小西来山の「女人形」(1)


 
江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌などを紹介する
 
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柿右衛門の婦人像で最も有名な物は、江戸前期の京都の遊女二代目吉野太夫 徳子をモデルにしたと伝わる立像だ。河津吉迪による書画骨董、工芸品、芝居、相撲、風俗、人物などについて解説を加えた挿絵入り事典『睡余小録』(1807)に、婦人立像の画が載っている。添えられた説明文に「徳子吉野の像なり伊満利柿右衛門の造所にて来山の泥像と同物なり」とある。江戸中期の俳人小西来山の愛蔵の焼物婦人像の図「十万堂遺物女人形」と俳文「女人形記」(以下に全文を引用)も同書に収載されている。来山の人形は片膝をたて、脇息にもたれた遊女の坐像だ。
 
 
西行法師に銀猫を給ひけるに、門前の童子にうちくれて通りしとかや、いはくこそあらめ、我は道にてやき物の人形にあひ、懐にして家に帰り、昼は机下にすへて眼によろこび、夜は枕上に休ませて、寝覚の伽とす。世を見れば画木の達磨などを崇めて、科もなき身を白眼つめらるゝよりは、はるかにましてんや、ものいはず笑はぬかはりには腹立ず悋気せず、蚤蚊の痛を覚えねば、いつまでも居ずまゐを崩さず、留守に待らむとの心づかひなし、酒を呑ぬはこゝろうけれど、さもしげに物喰わぬはよし、白き物ぬらねばはげる事なし。四時おなじ衣装なれども、寒暑をしらねば、此方更に気のはる事なし、夏はむかふに涼しく、撫るに心よく、冬は爐のもとをゆるさねば、よい加減にあたたかなり、女の石に成かたまりしためしを思へば、石が女に化すまじきものにもあらず、千とせをふとも変すまじきかたち、風老がなからんあとの若後家、さりとも気づかひなし、舅殿は何国の土工ぞや、其出所はしらず。あらうつゝなの いもせものがたりやな。  
折事も高根の花や見たばかり       来山 
 
十万堂、湛々老人等とも名のった大阪の俳人小西来山(16541716)は、談林俳諧創始者西山宗因に師事し、西鶴と同時代に活躍した俳人で、多くの門人を持ち名声を得ていた。大酒飲みで、自由闊達、洒脱な人柄はその俳句とともに俳文にも映し出されている。
「女人形記」は町で買った焼物の人形の魅力を短い文の中に余すところなく凝縮し、浮世の塵とは無縁の人形を心から楽しんでいる様子が生き生きと書かれている。五十五歳の頃書かれたと伝わり、来山の随筆で最も有名なものだ。来山百箇日追善に編まれた『木葉古満』(1717)に初出。その後も来山の句集や他の著者のいくつもの書物に掲載されている。
伴蒿蹊1790年刊行の『近世畸人傳』巻之三 「小西来山」の項で独り身であることは、「女人形記」から窺え、「文章は上手にて、数篇書きあつめたるを、昔ある人より得たるが、ほどなく貸し失ひて悔しく覚ゆ」と記す。
細部の異なるいくつかの版があり、『木葉古満』は『睡余小録』にない、「愛のあまりに腹上に居れば、こなたの呼吸にしたがひてうなづくうなづく、細目してうなづく」などの節を含み、その寵愛ぶりが窺える。
俳人は生涯独身で人形と暮らしている奇人と伝説化された人物像が流布していたが、書画の鑑定に優れ、好事家と知られていた河津は、「女人形幷女人形記の全文知る人は稀なれば」と断り、人形の画と共に、俳人の談林派らしい洒脱な人形論を窺える全文を収めた。
幼い頃父を失い、母思いだった来山は母の死後、五十歳の頃妻を迎えるが、三年後の1707年、妻と子を失う。「女人形記」は翌1708年頃を書いたと伝わる。1710年に後妻を迎えるが、長男は夭逝してしまう。その後次男が生まれる。171663歳で没した。
伊勢出身の俳人大淀三千風(16391707が、全国行脚の途中大阪に来山を訪ね、旅に誘った.母思いの来山は断った。1684年のことで、この旅で三千風は九州まで足をのばし有田に立ち寄った。
来山は「舅殿は何国の土工ぞや、其出所はしらず」とこの愛玩する人形の制作者に興味を抱く。
 
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柿右衛門の吉野徳子の立像画は『睡余小録』(二巻、付録一巻)の附録に載る。この附録は、1800年に東山双林寺で開催された「烟花城書画展覧」の展示品六十三点の内、賀楽狂夫こと立入大和守経徳が所蔵する十五点の図録で賀楽による跋文が付く。「烟花城書画展覧」の目録に「吉野泥像 柿右衛門」とある。
同じ髪形で、同じように小袖に打掛をはおる来山の人形も柿右衛門作と認識されていた。
1915年九月二十六日付大阪毎日新聞は小西来山二百年記念の特集面を組んだ。好尚堂主人(本名木崎愛吉)の署名で「小西来山 来山は独身に非ず」と云う記事の中で来山は人形の出所を知らなかったが、「何處の物識りか、これを伊萬里の柿右衛門と断じたり」と書いている。
近世歌謡研究家忍頂寺務の『大江戸の研究 延寿清話』第三冊(1926)の「睡余小録と来山翁の人形」に「作は總て酒井田柿右衛門らしく、時代を照合して見て、先づ五代又は六代柿右衛門か或は其叔父澁右衛門時代の製品と云える」と記す。
『睡余小録』の来山の人形の画(モノクロの版画)の遊女は青海波と蔦唐草(葡萄唐草)の打掛け、紅葉の模様の小袖を着ている。
郷土研究誌「上方」1939年8月号に載る大林宗嗣の「小西来山遺愛の女人形に就いて」に人形の詳細な描写がある。
 
高さ一尺ほどの遊女の脇息にもたれた焼物の坐像であって、桃色の地に朱の紅葉の模様入の袷を着た上に、白地に朱の波形と草色の木葉の模様入の打かけをきたものである。その画像は摂陽奇観巻之二十五[1833]等にも出ているが、併しその顔は本物とは聊か違ってゐる。之れは大正四年十月に大阪の一心寺で行われた来山二百年忌の法要の際に小西家の母方の里で八尾町の西尾家から出品されたこともあった。
 
出光美術館所蔵の「色絵坐姿美人像」(柿右衛門、高さ27.5cm)(左上の写真)はこの人形と同模様の打掛を着ている。2008年「柿右衛門と色鍋島」展図録の目録の解説を引く。
 
脇息にもたれた優雅な姿は、寛文期に人気を誇った遊女を表わしたものと思われ、いかにも堂々たる風格が感じられる。 、、、指先まで緊張感が漂い、全体に繊細優美に表現されている。髪は御所風に結い、花文と丸文を散らした小袖を身につけ、その上に蔦唐草文の豪奢な打掛けを羽織っている。
 
図録に載る婦人像の写真は明るい朱色の青海波と大柄の蔦唐草文の打掛けと同じ朱色の地の小袖を纏う。優雅な、凛としたポーズの像は、『睡余小録』の図と同じで、来山が魅了されたことに納得する。来山は人形と道で出会い連れ帰えったのだが、出光美術館の婦人像は菊桐文の描かれた蒔絵の箱に入っていて、「大名家の伝世と判断される」とある。この解説には又、類似した作が『河内八尾西尾氏所蔵品入札』(京都美術倶楽部1913)に掲載されていると記されている。
 
モデルとなった二代目吉野太夫、徳子(16061643)は美しく、聡明、優しく気立てのいい評判の遊女だった。26歳の時、本阿弥光悦の従弟にあたる豪商で紺灰組合長本阿弥光益の息子佐野重孝と結婚した。
 江戸時代、遊女は書や歌等の教養を収め、芸を研き、文化、娯楽の中心にいて、その地位は高かった。井原西鶴が『好色一代男』(1682)で「なき跡まで名を残せし太夫、前代未聞の遊女也いづれをひとつ、あしきともうすべきところなし。情第一深し」と絶賛している。徳子は広くその名を知られ、国民的なマドンナであったのではないか。
その生涯は澤田ふじ子26人の女性を紹介する「歴史を彩った女の肖像 女人絵巻」(徳間書店1993)の「吉野大夫 清貧のひと」に描かれている。
 
十七世紀末の作とされる、精巧な色絵磁器の婦人像は多数生産され、国内はもとよりヨーロッパに輸出され、いくつも現存する。円山応挙「烟花城書画展覧」の目録に「吉野画 田中氏所蔵」が載る)初め多くの画家も吉野太夫像を描いた。商業の発展で文化の花が開いた時代、伝説的な名妓は理想の女性で、柿右衛門の婦人像はそのイメージを具現し美しく、時に妖艶に人々を魅了し愛されたのではないか。
『睡余小録』のサヤ形文の着物を着た徳子の立像は、坐像と比べて、「但其光沢美麗まされるよし併見人語れり面兒生が如く深夜これに對すれば人をして寒粟せしむ」(鳥肌が立つ程だ)、とある。
東の吉原の薄雲太夫も評判の遊女だった。着色石版画 “Japanese Status of Usugumo Geisha”(1883)はイギリス人の日本美術蒐集家アーネスト・ハールト(Ernest Hart)所蔵の柿右衛門様式の薄雲像をモデルに制作された。ハ―ルトが1886年ロンドンで開かれた日本美術品展覧会に際し行った講演記録「日本美術品ノ説」は翻訳され官報に載っている。
 
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『睡余小録』下巻、附録 河津吉迪(『日本随筆大成』第一期第六巻 吉川弘文館 1975
『小西来山全集』前、後編 小西来山、飯田正一編 (朝陽学院1985
『延寿清話 : 大江戸之研究』 第三冊 忍頂寺務編 (忍頂寺務 1926国会図書館デジタルコレクション<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979770>)
「小西来山」伴蒿蹊(『近世畸人傳』巻之三 菱屋孫兵衛1790『近世畸人傳』巻之三 青山書房1911国会図書館近代デジタルライブラリー
kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991804/54 
「『女人形』あれこれ」水上博子(『来山百句』来山を読む会編 和泉書院 2005
柿右衛門・色鍋島」展覧会図録 (出光美術館 2008) 
「吉野大夫 清貧のひと」 澤田ふじ子(『女人絵巻:歴史を彩った女の肖像』  徳間書店1993
「小西来山遺愛の女人形に就いて」 大林宗嗣 (「上方」昭和十四年八月号(104)上方郷土研究会編1939
「小西来山 来山は独身に非ず」好尚堂主人(「小西来山二百年記念」大阪新聞大正四年926日付)
「第106話『小西来山()、「女人形記」』荘司賢太郎(京扇堂ブログ「せんすのある話」<https://www.kyosendo.co.jp/essay/106