幸田露伴の「椀久物語」― 美術史を語る物語

 


 朝鮮陶工李参平が肥前有田(佐賀県)の泉山で良質の磁石鉱を発見して、今年で四百年を迎えた。有田、秘境大川内山に藩窯が置かれた伊万里は窯業の中心地となり、色絵磁器の優品を作ってきた。伊万里の港から積み出されたことから、この地方で作られた焼物全般は伊万里焼きと呼ばれた。海外文化にも影響を及ぼした伊万里焼、豊かな歴史を持つ有田、伊万里の窯業、そこに働く人々の人生は多様なテーマで文学に描かれる。
 
江戸時代前期、大阪の焼物を扱う豪商椀屋久右衛門は遊女松山への愛に溺れ、放蕩を続けた末、財を遣い果たし零落の内に精神を病み、遂に水死してしまう。
椀久の悲劇は巷で喧伝され、歌舞伎「椀久袖の海」が貞享元年(1684)大阪で上演され、井原西鶴の小説浮世草子「椀久一世の物語」が翌年(1685)刊行された。西鶴は椀久二十七歳から三十三歳までの六年間を描き、貞享元年十二月に水死したとする。
又、椀久は発狂した後、京に行き松山の愛で平癒したともいわれていて、紀海音は人形浄瑠璃「椀久末松山」(1710年4月以前に初演)に著した。備前の大尽が同情し、松山を身請けして、二人を大阪から連れ出す。
いわゆる椀久物が文芸や舞台の様々なジャンルで創作され人気を博した。
 
幸田露伴1867-1947)はこの二人をモデルに「椀久物語」(18991900)を著した。露伴以前の浮世草子浄瑠璃、歌舞伎等には椀久、松山の悲恋が描かれるが、露伴は舞台を明暦年間(1655-1658)の京都に移し、恋愛話に肥前の赤絵技法盗みの話を絡めた。 
露伴の物語は、京都の焼物商椀久が、有田の青山幸右衛門から藩外に洩らすことを禁じられている赤絵技法を聞き出し、陶工清兵衛に伝授し、京焼色絵陶器が誕生する経緯を語る。肥前焼物組合の手代幸右衛門は椀久の寵愛する島原の遊女松山の父で、京、大阪を廻って焼物の仲買をしている。身請け話が持ちあがって悲しむ娘を、焼物の代金を流用して自由の身にしようと考える。これを知った椀久は、松山に父に頼んで赤絵の秘法を手に入れて欲しいという。赤絵の焼成に苦心している清兵衛にそれを伝授し研究させれば、後援者の茶人金森宗和がお金を出してくれるので自分が身請けできるという。失敗を重ねるのみで弟子たちにも去られ苦境に陥っていた清兵衛は、秘法を得て赤絵焼成に成功する。椀久は松山を身請けし、妻とするが、肥前に帰った幸右衛門は秘法を漏らしたことが発覚して死罪になる。これを知った椀久は悔やみ発狂し苦しむが、松山の厚い介抱でやがて正気を取り戻す。
 
露伴は「椀久物語」発表の一年程前、少年少女向けの文化史「文明の庫」を書き、その「陶器の巻」で京焼の色絵陶器誕生の歴史を紹介している。
 
ここに壺屋久兵衛といふ陶器商ふものありしが、当時肥前には既に陶器の彩画の法開けたるに関はらず京都にては猶錦手といふやうなる美しきもの作ることを能せざるを憾みとし、肥前の人にて青山幸右衛門といふ男と心安く交れるを幸として、其人の彩画金焼付の法を知れるを、さまざまに頼み聞えて、少しづつ洩らし貰ひ、仁清に謀りて如何にもして彩画金焼付のものを造り出さんと思ひ込みたり。仁清も自己が技芸の上の事なれば、及ぶほどの力を尽して、さまざまに工夫しけるが、名工の事なれば一を聞て十をも悟りけん終に其企畫成就して、創めて美しきものを造りだしぬ。封建の制度のむづかしげに、同じ日本の中ながら此国彼国其主を異にして、自国の秘密を洩すことの堅く禁められたる折なれば、此事聞えて幸右衛門は自国の秘法を洩したる罪に行はれ、久兵衛はまた、幸右衛門の罪せられたる由を聞きて、気の毒なりとおもふ心の堪へがたさに発狂して遂に身歿りたりといふ。これはこれ寛永より少し後れて、明暦の頃の事なりとも伝ふれど……

 

この史実は江戸末から明治初めにかけ書かれたいくつもの美術関連の書物に見られる。
東海大学文学部日本文学科出口智之准教授は「『椀久物語』論」(「東京大学国文学論集」第3号 2008 東京大学文学部国文学研究室)で、露伴の「文明の庫」のこの記述は古賀静脩の『陶器小志』(1890 仁科衛)、田内梅軒『陶器考』(1854-1855、発行所不明)の付録の中のつほや六兵衛による「京都焼物初り書」の中の「金焼の初り」の項等に依拠すると指摘する。
古美術研究家で陶磁器を海外に紹介した蜷川 式胤(1835-1882)の『観古図説 陶器之部』第1 - 7巻(1876-1880)にも同様の記述がある。『観古図説』には仏語、英語の解説がつく。
露伴は歴史に語られる久兵衛と椀久を結び付け物語を創り上げた。
同論文で出口は、三井高保の「工芸遺芳」(1890)の仁清色絵焼成成功の記述のあと、「所詮演劇ニ仕組ミ演スル碗久ハ、此久兵衛カコトナリト云フ」とあると指摘している。

 

露伴は「文明の庫」の前書き「緒言」に、人の世にあるものはどんなに小さな、目立たないものでも、「忽然と現れたもの」ではなく、「必ず人の手によりて造り出されたものなり」と植物の実りに例える。

 

造りはじめたる人は、たとへば苗の如く、造りはじめんとしたる人は、たとえば種子のごとし。造らんとしたる人の茎の如く、造りたる人は穂の如し。種子より苗は出で、苗より茎は立ち、茎ありて後穂は生るなり。                                 

 

露伴は「文明の庫」で陶器の他、紙、銃器、仮名を取り上げ、今便利に使い、人々の生活を幸福にしているものは、陶磁器でも、織物でも長い年月の間の「多くの人々の頭より出で手より出でたる恩恵の糸よりて間も無くかがられたる」存在とし、人のあり方や人と作品(もの)との関わり方をみる文明史、すなわち人類の功績の記録であるという。
金工、陶工等の職人の他 蒟蒻芋を粉状にし、遠くに送れるようにして全国に普及した常陸茨城県)の農民中嶋籐右衛門や、ものとして存在しない郵便制度を作った人の功績をあげ、人間の幸福は必ず人によってつくられているとする。

 

「美術」という言葉は、 1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に参加の際、出品分類にドイツ語からの翻訳語として初めて使われた。明治期の美術史は万博との関係で語られ、ナショナリズムや輸出政策を内包した日本美術のアピールになり、作品を作家の評判や歴史、社会制度などを基準にして美術にヒエラルキーを持ち込んだ。この傾向は1900年(明治33年)第五回パリ万博を機に編まれた官製日本美術史“Histoire de l’art du Japon”(仏語版) と日本語版『稿本日本帝国美術略史』(帝室博物館編)等に見られる。ヨーロッパの「美術」の概念が持ち込まれ、工芸や装飾美術は「美術」から切り離され、美術史からは作り手の物語が抜け落ちてしまった。

 

「文明の庫」で、もの、あるいは文明は必ず人の手によって、人々が力を合わせることで生まれると主張する露伴は、『椀久物語』などの職人小説で作り手の物語を語ることで美術の歴史のひとこまに迫ったといえる。

 

露伴が求めていた「美術」をめぐる〈物語〉とは、同時代に求められていた「日本美術史」では決して集約されない、むしろ、そこから抜け落ちて行った、人と作品(モノ)とのつながりを問う<物語>だったといえる。おそらく、そうした〈物語〉を拾い集めていくことにこそ初めて、露伴は「美術」の〈歴史〉なるものを語ることの意味を見出していたといえるだろう。

 

西川貴子同志社大学文学部国文学科教授は「『美術』をめぐる〈物語〉― 幸田露伴『帳中書』を軸として―」(2007年 京都工芸繊維大学における口頭発表に基づく論文)で『帳中書』、『椀久物語』を考察して、こう結ぶ。

 

***** 
 
「椀久物語」幸田露伴(初出:「文芸倶楽部」1899年1月号及び1900年1月号に上下巻分載、『露伴全集』第五巻小説5 岩波書店 1978、『二日物語・風流魔 他二篇文庫』岩波書店 1986、『露伴叢書後編』(名家小説文庫)博文館 1909、同書 国立国会図書館デジタルコレクション<dl.ndl.go.jp/>)
「文明の庫」幸田露伴 (「少年世界」博文館 1898年1~9月、『露伴全集第十一巻 少年文学』岩波書店 1978、『露伴叢書後編』(名家小説文庫)博文館 1909、同書 国立国会図書館デジタルコレクション<dl.ndl.go.jp/>)