「百婆」、赤絵創成の頃

有田は2016年、磁器創成四百年を祝う。
豊臣秀吉の二度の朝鮮出兵文禄・慶長の役15921598、朝鮮では壬辰・丁酉倭乱という)の撤退の際、多数の朝鮮陶工を連れ帰った。その中の鍋島軍に伴われ来日した李参平(日本名 金ケ江三兵衛)が四百年前の1616年有田泉山で白磁鉱を発見し、磁器焼成に成功した。九州各地で陶器を焼いていた渡来陶工が有田に集まり磁器の窯を開き、磁器生産は17世紀中期産業として成り立つまでになった。
 
村田喜代子の『龍秘御天歌』と『百年佳約』は、この頃の九州北部黒川藩の皿山を舞台に渡来陶工を率い手広く磁器を制作した大窯主の死後、あとを継ぎ窯を仕切った百婆とよばれた老妻を主人公とする物語だ
慶長の役後、武雄領主後藤家信の帰国に従って来日した深海宗伝は領内に窯を築き陶器を焼いていた。夫宗伝の死後、渡来陶工の集団を連れて有田の稗古場に移り磁器を焼き、明暦二年(1656)九十六歳で亡くなったと伝えられている百婆仙をモデルとする
 
『龍秘御天歌』は皿山随一の龍窯の窯主辛島十兵衛こと張成徹が没し、葬儀をめぐって妻の百婆こと朴貞玉と息子十蔵こと張正浩の対立を描く。 息子は日本式の葬儀を営もうとするが百婆は故国朝鮮の作法にのっとった葬儀を行おうと抵抗する。「龍飛御天歌」は李朝の建国を綴った古い詩歌集。
島原の乱の以後、幕府はキリスト教を禁じ全国に檀家制を定め、渡来陶工は日本名を得て帰化し、檀那寺に帰属した。このため葬儀は仏式で行うのが原則となった。
夫十兵衛を支え窯の繁をもたらし、渡陶工達の面倒をよく見、敬愛される百婆が「張成徹の葬式はクニの弔いでやろうと思う」と決意をえると息子等は狼狽し、長男十は「親爺の弔いは家のことではねえ。皿山の町ぐるみのでかえ葬式になる。わしの決めることや」と主張する。皿山に数百人の渡来仲間を率い大移動し、二十四連房式、日本初の登り窯を築き、生前苗字帯刀を許された大窯主十兵衛の弔いは渡来陶工のみでなく、藩役人、代官所、陶磁商人、町役、村役、窯き等の日本人も係わる。 
 
渡来した浪々の窯ぐれ仲間は九州各地へそれぞれ住み着いた。噂に聞けば薩摩などへ移住した仲間はクニの風を守っているという。だがこの皿山は他の土地とだいぶ違うのだ。良質の陶石を見つけて磁器の窯を起こして以来、黒川藩抱えになって藩政を支える窯産地となってからは渡来人だけで閉塞して暮らすわけにはいかない。皿山の磁器作りは多種の職人と多大な人間の手を要する大きな歯車だった。
 
皿山の渡来仲間には二つの試練があったのだ。一つは陶磁技術の精進。もう一つは日本人に溶け込むこと。だから故十兵衛と百婆夫婦も内にあっては移住当時の七百数十人の仲間の結束と同時に、黒川藩や皿山商人との渉外にも地道な付き合いを固めていった。新しく生れた赤絵磁器の繁盛と共に、十蔵らの代はいよいよそれが必要になるのである。
 
 
十兵衛の死は三代家光が没し四代家綱の代になったばかりの時とあるから1650年代初めのことである。赤絵創生は1647年頃と伝えられている。
 
皿山で白磁鉱が発見されたとき、団六の父は筑紫から移住して陶業を始めた。しかし寛永14年(1637)藩が日本陶工を所払い、団六は父と築いたたばかりの窯を打ち壊して八百人の日本人陶工と住みなれた土地を去った。団六は筑紫山中で窯の焼成の技を磨き、七年後、磁器造りにより藩財政が潤ったため日本人陶工の帰還許可が出て皿山に帰る。団六は三年後戸波津に来た清国人の赤絵付の伝聞を元に赤絵磁器焼成に成功した。
 
皿山の発展は初期の渡来陶工の労苦の上に、日本人陶工の研磨が加わって成ったものだ。団六はともすれば[渡来人の窯]龍窯や七山、河原山窯の者達が、日本人陶工のことを遅れてきた者を見るような目つきをするのが歯がゆい。もしも赤絵が出現しなかったら、そしてあのすべすべした濁し手の白い地肌がなかったら、皿山の今日はないと思う。
 
日本人の陶工も加わりロクロの技術が発展し、明の器のように薄い胎に華やかで多様な文様が施されるようになる。赤絵磁器は東インド会社によりヨーロッパへ、北前船で京都、江戸、東北まで売られていく。団六は皿山の輸出用赤絵磁器を一手に引き受けている赤絵師だ。
皿山では「葬儀を取りおこなう者つまり町役の晴れ舞台でもある。死せる過去の功労者と、生きている現在の功労者とが、共に華やぐまたとない舞台に、一人百婆という年寄りがことごとに不服を言い立てる」ことで、団六は百婆に腹を立てる。
「朝鮮風に葬らないと十兵衛たち渡来人がこの地に窯を作った証も消えてしまう」と百婆は主張する。
 
日本の葬儀は通夜、葬式、火葬を行い初七日に精進落としを行う。
一方朝鮮では3年は忌み明けしない。祈り、死んだ者の魂を呼び返す慟哭をする。喉を振り絞るような声、胸をたたき手を上げ足を踏み鳴らし号泣する。哭踊は日本の読経と同じ死者を成仏させる力を持つ。元結を切りザンバラにし粗末な黄麻(粗麻)の喪服を着る。親を失った男は100日間粥だけで過ごす。
 
朝鮮では亡骸を灰にすると無になる、「正しく葬られれば家を守る神となり、永遠に生き一族一門に果福をもたらす」と信じられている。百婆は夫の亡骸は火葬を行わず、朝鮮の言葉ので送り、朝鮮人の墓に葬ろうと仲間を策するが、息子は日本式に遺体をいてしまう。
 
精進落としの夜、百婆は一人細工場で夫成徹の墓に入れる碗を 作って いる。
「あの男の大きな手に握りしめられるくらいの、しこたま持ち重りのする磁器には不似合いな白磁碗」、「卵の殻みてえな今どきの薄手白磁碗」ではなく、「おれだちが渡来して初めて焼いたときの、石のようにずっしりした器」。
龍窯の窯焚き伊十が来た。百婆は渡来以来の仲間に自分より長生きして、自分の遺体は焼かせないようにしてくれと頼む。
 
「おれが死んだら朝鮮墓に埋めるんや。そしたら成徹に代わって、俺が龍窯を守る」
 
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辛島十兵衛の死から5年、百婆は台風の夜、大風に舞う赤松の薪に頭を直撃され命を落とした。享年八十歳。大雨が続き薪は水浸しになり、火葬の薪も調達できず、百婆は土葬され、願い通り子々孫々まで一族を守る神になった。渡来陶工たちが、皿山に窯をひらいて半世紀。 『百年佳約』は死んで神となり、一族の繁栄を願い孫の世代の結婚の手助けをする龍窯の母、百婆の奮闘をえがく。タイトルの「百年佳約」は結婚成就のこと。百婆は透き通った姿で皿山をめぐり現世と交流するが、仏式で火葬された夫や渡来仲間には霊が宿るものがなく消えてしまい、再会できない。
 
長男十蔵は、皿山で生き、窯を繁栄させるためには、渡来人の血や伝統に拘らず日本人との結婚での同化が不可欠と考え、一族の子供たちの縁談に奔走する。子供達世代は親の思わくどおりには動かず、もがきながら自分たちの意志を通し未来を切り開いていく。  
十蔵は百婆の四十五日の法要後の宴の席で早、娘フクと姪カチの婿探しを始める。「娘は皿山を動かす日本人の窯焼きにやる」との決意のもと、娘たちに料理を運ばせお披露目し、集まった若者の品定めをする。大窯主の法事に藩の役人、町庄屋、問屋、窯焼き、その子供たち等二百人の客が集まった。当時の皿山人口は三千二百、内二千人弱が渡来人であった。
親の法事は死者の功をたたえ同時に、息子の顔を売る場でもある。十蔵は宴の料理の味付けに醤油を取り寄せた。醤油は江戸、京都のみで使われる贅沢品で、代価は赤絵の膾皿五十枚分であったという。
故国朝鮮では娘は結婚するまで隠しておく。「谷間の小さな花のように育てよ」と百婆は言った。一方夜這い、娘攫いの習慣もある日本、結婚観も大きく違う。
十蔵の長男は村の庄屋の娘と結ばれる。母方が藩の陶石取締方だ。 姪カチは妻の父の窯の有望な日本人窯焚きを婿に迎える。皿山に赤絵を導入した「手柄者で飛ぶ鳥落とす勢い」の吉田団六の長男は焼物問屋の娘と結婚した。血が混ざり、同化していく。
 
正月、渡来人は町に出、綱引きや板飛びに興じる。日本人も参加する正月馬に乗りフクとカチは町を一周する。馬に乗ったフクを清二郎は町のはずれで待ち伏せし、心の内を話し求婚する。十蔵と母コシホは、日本人の窯焚きとの婚約を決めていたので、清二郎の強引なやり方に腹を立てるが、清二郎の気持ちを理解したフクは、清二郎と結婚したいという。 母に問い詰められたフクは二人の話を報告する。
 
「悪さはしなかったか!」
「しねえとも。小屋の入口に腰掛けて、清二郎が袂から干し柿を出した。それから去年のことを恥ずかしそうに謝ったど。昔から皿山の娘攫いはあんなもので、特別乱暴をする気はなかったと言うんや。それでおれだちは干し柿を食べながら、ぽつりぽつりしゃべったんや」
「それであの男とどんな話をした」
「赤絵の話や」
「赤絵?」
とコシホが妙な顔をすると、フクの目はきらきら光って、
「おっ母さん。うちの窯は染め付けばっかりやけど、清二郎の所の赤絵も本当にうつくしいど。清二郎がな、おめえは絵を描くかと聞くので、大好きやと言うたら、嫁にきて一緒に赤絵を描いてくれねえかと言うんや」
娘攫いめ。コシホは腹が煮え始めた。
「馬鹿たれ。それは赤絵の話ではねえ。おめえを奪おうとしているんや」
「でも清二郎は何もしてねえよ。嫁にこいと言うただけや」
「それがひとの家の娘を盗むこでねえか!」
「清二郎はな、赤絵屋の嫁には普通の娘をもらうわけにはいかぬと言うていた。おめえは絵描きは嫌いかと聞くので、好きというただけや。染め付は赤絵と違うて線書きだけで色は塗らぬが、花や鳥の絵を描いていると半日経つのも忘れると言うた」
娘を拐かして連れ込んだ水車小屋の密会らしからぬ話題である。
「清二郎はもじもじしながら、懐から小さい皿を一枚出して、黙っておれに差し出した」
「皿を?」
「おれのために焼いたと言うんや。白磁豆皿の裏をひっくり返すと、フク、清二郎と文字が書いてあった……」
コシホは溜息をついた。小娘は他愛ないものである。そうやってまんまと清二郎の手に乗せられてしまった。
 
神になった百婆は以前清二郎の仕事ぶりを眺めにいったことがある。  
 
清二郎は大鉢に花鳥文を描いていた。白磁の白をたっぷり残した地肌に、鷹と牡丹の構図が見事である。余白の取り方一つで絵描きの技量がまざまざとわかる。左下に大きな牡丹の花一つ、その対角線上に鷹が首を曲げたポーズで松の木に止まっていた。
……清二郎は団六の手ほどきを受け、若者と思えぬ端麗な筆使いで鷹の羽の毛筋一本一本まで描きこんでいく。
この暴れ者の小僧が。
清二郎の無骨な手が生み出す花鳥文に、百婆は見とれるうち、ふと気持ちが緩みかけた。職人は技で語る。暴者でも、ならず者でも、最後は腕が人となりを語るのだ。言葉のいらない妙な世界である。
 
「ちちうえさま。ゆうことをきかねむすめは、どうぞかんどうしてくだされ。フク」フクは書置きを残し家を出て、清二郎の家に身をよせる。
十蔵は巫女と芝居を打って、百婆に二人の結婚を命じられた形で許す。百婆は十蔵の本心は「染付の窯と赤絵の窯が親類になれば皿山一の窯業を営める」と、二人の結婚を狙っているとみる。現実の商売、龍窯の繁栄であり、窯一筋の団六にとってもこの結婚は願うものなのだ。
十蔵は、父の決めた縁談を拒み、村の娘と結婚を望む次男小吉と言い争っている。「結婚は家がする。おまえだちはそのただの駒や」と十蔵。 小吉は「そんなことないわい。結婚はわしがするんや、、、生きるのも、死んでいくのもこのわし、、、」、「クソ親父、……もう二度と帰ってやらねえからな」と言い家を飛び出す。
 
葬儀を舞台に皿山で二つの文化がぶつかり、同時に融合が始まる。渡来陶工の子の世代、孫の世代の結婚でも、朝鮮と日本、二つの民族の血が混ざり、融合はより自然な、強いものになり家の繁栄、皿山の繁栄へつながる。
清二郎とフクの結婚は民族の文化、美意識の統合で生まれた有田焼の成り立ちに重なる。                           
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百婆のモデルとなった百婆仙の墓は有田町稗古場の報恩寺に祀られている。報恩寺の裏には観音山とよばれる小高い巌があり、台地となっている頂上には「金ヶ江・深海 祖霊」の碑(写真)が朝鮮半島を背に建つ。渡来陶工達は海峡の向こうの故郷朝鮮半島に向く形でこの碑を拝み、故国を偲んだ。『龍秘御天歌』で語られる高麗山の山登りやブランコ遊び、節句の祝宴のように、人々は折々観音山に集った。山登りの習慣は今も続く。 
 
歴史小説、時代小説の史実とフィクションの関係は度々論争のタネになる。村田喜代子は「いつも小説を書いて感ずるのは、何ほどかの取材と調査で作り話を書く恐ろしさだ。それが史実と現実の大切な何かに傷をつけてはならないという思いで、いつも架空の土地と人物を作って仕上げる」、実名は使わない原則を貫くことにより「より自由に描け、それゆえ、真実を描けている様に思える」と言う。北九州で生まれ、今も「渡来陶工の足跡を身近に感じる」福岡市に住む。
 
『龍秘御天歌』は秋田県仙北市にホームベースをおくわらび座により「百婆」と言うタイトルでミュ-ジカル化された。日韓友情年記念の2005年、日本全国で公演された。
 
百婆仙の来日前の朝鮮での前半生を描く「火の女神ジョンイ」 (韓国MBC 2013、日本語字幕版全32回)が、アジアドラマチックTVSo-netで 1月14日(水)(毎週月~金、10:00-11:30)より放映。再放送は 119日(月)(毎週月~金、23:30-1:00)より。ケーブルテレビ、デジタル衛星放送で視聴できる。 出演はムン・グニョン、イ・サンユン他。「火の女神ジョンイ」オフィシャルサイト〈hinomegami-j.net/〉で予告編を見ることができる。
 
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龍秘御天歌』 村田喜代子文芸春秋 1998、初出「文学界」19982月号)

『百年佳約』村田喜代子 (講談社 2004、初出:東京新聞中日新聞西日本新聞北海道新聞 2003 16日-1018日、河北新報 2003 1月6日-1020日、神戸新聞 2003 1月24日-1028日、各紙 夕刊、単行本化にあたり加筆修正)
「火の女神ジョンイ」 韓国MBC 2013 DVD-BOX 第一章 (発売218日)、第二章(発売318日)、最終章(発売318日)(ノーカット完全版、日本語字幕版収録)
『慈雲山 報恩寺沿革史』報恩寺東堂加藤元章 (報恩寺 2012