渡辺崋山 柿右衛門人形画の模写

 

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徳子像模写(渡辺崋山『崋山先生謾録』)(左)、市川新升氏来山女人形(川崎巨泉『玩具帖』Courtesy of 大阪府中之島図書館)

 江戸時代後期の画家渡辺崋山(1793-1841)は、その修業時代、江戸後期の挿絵入り事典、河津吉迪の『睡余小録』下冊の付録に載る柿右衛門色絵婦人像の木版図の模写をしている。

 模写は崋山の若いころの日記『崋山先生謾録』に残る。『崋山先生謾録』は、文化13年(1816)の元旦から12月28日まで、崋山24歳の時の日記で日々の出来事を記録し、模写やスケッチ、作品(「蘆汀双鴨図」他)の構想図等が描かれている。 師谷文晁、同門の画家喜多武清等を訪れた記録、三河田原藩江戸藩邸での武士としての公務、家計を支えるため燈籠画を描く副業の様子等が記されている。 

 8月23日の日記には「訪武清ト文一」と記した後、柿右衛門婦人立像の木版画を丁寧に模写し、「徳子吉野の像なり、、、」とその添書きも写している。 像は京都島原の名妓、二代目吉野太夫、徳子(1601-1643)をモデルとしたとする。

 崋山は髪を黒々と美しく、表情や手は優しく、原画の立体感を失うことなく、伸びやかなタッチで描いている。 着物の袖や前身ごろの模様は丁寧に写しているが、帯は輪郭のみ描き白く残し、その下の身頃の文様は描いていない。 余白にある着物の柄や色のメモも写す。

 徳子の像に続いて、団扇を持つ遊女、枕屏風に描かれた名妓の画も模写した。

 徳子像の木版画は磁器の素材感、彫刻のような立体感のある肖像になっている。 崋山の模写はそれを忠実に写していると同時に、着物は柔らかな線で描かれている。 続いて添え書き「徳子吉野の像なり。伊万利柿右衛門の造る処にて、来山の泥像と同物なり。ただし光沢美麗まさるよし」と写し、「併見人語れり面貌生が如く深夜これに対すれば人をして寒粟せしむ」と続くこの最後の部分は省いている。

 他の二点の女性図は日本画の筆使いで二次元的表現になっている。

 崋山は『睡余小録』の柿右衛門人形図を見て何を感じ、何を学ぼうとしたのだろうか。 後に洋画を学び陰影法を取り入れたリアリズム表現を完成させた崋山が、その原点を感じ取ったのか。

 記述の「武清ト文一」は、谷文晁門下の南画家で、崋山、曲亭馬琴らと交友があった喜多武清(1776-1857)と文晁の養嫡子谷文一(1777-1818)だ。この日崋山は、30歳前後の先輩画家を訪ねて語り合い、何か刺激を受けたのだろうか。

 これ以降八月いっぱい記述はない。 

 

 歴史学者矢森小映子氏は論文「渡辺崋山『寓画堂日記』 『崋山先生謾録』に関する一考察:思想形成過程を探る基礎作業として」でこの二冊の日記は崋山若き修業時代の史料として紹介されることが多く、洋学研究を始める前の日記であるため、「洋学史の立場からはあまり重視されてこなかったが、菅沼貞三・日比野秀男氏ら美術史家からは、その学画過程の分かる資料として注目されている」、また田原市出身の歴史学者別所興一氏は、日記から伺える博物学的な関心等に着目し、「『旺盛で幅広い好奇心の持ち主』という新たな崋山像をうちだした」と指摘する。

 狩野探幽の弟安信(1614-1685)はその画論『画道要訣』で、優れた絵画には天才が才能に任せて描く「質画」と、古画等の学習によって画技を学び術を得た「学画」の二種類があるという。 質画のすばらしさを評価しながら、天性の才能は一代限りだが、学画は学習法を伝授する事によって後世に伝えることが出来るといい、宗家八代目は学び獲得する学画の重要性を強調している。 さらに「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」を最も重視した。

 崋山は写生や模写で観察眼をはぐくみ画技を磨いた。

 三月(2020年)に放映されたNHK日曜美術館「真を写す眼 渡辺崋山」は崋山の「神(その人に備わっているもの)を描きたい」、すなわち真を写す眼で見、表面で終わらず内面まで描きたいという信念で、西洋画、銅版画を学びの陰影法を取り入れ、線に頼らず光を取り込むリアリズム表現が結実した蘭学者の肖像、国宝「鷹見泉石像」他、代表作を紹介した。

 崋山は終始手帖を持ち歩き、日々の記録、写生、模写を続けた。 遺した手帖や日記は、積み上げると背丈程になるという。『崋山先生謾録』は  崋山の一番弟子椿椿山が題名を付け、大切に所持していた。

 渡辺崋山は1890年(明治23)から1945年(昭和20)12月まで小学校で教えられていた修身の教科書、勤労・勤勉の項に規律の手本として取り上げられている。午前四時から午後八時まで、読書、剣の稽古、絵の勉強、藩の仕事などほぼ二時間刻みの予定が組まれて、その中で午後四時から六時まで、「昔の名高い画を手本として、一心にならうこと」と定めていたという。(第四期 尋常小学修身書 巻四)

 崋山は十代前半に画家に入門し画の勉強に励み、詩歌、儒学を学び、藩務をこなし、絵を描き一家を支えた。 後に蘭学、西洋画に接し、先駆的学者らと交流し、変化の真っただ中の時代を江戸に生きた。 幕末、洋学者弾圧の蛮社の獄で捕らわれた後、田原で蟄居中四十九歳で自決した。 (三河田原藩江戸藩邸跡の、最高裁判所国会図書館に近い三宅坂公園に生誕の地の解説板がある)。

 

 柿右衛門様式の磁器人形は五代柿右衛門(1660-1691)、六代柿右衛門(1690-1735)、五代の弟で六代の後見で意匠、細工に優れた名工といわれる渋右衛門の時代に造られたと伝わる。 婦人像、若者立像、童子、相撲人形等、1670年代から1700年頃に造られ,高品質のものが輸出され、いまもヨーロッパに残る。このころ使われていた濁手は七代柿右衛門(1711-1764)の時代に中断した。 

 

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 『睡余小録』下冊には、徳子像の添え書きにある「来山の泥像」の木版図が載る。 大阪の俳人小西来山(1654-1716)が「物言わぬ理想の美女とたたえ」、愛蔵した柿右衛門の婦人座像の画とともに、俳文「女人形記」全文が収載されている。 来山の人形は当時から巷の人々の知るものであり話題にされていた。

 

 郷土玩具紹介のホームページ、おもちゃのちゃちゃちゃEZBBS.net、に来山女人形土鈴の写真が載っている。 小西来山旧蔵の柿右衛門色絵婦人座像を模した土人形で、底に「来山忌記念」、「濤華」の二つの押印がある。 茶々丸さんの投稿で、「昭和16年 来山忌記念 来山女人形土鈴」のタイトルがつく。〝濤華氏誂え″とあり、大正昭和の上方郷土研究家で絵葉書作家の木村濤華の注文品と推測される。

 郷土玩具画家川崎巨泉(1877-1942)の『玩具帖』にも来山女人形の画は所収されている。 画題は「市川新升氏〔1887-1935〕作 来山女人形」で、正面と右側からの座姿、後ろから見た髪型、女人形と書かれたラベルが貼ってあるボール箱が描かれている。

 余白には「実大 土製着色」、「ソコに押印アリ 全部胡粉カケ 十万堂 此印の所のみ、ヌリノコシ 土色」、「添へたる印刷物には女人形の記全部を記して」、「津の国今宮十万堂住市川新升(印)」、「梅谷氏蔵 大正十五年七月二十四日 南木氏寄贈」とある。 十万堂は来山の号で、晩年の居に名付けた。 

 南木氏とは大阪郷土史研究家、コレクターで南木文庫を持つ南木芳太郎(1882-1945)で、梅谷氏とは、梅谷紫翠(秀文)で大正昭和期の大阪の文化人、歯科医、郷土玩具収集家で絵葉書画家。 梅谷は明治32年(1899)生、土人形を描いた絵葉書が残る。

 片膝をたて、脇息にもたれた姿の二体の来山人形は土人形の素朴さが美しく、衣装も白地に赤、藍を基調とし柿右衛門人形の衣装の色合いに倣う。 このような郷土人形が来山忌記念に造られた。

 土人形は江戸後期に最盛期を迎える郷土玩具で、伏見街道沿いに六十軒もの窯があったといわれる伏見人形に代表される。野見宿祢の後裔、土師氏が統括して製造したと伝えられる。型造り、彩色の土人形で、モチーフは花魁、動物、狛犬、花見象、鯛乗り童子、鯛抱き童子、関取、大黒、福助、十二支などで柿右衛門人形に共通するものも多い。 老舗丹嘉は1750年頃の創業以来現在まで制作を続ける唯一の窯元。

 

  大正四年(1915)九月二十六日付け大阪毎日新聞の企画面「日曜倶楽部」で、小西来山二百年忌記念特集を組んでいる。

 施主来山の子孫小西久兵衛は来山忌が十月三日午後一時から一心寺で行われるとの告知を出す。ここで記念冊子来山忌二百年集発行を伝え、句を募り、「遺愛の人形等の繪葉書及び茶菓進呈之事」とある。

 小西来山二百年忌の書、「虫の声」は翌年発刊された。

 

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「崋山先生謾録」渡辺崋山(没後150年記念画集『定本渡辺崋山』第二巻手控編 郷土出版社 1991)

『睡余小録』河津吉迪(1807)(早稲田大学図書館 古典籍総合データベース〈 www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/〉)

『玩具帖』川崎巨泉大阪府中之島図書館 おおさかeコレクション

http://e-library2.gprime.jp/lib_pref_osaka/da/detail?tilcod=0000000019-00020877〉)

おもちゃのちゃちゃちゃEZBBS.net

「玩具帖」 川崎巨泉大阪府中之島図書館人魚洞文庫が所蔵、デジタル資料はおおさかeコレクションから検索できる。)

「やきもの閑話井垣春雄(『日本美術工芸』1979 4月号)

渡辺崋山『寓画堂日記』 『崋山先生謾録』に関する一考察:思想形成過程を探る基礎作業として」矢森小映子(「書物・出版と社会変容 2」、2007-01-01、一橋大学機関リポジトリ <hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp>)