薩摩焼420年のドキュメンタリー全国で上映

 薩摩焼沈壽官窯の歴史をたどり、朝鮮と日本の陶芸文化を考えるドキュメンタリー「ちゃわんやのはなし―四百年の旅人―」が5月18日より、東京のポレポレ東中野で公開され、順次全国で上映される。

 「やきもの戦争」といわれている豊臣秀吉の明征服を狙い朝鮮に侵攻した文禄、慶長の役の際、秀吉の死後の1598年撤退時、主に西日本の大名が多くの朝鮮の陶工を連れ帰った。 当時陶磁はヨーロッパで宝石同様の価値を持っていた為、陶磁産業の発展をねらってのことだった。 連行された朝鮮陶工が西日本各地に窯を開き、陶芸産業が生まれた。その一つが鹿児島県の薩摩焼だ。

 薩摩藩島津義弘が朝鮮陶工約80名を連れ帰り、そのうちの沈氏沈壽官窯の祖当吉を含め40名が串木野に上陸し陶器づくりを始めた。その時点で島津義弘関ケ原の戦い敗戦処理などにおわれ、援助を受けられず大変苦労した。 彼らは日本人とのトラブルもあり、その後故郷の風景に似ている苗代川(現・日置市美山)に移った。 島津藩のサポートを得て、沈氏の窯はこの地で栄え、定着以来420年一子相伝の技術が伝わり現在一五代が窯を継ぐ。

 島津藩は渡来陶工を優遇した。士族とし、国籍、扶持、土地を与え、軍務を免除し、氏を変えず、日本人との結婚を禁止し、母国通りの暮らし、朝鮮文化を維持するよう命じた。  

 福岡上野焼の渡仁窯、萩焼の坂倉新兵衛窯、有田焼の李参平、深海宗伝の窯等、渡来陶工は厚遇されるが差別、苦難もあり、其々の地で花開く。

薩摩焼は連行された朝鮮陶工が一から始め、日本の窯業の影響は少なかった。日本人とは隔離され守られ朝鮮風の焼き物を作った。 

 沈壽官窯十二代は1867年パリ万国博覧会に作品を出展し好評を博した。 十二代は1873年ウイーン万博には「錦手大花に瓶」(180cm)を出展。 SATSUMA はヨーロッパで高く評価される。 藩は工場を運営し、磁器食器を大量に輸出。後に景気が低迷し藩工場は廃窯となったが、十三代壽官が引き継ぎ、薩摩焼の地位を確かなものにした。 

 十四代壽官は日置市美山生まれ。1966年、沈家で初めて故国を訪ねソウル大で講演し、 「あなた方が36年をいうなら、私は370年を言わなければならない」と、日韓併合の36年(1910-1945)を言いすぎることは「すでに後ろ向きである」と諭した。その数か月後 司馬遼太郎との出会いがあり、短編小説「故郷忘じがたく候」(1968、文芸春秋)に十四代及び沈家の葛藤が描かれる。 十四代は日韓橋渡しのため、その後30回訪韓ツアー企画、実行した。1989年、日本人初の大韓民国名誉総領事になった。 

 420年15代、技術を引き継いでいる薩摩焼沈壽官窯。

 117分のドキュメンタリーは十五代沈壽官のインタビューを中心に故国朝鮮への望郷、朝鮮人として自覚、戸籍上また15代続く日本国籍、それ故の葛藤、差別を描くとともに、朝鮮、日本の陶磁文化 、日韓二国の関係、歴史を浮彫にする。

「やきもの戦争」に際し渡来した朝鮮陶工にルーツを持つ萩焼十五代坂倉新兵衛、上野焼十二代渡仁他がそれぞれの窯、アイデンティティ、日韓両国の陶芸文化に関するインタビューで語り、鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸員、深港恭子氏が薩摩焼の解説を担当する。

 監督は 松倉大夏。松倉は「君のことを忘れない~女優渡辺美佐子戦争と平和~」(WOWOW、2013)で、日本民間放送連盟賞優秀賞受賞。 

 プロデューサーは李鳳宇。 李は「パッチギ」、「フラガール」等をプロデュース。 「シュリ」の輸入を手掛け韓流ブームをもたらした。 ボン・ジュノ監督のヒット作「パラサイト 半地下の家族」の舞台化をプロデュース。

「ちゃわんやのはなし―四百年の旅人―」は東京を皮切りに全国で順次上映予定

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東京・ポレポレ東中野 (03-3371-0088) 5/18~

   東京都写真美術館ホール (03-3280-0099) 5/25~6/14 

千葉・キネマ旬報シアター(047-141-7238)6/15~

群馬・前橋シネマハウス (027-212-9127)6/15~

栃木・宇都宮ヒカリ座 (028-633-4445) 6/28~

大阪・第七芸術劇場 (06-6302-2073) 6/15~

京都・アップリンク京都 (075-600-7890) 6/21

横浜シネマリン (045-341-3180)、ナゴヤキネマ・ノイ (052-734-7467)、長野上田映劇(0268-22-0269)等にて順次公開。

リンネの使徒 アジア航海記に日本陶磁を語る    

 文化、アート情報ウエブサイト “thecultureconcept circle”2016年6月25日号の大英博物館で開催されていた「メイド・イン・ジャパン~柿右衛門と有田焼の400年」(”Made in Japan~Kakiemon and 400 Years of Porcelain”)展の紹介記事は、18世紀のスエ―デンの詩人ペール・オズベックが有田に向かう旅について記しているという以下のリードで始まる。

 

 Swedish poet Pehr Osbeck in the eighteenth century described his jouney towards the port of Arita in Japan.

 (18世紀のスウェーデンの詩人ペール・オズベックは 日本の有田の港に向かう旅について描写する。―著者訳)

 

 ペール・オズベック(1707-1778)は牧師で博物学者、ウプサラ大学で「分類学の父」と呼ばれる博物学者カール・フォン・リンネに学び、“リンネの使徒達”(apostles of Linnaeus)と呼ばれ、世界中の動植物の調査に赴いた弟子の一人で、1750年スウェーデン東インド会社のプリンス・カール号に乗船し、中国、東アジアへの旅をした。 広東省に四か月滞在し現地の動植物、人々の暮らしを調査し、陶磁器、茶、香料、絹等の輸入にも携わった。 その旅行記“A Voyage to China and the East Indies  vol. I,II ”には動植物の調査の記録、広東の様子と共に、日本に関する記述があり、日本の磁器は“best”と記している。

 

 A quantity of foreign commodities, and of their country, is annually exported from Canton, especially porcellane, commonly called Chinaware, which is used many ways. They bring it hither from the inner parts of the country, some painted and some not.  Painted china from Nanking is much esteemed. The Japan china is reckoned best.   The stone porcellane is heavier, harder, and dearer than common china. Du Halde says , that the finest comes from the little town of Kin-te-ching. (p240-241)

 (自国及び外国の産品、特に色々な用途に使われ一般的に焼物と呼ばれる磁器が毎年広東から輸出される。 これらはここ広東に中国内陸部から運ばれてくる。 絵付けのあるものと無地のものとがある。 南京地方から来る色絵磁器は珍重され、日本の磁器が最高と評価されている。 磁器は重く、硬いが他の焼き物より美しい。 デュ・アルドは最も優れたものは小さな街、景徳鎮で生産するものだと云う。―著者訳)

 

 Porcellane comes hither from other places; some is painted, and some not. That which is painted here according to particular directions, or with names, or coats of arms, is very dear.   The porcellane from Nanking is reckoned the best, next to that from Japan: though a certain author says, that the best porcellane comes from the village of Sinktesimo. (p231)

   (磁器は、絵付けのあるものもないものも、別の場所から運ばれてくる。ここ広東で、特別の指示通りに絵付けされたもの、銘や紋章の入ったものはとても貴重だ。 南京地方からのものが日本の磁器に次いで、最高級と評価される。しかしある作家は最も優れた磁器は景徳鎮からのものだと云う。―著者訳)

 

 オズベックは、他のライターは景徳鎮等中国の磁器が最も優れていると言っていると記すが、彼自身は日本の磁器が最も良いと繰り返し述べている。

 ここである作家と云っているのは、 ジャン・バティスト・デュ・アルドと思われる。 デュ・アルド(Jean-Bastuske Du Halede, 1674-1743) はパリ生まれのイエズス会修道士で『中国全誌』(“Description dela Chine”)全四巻を著した。 これは18世紀ヨーロッパに大きな影響力を持った書物といわれている。 デュ・アルド自身は中国に行ったことはなく、中国を訪れたイエズス会士の報告をもとに纏めた。

 デュ・アルドは、景徳鎮の繁栄を“1リーグ(人や馬が一時間出歩ける距離。ヨーロッパで使われていた。国や時代によって異なるが、3.8~7.4キロメートル)に広がる街で百万人の人口を持つ”と記している。

 Nanking と記している地は景徳鎮と思われる。 当時南京は中国の中心で, 中国のことでもあり、この時代色絵は南京焼と呼ばれていた。 日本では景徳鎮の磁器を南京焼と呼んだ. 

 「旅行記」には中国の地方やアジアの国々から商品や産物が集まり、ヨーロッパ諸国に大量に輸出される広東の活気に満ちた様子が詳しく描かれている。 工芸品、特に中国、日本の磁器は主要な輸出品で高価であった。

 

 The Japanners have ready-made bureaux, tea-boards, boxes, &c, besides the work that is bespoken. These men as well as those who work in mother of pearl, and the painters of porcelane, have little boys who are very diligent and active. That kind of varnished work which comes from Japan is reckoned the most valuable .(p229)

 (日本人は注文品のほかに既製品の机、盆、箱を持っている。螺鈿細工の職人や磁器の絵付師と同様、彼ら、木工職人も勤勉で活発な若い弟子がいる。 日本産の塗り物はとても高価だ。―著者訳)

 

 その他、広東の街の様子、風景、人々の暮らし、農業、畜産、風土、歴史等詳しく記し、フランシスコ・ザビエルの殉教、日本人が中国人から漢字を習った等のことも記している。

 ジャワ島に上陸したとあるが、オズベックが日本に上陸したとの記述はない。

 オズベックは1752年、アジアの動植物の新種の記録と集めた標本を携えリンネの元に帰る。 帰国後、1758年スウェーデン王立科学アカデミーの会員に選出された。 持ち帰った900種の動植物の内600種の新種が、りンネの1753年出版の“Species Plantarum”(『植物の種』)に収録された。

 ヒマラヤ,中国から日本の南西諸島、小笠原諸島紀伊半島原産のヒメノボタン(Osbeckia chinensis L.); アジア原産の晩白釉Citrus grandis Osbeck); オレンジCitrus sinensis Osbrck); サキシマボタンヅル(Clematis chinensis Osbeck)等、オズベック由来の学名を持つ。 動物ではシラウオAlubula chinensis Osbeck);  ムツゴロウ (Boleophthalmus chinensis Osbeck)等に献名された。

 

 “thecultureconcept cirdle” 「メイド・イン・ジャパン~柿右衛門と有田焼の

400年」の記事でリードに続いて詩の1節が引用されている。

 Through the clear realms of azure drift

And on the hillside I can see

The villages of Imari

(清らかに澄んだ中空のここにかしこに漂い遊ぶ。

ややあって丘の斜面に現われる 

伊万里の村々

―逢坂収九州大学名誉教授訳)

 

 これはアメリカの詩人ヘンリー・ワーズワースロングフェローの1877年に発表された長編詩“Keramos”から の引用だ。ケラモスはギリシャ語のセラッミックの語源で、焼き物の土、焼き物を意味する。 詩人が故郷の老陶工の仕事場を訪ね、土の塊から器を作り出す様子を見ているうちに出る、世界の窯業地を訪ねる空想の空の旅を詠う。

 本ブログ「本棚・陶磁と文学」の2012年10月26日投稿の「ロングフェローの詩『ケラモス』」<https://jafmama.hatenablog.jp › entry>で取りあげた。

 

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 リンネの使徒で「日本植物学の父」と云われ、日本でも知られているスウェーデン人カール・ぺーテル・ツンベルク(ツュンベリー、1743-1828)も東インド会社の航海医師として、アジアに赴いた。 ウプサラ大学でリンネに師事し、博物学、医学を修め、フランス留学、アフリカでの研究の後、アジアに派遣され、セイロン、ジャワを経て、1775年8月に来日、長崎出島オランダ商館の医師として約一年半滞日した。 1776年、商館長フェイト(Arend Feith)と共に、江戸に行き将軍徳川家治に謁見している。

 航海記“Travels in Europe, Africa and Asia, 1770-1779” 全4巻を1796年に出版、その第3巻(1791)と第4巻(1793)の前半が『ツンべルグ日本紀行』として纏められた。

 その第八章「江戸参府紀行」に、肥前磁器に関する記述がある。 

 

 肥前の地も亦美事な陶器を以て知られている。 私は既にこの陶器を市場又は商館で見てはいる。 然し私は旅行の途すがら原産地で出来るだけこれについて知識を集めることを忘れなかった。 この陶器は真白な極く上等の土で捏ったもので、その労作は非常に手数のかゝるものである。 然しこの陶器はこの上もなく白く且つ透明なのであるから、その労は充分酬いられるのである。

 

 ツンベルクは肥前で目にした磁器を絶賛している。 しかし別の個所では日本の焼き物をあまり認めていない言及もある。

第四章「欧州人の交易」では「日本の陶器は色に於いても形に於いても少しも愉快なところがない。 野卑で肉厚く支那広東から出すものと比較してずっと劣等である。 特長は燃えた炭火にあてても、容易に割れない点にある。 日本の陶器は藁荷造されるが荷造が非常に巧妙で只の一つも毀れることがない」や、第二十六章 「日本人の商業」で「陶器の輸出も少ない。 然し内地人の間には盛んに売買されている。 その捏土は非常に美しいのだが、餘り部厚で、形及び色としても、支那陶器に比して遙かに劣る」等と書いている。 「天皇は一度使った食器は再び使わないで破棄するといい、それ故とても質素な陶器を使っている」ともある。

 ツンべルグにとって。出島を離れての江戸参府の旅は動植物の研究の為の大きなチャンスであった。道中、箱根で多くの植物標本を集め、帰途では大阪の植木屋で多くの植物を買い込んだ。

 江戸滞在中は『解体新書』の共訳者で蘭医の桂川甫周中川淳庵らに蘭学を伝え交流し、塩化水銀を処方する水銀療法と言われる梅毒の治療法を紹介した。 しかし行動制限があり研究が思うように進まない為、参府後バタビアに戻った。 

 「航海記」には眉剃り、お歯黒等の日本の習慣、既婚婦人の地位、出島の閉鎖性など冷徹な目で見た記述がそこここにある。

 「余生をこの孤独の裡に送らねばならぬ運命の欧州人は全く生きながら埋葬されたと同様である」と出島の孤立、閉鎖された生活を嘆く。

 ツンべルグには『日本ほめそやしたり、けなしたり』(“Japan Extalled and decrie”)等の著作もある通り、率直に見たこと、感じたことを書き留めた。

 スウヱ―デン帰国後はウプサラ大学の植物学教授を経て、 1781年に学長に就任する。箱根で採集した800種を中心に1784年“Flora Japonica”(『日本植物誌』)を出版した。

 ナガサキアゲハ(Papilio memnon thunbergii von Siebold, 1828)はツンべルグ由来の学名を持つ。

 

 佐伯泰英の居眠り磐音江戸双紙シリーズの13巻『残花の庭』には、ツンベルクをモデルにした蘭医ツュンベリーが登場する。阿蘭陀商館長フェイトと江戸参府をし、その折十代将軍徳川家治の養女種姫の麻疹を治療する。 御典医で蘭医の中川淳庵桂川国瑞はツュンベリーと交流し蘭学を学ぶが、漢方医池原雲伯、田沼意次等との権力闘争に巻き込まれる。

 

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 1657年に来日した出島オランダ商館長ツァハリス・ヴァ―グナー(ザハリアス・ワーヘナール Zacharias Wagenaer、1614-1668)は明末清初の混乱で生産が急減した景徳鎮の磁器に代わるものとして日本の磁器を求めた。 ヨーロッパ人の好む景徳鎮磁器を見本に注文し、画家でもあった彼はコバルトブルーの素地に金の文様を付けた色絵を提案したと言われる。これに答えて肥前磁器は生産を増し、著しい技術革新を遂げたという。1659年には年間輸出3万個を超え、ピークの1662、1771年には8万個超を輸出した。

 

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“A Voyage to China and the East Indies  vol. I,II ” Pehr Osbeck、Benjamin White 訳、 1771 (Biodiversity Heritage Library 〈https://www.biodiversitylibrary.org>bibliography Details - A voyage to China and the East Indies - Biodiversity ...〉)

“Keramos” Henry Wadsworth Longfellow (“Keramos and Other Poems” 1878)

『ケラモス』(陶磁器) 逢坂収訳 (英語英文学論叢 第43集 「中野行人教授退官記念号 1993 2月」九州大学英文学研究会)

『ツンベルグ日本紀行』ツンベルグ、 山田珠樹訳註(駿南社1928)、(国立国会図書館デジタルコレクション 〈info:ndljp/pid/1043693〉)

『江戸参府随行記』C.P. ツュンベリー、 高橋 文訳(平凡社 1994)

「第3章 ニッポンへの道-カール・ペーテル・ツュンベリー」 西村三郎(『リンネとその使徒たち』 朝日新聞社1997)

『残花の庭』佐伯泰英(「居眠り磐音シリーズ」13巻、文藝春秋 2019、)

‘Kakiemon and 400 Years of Porcelain―The British Museum’(“thecultureconcept circle” 2016 〈https://www.thecultureconcept.com>kakiemon-and-400〉)

 

 

世界アルツハイマーデー  各地のランドマーク「柿右衛門の赤」でライトアップ

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オレンジ色にライトアップされた佐賀大学美術館(2020年9月)


 毎年世界アルツハイマーデーの9月21日を中心に日本各地の名所がオレンジ色にライトアップされる。昨年(2020)は 城、橋、タワーなど全国約100ヶ所の史跡、ランドマーク、自治体の庁舎等が認知症啓発、支援活動のシンボルカラー、オレンジ色にライトアップされた。

 佐賀市佐賀大学美術館はじめ、甲府駅前の武田信玄像、兵庫県の姫路城、京都タワー水戸芸術館、栃木県の足利学校、神奈川県庁、福井県一乗谷遺跡唐門、長崎市稲佐山テレビ塔などがオレンジ色に照らされた。世界アルツハイマーデー当日はズームで結び約30か所のライトアップの様子をユーチューブでライブ配信した。

 ライトアップのニュースは新聞等で取り上げられ、シンボルカラーのオレンジ色は「柿右衛門の赤」に由来すると報じられた。

 厚生労働省は2005年から「認知症を知り 地域をつくる10ヶ年」キャンペーンの取り組みとして、「認知症サポーターキャラバン」と名付けた認知症を正しく知り理解し、患者と家族を手助けする認知症サポーターの養成講座を開き、受講修了者にオレンジ色のブレスレット、「オレンジリング」が配られた。なぜオレンジリングなのか。「認知症サポーターキャラバンの手引き」にかかれている。

 

「柿色」をしたオレンジリンクは、認知症サポーターの目印です。江戸時代の陶工・酒井田柿右衛門が夕日に映える柿の実の色からインスピレーションを得て作り出した赤絵磁器は、ヨーロッパにも輸出され世界的な名声を誇りますが、同じく“日本発”の「認知症サポーターキャラバン」のオレンジリングが、世界のいたるところで「認知症サポーター」の証として認められればとの思いからつくられました。

 なお温かさを感じさせるこの色は、「手助けします」という意味をもつと言われています。 

 

 夕日に輝く柿の実のような鮮やかなオレンジ色は、柿右衛門色絵磁器を象徴する。

柿右衛門の色絵に使う釉薬(絵具)は佐賀県有田町の酒井田柿右衛門家に残る江戸時代の古文書、「赤絵之具覚」に記される秘伝の調合に従い作られる。代々の柿右衛門のみが受け継ぐ。“けそう”(鉛白。釉薬をとかし光沢を増す媒溶剤)、“びいどろ” (ガラス、フリット)、 “ろくはん“ (緑礬。ロウハとも呼ばれ磁硫酸鉄鉱から精製し、焼成してベンガラを作る)の調合法が記されている。

 赤色の元となるベンガラ(酸化鉄)を、水を張った壺に入れ約十年寝かせ、塩分や不純物を取り除き、赤の粒子を取り出す。調合し、鮮やかな色を得るため摺り重ねさらに粒子を細かくする。 柿右衛門窯では最も明るい「花赤」、柿の実などに使う「濃赤」、輪郭を描く「赤カバ」等を使い分ける。

 柿右衛門磁器の文様は絵とデザインの中間といわれ実際の色とともに、梅花、菊、桐の花、鳳凰の尾、鳥の羽や口ばし、胸毛、竹の葉や柴垣にも赤が使われる。

 十四代柿右衛門さんによると、赤絵具の微妙な発色が得られるのは化学的に製造されたものではなく昔の銅で、屋根修復の際提供を受けた東本願寺増上寺、中でも米沢の上杉謙信一族のお墓に使われていた古い銅瓦からよい色が得られたとのことだ。

 初代柿右衛門(喜左衛門)が記した赤絵初まりの「覚」の写しによると、中国の技術に学び、白磁に上絵付けをする色絵(赤絵)の技術は、正保4年(1647)以前に開発に成功した。

 乳白色の磁胎濁手に華やかな赤絵の映える柿右衛門様式はほぼ400年前に完成し、伊万里港から輸出された。東インド会社の公式記録によると1650年から1757年までに約123万個の肥前磁器が輸出され、世界に広まった。

 華やかな色絵はヨーロッパを魅了し、王侯貴族は宮殿や邸宅を飾り、祝宴を開いた。コレクションは現在も残り、17世紀の絵画にも室内に飾られている様子が描かれている。

 柿右衛門の赤絵はヨーロッパの窯業を刺激し、ドイツのマイセン窯は磁器製造に成功し、マイセン、イギリスのチェルシー窯、ボウ窯、フランスのシャンティ―窯等は盛んに柿右衛門写しの色絵磁器を製産した。

 九州観光推進機構の市場調査によると、米、英、豪からの旅行者の関心は陶磁器に最も高かった。又、幅広い層の女性が有田焼の歴史に関心を示している。調査は火山、温泉、陶磁器から選ぶもので、肥前磁器は今も変わらぬ人気を保っている。(佐賀新聞 2021年 4月8日付)。 

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 世界アルツハイマー病協会(Alzheimer‘s Disease  International,  ADI,  London)が認知症への正しい理解、患者と家族への支援を広める啓発活動の一環としてはWHOと協同で1994年に毎年9月21日を「世界アルツハイマーデー」と設定し、

2012年からは9月を「世界アルツハイマー月間」と設定した。

 日本では公益社団法人認知症の人と家族の会(Alzheimer‘sAssociation Japan、 AAJ)を1980年結成。AAJは1992年 国際アルツハイマー病協会に加盟し、2013年以来、世界アルツハイマーデーに全国でライトアップが行われる。

 2012年に厚生労働省が公表した「認知症施策推進5カ年計画」)は「オレンジプラン」、団塊の世代が75歳以上になる2025年を見据えた事業、「認知症施策推進総合戦略 2015-2025」は新オレンジプランと名付けられ、認知症の人が認知症とともによりよく生きていくことができるような環境整備をめざす。

 認知症への理解促進の一環としてシンボルカラーであるオレンジ色のサポーターグッズ、リング、マスク、ロバ隊長の縫いぐるみなどが作られている

 認知症の不安をかかえ、外出をためらうようになった人が立ち寄れる憩いの場、認知症カフェはオレンジカフェと呼ばれる。

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 今年のアカデミー賞の主演男優と脚色部門は英仏合作映画「ファーザー」の主演アンソニー・ホップキンスと、脚本と監督のフローリアン・セレールが受賞した。 認知症の父と世話をする娘(オリヴィア・コールマン)の物語で父の視点で描かれる。

認知症の親戚をモデルにした自身の戯曲を映画化したセレール監督のインタビューは(YouTube)<www.youtube.com/watch?v=utYgoRE_HYI>にある。

「『ぼけますから、よろしくお願いします』1200日の記録」は令和元年度(2019)、文化庁映画賞、文化記録映画賞、ほか数々の賞を受けた信友直子監督の広島県呉市に暮らす両親、95歳、87歳、のドキュメンタリー。母が認知症になり父が世話をする。

テレビドキュメンタリ―を元に、追加取材と再編集をして2018年劇場公開された。同名著書が新潮社より出版されている。

 信友さんは5月14日(2021)の文化放送大竹まことのゴールデンラジオ」にゲスト出演して、撮影裏話や両親との交流を語っている。ポッドキャストhttps://omny.fm/shows/program-18/2021-5-14-2〉で聞くことができる。 

 二本の映画は認知症を正しく理解し支援の輪を広げるうえで、示唆に富む。 

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 地元川崎市麻生区の「タウンニュース」5月21日(2021)号に鮮やかな「柿右衛門の赤」のぬいぐるみのロバ隊長の写真が掲載されていた。 地域の認知症支援の有志団体がオレンジ色のマスコットキャラクター、ロバ隊長のストラップを手造りしている。 認知症カフェ,ロバ君倶楽部の一つオレンジリング百合丘に参加する手芸好きが2019年11月に活動開始し、今まで1,000体以上を作り、サポーター養成講座の受講者に460頭を配った。

 最近再放送された、北九州市でホームレスの支援活動を行う牧師奥田知志氏の活動を紹介するNHKのドキュメンタリーで、支援活動をする人の中にオレンジリングをしている人の姿があった。

 オレンジをシンボルカラーとする支援活動が地域に浸透し身近な所で行われていることを知る。

 今月初め(2021 6月7日)アルツハイマー病の進行を抑制する新薬がアメリカで承認されたとのニュースが報じられた。 アメリカのバイオジェンと日本のエーザイの共同開発したアデュカヌマブで原因の物質アミロイドβを脳内から除去し病気の進行を抑える世界発の薬となる。

 世界の認知症患者約5000万人のうち6から7割がアルツハイマーといわれ、誰もが関係のあることとして受け止めなければならない時代、「柿右衛門の赤」がシンボルカラーとして啓発と支援の運動を促進する役割を担えることを願う。 

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十四代柿右衛門さんが校長を務めた佐賀県立有田窯業大学校は

2016年に佐賀大学に統合され、新設の芸術地域デザイン学部としてスタートした。

 

 

落語「皿美人」

佐賀県が舞台の新作落語「皿美人」は有田焼の皿にまつわる不思議な話だ。 作家藤井青銅と落語家柳家花緑が全国47都道府県を舞台にした落語を創作し上演する「d47落語会」プロジェクトの六作目の作品で、2014年、東京での初演に続き、佐賀市の旅館あけぼので披露された。  

 

佐賀県のある町の郊外の小さな旅館の玄関に初期伊万里の七寸皿が飾ってある。初期伊万里は1610年代から1630年代に日本で最初に作られた染付磁器で、素焼きをしない生がけで、厚ぼったい素朴な磁器だ。

 この旅館に長逗留している酒飲みの老人が宿賃を請求されると、金は持っていないので、宿賃代わりに、玄関に飾ってある初期伊万里の大皿に美人画を描くと言う。 老人は皿に美しい女性を描き、宿の主人に言う。

 

「この近くに遺跡があるな」

 「ええ。なんでも、弥生時代の村だとか。 伝説の邪馬台国はあそこなんじゃないか、なんて言う方もいるようで」

 「先日あのあたりを散歩していて、ピピッと霊感がひらめいたのじゃ。 邪馬台国の女王・卑弥呼の姿が浮かんできてな。それを、ここに描いた」

 「はあ~、これが卑弥呼ですか。 やっぱり女王だから品があって、美人ですねえ」

 「この皿が、やがて儲けを生む。 元あった場所に飾っておけ」

 

宿の主人は半信半疑で玄関に皿を戻す。その夜も更けて丑三つ時、皿がぼっと光り、描かれた美女が皿から抜け出てきて、帳場にいた主人に卑弥呼と名乗った。

翌朝主人は老人に報告する。 「さぞや、あなたは名のあるお方?」と問う主人に、老人は自分は人間国宝酒井田柿右衛門の曾孫弟子酒井田栗右衛門、「卑弥呼は毎晩出てくるぞ」と言う。

やがて旅館は「卑弥呼の現れる宿」と評判になり、客が押し寄せ大繁盛する。

 

評判を伝え聞き、心穏やかならぬ邪馬台国畿内説の本命奈良県は、仏画の絵師を送り込む。 奈良の絵師は「法力」を持つ墨で皿に柵を描き卑弥呼を閉じ込め皿から出られないようにしてしまう。

卑弥呼が現れないと客は来ない。困った宿の主人は栗右衛門に柵を消してくれと頼むが、消すことはできない。そこで栗右衛門は柵に扉を描き加えると、卑弥呼は扉を開けて現れる。 困った奈良の絵師は扉に南京錠を描き加え鍵をかけ、卑弥呼を閉じ込める。 栗右衛門が南京錠の鍵を描くと卑弥呼は鍵を開け現れる。 今度は奈良の絵師が鍵を箱に隠す。 栗衛門は箱を開ける鍵を描く、、、。 いたちごっこをしていると、二人の絵師が出くわし争ううちに皿を割ってしまう。

 割れた皿から出てきた卑弥呼は別れを告げる。

 宿の主人は呼び戻せないかと栗右衛門に頼むが、栗右衛門は言う。

 

 「見ろ。 さらわれた(皿割れた)ら、元には戻らん」

 

舞台は有田でも伊万里でも唐津でもない。

旅館のすぐそばに遺跡がある。邪馬台国九州説の地、吉野ヶ里遺跡でここは吉野ヶ里町であろう。

この物語では柿右衛門様式の絵付が、美人が絵から抜け出るほどの真迫性をもち、奈良の法力を持つ墨汁の絵と互角に戦うイメージを描く。

主人は「なんだかもう、凄いのか凄くないのか、よくわからなくなってきた」と言い、奈良から来た仏画の絵師は「たしかによく描けている。美人だ」という。

 

d47落語会のプロジェクトは、各地に根付いて長く続くものをデザインする、ロングライフデザインを提唱するデザイナーのナガオカケンメイの活動の一環だ。伝統工芸も、まさにロングライフデザインだ。

 

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藤井青銅の『あなたに似た街』は佐賀県の計20の市と町を舞台にした短編小説集で、落語「皿美人」も収録されている。

どこかなつかしい、どこにでもありそうな地方の街の日常を描いた短編小説で、舞台となった市町の地名は出てこない。文化庁の日本遺産、肥前焼き物圏に認定され、佐賀県は有田、伊万里唐津等全国的に有名な焼き物産地がある焼き物県だが、焼き物をテーマにした作品は「皿美人」と次の一編「マグカップ」だけだ。

 

この街を出て、都会で一人暮らしを始めた時、わたしが最初に自分で買ったのは、可愛いスヌーピーのマグカップだった。

十八歳にしては幼い――と自分でも思った。 けれどとても嬉しかった.欲しかったのだ。 それには理由がある。

 

大学入学を機に、生まれ育った街を出て一人暮らしを始める主人公の若い女性は振り返る。 彼女は小学生高学年の頃、スヌーピーが描かれているマグカップが欲しかったのだが言い出すことが出来ず、地元で作られる食器を使っていた。

この町の住民は皆何らかの形で焼き物につながっている。 直接焼き物産業とは関係ない信用金庫勤めの彼女の父の重要な顧客は窯業関係者だ。

焼き物の町では小学校の給食の食器も地元産の‶本物の焼き物,“ 家庭でも安い規格外品や 端物でも地元産のちゃんとした焼き物を普段使いに使う。

誰にもそんなことは言われていないが、彼女はスヌーピーの絵があるカップは子供っぽく、安っぽいものと否定されている雰囲気を感じねだれなかった。 

それで一人暮らしを始め、待望のスヌーピーのマグカップを買い、四年間、何を飲むにも大切に使った。 卒業間近になって手を欠いてしまうが、ペン差しとして使った。 卒業し、故郷に帰る事に決め、就職も決まるが、カップを欠いてしまう。彼女は欠片を持ち帰り庭の片隅に埋める。

 

「マグカップの欠片が、やがて、わたしの生まれ育ったこの街の土の一部になっていくのはいいなぁ・・・と思っている」。

 

彼女は生まれ育った街の濃密な人間関係が心地よかったり、息苦しかったり、都会の生活は自由だが、息が詰まることもある。 帰りたければ帰ればいいし、出て行きたくなったら出ればいいと四年の大学生活を経て考えるようになった。 「どこに行こうと、わたしはわたし」と。

この作品の舞台は有田で、テーマも焼き物だ。 しかし伊万里唐津もまったっく別のものが街らしさとして描かれる。

物語には地名は出てこないが、地形、名所、産業、産物、芸術、スポーツ、催し物、噂、歴史、ライフスタイルが描かれ、佐賀県民、佐賀県をよく知る人はどこが舞台かすぐわかる。 サッカー、バルーン、ガールズ・バンド、宝当神社、羊羹、シーボルトの湯、棚田、月の引力が見える街、等々。

 

 作者は佐賀県の『あなたに似た街』をどこにでもある私の街の話として書いた。

短編集の帯に、「ささやかなそれぞれのSAGA」とある。英語で物語や叙事詩のことをsaga という。

 

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2017年4月に放送されたNHKFMの特集オーディオドラマ「あなたに似た街」は同名短編集に収録されている「引力」をベースにしたドラマだ。

 東京で小さなデザイン事務所を経営している野中徹は取引先の社員に理不尽なことを要求され、憤りをおさめようと高層建築のたつ湾岸エリアを歩くうちに、海のにおいを感じる。故郷の塩のにおいと似ていることから干潟のある故郷「月の引力が見える町」に戻ってきた。 故郷は懐かしくもあり、鬱陶しくもある。 居場所を見失いかけた若者が、「月の引力の見える町」で進む道を探る。

「月の引力の見える町」太良町は大漁神社の海中鳥居と海中道路がある。引き潮の時現れる道路は漁業者の荷揚げ用道路。鳥居は満ち潮になると半分ほど海につかる。

 

藤井青銅は1979年「第一回星新一ショートショートコンテスト」入選したショートショートの名手である。1955年、山口県生まれ。 作家、作詞家、プロデューサーとして東京で活動している。ニッポン放送の「オールナイトニッポン」やNHK FMの「青春アドベンチャー」などの作家、プロデューサーである。

NHKFMの「青春アドベンチャー」も最も多く脚本を提供した作家で今年(2020)四月には首都遷都をテーマに東京と地方都市の戦いをユーモラスに描いた10回ドラマ「00-03都より愛をこめて」が放送された。

 

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『あなたに似た街』藤井青銅 (小学館 2015)

渡辺崋山 柿右衛門人形画の模写

 

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徳子像模写(渡辺崋山『崋山先生謾録』)(左)、市川新升氏来山女人形(川崎巨泉『玩具帖』Courtesy of 大阪府中之島図書館)

 江戸時代後期の画家渡辺崋山(1793-1841)は、その修業時代、江戸後期の挿絵入り事典、河津吉迪の『睡余小録』下冊の付録に載る柿右衛門色絵婦人像の木版図の模写をしている。

 模写は崋山の若いころの日記『崋山先生謾録』に残る。『崋山先生謾録』は、文化13年(1816)の元旦から12月28日まで、崋山24歳の時の日記で日々の出来事を記録し、模写やスケッチ、作品(「蘆汀双鴨図」他)の構想図等が描かれている。 師谷文晁、同門の画家喜多武清等を訪れた記録、三河田原藩江戸藩邸での武士としての公務、家計を支えるため燈籠画を描く副業の様子等が記されている。 

 8月23日の日記には「訪武清ト文一」と記した後、柿右衛門婦人立像の木版画を丁寧に模写し、「徳子吉野の像なり、、、」とその添書きも写している。 像は京都島原の名妓、二代目吉野太夫、徳子(1601-1643)をモデルとしたとする。

 崋山は髪を黒々と美しく、表情や手は優しく、原画の立体感を失うことなく、伸びやかなタッチで描いている。 着物の袖や前身ごろの模様は丁寧に写しているが、帯は輪郭のみ描き白く残し、その下の身頃の文様は描いていない。 余白にある着物の柄や色のメモも写す。

 徳子の像に続いて、団扇を持つ遊女、枕屏風に描かれた名妓の画も模写した。

 徳子像の木版画は磁器の素材感、彫刻のような立体感のある肖像になっている。 崋山の模写はそれを忠実に写していると同時に、着物は柔らかな線で描かれている。 続いて添え書き「徳子吉野の像なり。伊万利柿右衛門の造る処にて、来山の泥像と同物なり。ただし光沢美麗まさるよし」と写し、「併見人語れり面貌生が如く深夜これに対すれば人をして寒粟せしむ」と続くこの最後の部分は省いている。

 他の二点の女性図は日本画の筆使いで二次元的表現になっている。

 崋山は『睡余小録』の柿右衛門人形図を見て何を感じ、何を学ぼうとしたのだろうか。 後に洋画を学び陰影法を取り入れたリアリズム表現を完成させた崋山が、その原点を感じ取ったのか。

 記述の「武清ト文一」は、谷文晁門下の南画家で、崋山、曲亭馬琴らと交友があった喜多武清(1776-1857)と文晁の養嫡子谷文一(1777-1818)だ。この日崋山は、30歳前後の先輩画家を訪ねて語り合い、何か刺激を受けたのだろうか。

 これ以降八月いっぱい記述はない。 

 

 歴史学者矢森小映子氏は論文「渡辺崋山『寓画堂日記』 『崋山先生謾録』に関する一考察:思想形成過程を探る基礎作業として」でこの二冊の日記は崋山若き修業時代の史料として紹介されることが多く、洋学研究を始める前の日記であるため、「洋学史の立場からはあまり重視されてこなかったが、菅沼貞三・日比野秀男氏ら美術史家からは、その学画過程の分かる資料として注目されている」、また田原市出身の歴史学者別所興一氏は、日記から伺える博物学的な関心等に着目し、「『旺盛で幅広い好奇心の持ち主』という新たな崋山像をうちだした」と指摘する。

 狩野探幽の弟安信(1614-1685)はその画論『画道要訣』で、優れた絵画には天才が才能に任せて描く「質画」と、古画等の学習によって画技を学び術を得た「学画」の二種類があるという。 質画のすばらしさを評価しながら、天性の才能は一代限りだが、学画は学習法を伝授する事によって後世に伝えることが出来るといい、宗家八代目は学び獲得する学画の重要性を強調している。 さらに「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」を最も重視した。

 崋山は写生や模写で観察眼をはぐくみ画技を磨いた。

 三月(2020年)に放映されたNHK日曜美術館「真を写す眼 渡辺崋山」は崋山の「神(その人に備わっているもの)を描きたい」、すなわち真を写す眼で見、表面で終わらず内面まで描きたいという信念で、西洋画、銅版画を学びの陰影法を取り入れ、線に頼らず光を取り込むリアリズム表現が結実した蘭学者の肖像、国宝「鷹見泉石像」他、代表作を紹介した。

 崋山は終始手帖を持ち歩き、日々の記録、写生、模写を続けた。 遺した手帖や日記は、積み上げると背丈程になるという。『崋山先生謾録』は  崋山の一番弟子椿椿山が題名を付け、大切に所持していた。

 渡辺崋山は1890年(明治23)から1945年(昭和20)12月まで小学校で教えられていた修身の教科書、勤労・勤勉の項に規律の手本として取り上げられている。午前四時から午後八時まで、読書、剣の稽古、絵の勉強、藩の仕事などほぼ二時間刻みの予定が組まれて、その中で午後四時から六時まで、「昔の名高い画を手本として、一心にならうこと」と定めていたという。(第四期 尋常小学修身書 巻四)

 崋山は十代前半に画家に入門し画の勉強に励み、詩歌、儒学を学び、藩務をこなし、絵を描き一家を支えた。 後に蘭学、西洋画に接し、先駆的学者らと交流し、変化の真っただ中の時代を江戸に生きた。 幕末、洋学者弾圧の蛮社の獄で捕らわれた後、田原で蟄居中四十九歳で自決した。 (三河田原藩江戸藩邸跡の、最高裁判所国会図書館に近い三宅坂公園に生誕の地の解説板がある)。

 

 柿右衛門様式の磁器人形は五代柿右衛門(1660-1691)、六代柿右衛門(1690-1735)、五代の弟で六代の後見で意匠、細工に優れた名工といわれる渋右衛門の時代に造られたと伝わる。 婦人像、若者立像、童子、相撲人形等、1670年代から1700年頃に造られ,高品質のものが輸出され、いまもヨーロッパに残る。このころ使われていた濁手は七代柿右衛門(1711-1764)の時代に中断した。 

 

               ***** 

 

 『睡余小録』下冊には、徳子像の添え書きにある「来山の泥像」の木版図が載る。 大阪の俳人小西来山(1654-1716)が「物言わぬ理想の美女とたたえ」、愛蔵した柿右衛門の婦人座像の画とともに、俳文「女人形記」全文が収載されている。 来山の人形は当時から巷の人々の知るものであり話題にされていた。

 

 郷土玩具紹介のホームページ、おもちゃのちゃちゃちゃEZBBS.net、に来山女人形土鈴の写真が載っている。 小西来山旧蔵の柿右衛門色絵婦人座像を模した土人形で、底に「来山忌記念」、「濤華」の二つの押印がある。 茶々丸さんの投稿で、「昭和16年 来山忌記念 来山女人形土鈴」のタイトルがつく。〝濤華氏誂え″とあり、大正昭和の上方郷土研究家で絵葉書作家の木村濤華の注文品と推測される。

 郷土玩具画家川崎巨泉(1877-1942)の『玩具帖』にも来山女人形の画は所収されている。 画題は「市川新升氏〔1887-1935〕作 来山女人形」で、正面と右側からの座姿、後ろから見た髪型、女人形と書かれたラベルが貼ってあるボール箱が描かれている。

 余白には「実大 土製着色」、「ソコに押印アリ 全部胡粉カケ 十万堂 此印の所のみ、ヌリノコシ 土色」、「添へたる印刷物には女人形の記全部を記して」、「津の国今宮十万堂住市川新升(印)」、「梅谷氏蔵 大正十五年七月二十四日 南木氏寄贈」とある。 十万堂は来山の号で、晩年の居に名付けた。 

 南木氏とは大阪郷土史研究家、コレクターで南木文庫を持つ南木芳太郎(1882-1945)で、梅谷氏とは、梅谷紫翠(秀文)で大正昭和期の大阪の文化人、歯科医、郷土玩具収集家で絵葉書画家。 梅谷は明治32年(1899)生、土人形を描いた絵葉書が残る。

 片膝をたて、脇息にもたれた姿の二体の来山人形は土人形の素朴さが美しく、衣装も白地に赤、藍を基調とし柿右衛門人形の衣装の色合いに倣う。 このような郷土人形が来山忌記念に造られた。

 土人形は江戸後期に最盛期を迎える郷土玩具で、伏見街道沿いに六十軒もの窯があったといわれる伏見人形に代表される。野見宿祢の後裔、土師氏が統括して製造したと伝えられる。型造り、彩色の土人形で、モチーフは花魁、動物、狛犬、花見象、鯛乗り童子、鯛抱き童子、関取、大黒、福助、十二支などで柿右衛門人形に共通するものも多い。 老舗丹嘉は1750年頃の創業以来現在まで制作を続ける唯一の窯元。

 

  大正四年(1915)九月二十六日付け大阪毎日新聞の企画面「日曜倶楽部」で、小西来山二百年忌記念特集を組んでいる。

 施主来山の子孫小西久兵衛は来山忌が十月三日午後一時から一心寺で行われるとの告知を出す。ここで記念冊子来山忌二百年集発行を伝え、句を募り、「遺愛の人形等の繪葉書及び茶菓進呈之事」とある。

 小西来山二百年忌の書、「虫の声」は翌年発刊された。

 

               *****

 

「崋山先生謾録」渡辺崋山(没後150年記念画集『定本渡辺崋山』第二巻手控編 郷土出版社 1991)

『睡余小録』河津吉迪(1807)(早稲田大学図書館 古典籍総合データベース〈 www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/〉)

『玩具帖』川崎巨泉大阪府中之島図書館 おおさかeコレクション

http://e-library2.gprime.jp/lib_pref_osaka/da/detail?tilcod=0000000019-00020877〉)

おもちゃのちゃちゃちゃEZBBS.net

「玩具帖」 川崎巨泉大阪府中之島図書館人魚洞文庫が所蔵、デジタル資料はおおさかeコレクションから検索できる。)

「やきもの閑話井垣春雄(『日本美術工芸』1979 4月号)

渡辺崋山『寓画堂日記』 『崋山先生謾録』に関する一考察:思想形成過程を探る基礎作業として」矢森小映子(「書物・出版と社会変容 2」、2007-01-01、一橋大学機関リポジトリ <hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp>)

 

『余白の美』英訳版

 十四代酒井田柿右衛門著『余白の美 酒井田柿右衛門』の英訳版が作年(2019)の三月に出版文化産業振興財団(Japan Publishing Industry Foundation for Culture、JPIC)により出版された。英訳版タイトルは “The Art of Emptiness,” Gavin Frewが翻訳を担当した。 JPICは読書推進や出版産業の振興を目的とした一般財団法人で2015年よりJAPAN LIBRARYとして日本に関する書籍の英訳版を出版していている。

 『余白の美』は十四代酒井田柿右衛門(1934-2013)が柿右衛門焼、窯、技術や伝統、自身の役割、有田磁器の国際性、歴史、将来等などについて詳しく、忌憚なく語るもので、焼物愛好家や柿右衛門ファンの興味を満たしてくれるものだ。 2004年に出版された。

 英語版が出版され、柿右衛門焼の全容がより多くの読者に届くこととなった。 聞き書き形式の書で、内容は専門的で詳細、又内輪のエピソードも多く、佐賀方言混じりの語りなので、英訳で伝わらない部分もあるのではないか心配でもあったが、読み進めるうちに懸念は消えた。 個性的な語り口は魅力的な雰囲気を残しながら、翻訳作業を通して論理的で簡潔な文になり、明確に趣旨を伝えている。 

 私自身は『余白の美』は座右の書として読んでいたが、英語版は一語、一語時間をかけて読み、日本語版で読んだ時は気付かなかった技術の詳細、工房でのやり取りにある重要な事に気付きより深く理解できた様に思う。

 

 “Myself,” “Production,” “Appreciation”の三章で構成される本書は十四代柿右衛門が工房でキセルのヤニを掃除する場面からはじまり、タバコを吸う、キセルを掃除する事が職人の仕事場での習慣と語る。 インタビューが行われたのは約20年前のことで、喫煙に対する人々の考えは今とは少し違っていたが、英語版の読者には職場での喫煙が理解しにくいのではないかと思うが、これが職人気質でタバコがないと呼吸が合わないと言いう。2015年ラグビーワールドカップで話題になった、日本代表の五郎丸歩がキック前に行った精神統一の儀式的動作、〝ルーティーン″に共通すものに思える。 当時、喫煙は外でというひとがいるのは確かなので、「どうすればいいのかいろいろ考えているところです」 と柿右衛門は語っている。 現在はどうなっているのだろうか。

 十四代柿右衛門は、窯の伝統、職人の技術、工房での制作、柿右衛門様式、磁器の美など、詳細に語る。 近代化の過程での、父、祖父の葛藤、大学卒業後の工房での修行、今日も向かい合わなければならない新しい技術や原材料の調達、有田の磁器産業の現状と将来など種々の問題にも言及している。 芸術家、工芸家としてだけでなく窯の経営者として、有田の磁器産業の繁栄に真摯に取り組む柿右衛門像が浮かびあがる。

  日本美術の特徴で、何も描かない部分で空間の広がりを表現する「余白」はemptiness、empty space、white space、remained white、フランス語ではle vide などと言われ、ジャポニスムの画家、マティスジャクソン・ポロックなど現代美術家、デザイナーなども強く意識する。

 十四代柿右衛門は “Only when all three elements—aka-e, yohaku, nigoshide—are combined within a single piece of porcelain does it become known as “Kakiemon-style,” と定義し、300年、400年と柿右衛門様式を継承し続けてきたのは、代々の柿右衛門、職人達がその美に魅せられ続けてきたからという。

 濁手は十七世紀中葉に柿右衛門の赤絵を美しく見せるため有田の泉山から採れる石を中心に他の二か所からの石を混ぜ開発した磁土で作る乳白色の地肌を持つ磁器で、余白にその地肌が現れる。 十四代柿右衛門は磁器の美しさは石の良さであり、これがわかるのは日本人だけいう。又同時に、十七世紀初頭、泉山の石を発見し磁器を焼き始めたのは朝鮮の陶工達で、色絵は中国から伝わりこれを習った柿右衛門様式の誕生に中国、朝鮮の焼き物の影響は見過ごせないという。 

The Kakiemon “white” that comes out of the kiln is the result of the labors of everyone involved in the kiln; in fact, you could even say that it’s the fruit of the labor of generations of Kakiemon.  Life contains all kinds of pain and joy, but I think the color that absorbs all of these is “white.” 

 柿右衛門の白、すなわち濁手の地肌は、代々の柿右衛門、窯に携わった人々の苦労、喜びや悲しみを吸収している白なので、深く奥まで見てほしいと第二章の “Kakiemon White” の項で語る。

 1971年、濁手の技法は国の重要無形文化財の総合指定を受ける。濁手は一時途絶えたが、十二代、十三代柿右衛門が復活し、当主の作品として制作する。 失敗の少ない取り扱いやすい隣県長崎の天草石を使う窯ものの生産で、歩留まりが悪い濁手制作の費用を捻出する。 

 工芸のキーワード「伝承」と「伝統」は色々なところで語られるが、 第一章 “Transmission and Tradition”の十四代柿右衛門の言葉の英訳によってよりクリアーになる。

 ... there‘s a large difference between transmission and tradition. For example, if I were to simply continue the work that was done in the past, this would be the result of the transmission of old techniques. Tradition is something else. I believe tradition refers to taking the techniques that have been transmitted to you and adapting them in your own way, developing them.

 To put it another way, I believe it is to take the work that has been transmitted through the years and turn it into something that contains a contemporary air--surely that’s the real meaning of tradition.I believe to be able to embody your own attitude toward life is to preserve tradition. 

 

 第二章Production (つくる)では、伝承され、改良が重ねられる技術、原材料、工場での工夫が詳細に語られる。

 完成された柿右衛門様式の磁器の制作には有能な職人が持つ高度な技術が不可欠であり、その技術すべてを一人が熟達することはできないため分業体制を敷き、土や釉薬作り、ろくろ、絵付け、焼成などを専門に担当する職人が極めた技術を結集して作品が生まれている。  制作者をアーティストととらえず、アルチザンとし工房という仕組みの上に究極の美を求める。

 焼成で相似形には縮まない磁土は、デザイン担当の当主と職人のやり取りを経て、デザイン通りに完成するよう成形される。

 八角形の鉢の縁の角の小さな刻みはベテラン職人の工夫で、焼成時の縮む力を殺ぎ、美しい形を保つため入れられた。これは第三章の十二代柿右衛門八角深鉢Octagonal bowlの作品解説で紹介されている。

 技術の進歩、材料にこだわる関係者、磨き抜かれた技術を結集するプロフェッショナル達の仕事は工房の場面、場面によく表れている。 

 インタビュアーの和多田進が “you〔XIV Kakiemon〕were able to include your true feelings here and there throughout what you said in a most adroit fashion” と言うように、十四代柿右衛門は自身の芸術観、心情、窯の実情や企業秘密ではと思われる技法、一般には避けがちな辛口のコメントまで語っている。

 マイセンはじめヨーロッパの色絵磁器や中国磁器に関してのコメントは、外国人と日本人の美意識の違いを思い起こさせてくれる。 ペンと筆の輪郭線の違い、地肌の白の表情、色絵具の質感などに、完全美を求める中国、ヨーロッパの窯と、柿右衛門窯の作品の違いを指摘する。 柿右衛門窯の本焼きの焼成は200度ほど低い。

 “Science is no match for nature.” 科学ではなく、自然の原材料、観察と経験、職人の技術と経験に裏打ちされた勘を重んじ、茶道にも通じる不完全の美を求める。 自然の素材が含む不純物がもたらす“dissonance”と“inconsistency” と訳されたノイズと矛盾は日本の焼き物に必要と語る。

 窯の仕事を通して現代の磁器産業共通の課題に直面し、文化庁の負うべき役割にもふれ、現実と向き合う姿勢や名窯の責任感を読み取ることができる。

 

 第三章Appreciation (あじわう)では、古い時代の作品から祖父、父、自身の作品について、評論家の言葉でなくクリエイターとしてのユニークで示唆的な解説をする。 見逃しがちな美しさや洗練されたデザインに気付かせ、柿右衛門様式の作品の美の秘密を明かす。

 十四代柿右衛門は巻末のインタビューで語る。 

The more I spoke, the more I realized the importance of what I was saying. [laughs.]

There are countless books in the world offering a detailed scholastic examination or guide to our work, but I think this is the only book that presents our true thoughts. That may sound a bit self-promotion [laughs], but I do think it opens the door to our world. So I hope people read it. After that, it’s apt to them what they think. [laughs.] 

 十四代柿右衛門は、2001年色絵磁器の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、国際的にも高い評価を得ている。 「赤が一番難しい」と語っていたが、その赤は歴代で最も美しいと言われている。 

 読者は日本の色絵磁器、柿右衛門の神髄を学べ、鑑賞眼を深められる様に思う。

海外で日本の伝統工芸は高く評価され、その作品は広く受容されている。 日本独特と思われる分業の制作現場、自然の原材料が創り出すニュアンスやノイズ、余白や非対称への感性や美意識、保守的とも思われる科学に対する姿勢など、海外ではどう受け取られるのだろうか。

  目次の各章の項目に、日本語版はページが記されていないが、英訳版はページを載せているので、戻って確認したいときすぐに再読できる。

 写真は日本版より多く、又大きいカラー写真となっている。カットとして、十四代柿右衛門作品の色絵部分が使われている。

 [Figure 9]の色絵Flower-shaped plate with pine, bamboo, plum, and birds design (1670s-90s)の解説で梅の花と水平ラインを構成している “taihu rock”とあるが(p165)、柴垣である。(日本語版でも誤記されている。) 太湖石と同じく柴垣も柿右衛門様式のデザインのモチーフとしてよく使われる。太湖石の説明は[Figure 6]八角壺の解説に詳しい。

 JAPAN LIBRARYは工芸関係では、松田権六 “The Book of Urushi”(『うるしの話』)、 志村ふくみ “The Music of Color”(『色を奏でる』)、柳宗悦 “Selected Essays on Japanese Folk Crafts”(『柳宗悦コレクション 2 もの』、『民芸四十年』より)などを出版、その他建築、造園、歌舞伎、古典文学、歴史、政治、経済、外交、ポケモンなどポピュラーカルチャーなどの書も英訳出版している。

 これらの本は海外の図書館、大学図書館に寄贈されている。日本でも国会図書館はじめ多くの大学図書館が所蔵している。

 JAPAN LIBRARYのホームページ〈 japanlibrary.jpic.or.jp/ 〉は英訳版書籍の情報を掲載し、毎月e-ニュース・レターを発行している。 

               ***** 

“The art of Emptiness” (JAPAN LIBRARY Book 39) 十四代酒井田柿右衛門(Japan Publishing Industry Foundation for Culture 2019) 

『余白の美 酒井田柿右衛門十四代酒井田柿右衛門集英社 2004)

『赤絵有情 酒井田柿右衛門』 十三代酒井田柿右衛門、 川本慎次郎西日本新聞社 1981) 聞き書き形式で、十三代柿右衛門が自身の半生、柿右衛門焼、窯、その伝統と現在を語る。

『遺言 愛しき有田へ』十四代酒井田柿右衛門 白水社 2015)十四代柿右衛門逝去の2013年から二年後の2015年に出版。柿右衛門焼の特徴、窯の仕事、有田焼の将来などを語る。