐人の商人は足元を見て値切る。しかしキリスト教の聖母子の図を見せこういう図柄の皿が欲しいと求める。この当時キリスト教は禁教だった。
 
弥平: こういう赤絵皿だったら、いくらでも高く買うとぬかしやがる。こちらが出来んと知ってのことたい。名前は忘れたが、とにかく南蛮の観音さまみたいなもんだ。すっ裸の赤子ばだいとる。
作爺: ああそいつは駄目だ。もっとるだけで首がとぶ。
おはる:この子、死んだ多吉の顔にそっくり。……観音様に多吉が抱かれている。 
 あの子が死んでから私は二度と赤絵付の筆は持つまいと思ったけれども、この絵ばかりはどうしても心の中から離れないんだよ。観音様に抱かれている多吉の姿をせめて絵皿に描き、きれいに焼き上げたなら死んだあの子の供養になるような、、、
 私は 私に出来る陶器(やきもの)の赤絵皿の上にもう一度あの子を生かしてやりたい。母親の私に出来ることは、もうそれだけしかないんです。私は多吉を、この赤絵皿の中に生き返らせたいんです。
 お願いです。これだけは私の想い通りにさせて、、、。私の命のありったけをこの赤絵皿に注ぎ込んでやりたい、、、。あの子のために、、、
 多吉、お前は生まれかわるのだよ。きれいな皿になって、また私のところへ帰ってくるのだよ。
 
おはるは絵筆をにぎり、母子像を赤絵で描き上げ、再び窯に火を入れる。
皿山代官の隠密小太郎が応法山の窯に向っている。
窯のまわりに注連縄が張ってあり、その下に聖母子の絵が貼られている。藩の役人が窯を壊そうとするのを、おはると作爺が体をはって防いでいる。そこに小太郎が来て窯を崩したら証拠品がなくなると役人を止める。おはるは小太郎を見て、山で行き倒れになっていたところを助け、多吉の子守をさせていた作男だと気付く。
 
小太郎: 窯の火を消すな。この窯は証拠品なんだ
 
窯には観音が裸の赤子を抱く絵皿が入っているので、おはるは逃げようとしない。
作爺は役人に切られ倒れる。「職人は死してもおはるに伝えた技術は残る」と堅く信じて、、、
 
最後の場面は侍姿の小太郎が大事そうに抱えてきた桐の箱を静かに開き、一枚の皿を取り出し、牢の中のおはるに示す。
 
小太郎: 応法山のかくれ窯で、お前が焼いた赤絵皿だ。よく見るがいい
おはる: これが私が描いた皿でございますか
 
焼き上がった絵皿を見て、おはるの目が輝きだす。
 
小太郎は藩の役人ではあるが、職人の立場を理解し共感を自らの行動とした。
 
有田の歴史、有田焼を作り上げてきた職人たちの自由な創作への意欲、進取の気質、技術継承の熱意がドラマの核となっている。
主演は岸旗江、原田甲子郎、河野秋武他。企画・演出 角田嘉久。1961年11月8日に放送された。
平岩弓枝は1932年、東京の代々木八幡神社宮司の長女として生まれる。女学校時代演劇活動に熱中し、日本舞踊、長唄、清本、鼓、仕舞、狂言等、稽古事をした。後に戯曲「瞼の母」で知られる長谷川伸の門下となり、小説、戯曲の勉強をした。この脚本は第一子を妊娠八カ月を過ぎた頃に執筆したという。
企画・演出の角田嘉久(19181980)は「かくれ赤絵師 後日譚」(「九州文学」二月号 九州文学社 1962)で、戦中から終戦直後まで有田工業高校の国語教師として、3年あまり有田に住み、やきものの話をドラマにするのが長い間の夢だったと明かす。角田は、ドラマは永竹威の『肥前やきもの読本』の第三章「史話肥前陶工抄―有田皿山の喜びと悲しみ」の一話「かくれ赤絵師」からインスピレーションを得たという。かくれ赤絵師は永竹の創作語だという。
ドラマは「一部の人にはすごく好評であった。そしてまた、一部の人にはすごく不評であった。 ……主観的に見れば好評であり、客観的に見れば不評と、私はそう思っている」と記している赤絵の皿も白黒で、スタジオが一つしか使えず、技術的にままならぬ時代、セットの見事さは皆が口をそろえてほめてくれたとふり返っている。
博多放送物語 秘話でつづるLKの昭和史』によると小道具の皿は親交のあった十二代今泉今右衛門さんに制作を依頼した。
 
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 平岩弓枝の赤絵師を巡る短編『赤絵獅子』(1962)は親子二代にわたる赤絵技術盗みの物語だ。
 
七十歳になる赤絵屋小柳万兵衛は秋口に引いた風邪で、病床で正月を迎えたが顔色も機嫌もいい。前年秋の孫の誕生を機に、小柳家は長男万作の跡目相続が済み、一子相伝の絵の具の調合の秘伝の伝授も終えた。万兵衛は万作の妻里枝の父、皿山代官きっての剛直の士という評判の舟木作左衛門と、どちらにとっても初孫万太郎の誕生を喜び、初春を祝っている。
 
一人万作は、小柳家と取引のある窯業家の職人治助の突然の呼び出しに、不安な時を過ごしている。万作は夜更けに治助に会い出自を知らされ、翌日、一対の磁器の獅子像を手渡された。
 
「私が二十年かかって、この土地で会得したものを形に造り上げたのだ。これにお前の赤絵付けで仕上げをして、故郷への土産にするつもりでいるのだが……」
 
治助は加賀藩士、本名室生源七郎。二十数年前、赤絵の秘法を盗み出す命を受け、妻とともに伊万里津に潜入し、旅商人を装い有田に通っていた。翌年男の子が生まれた。
その半年後、小柳家の門前に赤子が捨てられていた。子のない小柳家では赤絵の家の存続のため、万作と名付け、実の子と偽り 育てた
 
万作との密会の帰り、治助は加賀の隠密との疑いをかけられ捕えられ、代官所に引かれる途中舌をかみ切って死んだ。事件は舟木作左衛門の機転で収められたかに見えたが、万作は弟小柳万次郎に脅迫され動揺した。真実が明かされれば、育ての父母、妻子も厳しい罰を受ける。育ての親に深い恩を感じながら、目的を遂げられず果てた実の父の死を無駄にしたくないとの思いも強く、加賀に帰ることにして密かに有田を離れたが山の番所で捕縛され死刑と決まる。
全てを打ち明けた義父作左衛門に、最後の願いを聞かれ、万作は処刑の前に父の造った獅子に赤絵付けさせてほしいと願った。
 
その年の秋、舟木作左衛門は加賀へ向かう母子を伊万里津で見送った。 母里枝は美しく焼き上がった一対の赤絵獅子が入った箱包みを抱えている。
作左衛門はよちよち歩きの孫万太郎にささやいた。
 
「父の国へ行くのじゃ。達者で成人せいよ」
 
「その赤絵獅子を父の国の白い雪の上にそなえるのだ。父の声が祖父の声がその雪の中から聞こえて来ようぞ」
 

 子は隠密の使命を担わされていることを知らず、里親の元で修業し赤絵の技法を修得した。

親子二代、三代に渡り他領に住みつき、使命を遂行する隠密を里隠れと呼んだ。彼らは、家族を成し敵中に「故郷」を作るが、いざというときは家族を捨て秘密を持ち帰る。
 
色絵獅子像は十七世紀中期より有田で作られた。ヨーロッパにも多数渡り、阿形、吽形の対をなす水玉模様の獅子像は英国のヴィクトリア&アルバート美術館他に残る。ミュンヘンの宮殿博物館所蔵の獅子像には豪華な金細工が取り付けられ燭台になっている。
 
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平岩は「技術を外へ洩らさないよう非情なまでに秘伝をまもり続けた歴史を持つ有田皿山のもっている重く暗い影のようなもの」を現代人の背景において『火の航跡』に書いたと「作品と私のこと」(『平岩弓枝自選長編全集 第十五巻』文芸春秋 1989)に記す。

「火の航跡」は週刊朝日に1977年六月から翌年二月まで連載された。平岩自身が脚本を書き、フジテレビ平岩弓枝シリーズの第六作としてテレビ化され、1978年 23回にわたって放送された。 

 

外国語学校で英語の講師をしている城重久仁子の夫、文夫が突然失踪した。文夫は六本木に事務所を持つカメラマンで、ドキュメンタリーの小品やコマーシルフィルムの撮影に忙しい。久仁子はいつものように家を出た夫は仕事の旅をしていると疑わなかった。

事務所のマネージャー兼秘書の小笠原君子から、文夫と連絡が取れなくなっていることを知らされる。愛情を感じ、幸せな生活をしていた久仁子には、結婚一年になる夫の失踪の原因が全く分からない。

文夫は家を出て、平戸に行き有田の実家の両親を訪ね、その足で海外へ旅立った。実家は窯業の家で、父は中風の発作後引退している。

久仁子は手がかりを求め有田の両親を訪ね、養女千津から文夫が親から大金をもらい、大切にしていた大壺を持ち出したと聞く。

 

「高さが五十センチ近くもある、大きな壺でした。真ん中に何とも言えないいい色で梅の幹が弓なりに描かれていて、思い切って大きな梅の花が一面に赤で……、大胆な図柄なんです」

色鍋島風でもあり、柿右衛門風の写実美もある。

「文夫兄さんは、お好きだったように思います」

 

久仁子は文夫が「俺の家に、どこで作られたかわからない赤絵の壺がある。梅の木に梅が咲いている。日本的な図柄で、そりゃあ素朴なものなんだが……どうも、正体不明なんだ」と言っていたのを思い出した。

千津は「この壺は南国生まれなのですって……」とつぶやいた。

まもなく文夫の助手、楠本功から文夫を追いギリシャに旅立った君子が、ホテルで急死したことを知らされる。

君子の死因が薬物中毒と判明し、その後文夫の母と妹淳子も不審死を遂げ、警察が動き出す。

実家で遺言書が見つかり、文夫は君子から逃れるために海外に出たことがわかる。千津は、文夫が二十歳の学生のころ窯で女工とした働いていた八歳年上の君子との間に生まれた子で、窯の体面を保つため事情のある親戚の子として養女にして育てた。文夫が結婚するまで関係を続けたが、君子は文夫の結婚に一度は納得したものの一年経過して幸せそうな二人を見て離婚を迫っていた。このままの生活は続けられないと文夫は考えた。

 

久仁子の外国語学校の同僚で、淳子の夫朝比奈耕一郎は、予てから久仁子に恋心を抱いていた。耕一郎は、城重家の事情を知る文夫の旧友で、二卵性双生児の兄、陶芸家の月山と結託し、久仁子と財産を奪い城重家に復讐しようと企む。

 

月山は江戸初期に有田の陶工が外国に連れ去られ、日本でない土地で有田焼を焼き続け、生涯を終わったという記述がオランダの史料にあり、そこに載る日本人陶工の一人が城重家の祖先の一人と同名であることを上げ、文夫に国外脱出を勧める。

有田の御用赤絵屋の分家の血を引き、子供のころから青年期まで焼き物に没頭し一人前以上の技術を持つ文夫の中に潜む陶工のロマンが、実家に遺る南国生まれの正体不明の大壺の謎を求め、又、連れ去られた陶工の足跡を探る旅への情熱を掻き立てる。

日本の史料には全く見当たらないこの件は、長崎のオランダ商館のキャピタンの日記に「十七世紀の初め、あるオランダ人が鍋島藩と交渉して有田の陶工を数名大金をもって買い取り外国へ極秘に連れ去った」のではないかと思われる記述がある。彼らはまず最初に中国広州の南、珠江に近いある場所〔マカオ近辺〕でオールド伊万里の試作をさせられたが、失敗し、別の場所に移された。彼らの乗った船の航跡を辿ると、インドを経て、アフリカ喜望峰を回りポルトガルから地中海に入ってトルコ、ギリシャまで行っている。日本の陶工たちが最後にどこに定住したかの記録はないが、スペイン、メキシコには日本の影響の濃い焼き物の伝統が受け継がれている。

 

久仁子はメキシコ、カリフォルニア半島の南端サン・ルカス岬で文夫との再開を果たし、事件の全容も明らかになる。ここに窯を築いた文夫から、焼き物を続けこの地に骨を埋めたいと聞かされる。夫への愛の証として夫の失踪の謎を追った久仁子には虚しさだけが残った。

 

日本でない国で、新しい焼き物を作ることにも、情熱を燃やしている。

「ここで死んだ日本人が俺の祖先の誰かかどうかなんてことも、もうどうでもいい。ここの土に、俺は惹かれたんだ」

遥かな太平洋のむこうに故郷をみつめながら、ここで生涯を終えたいという。

「千津もここにねむっているのだ」

 

久仁子は岬を去る。共に文夫の行方を捜した楠木功が久仁子の後を力強く歩んでいる。この様子を文夫は岬の上から見ている。

 

平岩はスペインの田舎で、梅や竹が描かれた花鳥風月の図柄のある古伊万里そっくりの焼き物が売られているのを見たり、メキシコのプエブラでは有田焼を思わせる唐草模様を描いた現地産の焼き物を見つける。同じ頃オランダのカピタンの日記の中に、日本の陶工が売られて外国船に乗っていったという記事を見つけた。

「有田から売られていった職人たちは技術指導の為だったのだろうか」、「どこへ行ってどんな焼物を作って一生を終えたのだろう」といろいろな資料を読んでいる最中に『火の航跡』を書いたと、「作品と私のこと」に記す。

☆ 本文中の「火の航跡」からの引用は、文春文庫、1980版による。

 テレビドラマでは城重久仁子を大原麗子、朝比奈耕一郎を竹脇無我、城重文夫を藤竜也が演じた。
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「かくれ赤絵師」台本 平岩弓枝NHK 1961) 松本康有田町町長(任期19521963)寄贈の台本を有田町東図書館が所蔵
『博多放送物語 秘話でつづるLKの昭和史』NHK福岡を語る会編 (海鳥社 2002LKは福岡放送局のコールサインJOLKから)
「赤絵獅子」平岩弓枝(短編集『ちっちゃなかみさん』角川文庫 2014、大きな活字で読みやすい本シリーズ第十巻『平岩弓枝集』リブリオ出版1999

「火の航跡」平岩弓枝 朝日新聞社 1978)、(文春文庫 1980)、初出:「週刊朝日」 1977 6月3日号~1978 2月3日号連載

『有田やきもの読本』永竹威(有田陶磁美術館 1961

肥前やきもの読本』永竹威(金華堂 1961
(注・『有田やきもの読本』、同内容の『肥前やきもの読本』とも確認できる限りでは1961年出版のもののみに、第三章 「史話肥前陶工抄―有田皿山の喜びと悲しみ―」が収録されている。両書ともその後の増刷版には第三章はない。1961版両書とも国立国会図書館が収蔵)