リンネの使徒 アジア航海記に日本陶磁を語る    

 文化、アート情報ウエブサイト “thecultureconcept circle”2016年6月25日号の大英博物館で開催されていた「メイド・イン・ジャパン~柿右衛門と有田焼の400年」(”Made in Japan~Kakiemon and 400 Years of Porcelain”)展の紹介記事は、18世紀のスエ―デンの詩人ペール・オズベックが有田に向かう旅について記しているという以下のリードで始まる。

 

 Swedish poet Pehr Osbeck in the eighteenth century described his jouney towards the port of Arita in Japan.

 (18世紀のスウェーデンの詩人ペール・オズベックは 日本の有田の港に向かう旅について描写する。―著者訳)

 

 ペール・オズベック(1707-1778)は牧師で博物学者、ウプサラ大学で「分類学の父」と呼ばれる博物学者カール・フォン・リンネに学び、“リンネの使徒達”(apostles of Linnaeus)と呼ばれ、世界中の動植物の調査に赴いた弟子の一人で、1750年スウェーデン東インド会社のプリンス・カール号に乗船し、中国、東アジアへの旅をした。 広東省に四か月滞在し現地の動植物、人々の暮らしを調査し、陶磁器、茶、香料、絹等の輸入にも携わった。 その旅行記“A Voyage to China and the East Indies  vol. I,II ”には動植物の調査の記録、広東の様子と共に、日本に関する記述があり、日本の磁器は“best”と記している。

 

 A quantity of foreign commodities, and of their country, is annually exported from Canton, especially porcellane, commonly called Chinaware, which is used many ways. They bring it hither from the inner parts of the country, some painted and some not.  Painted china from Nanking is much esteemed. The Japan china is reckoned best.   The stone porcellane is heavier, harder, and dearer than common china. Du Halde says , that the finest comes from the little town of Kin-te-ching. (p240-241)

 (自国及び外国の産品、特に色々な用途に使われ一般的に焼物と呼ばれる磁器が毎年広東から輸出される。 これらはここ広東に中国内陸部から運ばれてくる。 絵付けのあるものと無地のものとがある。 南京地方から来る色絵磁器は珍重され、日本の磁器が最高と評価されている。 磁器は重く、硬いが他の焼き物より美しい。 デュ・アルドは最も優れたものは小さな街、景徳鎮で生産するものだと云う。―著者訳)

 

 Porcellane comes hither from other places; some is painted, and some not. That which is painted here according to particular directions, or with names, or coats of arms, is very dear.   The porcellane from Nanking is reckoned the best, next to that from Japan: though a certain author says, that the best porcellane comes from the village of Sinktesimo. (p231)

   (磁器は、絵付けのあるものもないものも、別の場所から運ばれてくる。ここ広東で、特別の指示通りに絵付けされたもの、銘や紋章の入ったものはとても貴重だ。 南京地方からのものが日本の磁器に次いで、最高級と評価される。しかしある作家は最も優れた磁器は景徳鎮からのものだと云う。―著者訳)

 

 オズベックは、他のライターは景徳鎮等中国の磁器が最も優れていると言っていると記すが、彼自身は日本の磁器が最も良いと繰り返し述べている。

 ここである作家と云っているのは、 ジャン・バティスト・デュ・アルドと思われる。 デュ・アルド(Jean-Bastuske Du Halede, 1674-1743) はパリ生まれのイエズス会修道士で『中国全誌』(“Description dela Chine”)全四巻を著した。 これは18世紀ヨーロッパに大きな影響力を持った書物といわれている。 デュ・アルド自身は中国に行ったことはなく、中国を訪れたイエズス会士の報告をもとに纏めた。

 デュ・アルドは、景徳鎮の繁栄を“1リーグ(人や馬が一時間出歩ける距離。ヨーロッパで使われていた。国や時代によって異なるが、3.8~7.4キロメートル)に広がる街で百万人の人口を持つ”と記している。

 Nanking と記している地は景徳鎮と思われる。 当時南京は中国の中心で, 中国のことでもあり、この時代色絵は南京焼と呼ばれていた。 日本では景徳鎮の磁器を南京焼と呼んだ. 

 「旅行記」には中国の地方やアジアの国々から商品や産物が集まり、ヨーロッパ諸国に大量に輸出される広東の活気に満ちた様子が詳しく描かれている。 工芸品、特に中国、日本の磁器は主要な輸出品で高価であった。

 

 The Japanners have ready-made bureaux, tea-boards, boxes, &c, besides the work that is bespoken. These men as well as those who work in mother of pearl, and the painters of porcelane, have little boys who are very diligent and active. That kind of varnished work which comes from Japan is reckoned the most valuable .(p229)

 (日本人は注文品のほかに既製品の机、盆、箱を持っている。螺鈿細工の職人や磁器の絵付師と同様、彼ら、木工職人も勤勉で活発な若い弟子がいる。 日本産の塗り物はとても高価だ。―著者訳)

 

 その他、広東の街の様子、風景、人々の暮らし、農業、畜産、風土、歴史等詳しく記し、フランシスコ・ザビエルの殉教、日本人が中国人から漢字を習った等のことも記している。

 ジャワ島に上陸したとあるが、オズベックが日本に上陸したとの記述はない。

 オズベックは1752年、アジアの動植物の新種の記録と集めた標本を携えリンネの元に帰る。 帰国後、1758年スウェーデン王立科学アカデミーの会員に選出された。 持ち帰った900種の動植物の内600種の新種が、りンネの1753年出版の“Species Plantarum”(『植物の種』)に収録された。

 ヒマラヤ,中国から日本の南西諸島、小笠原諸島紀伊半島原産のヒメノボタン(Osbeckia chinensis L.); アジア原産の晩白釉Citrus grandis Osbeck); オレンジCitrus sinensis Osbrck); サキシマボタンヅル(Clematis chinensis Osbeck)等、オズベック由来の学名を持つ。 動物ではシラウオAlubula chinensis Osbeck);  ムツゴロウ (Boleophthalmus chinensis Osbeck)等に献名された。

 

 “thecultureconcept cirdle” 「メイド・イン・ジャパン~柿右衛門と有田焼の

400年」の記事でリードに続いて詩の1節が引用されている。

 Through the clear realms of azure drift

And on the hillside I can see

The villages of Imari

(清らかに澄んだ中空のここにかしこに漂い遊ぶ。

ややあって丘の斜面に現われる 

伊万里の村々

―逢坂収九州大学名誉教授訳)

 

 これはアメリカの詩人ヘンリー・ワーズワースロングフェローの1877年に発表された長編詩“Keramos”から の引用だ。ケラモスはギリシャ語のセラッミックの語源で、焼き物の土、焼き物を意味する。 詩人が故郷の老陶工の仕事場を訪ね、土の塊から器を作り出す様子を見ているうちに出る、世界の窯業地を訪ねる空想の空の旅を詠う。

 本ブログ「本棚・陶磁と文学」の2012年10月26日投稿の「ロングフェローの詩『ケラモス』」<https://jafmama.hatenablog.jp › entry>で取りあげた。

 

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 リンネの使徒で「日本植物学の父」と云われ、日本でも知られているスウェーデン人カール・ぺーテル・ツンベルク(ツュンベリー、1743-1828)も東インド会社の航海医師として、アジアに赴いた。 ウプサラ大学でリンネに師事し、博物学、医学を修め、フランス留学、アフリカでの研究の後、アジアに派遣され、セイロン、ジャワを経て、1775年8月に来日、長崎出島オランダ商館の医師として約一年半滞日した。 1776年、商館長フェイト(Arend Feith)と共に、江戸に行き将軍徳川家治に謁見している。

 航海記“Travels in Europe, Africa and Asia, 1770-1779” 全4巻を1796年に出版、その第3巻(1791)と第4巻(1793)の前半が『ツンべルグ日本紀行』として纏められた。

 その第八章「江戸参府紀行」に、肥前磁器に関する記述がある。 

 

 肥前の地も亦美事な陶器を以て知られている。 私は既にこの陶器を市場又は商館で見てはいる。 然し私は旅行の途すがら原産地で出来るだけこれについて知識を集めることを忘れなかった。 この陶器は真白な極く上等の土で捏ったもので、その労作は非常に手数のかゝるものである。 然しこの陶器はこの上もなく白く且つ透明なのであるから、その労は充分酬いられるのである。

 

 ツンベルクは肥前で目にした磁器を絶賛している。 しかし別の個所では日本の焼き物をあまり認めていない言及もある。

第四章「欧州人の交易」では「日本の陶器は色に於いても形に於いても少しも愉快なところがない。 野卑で肉厚く支那広東から出すものと比較してずっと劣等である。 特長は燃えた炭火にあてても、容易に割れない点にある。 日本の陶器は藁荷造されるが荷造が非常に巧妙で只の一つも毀れることがない」や、第二十六章 「日本人の商業」で「陶器の輸出も少ない。 然し内地人の間には盛んに売買されている。 その捏土は非常に美しいのだが、餘り部厚で、形及び色としても、支那陶器に比して遙かに劣る」等と書いている。 「天皇は一度使った食器は再び使わないで破棄するといい、それ故とても質素な陶器を使っている」ともある。

 ツンべルグにとって。出島を離れての江戸参府の旅は動植物の研究の為の大きなチャンスであった。道中、箱根で多くの植物標本を集め、帰途では大阪の植木屋で多くの植物を買い込んだ。

 江戸滞在中は『解体新書』の共訳者で蘭医の桂川甫周中川淳庵らに蘭学を伝え交流し、塩化水銀を処方する水銀療法と言われる梅毒の治療法を紹介した。 しかし行動制限があり研究が思うように進まない為、参府後バタビアに戻った。 

 「航海記」には眉剃り、お歯黒等の日本の習慣、既婚婦人の地位、出島の閉鎖性など冷徹な目で見た記述がそこここにある。

 「余生をこの孤独の裡に送らねばならぬ運命の欧州人は全く生きながら埋葬されたと同様である」と出島の孤立、閉鎖された生活を嘆く。

 ツンべルグには『日本ほめそやしたり、けなしたり』(“Japan Extalled and decrie”)等の著作もある通り、率直に見たこと、感じたことを書き留めた。

 スウヱ―デン帰国後はウプサラ大学の植物学教授を経て、 1781年に学長に就任する。箱根で採集した800種を中心に1784年“Flora Japonica”(『日本植物誌』)を出版した。

 ナガサキアゲハ(Papilio memnon thunbergii von Siebold, 1828)はツンべルグ由来の学名を持つ。

 

 佐伯泰英の居眠り磐音江戸双紙シリーズの13巻『残花の庭』には、ツンベルクをモデルにした蘭医ツュンベリーが登場する。阿蘭陀商館長フェイトと江戸参府をし、その折十代将軍徳川家治の養女種姫の麻疹を治療する。 御典医で蘭医の中川淳庵桂川国瑞はツュンベリーと交流し蘭学を学ぶが、漢方医池原雲伯、田沼意次等との権力闘争に巻き込まれる。

 

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 1657年に来日した出島オランダ商館長ツァハリス・ヴァ―グナー(ザハリアス・ワーヘナール Zacharias Wagenaer、1614-1668)は明末清初の混乱で生産が急減した景徳鎮の磁器に代わるものとして日本の磁器を求めた。 ヨーロッパ人の好む景徳鎮磁器を見本に注文し、画家でもあった彼はコバルトブルーの素地に金の文様を付けた色絵を提案したと言われる。これに答えて肥前磁器は生産を増し、著しい技術革新を遂げたという。1659年には年間輸出3万個を超え、ピークの1662、1771年には8万個超を輸出した。

 

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“A Voyage to China and the East Indies  vol. I,II ” Pehr Osbeck、Benjamin White 訳、 1771 (Biodiversity Heritage Library 〈https://www.biodiversitylibrary.org>bibliography Details - A voyage to China and the East Indies - Biodiversity ...〉)

“Keramos” Henry Wadsworth Longfellow (“Keramos and Other Poems” 1878)

『ケラモス』(陶磁器) 逢坂収訳 (英語英文学論叢 第43集 「中野行人教授退官記念号 1993 2月」九州大学英文学研究会)

『ツンベルグ日本紀行』ツンベルグ、 山田珠樹訳註(駿南社1928)、(国立国会図書館デジタルコレクション 〈info:ndljp/pid/1043693〉)

『江戸参府随行記』C.P. ツュンベリー、 高橋 文訳(平凡社 1994)

「第3章 ニッポンへの道-カール・ペーテル・ツュンベリー」 西村三郎(『リンネとその使徒たち』 朝日新聞社1997)

『残花の庭』佐伯泰英(「居眠り磐音シリーズ」13巻、文藝春秋 2019、)

‘Kakiemon and 400 Years of Porcelain―The British Museum’(“thecultureconcept circle” 2016 〈https://www.thecultureconcept.com>kakiemon-and-400〉)