『余白の美』英訳版

 十四代酒井田柿右衛門著『余白の美 酒井田柿右衛門』の英訳版が作年(2019)の三月に出版文化産業振興財団(Japan Publishing Industry Foundation for Culture、JPIC)により出版された。英訳版タイトルは “The Art of Emptiness,” Gavin Frewが翻訳を担当した。 JPICは読書推進や出版産業の振興を目的とした一般財団法人で2015年よりJAPAN LIBRARYとして日本に関する書籍の英訳版を出版していている。

 『余白の美』は十四代酒井田柿右衛門(1934-2013)が柿右衛門焼、窯、技術や伝統、自身の役割、有田磁器の国際性、歴史、将来等などについて詳しく、忌憚なく語るもので、焼物愛好家や柿右衛門ファンの興味を満たしてくれるものだ。 2004年に出版された。

 英語版が出版され、柿右衛門焼の全容がより多くの読者に届くこととなった。 聞き書き形式の書で、内容は専門的で詳細、又内輪のエピソードも多く、佐賀方言混じりの語りなので、英訳で伝わらない部分もあるのではないか心配でもあったが、読み進めるうちに懸念は消えた。 個性的な語り口は魅力的な雰囲気を残しながら、翻訳作業を通して論理的で簡潔な文になり、明確に趣旨を伝えている。 

 私自身は『余白の美』は座右の書として読んでいたが、英語版は一語、一語時間をかけて読み、日本語版で読んだ時は気付かなかった技術の詳細、工房でのやり取りにある重要な事に気付きより深く理解できた様に思う。

 

 “Myself,” “Production,” “Appreciation”の三章で構成される本書は十四代柿右衛門が工房でキセルのヤニを掃除する場面からはじまり、タバコを吸う、キセルを掃除する事が職人の仕事場での習慣と語る。 インタビューが行われたのは約20年前のことで、喫煙に対する人々の考えは今とは少し違っていたが、英語版の読者には職場での喫煙が理解しにくいのではないかと思うが、これが職人気質でタバコがないと呼吸が合わないと言いう。2015年ラグビーワールドカップで話題になった、日本代表の五郎丸歩がキック前に行った精神統一の儀式的動作、〝ルーティーン″に共通すものに思える。 当時、喫煙は外でというひとがいるのは確かなので、「どうすればいいのかいろいろ考えているところです」 と柿右衛門は語っている。 現在はどうなっているのだろうか。

 十四代柿右衛門は、窯の伝統、職人の技術、工房での制作、柿右衛門様式、磁器の美など、詳細に語る。 近代化の過程での、父、祖父の葛藤、大学卒業後の工房での修行、今日も向かい合わなければならない新しい技術や原材料の調達、有田の磁器産業の現状と将来など種々の問題にも言及している。 芸術家、工芸家としてだけでなく窯の経営者として、有田の磁器産業の繁栄に真摯に取り組む柿右衛門像が浮かびあがる。

  日本美術の特徴で、何も描かない部分で空間の広がりを表現する「余白」はemptiness、empty space、white space、remained white、フランス語ではle vide などと言われ、ジャポニスムの画家、マティスジャクソン・ポロックなど現代美術家、デザイナーなども強く意識する。

 十四代柿右衛門は “Only when all three elements—aka-e, yohaku, nigoshide—are combined within a single piece of porcelain does it become known as “Kakiemon-style,” と定義し、300年、400年と柿右衛門様式を継承し続けてきたのは、代々の柿右衛門、職人達がその美に魅せられ続けてきたからという。

 濁手は十七世紀中葉に柿右衛門の赤絵を美しく見せるため有田の泉山から採れる石を中心に他の二か所からの石を混ぜ開発した磁土で作る乳白色の地肌を持つ磁器で、余白にその地肌が現れる。 十四代柿右衛門は磁器の美しさは石の良さであり、これがわかるのは日本人だけいう。又同時に、十七世紀初頭、泉山の石を発見し磁器を焼き始めたのは朝鮮の陶工達で、色絵は中国から伝わりこれを習った柿右衛門様式の誕生に中国、朝鮮の焼き物の影響は見過ごせないという。 

The Kakiemon “white” that comes out of the kiln is the result of the labors of everyone involved in the kiln; in fact, you could even say that it’s the fruit of the labor of generations of Kakiemon.  Life contains all kinds of pain and joy, but I think the color that absorbs all of these is “white.” 

 柿右衛門の白、すなわち濁手の地肌は、代々の柿右衛門、窯に携わった人々の苦労、喜びや悲しみを吸収している白なので、深く奥まで見てほしいと第二章の “Kakiemon White” の項で語る。

 1971年、濁手の技法は国の重要無形文化財の総合指定を受ける。濁手は一時途絶えたが、十二代、十三代柿右衛門が復活し、当主の作品として制作する。 失敗の少ない取り扱いやすい隣県長崎の天草石を使う窯ものの生産で、歩留まりが悪い濁手制作の費用を捻出する。 

 工芸のキーワード「伝承」と「伝統」は色々なところで語られるが、 第一章 “Transmission and Tradition”の十四代柿右衛門の言葉の英訳によってよりクリアーになる。

 ... there‘s a large difference between transmission and tradition. For example, if I were to simply continue the work that was done in the past, this would be the result of the transmission of old techniques. Tradition is something else. I believe tradition refers to taking the techniques that have been transmitted to you and adapting them in your own way, developing them.

 To put it another way, I believe it is to take the work that has been transmitted through the years and turn it into something that contains a contemporary air--surely that’s the real meaning of tradition.I believe to be able to embody your own attitude toward life is to preserve tradition. 

 

 第二章Production (つくる)では、伝承され、改良が重ねられる技術、原材料、工場での工夫が詳細に語られる。

 完成された柿右衛門様式の磁器の制作には有能な職人が持つ高度な技術が不可欠であり、その技術すべてを一人が熟達することはできないため分業体制を敷き、土や釉薬作り、ろくろ、絵付け、焼成などを専門に担当する職人が極めた技術を結集して作品が生まれている。  制作者をアーティストととらえず、アルチザンとし工房という仕組みの上に究極の美を求める。

 焼成で相似形には縮まない磁土は、デザイン担当の当主と職人のやり取りを経て、デザイン通りに完成するよう成形される。

 八角形の鉢の縁の角の小さな刻みはベテラン職人の工夫で、焼成時の縮む力を殺ぎ、美しい形を保つため入れられた。これは第三章の十二代柿右衛門八角深鉢Octagonal bowlの作品解説で紹介されている。

 技術の進歩、材料にこだわる関係者、磨き抜かれた技術を結集するプロフェッショナル達の仕事は工房の場面、場面によく表れている。 

 インタビュアーの和多田進が “you〔XIV Kakiemon〕were able to include your true feelings here and there throughout what you said in a most adroit fashion” と言うように、十四代柿右衛門は自身の芸術観、心情、窯の実情や企業秘密ではと思われる技法、一般には避けがちな辛口のコメントまで語っている。

 マイセンはじめヨーロッパの色絵磁器や中国磁器に関してのコメントは、外国人と日本人の美意識の違い思い起こさせてくれる。 ペンと筆の輪郭線の違い、地肌の白の表情、色絵具の質感などに、完全美を求める中国、ヨーロッパの窯と、柿右衛門窯の作品の違いを指摘する。 柿右衛門窯の本焼きの焼成は200度ほど低い。

 “Science is no match for nature.” 科学ではなく、自然の原材料、観察と経験、職人の技術と経験に裏打ちされた感を重んじ、茶道にも通じる不完全の美を求める。 自然の素材が含む不純物がもたらす“dissonance”と“inconsistency” と訳されたノイズと矛盾は日本の焼き物に必要と語る。

 窯の仕事を通して現代の磁器産業共通の課題に直面し、文化庁の負うべき役割にもふれ、現実と向き合う姿勢や名窯の責任感を読み取ることができる。

 

 第三章Appreciation (あじわう)では、古い時代の作品から祖父、父、自身の作品について、評論家の言葉でなくクリエイターとしてのユニークで示唆的な解説をする。 見逃しがちな美しさや洗練されたデザインに気付かせ、柿右衛門様式の作品の美の秘密を明かす。

 十四代柿右衛門は巻末のインタビューで語る。 

The more I spoke, the more I realized the importance of what I was saying. [laughs.]

There are countless books in the world offering a detailed scholastic examination or guide to our work, but I think this is the only book that presents our true thoughts. That may sound a bit self-promotion [laughs], but I do think it opens the door to our world. So I hope people read it. After that, it’s apt to them what they think. [laughs.] 

 十四代柿右衛門は、2001年色絵磁器の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、国際的にも高い評価を得ている。 「赤が一番難しい」と語っていたが、その赤は歴代で最も美しいと言われている。 

 読者は日本の色絵磁器、柿右衛門の神髄を学べ、鑑賞眼を深められる様に思う。

海外で日本の伝統工芸は高く評価され、その作品は広く受容されている。 日本独特と思われる分業の制作現場、自然の原材料が創り出すニュアンスやノイズ、余白や非対称への感性や美意識、保守的とも思われる科学に対する姿勢など、海外ではどう受け取られるのだろうか。

  目次の各章の項目に、日本語版はページが記されていないが、英訳版はページを載せているので、戻って確認したいときすぐに再読できる。

 写真は日本版より多く、又大きいカラー写真となっている。カットとして、十四代柿右衛門作品の色絵部分が使われている。

 [Figure 9]の色絵Flower-shaped plate with pine, bamboo, plum, and birds design (1670s-90s)の解説で梅の花と水平ラインを構成している “taihu rock”とあるが(p165)、柴垣である。(日本語版でも誤記されている。) 太湖石と同じく柴垣も柿右衛門様式のデザインのモチーフとしてよく使われる。太湖石の説明は[Figure 6]八角壺の解説に詳しい。

 JAPAN LIBRARYは工芸関係では、松田権六 “The Book of Urushi”(『うるしの話』)、 志村ふくみ “The Music of Color”(『色を奏でる』)、柳宗悦 “Selected Essays on Japanese Folk Crafts”(『柳宗悦コレクション 2 もの』、『民芸四十年』より)などを出版、その他建築、造園、歌舞伎、古典文学、歴史、政治、経済、外交、ポケモンなどポピュラーカルチャーなどの書も英訳出版している。

 これらの本は海外の図書館、大学図書館に寄贈されている。日本でも国会図書館はじめ多くの大学図書館が所蔵している。

 JAPAN LIBRARYのホームページ〈 japanlibrary.jpic.or.jp/ 〉は英訳版書籍の情報を掲載し、毎月e-ニュース・レターを発行している。 

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“The art of Emptiness” (JAPAN LIBRARY Book 39) 十四代酒井田柿右衛門(Japan Publishing Industry Foundation for Culture 2019) 

『余白の美 酒井田柿右衛門十四代酒井田柿右衛門集英社 2004)

『赤絵有情 酒井田柿右衛門』 十三代酒井田柿右衛門、 川本慎次郎西日本新聞社 1981) 聞き書き形式で、十三代柿右衛門が自身の半生、柿右衛門焼、窯、その伝統と現在を語る。

『遺言 愛しき有田へ』十四代酒井田柿右衛門 白水社 2015)十四代柿右衛門逝去の2013年から二年後の2015年に出版。柿右衛門焼の特徴、窯の仕事、有田焼の将来などを語る。

                                 

フレディ・マーキュリーとアフリカに渡った伊万里

  イギリスのロックバンド「クイーン」の軌跡をそのボーカリストフレディ・マーキュリーを主人公にたどる映画「ボヘミアン・ラプソディ」(2018年 11月公開)の大ヒットで、栃木県足利市の栗田美術館に多くのファンが訪れているという。 栗田美術館は伊万里、鍋島焼の充実したコレクションを持つ陶磁専門の美術館で、伊万里焼のコレクター、フレディが1986年に同館を訪問したことがテレビ番組で紹介され、聖地巡礼の地となっている。

 1975年の初来日以来、多数の日本公演を行ったクイーンのメンバーは親日家で、とりわけボーカルのフレディは日本文化を愛し、伊万里焼を蒐集した。

  映画では、フレディのロンドンの自宅ガーデンロッジに飾られている沢山の伊万里焼や骨董品が背景に映し出される。

 映画の冒頭、1985年7月、ロンドンのウェンブリースタジアムでアフリカ難民救済のためのチャリティーコンサート Live Aidが開かれる朝、ロンドンの自宅でフレディが目覚める。着物(長じゅばん)のガウンをまとい身支度を済ませ、階段を降りホールに出るとそこに古伊万里沈香壺が置かれている。 背景の一部ではっきりした映像ではないが、蓋付きでシンプルな色絵文様のある大壺で、古いものの様に見える。 この他にも多くの壺(その中の一つは着物姿の婦人が描かれている)、古伊万里の色絵婦人立像、鉢などを確認できる。 終わりの方のシーンではピアノのそばで愛猫が伊万里焼の鉢と思われる器で餌をたべている。 落語「猫の皿」を思い起こさせる。 フレディの実家には中国景徳鎮のアラベスク文様の青花双耳篇壺が飾られている。

  フレディ・マーキュリーは1946年、イギリスのザンジバル保護国(現タンザニア)で誕生した。ザンジバルは東アフリカ沿岸部のインド洋の島でダルエスサラームの北に位置する。 両親はインド生まれのイスラム系インド人のパールシー、父の仕事でザンジバルに住んでいた。 しかしフレディが17歳の1964年ザンジバル革命が起こり、一家はイギリスに逃れた。 

 フレディの生地、ザンジバルは中世以来イスラム商人のインド洋貿易の拠点として栄えた都市の一つで、遺跡から中国陶磁が大量に出土し、東洋陶磁流通史研究の重要なフィールドの一つだ。日本の磁器破片も発見されている。 

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 学術系クラウドファンディング「アカデミスト」の長崎大学多文化社会学部の野上建紀教授のサイトに、ゼミの学生の一人が2017年、ザンジバルのフィールドワークで海岸で採取した近現代の陶磁の欠片の中に日本磁器があったと報告がある。

 野上教授は「これは、日本とアフリカの間に陶磁器が運ばれた海の道(セラミック・ロード)があったことを意味します」と指摘する。         

 積み出し港に因み伊万里焼として広く知られる肥前磁器は江戸時代、ヨーロッパに運んだオランダ船の中継地だったケープタウンモーリシャスに数多く残るが、東アフリカでは現時点でタンザニアケニアで少数の発見例しかない。

2018年10月13日付けの西日本新聞は野上教授の肥前磁器流通に関するタンザニア調査を報じた。

 野上教授はタンザニアに注目し、インド洋側のダルエスサラーム近郊及び、南の世界遺産キルワ・キシワニ遺跡を調査した。キルワ・キシワニ島もかつての東西貿易拠点で、スルタンの墓に肥前磁器がはめ込まれていた丸い跡も残り、17世紀後半の肥前染付芙蓉手皿の破片が見つかっている。 

 記事は野上教授は「[鎖国時代]中国船が東南アジアやマカオに運んだ肥前磁器を、ポルトガルイスラム商人の船が東アフリカに持ち込んだと推測。 モスクや墓の装飾に中国磁器が使われる事例があり、それに代わる肥前磁器が見つかる可能性は高いとみて調査を続ける」、「(欧州に輸出した)オランダとの交易が注目されがちだが、中国船の役割も大きく、その先を調べることで肥前磁器の世界的な流通の実態が見えてくると話す」と伝える。

 野上教授はこれまでの研究で、スペイン船が太平洋を渡りラテンアメリカに運んだ肥前磁器を確認している。 

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インド洋に面する海岸を南にソマリアケニアタンザニアと下ると、その海岸や島々に中国陶磁を出す遺跡が驚くほどたくさん散在しているのに気がつく。それにタンザニア沖のザンジバル島や、巨大なマダガスカル島にもある。 

   ユーラシア大陸の東西を結んだ交易路を中国から絹を運んだことから絹の道と呼ぶのに対し、陶磁器を運んだ海路を「陶磁の道」と名付けた考古学者三上次男氏は、その東洋陶磁流通史の名著『陶磁の道』に記す。 1950代、イギリスのフリーマン・グレンヴィル氏(Freeman Grenville)はタンザニア沿岸部に46の中国陶磁を出す遺跡を確認した。

 象牙や奴隷の貿易で勢力を持つオマーン商人はザンジバルを拠点とし中国陶磁を大量に輸入した。ここでは宋銭も見つかり中国との密接な関係を示す。 交易の拠点ストーンタウンはユネスコ世界遺産に登録されている。  スルタンの宮殿であったパレス博物館は豪華な家具調度が飾られ往時の隆盛をしのばせる。 2018年の野上教授の調査で、幕末明治に有田で作られたとみられる色絵大壺三点と大皿二点の所蔵が確認された。

 キルワ・キシワニ島の遺跡からはイスラム陶器に混ざって、十世紀から十六世紀ごろまでの多様な中国磁器のほかベトナム、タイの陶磁器、古伊万里染付の破片が発見されている。 ユネスコ世界遺産に登録されている遺跡にはモスクや宮殿の廃墟が残る。

  中国南部、東南アジアからスタートする貿易ルートはインド、アラビア半島、アフリカ東海岸に至り、ペルシャ湾、紅海を上り地中海に通じ、八-九世紀に東西世界が結ばれた。この地域は古くはペルシャ人、ユダヤ人、13世紀にはアラビア商人も加わり、アフリカの金、宝石、象牙、奴隷、中国、アジアからの香辛料、陶磁器の交易で栄えた。 

 野上教授は「伊万里の輸出は17世紀中頃の中国磁器の輸出減少とともに始まり、17世紀末に再び中国磁器が大量に輸出されるようになると減退していった、中国磁器の代用として伊万里の輸出が始まったことを考えると、中国磁器が確認される地域では、伊万里が発見される可能性が高いのである。 今後、〔東アフリカ沿岸地域は〕とても興味深いフィールドになると思われる」と記す。 (「特集:日本-アフリカ交流史の展開 アフリカに渡った伊万里」) 

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 ケニア南部の海岸都市 マンブルイ、ゲティ、モンバサは多様な民族が暮らし、アラベスク模様の装飾のある建物、イスラムのモスク、ヒンズー教の寺があり、遺跡からは中国磁器とともに日本の磁器が出土している。 

 モンバサはアラビア語で「戦いの島」という意味でポルトガルとアラビア商人が戦っていたが、15世紀にはアラビア商人がこの地を制した。交易で栄えたオールドタウンの元ポルトガルの砦、フォート・ジーザスは現在博物館となっている。

 ここには古伊万里の大壺が完全な形で残っている。胴に窓枠をとった赤と濃い染付が印象的な花鳥文の壺だ。 『セラミックロード―海を渡った古伊万里』に上野武は驚きを書き留める。引用に登場する井村欣裕さんは京都美商、井村美術館の代表で取材に同行した。 

 驚いたことに、予想もしてなかった古伊万里があった。 高さ約四十センチ、染錦手の堂々たる大壺だった。 井村欣裕さんによると、十七世紀末から十八世紀初めにヨーロッパへ輸出されたのとまったく同じタイプだという。これはいったいどういうルートでモンバサに来たのだろうか。

 

 博物館にはモンバサの北、ゲティのアラビア人の遺跡から出土した十四世紀ごろの中国の青磁、染付、釉裏紅の壺、十五、六世紀のおびただしい数の中国染付の破片があった。

 三上次男は「釉裏紅の壺は数百キロ離れたキルワ島の都市遺跡から出た破片と同じ種類のもの」と『陶磁の道』で指摘している。 

 ゲティの海辺のジャングルの中の遺跡には内部の壁にくぼみが残るモスクがある。すでに抜き取られているが中国磁器の皿や鉢が埋め込まれていたと推測される。アラビア建築のタイル装飾に倣い中国磁器が使われた。この遺跡はケニア国家記念物に指定されている。 

 ゲティの北のマンブルイの16世紀のアラビア人の墓地に残る円柱型の柱墓に明の染付や青磁が埋め込まれている。 

 コーラン偶像崇拝を禁じているため、神の姿や、神の創造物である人間、動物の描写を避けたため、イスラム、アラブの社会では建築物の装飾に模様タイルを使った。 東アフリカでは窯業が遅れていてタイルを焼くことが出来なかった為、代用とし中国磁器の皿や鉢が埋め込まれモスクや墓のを飾った。このため大量の磁器が輸入されたと推測される。 陶磁を壁に埋める装飾は東南アジアのイスラム社会にも残る。 

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 細野不二彦の漫画シリーズ『ギャラリーフェイク』の一話「伊万里の道」はゲティの遺跡を舞台に展開する。日本人がジャングルの中に埋まった廃墟化したモスクの内壁に埋め込まれた膨大な数の古伊万里を発見する。発見者はギャラリーフェイクの上得意だったいわゆるバブル紳士でバブルがはじけ事業に失敗し負債を負い行方不明になっていた。ギャラリーフェイクは表向き偽物を扱う悪徳美術商だが、オーナーのフジタは目利きで真にアートを愛し、相応しい人とは良心的な取引きをする。(2015年9月5日投稿記事「ギャラリーフェイク」参照)                    

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南アフリカ伊万里

 オランダ東インド会社によるアジア貿易の中継地、南アフリカモーリシャスには大量の肥前磁器が残る。 

 南アフリカに最初に入植した西欧人はオランダ東インド会社の社員約90人で、長崎の出島に滞在したこともあるヤン・ファン・リーベック(1619-1677)の指揮のもと、貿易船の補給基地としてケープ植民地を建設した。1652年から1662年まで初代総督を務めたリーベックは、岩だらけの穀物栽培には向かないが、 四季のある地中海気候のこの地でブドウ栽培が出来ると考え、1670年代にブドウ酒作りの技術を持つフランスからの移民を受け入れ良質なワインの生産を始めた。白人入植者は自らをアフリカーナと呼びこの地に根付いた。 

 松本仁一元朝日新聞ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長は、その著書アフリカは今:カオスと希望と歴史再発見』に記す。 

アフリカーナのブドウ農家の中には、何百人もの黒人労働者を使って大規模農場を経営し、豪邸を建てるものも出てきた。彼らはアジア帰りのオランダ商船から、中国・景徳鎮や日本の有田、伊万里の高価な陶磁器を競って買い集めた。ケープタウン周辺のブドウ地帯には、伊万里の見事な大皿や壺を飾った農家の家屋敷がいまも残されている。 

 ケープタウンのかつての要塞キャッスル・オブ・グッドホープにはウイリアム・ファー・コレクションが展示されている。古伊万里の染付や金襴手の大壺、花瓶、皿、V・O・A マークのある染付芙蓉手皿が開拓時代を描いた絵画、当時の家具と共に飾られている。

 上野武は『セラミックロード―海を渡った古伊万里』に、コレクションの図録にこのV・O・Aマークの皿は「日本の有田・サルガワ・キルンの万治~天和期(1658-1683)の作」と記述があることに驚き、どうしてケープタウンで窯を特定することができ、焼成年代まで断定しているのかと、不思議に思ったと記している。

 後にヨハネスブルグで東洋陶磁の研究者C.S.ウッドワードさんに、「オランダ東インド会社の古文書がのこされていて、長崎やバタビアでの舟積みやケープタウンでの荷揚げなどの記録があり。確実なことがわかる」との説明受けた。

 ケープ州知事公邸には古伊万里の壺や瓶の他、色絵婦人像、鯉にまたがる金太郎像などが飾られている。

 ウッドワードさんによると、ケープタウンに大量の古伊万里がもたらされるようになるのは、ヨーロッパへの輸出が下火になっていた1720年以降、東インド会社の公的な貿易ではなく船員が私的な荷物として持ち込んだものも多いという。

 南アフリカ共和国の行政首都プレトリアプレトリア大学ファン・ティルバーク・コレクションは膨大な量の古伊万里と中国の染付皿を所蔵する。 

 マダガスカルの東、インド洋に浮かぶモーリシャスでは、オランダ植民地時代(-1710)のフレデリック・ヘンドリック砦跡から十七世紀後半から十八世紀前半の白磁のアルバレロ、十八世紀前半の染付芙蓉手皿などの肥前磁器が出土している。(『伊万里焼の生産流通史』)  

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「特集:日本-アフリカ交流史の展開 アフリカに渡った伊万里」野上建紀 (『アフリカ研究』72:67-73、 2008)

「近世肥前磁器における考古学的研究」野上建紀 (『伊万里焼の生産流通史』中央公論美術出版 2017)

『陶磁の道―東西文明の接点をたずねて―』三上次男岩波書店 1969)

『アフリカは今:カオスと希望と歴史再発見』 松本仁一NHK出版 2016)

『セラミックロード―海を渡った古伊万里』写真=白谷達也、文=上野武朝日新聞社 1986)

 

江戸の盆栽愛

  四月の中旬、柿右衛門窯公式ホームページの「窯便り」に都忘れの鉢植えの写真が掲載された。 小型長方鉢の四面は赤地に四段の丸紋つなぎで、白の丸紋の中に緑と黄、心が赤の十字花が描かれている。柿右衛門作品の地文の一つで、十四代柿右衛門は濁手作品の口縁、瓶の頸、高台周りに描いた。代表作、「濁手桜文花瓶」(2003)の頸と高台に緑の同地文が巡らされている。十三代柿右衛門の作品にも同じ文様は見られる。    
園芸鉢は柿右衛門窯では稀な製品で、現在は注文に応じ制作しているとのことだ。
江戸時代初期から明治初期まで,柿右衛門窯に植木鉢や盆栽用石台鉢が注文されていた。 酒井田柿右衛門家文書の御注文控えに植木鉢、石台の記述があり、御注文絵形には湯呑みや手塩皿、重蓋物など様々な器と共に染付山水と瑠璃釉の植木鉢の図がある。
 元禄四年(1691)、六代将軍徳川家宣甲府藩主時代、三十歳位の頃植木鉢を注文した。 三代将軍家光は家臣大久保彦左衛門にいさめるために愛蔵の盆栽を壊されたという逸話が講談に語られるほどの盆栽好きだったと云われている。 家宣は家光の孫にあたる。
 
甲府様御用蘭鉢 口差渡し弐尺余
   一、青磁もつかうなり   弐ツ
右は千丹置上ケ
口差渡し右同断
   一、同瓜なり   弐ツ
     右ハ無地。
     未三月

 直径60センチほどの蘭鉢と、センダンの浮き彫りをした青磁木瓜形鉢二個、青磁瓜形鉢二個とある。

六代将軍となった、二十年後の正徳弐年(1712)、家宣は再び柿右衛門窯に園芸鉢の注文をした。その控えの文書も残る。


御公儀様御用石台鉢
一、角白焼   壱ツ
平四尺八分、取手共ニ横弐尺弐寸四分。
惣廻りニきつこう、ほり上ゲ、
  平ニ亀之ほり上ケ、尤、ゆえん形之内ニ
  横ゆえん形之内ニ、岩ニ浪之堀内上ケ、
右何茂大白也
一、青磁瓜成り   壱ツ
胴之廻り菊唐草之ほり上ケ、
指渡し三尺弐寸四分
一、丹しき手太鼓   壱ツ
指渡し三尺三寸
 
正徳弐年
 辰四月十一日、右者北島十郎右衛門殿御存也。
 
家宣はこの注文の六か月後の五十一歳で死去してしまう。
 「植木鉢が作られるようになるのは、これまで十八世紀からと考えられてきた。  これは江戸の遺跡の発掘状況からの推測であったが、[酒井田柿右衛門家文書から]十七世紀終わり頃には、すでに精巧な植木鉢も作られていた」と依田徹氏は著書に記す。  だが、柿右衛門窯でも青磁や錦、白焼の同様作品は確認できず、破片の発掘は無いことから果たして製造できたか確証はない 石台は大きく高い技術を要するが、白磁は大きな色絵窯は必要なく技術的には可能だった。   元禄四年は五代柿右衛門の亡くなった年で六代柿右衛門が叔父渋右衛門の後見で家名を継いだ。
大橋康二氏は有田町長吉窯跡から出土した染付山水文鉢は、十七世紀中葉のオランダ東インド会社注文のヨーロッパ向け輸出用植木鉢と推定する。
家宣は元禄四年、蘭鉢と青磁の器、計五点を注文した。その約二十年後正徳二年に再び三点園芸鉢注文していることから、前回の注文品は届き出来映えに満足したのであろうと推測できる。しかしおそらく家宣自身は正徳二年の二度目の注文の完成品は見ることはなかったと思われる。
さらなる江戸城及び甲府城の遺跡発掘が待たれる。
柿右衛門家文書にはその後も園芸鉢や石台の注文が複数ありその控えも残る。
 
江戸初期の六曲一双の「盆栽図屏風」(出光美術館所蔵)がある。 金地に青磁、色絵、陶器、木製の盆鉢や石台に植えられた二十三の盆栽が浮かぶように描かれている。 陶磁器の鉢は中国の物といわれる。 屏風は盆山コレクターのコレクション披露のために描かれたものなのか?
出光美術館黒田泰三氏は、狩野山雪あるいは周辺の絵師の作と推定する。 山雪は肥前出身で京都の狩野山楽の元で修業し、山楽が江戸に移った後も京に残り京狩野と呼ばれる一派を成した。 「樹木や器の正確な認識に基づく高い表現力」から黒田氏は山雪説を唱える。
家宣は屏風に描かれている鉢をヒントに自身の草木を育てる確かな器を注文したのではなど想像が広がる。
 
太田記念美術館の2009年特別展「江戸園芸花尽し」の図録に徳川家由来の鉢と石台についての記述がある。 
 
縁先の花台は木製の物であった。大きな石付の盆栽などを植える取っ手付きの木製鉢はいつしか「石台」となる。
酒井田柿右衛門家文書に、六代将軍家宣が正徳二年(1712)に石台、鉢を注文したと記されている。 寸法は取っ手の付いた形状で長径   約124cm、幅約68cmと大きい白磁の鉢、しかし江戸城の庭に今はない。 木製の石台は朽ちたが、鑑賞用に小型化された磁器製石台となって僅かに残り往時を追懐させてくれる。
 
磁器の園芸鉢や石台は有田で始まり、尾張に伝わり盛んに造られるようになる。染付、色絵、青磁、瑠璃釉鉢などは江戸後期から明治初期にかけて洗練されたものになった。 龍に山水が描かれる鍔付蘭鉢や、貼花など白の模様との対比の美しい瑠璃釉の鉢など、松、桜、梅、鉄線などの高級品種に見合う良質な鉢が作られた。
イメージ 1皇居の大道庭園では毎年伝統の正月用盆栽「春飾り」を準備する。松、竹、梅、千両、万両など縁起物の寄せ植えが名器に作られ新年に宮殿,御所等に飾られる。昨年末の「春飾り」の準備の様子を伝える日テレNEWS24の動画映像に、明治時代に有田の精磁会社で作られた色絵盆栽鉢二個(写真:右ページの寄せ植えの鉢と左ページの下段左の鉢 『明治有田 超絶の美』 「宮中の盆器」より)が確認できる。 精磁会社は1879年に日本初の磁器製造会社香蘭社から分離して設立、20年足らずで終焉したが、有田の名工による最高レベルの名品を残した。

  園芸熱は武士や富裕階級の人々に止まらず江戸庶民にも広がり、花見をし、植木市が開かれ、盆栽や鉢植えを愛でた。 この様子は浮世絵に描かれた。
三代歌川豊国(1769-1825)による「春宵梅ノ宴」は庭の地植えの梅と鉢植えの梅を鑑賞する贅沢な集いに集まる人々を描く。 庭の盆栽棚には多くの鉢植えが飾られている。染付と瑠璃釉の蘭鉢が並ぶ中に家宣が柿右衛門窯に注文した位の大きな石台が描かれている。 家宣注文から約百年後の浮世絵であるが、大きなタタラ作りの石台が実際作られていたことがわかる。
庭を持たない庶民も小さな鉢で草花を栽培し手元において楽しんだ。
喜多川歌麿1753-1806)描く「娘日時計 辰ノ刻」は夏の朝、小さい白磁に植えられた朝顔の花を鑑賞する若い娘の姿を描く。
鈴木春信(17251770)の「夏姿 母と子」の背景には鉄絵の大きな鉢に植わった鶏頭が描かれている。
歌麿の「錦織歌麿形新模様 浴衣」、豊国の「十二月ノ内 水無月土用干」には、浴衣姿で涼む女性の後ろにそれぞれ石鉢、山水文の染付蘭鉢が描かれている。
江戸後期の名優、三代尾上菊五郎17841849)は園芸好きで知られる。俳人でもあり俳名を梅幸から梅寿に改名した時の『梅幸改名披露発句集 梅寿』に歌川国芳の描いた秘蔵の蘭珍種を植えた鉢の図が残る。風蘭、万年青、松葉蘭などの珍種五種を植えた、色絵の長方鉢、染付、青磁の正法鉢、鉄絵や瑠璃釉の蘭鉢が描かれている。
 
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『盆栽の誕生』 依田徹(大修館書店 2014
『将軍と鍋島・柿右衛門 大橋康二(雄山閣 2007
『明治有田 超絶の美』 監修鈴田由紀夫(世界文化社 2014
「江戸の園芸熱 浮世絵に見る庶民の草花愛」展図録たばこと塩の博物館 2019
「花開く江戸の園芸」(開館20周年記念特別展)図録(江戸東京博物館 
2013) 
『江戸の技と匠―独自の文化を支えた職人と科学者たち―双葉社スーパームック歴史ビジュアルシリーズ(東京 双葉社 2012) 
「皇室伝統春飾りの準備が大詰め」日テレNEWS24
 
 

初代柿右衛門の伝記物語

 日本で初めて赤絵磁器の焼成に成功した初代酒井田柿右衛門(改名前:喜三右衛門)(1596-1666)の物語は、歌舞伎や国語の教科書で取り上げられて以来、多くの児童書や漫画の伝記物語シリーズ、又単行本として登場してきた。 榎本虎彦作 世話物狂言名工柿右衛門」が、十一代片岡仁左衛門の名演で大正元年1912)初演以来繰り返し上演され、大正11年(1922)から終戦まで小学五年生が、友納友次郎著の「陶工柿右衛門(尋常小学国語読本巻十、後の初等科国語六巻では「柿の色」と改題)を学んだ。 失敗を繰り返しても諦めず、苦労の末「夕日に照らされ輝く柿の実の色」を焼物に再現した発明家の成功物語は多くの子供達の心に残り、世代を超え広く語られ、自身の目標達成に向かう人生訓としたことが随筆などに書かれた。


国語教育学者で文部省嘱託として多くの教科書教材を著した友納はその後、少年文庫読本物語シリーズ全三十巻の第二巻に「陶工柿右衛門」(1925)を著した。 教材を書くに当たっての調査で得た西松浦郡郡長樫田三郎の『陶工柿右衛門』などの資料、陶芸家板谷波山(1872-1963)の助言、歴史的背景を加えた約90ページの読物となった。
戦後出版された偉人物語文庫シリーズ中山光義の『日本陶業の父 陶工柿右衛門』は柿右衛門の忍耐と努力とともに、商人や中国、朝鮮の陶工との交流、ヨーロッパでの受容も詳しく綴る。 その後出版された多くの伝記はこの二冊に依拠するものが多い。 鵜飼まもるの漫画『陶工柿右衛門』も含め、三作は代表的な作品と云えるのではないか。
柿右衛門伝は定番として出版されていたが、2000年以降は非常に少くなる。


2010年の朝日新聞教育面の記事「伝記 変わる顔ぶれ」は半世紀前の 1970年代末に出たシリーズと2000年以降のシリーズではラインアップが変わってきていると指摘する。「今の社会につながりが深い業績を挙げた人物」が加わった。2017年の産経新聞くらし面でも子供向けの偉人伝に取り上げられる人物の様変わりを指摘し、歴史を変えるような発明、発見をしたり、人類のために尽くした偉人とともに、経営者、時代の先端を生きた女性,今を生きるヒーロー、ヒロインなどが登場しているという。
アップル社の共同設立者スチーブ・ジョブスの伝記は一般向け、児童向け、漫画ともに出され、本田宗一郎手塚治虫イチロ―、マザー・テレサ、オードリー・ヘプバーン、ネルソン・マンデラ等が全集、シリーズに登場してきた。
伝記物の人気は依然衰えず、講談社KADOKAWA小学館学習研究社ポプラ社集英社偕成社金の星社などの出版社により、児童、一般向け、漫画も含め絶え間なく出版されている。
 
2000年以降出版の柿右衛門伝の内容に変化がみられ、柿右衛門様式の美、赤絵に続く濁手素地の完成、国際性、技術と伝統の継承が語られるようになる。
世界の偉人約60人を紹介している絵本『心すくすくはじめての伝記』には,「色あざやかなお皿をつくった 酒井田柿右衛門」が所収され、長年の努力の末の赤絵焼の成功と共に、日本オリジナルの美の創造、国内外の窯業発展への貢献、ヨーロッパでの受容と多大な影響に焦点を当てる。同じポプラ社『心を育てる偉人のお話』の「柿の実の色のおさら 酒井田柿右衛門」も日本人の美意識、鉱物の化学が創りだす艶やかな厚みを持つ、紙に画く絵では表現できない、赤絵の表現に言及する。


日本の美術工芸の名匠20人の伝記集,江埼俊平、志茂田誠諦日本名匠列伝』の酒井田柿右衛門 陶工『柿の色』伝説の名匠」は赤絵の創出、その成功に不可欠の日、明、朝鮮の商人や陶工との交流、濁手素地に調和する余白を生かした絵画的な文様の柿右衛門様式の美、ヨーロッパに輸出され、窯業の発展に寄与したことなど取り上げ著わす。赤絵の技術を伝えたとされる周辰官を清から明への政権交代時の混乱を避けて逃れてきた貿易商とし、景徳鎮の生産補填の為の有田焼量産の必要性からの分業制の導入に影響を与えたなどの視点からの時代背景、五代の弟渋右衛門の貢献も含め六代までの柿右衛門窯の盛衰も記す。


初代柿右衛門は偉大な陶工であった。初代が創意工夫した作陶技術に、中興の祖ともいうべき渋右衛門[五代の弟で六代の後見人]が新風を吹き込み、さらに柿右衛門窯や有田皿山の無名の陶工たちがその流れを絶やさぬように力をあわせてきたことが、柿右衛門の名を支えてきたといえよう。 


『世界が称賛!すごい日本人』は古代から現代まで世界から称賛された50人の日本人を紹介する。柿右衛門の項は、日本の美意識を体現した柿右衛門様式の磁器が輸出され、ヨーロッパでそのコピーが製作された国際性と経済性に焦点をあてる。柿右衛門様式の磁器の製作は166年頃始まり、輸出され、ドイツのマイセンが1725年色絵付けに成功しコピーを製作するようになり、以来フランスのシャンティイ、イギリスのチェルシー窯などでもコピーを製作し、現在まで続いている。 「美しい日本の磁器――。そのイメージを定着させた 酒井田柿右衛門の功績は、あまりにも大きいのである」と結ぶ。 この本では葛飾北斎ジャポニスムを巻き起こした「元祖クール・ジャパン」としている。 柿右衛門は十七世紀の「クール・ジャパン」と言える。

10分で読める 夢と感動を生んだ人の伝記』のコラム「この人も知っておきたい!」に十四代柿右衛門が登場し、昔からの製造法や技を大切にすることの重要性を語る。


伝承されたぎじゅつの上に、今の人に受けいれられる作品を作っていくことが伝統だと思います。


工学者で『失敗学のすすめ』の著者畑中洋太郎は『技術の街道をゆく』第4章「ミクロの世界をのぞきに行く」有田焼磁器の製法自体は400年、本質的に変わっていないことに興味を示す。技術屋は技術は新しく進歩すべきものと信じているが、十四代柿右衛門は「自分達はただ美しいものを作ることが第一で、技術はそのためにある」、「自分が美しいと思うものが作れるうちは変えない」という姿勢で技術と向き合っていると云う。畑中は、「美しいものを作る」という言葉の裏側には、「変わらないために変える」という柔軟な考え方が隠されていると云う。


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「陶工柿右衛門友納友次郎 (『少年文庫読本物語(2)僧禅海 陶工柿右衛門 岩松助左衛門』  子供の日本社 1925国会図書館デジタルコレクション)
『日本陶業の父 陶工柿右衛門偉人物語文庫シリーズ 中山光義偕成社 1952国立国会図書館デジタルコレクション)
『陶工柿右衛門伝記漫画文庫13 鵜飼まもる(東京漫画出版社 1954国会図書館デジタルコレクション)
名工柿右衛門物語:日本演劇鑑賞』少年読物文庫 榎本虎彦原作・河竹登志夫編著(同和春秋社1955国立国会図書館デジタルコレクション)
酒井田柿右衛門加藤秀俊 (歴史伝記シリーズ『人物日本の歴史17(近世の芸道)』 小学館 1975
『心すくすくはじめての伝記』西本鶏介編著ポプラ社 2012
『心を育てる偉人のお話』西本鶏介編著 (ポプラ社 2006
酒井田柿右衛門 陶工柿の色伝説の名匠」江埼俊平 志茂田誠諦(学研M文庫日本名匠列伝』 学習研究社 2001)江崎俊平著現代教養文庫同名書 (社会思想社 1970)に加筆したもの。
「この人も知っておきたい!」(『10分で読める 夢と感動を生んだ人の伝記』塩谷京子監修 学研教育出版 2015
酒井田柿右衛門「日本再発見」倶楽部(知的生き方文庫『世界が称賛!すごい日本人』三笠書房 2016
「ミクロの世界をのぞきに行く」畑村洋太郎岩波新書1702『技術の街道をゆく岩波書店 2018 


初代酒井田柿右衛門伝記所収全集リスト
「陶工柿右衛門満岡忠成 (『伝記』(29 伝記学会 1935国会図書館デジタルコレクション
「陶工柿右衛門越智弾政(『日本詩壇』95)(90)日本詩壇発行所   1941国会図書館デジタルコレクション
「赤絵の奇跡 (陶工 酒井田柿右衛門)」大山創造 (『名工物語』 東京国民工業学院 1943国会図書館デジタルコレクション
「陶工柿右衛門伊東芳崖(『東西百傑伝第1巻』池田書店 1950国会図書館デジタルコレクション)『世界偉人伝』(池田書店 1952)は改訂版
「消えかかるカマの火 有田焼の名工柿右衛門諸星竜 (『五分間伝記:東西七十五人の逸話』生活社 1955国会図書館デジタルコレクション話道研究家、講談師諸星が1952から4年間、文化放送朝日放送「逸話の和泉」で演じた200人を超える自作の伝記より選択)
「10 陶工の代表柿右衛門宇原靖雄(『日本の美術家保育者の小学生全集:58 保育社 1955国会図書館デジタルコレクション)
柿右衛門(陶器)外国の人々を驚かした陶工」大平陽介(『少年少女日本名人物語』東光出版社 1957国会図書館デジタルコレクション)
酒井田柿右衛門肥前名工(『学習伝記全集 下巻』小野信二編 実業之日本社 1961国会図書館デジタルコレクション)
『夕日にかがやくかきの色―赤絵のやきつけに苦心した柿右衛門(『知恵とくふうの物語 3』武部本一郎 実業之日本社 1962国会図書館デジタルコレクション
「赤絵やき 名工柿右衛門の話」(『日本の名高い話』久保喬等編 金の星社  1963国会図書館デジタルコレクション)
「苦心、又苦心のすえに―あのかきの実の色だ!(『ほんとうにあった世界の美しい話』(五)日本編 上笙一郎 講談社 1963国会図書館デジタルコレクション)
「すばらしい赤絵の陶器 新しい焼法を生み出した陶工柿右衛門」作・唐沢道隆、絵・佐多芳郎(『世界100人の物語全集 私はこんな人になりたい(10)芸術に生きぬく物語』 日本子どもを守る会編 集英社 1964国会図書館デジタルコレクショ
「陶工柿右衛門(偉人伝記シリーズ5 初版:『この人に学ぼう』国文社 1967)対象:児童
「陶工柿右衛門(偉人伝記シリーズ5『この人に学ぼう』国文社 1971)対象:一般
「11 柿の実と赤絵(柿右衛門)」(子どものための文化財ものがたり9『仁王様と絵ふで』加藤輝男 千代田書房 1972)
 


 


広島の皿山

 太平洋戦争終結から73年目の今年、8月のはじめNHK ETV特集 シリーズ アメリカと被爆者 第1回 「シュモーさんを探して」とラジオ第二の宗教の時間「平和の家を作る」でアメリカ人森林学者で平和活動家フロイド・シュモー(Floyd Wilfred Schmoe 1895-2001)の戦後広島での活動を特集した。シュモーは1949年8月から5年間、原爆で家を失った人々の為に寄付を集め、アメリカから資材や道具、食糧を持ち込み、アメリカ人の仲間と日本のボランティアで21戸の住宅を建設し、「平和の家」と命名し市に寄贈した
シュモーは多様な人々の交流が期待できるとして、「是非、江波の地に家を建てたい」と云い、1950年から52年にかけて中区江波二本松に10戸の住居と1戸の集会所を建て、ここを“ Eba Ⅴillage”又は“Sarayama Ⅴillage” と呼んだ。
この地は江戸時代末期から明治の初めまで、磁器を製造していた皿山の跡地だ。
現在江波皿山公園になっている上山と呼ばれていた標高約50メートルの山の南東の麓で、有田焼風(伊万里焼風)の江波焼と呼ばれる染付磁器が焼造されていたことを知った。
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イメージ 1江波焼は広島浅野藩が、文政11年(1828 )に殖産興業政策の一環として製陶場を開き、有田から土を仕入れ、有田の陶工の技術を導入して生産を始めた。天保年間(1830-1844)を最盛期に約50年間、皿を中心に日用食器を生産した。明治になり藩の後ろ盾を失うと、遠方からの陶土の調達は難しくなり閉窯した。 江波焼の代表的な文様は広島湾の似島安芸の小富士と二本の松、帆掛け船を描いた山水図だ。湾の島影、網干のある漁村などの海浜風景、鶴亀、鷺、うさぎ等の動物文もある。
余白をとり模様化されていない染付絵図が素朴なタッチで描かれている。周縁は15個前後の波状になっている輪花、又は染付で波状が縁に沿って描かれている。口縁に縁銹をもつものもある。 裏には唐草などの模様のない白地のままの裏白が多く、通常銘はない。普段使いの10枚揃、20枚揃の小皿、中皿、小鉢や、径30センチ前後の大皿が残る。
素地は純白ではなくやや黒味があり、焼成で染付の色が安定しない物もあり、底に歪みが出たりしていて、有田焼と比べると、技術的完成度は低い。
伝世品は多く、素朴な山水は古陶磁愛好家に人気がある。
 しかし埋め立てや戦後の復興、急速な市街化で窯跡や物原が失われ、破片の発掘や明らかに江波窯製品と判断できる伝世品は非常に少なく江波焼は‶幻の焼物といわれている。
素朴な海浜画の江波皿の人気とともに、日用雑器の小皿や小鉢、絵替わりの大皿、中皿等多様な伝世品が出回り、江波焼研究者もそれらすべてが江波の製品と言い切れない状況だ。
もとは広島湾に浮かぶ江波島が、土砂の堆積や干拓が進み海岸線は南下し、17世紀末には陸続きになる。上山と下山(現・皿山と江波山)の間は養魚場となり、上山の南東の麓に窯が開かれた。しかし閉窯後、江波南側の埋め立てや開発が進み、昭和初期まであったといわれる窯跡、物原があったと伝えられる養魚場は埋められた。
窯場の上に建つシュモーの住宅も1970年代、老朽化が進み取り壊され、集会所として建てられた一軒が2007年からの広島高速三号線(南道路)建設に際し北西に40メートル曳家され、広島平和記念資料館の付属展示施設シュモーハウスとして残るのみで、十分発掘調査がなされる前に遺跡は閉じ込められた。
藤葉平造は、江波焼は「窯跡は勿論物原や、破片もなく陶工も知れず、数行の記録と人々のうわさに聞くだけの幻の窯となっている」と述べ、「新芸州 江波皿考」で存在を明らかにする根拠となる史料や製品、証言の調査を以下の様に記している。
江波の古老達の記憶によると巾二間、長さ十三、四間(3.6 m x 24m)のなだらかな傾斜の窯跡があり、最上部には煙突のようなものがあった。
1974年、使用者の名前と思える「皿山細工人 吉蔵」、「天保五年七月五日 又市細工」と刻まれている湿台がみつかり、江波南にある海宝寺の過去帳で名前は確認された。
藩による開窯の経緯や事業の記録が古文献に残る。
「今中大学日記」には、文政十二年(1829)四月藩の執政今中大学等が真菰にある藩の別荘に「江波皿山窯元油屋忠右ヱ門と職人5人を召し製陶術を実見せし」とあり、五月には江波皿山に行き「製陶の実況を視察し」、六月には皿山掛りを任命し、「十月四日には藩主もその業務を観覧せられしことあります」との記述がある。
浅野十一代藩主の「温徳公斎美録」には九代藩主斎粛が天保六年(1835)、陶業を視察と記されている。
明治、大正時代の独文学者三浦白水(吉兵衛)の『蒔絵苦心談』(「尚古」第二年 第五号 明治40)には「その染付(皿に紺色の染料で絵付けしたもの)の絵柄は江波から厳島を望んだ風景が多く、京都から招いた瀬平という人のによった」と記述がある。
「新修広島市史」には古陶磁研究家高木正実の談話として、漆芸の一国斎塗の池田(木下)兼太郎(三代金城一国斎 1829-1915)も絵師であったと記される。三代一国斎は江波の陶工池田金五郎の長男で、一国斎高盛絵の秘法を受け継ぎ、江波村で業を営んだ。
確定的な伝世品がなく、窯跡は失われ出土品などの科学的な調査が難しい現状であるが、藤葉は江波焼を裏付ける参考品をあげる。
・高木正実採取の素焼破片は蛇の目高台の向付け、径13センチで素焼両面に染付と思われる黒い粗雑な唐草模様が残る。窯跡から出土の素焼は、重要な資料だ。高木はその他、32点の江波焼の特徴を持つ茶碗、深鉢、向付け、小皿、大皿等の破片を発掘した。
・「江波焼手塩皿」、「文久2年」(1862)と書かれている時代箱に収まる江波の旧家尼子家所蔵の手塩皿32枚は、径9センチの丸皿で宮島、又は安芸の小富士を眺望した山水画が描かれ、裏は無地。焼成むらで黒みがかったものも混ざる。尼子家は江戸初期より醤油業を営む旧家で茶屋も経営していた。
・窯跡近くの伊予家に残る伊万里風の白い破片は、裏にシンプルな竜の絵の染付のある磁器茶碗のもので先祖の作品として保存していた。見込みにウニか、栗のようなものが描かれている。先祖は旭屋(嘉八)の屋号を持つ窯元で、1969年頃の建築工事の時一緒に多くの道具や磁器破片が発見されたがほとんどを遺棄したり、庭に埋めたという。
・「天保三壬辰歳、大皿弐拾人前入り、井原小一右衛門」と書かれた時代箱入りの江波の典型的な海浜風景の描かれた中皿20枚は広島テレビの延岡慶啓氏が発見した。
・寛政時代から続く江波の白魚料理の料亭山文が先祖から伝承している輪花山水図の中皿十枚セットは周縁を装飾模様が囲む、時代のやや下ったものと推定される。
・旭屋の屋号を持つ浅尾家の子孫の香口家所蔵の達筆な“旭”の字が書かれた徳利は伊万里風で胎土はやや黒みがかっている。
藤葉は、これらの参考品の信憑性は高いが、伝世品に多い径30センチ前後の大皿やその出土破片で江波焼と特定できるものが無い為、すべてを江波焼と断定するのは不可能に近いという。

鍋島藩のきびしい統制下、胎土を取り寄せたり、技術の移入や陶工の招へいは難しいはずだが、1828年の文政の大火は有田内山を焦土と化し、多くの陶工が職場を失い、出稼ぎに出たと伝わる。江波で製作又は指導をした可能性も考えられる。    
浅野家六代藩主宗恒の次男忠鼎が初代唐津藩主水野忠任の養子となり二代藩主になり、浅野家は肥前に強いつながりを得ている。
熊野町の光教坊の立派な鬼瓦に「天保三壬辰年五月調之」、「沼田郡江波村」と三人の職人の名前が刻まれているのが発見された。高さ2.55メートル、幅3.2メートルの大作の江波瓦の発見で、江波焼を始める時点で、高度な窯業が存在していたことが分る。
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1989年からの有田の大外山、嬉野市塩田町の志田焼の窯跡の発掘調査で、従来江波焼といわれてきた皿類の染付絵柄と類似の絵柄のある破片が出土したことから、江波焼は塩田で焼かれた志田焼だったとの説が出された。
江波焼の典型的な文様とされていた水辺の鷺、氷裂地に竹と雀のいる丸窓、雲竜等と一致する。江波皿に多い輪花の縁を持つものも多かった。
古陶磁研究家小木一良は江波焼と云われている伝世品数は膨大で、江波の古老の記憶に残る小規模な窯からはこれ程の量は作れないとし、これらは規模の大きい志田窯の作品と特定して間違いないことと思われると論じる。

 『江波焼』(上写真:掲載の江波焼大皿)の著者で陶磁器コレクター浦上恒右衛門は「江波焼の諸種の疑問に対する解明は、今後にまつものが多いが、物原と思われる昔の養魚場附近が、市街地と化している今日では非常に困難である。今後、高層建築でも計画され、地下の掘起こし作業に伴い、民家の底に眠る破片が発見され、伝世品と対比検討されて解明の糸口となることを祈る次第である」と記す。
広島市文化財団の「ひろしまWeb博物館」の記事に広島城跡で発掘された広東碗の破片の目跡等に、江波焼の窯跡と推定される場所の近くで見つかった広東碗(伊予家所蔵)と共通の特徴を確認したとある。又、江波焼とされている資料は科学分析で、イットリウムを含む割合いが、伊万里、瀬戸、砥部等と比べ2~3倍高いことが判明したと報告がある。
65回日本伝統工芸展で切金螺鈿箱「青麦」で2018年朝日新聞社賞を受賞した江波東に工房を持つ漆芸家七代金城一国斎(1965生れ)は、2018年5月14日付朝日新聞広島版の「ひとin広島」で、祖先が江波焼を手掛けた縁もあり、異分野だが江田島の土で江波焼の復活、再興という新たな挑戦を始めたと語っている。
2015年千葉県横芝光町の町民ギャラリーで開催された横芝光町在住の斉藤純一氏のコレクション展、「幻の青い皿 江戸後期志田窯の染付皿」の図録の編集後記で横芝光町の社会文化課学芸員道澤明は「ここに紹介した志田焼は、まだ産地が解明されてわずかしか経っていない。まだ、不明な部分が多々ある。これに出展器の解説をしたが、おそらく錯誤しているものもあると思う。この紹介によって、志田焼がより解明されることをのぞむ」と記す。出展品の多くは江波焼と伝承されていた。
幻の焼物を解明する努力は今も続く。さらなる研究の成果で、江波焼の真実が明かされることを期待する。
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 江波は爆心地より3キロから4キロ圏にあり、被爆による死傷者は出て、建物の一部損壊があったが焼失からは免れた。爆心地近くで被爆し、家は全壊焼失した多くの人達が江波に避難した。
中沢啓治の自伝的漫画「はだしのゲン」の主人公ゲンが江波の北、舟入本町で父、姉、弟を失い、家を焼かれ、身重の母と逃れてきてしばらく暮らした地である。
「この世界の片隅で」のすずの生まれ故郷でもある。
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『江波焼』浦上恒右衛門 (浦上恒右衛門 1979
「新芸州 江波皿考」藤葉平造(『ふるさとひろしまひろしま郷土史研究会 1981
「陶片は知っている」十五、志田西山六号窯作品ーそれは江波焼と云われてきた器物だった!ー」小木一良(「小さな蕾」280 創樹社美術出版 1991 11月号)
「埋もれた文化 江波焼」(広島市立江波小学校創立百周年記念誌』 2000)
「幻の青い皿 江戸後期志田窯染付皿展」図録横芝光町教育委員会 2015
「シュモーさんを探して」<www.dailymotion.com/video/x6rft53

 

皿屋敷

イメージ 1 夏の風物詩といえば、怪談。日本三大怪談に数えられる「皿屋敷」は、主家の家宝の十枚揃の皿の一枚を破損、又は紛失したことを咎められ、殺されて井戸に投げ込まれた奉公人お菊が、幽霊となって夜な夜な悲しげに皿の枚数を数え、一枚足りないと恨むという各地の伝承に基づく幽霊話。お菊井戸と言われる古井戸が姫路城内に、又お菊の皿と言い伝えられる皿は国内数カ所に残る。
皿屋敷」話は人形浄瑠璃、歌舞伎、講談、落語、映画や小説等の題材となった。十八世紀には人形浄瑠璃播州皿屋敷」、講談「皿屋敷弁疑録」、歌舞伎「播州錦皿九枚館」、明治になって河竹黙阿弥作「新皿屋敷月雨暈」、大正に岡本綺堂の新歌舞伎「番町皿屋敷」が書かれ、この季節上演さる機会も多い。 
作品により、皿は色鍋島、唐絵の皿、絵高麗であったり、青絵、葵の皿、献上品、たいそうな皿等とあり、高級焼物は当時、十枚揃の皿一枚の破損や紛失で人一人の命まで奪う理由となりうる宝であった。 
 
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火野葦平の河童を主人公にした短編作品「皿」は「皿屋敷」伝説の後日談で、河童は怨霊となり井戸に住みついて皿の枚数を数え続けているお菊に出会う。蛙を追い井戸に飛び込んだ河童はうら若い娘の行動を不審に思い、歴史を調べ事情を知る。腰元お菊は音川家の悪執権浅山鉄山の御家横領の企みを知ってしまった為、家宝の十枚揃の色鍋島の皿の一枚を隠され、紛失したと濡れ衣を着せられて、口封じのため殺され井戸に投げ捨てられた。以来お菊の幽霊は、江戸、明治、大正、昭和と何百年も皿を数え続けている。
お菊の美しさに魅了され、恋に落ちた河童は、助けたい一心で失われた皿を探し始めた。しかし皿はなかなか見つからず、仲間に応援を頼むことにしその皿のスケッチを見せる。
九州出身で、焼物に造詣のある火野は色鍋島の五寸皿(直径約15センチ)を細かく描写する。
 
 その模様は九枚とも同じである。紅葉の林を数匹の鹿がさまよい、清流にかけられた土橋のうえで、神仙のような老人が二人ならんで釣りをしている絵がかいてある。空に紫雲がたなびいている。色どりはあざやかで、陶器の肌はつややかだ。
 
釣りをする老人は描かれていないが、鹿紅葉は江戸時代からの古典文様で、紅葉の葉が散る中を鹿が軽やかに走る色絵の初期柿右衛門と推定される「彩絵鹿紅葉図香炉」、二匹の鹿が戯れる巧みに構図を採る皿「彩絵鹿紅葉ちらし文角鉢」、「染付の山水鹿紅葉文皿」、「染付縁錆び紅葉鹿図皿」等、延宝様式の作品が伝わる。十三代柿右衛門作、あるは十三代時代の柿右衛門窯に紅葉の間を数匹の鹿がさまよう錦鹿紅葉文の皿や花瓶、香炉がある。
 
河童の数百匹の仲間は失われた一枚の皿を求め全国を探し回り遂に見つけ出す。古井戸で見た皿と寸分違わぬ物だ。河童は喜び、お菊にこの皿を届ける。井戸の中は二人の明るい笑い声が響き渡る。しかしそれまでの静かで自然な美しさは失われ、神聖な雰囲気は消える。
笑い転げていた河童は我に返り、犠牲の美しさは無償の行為と信じている自分が, お菊の喜ぶ姿に何かの代償を求めていることに気付き、恥じ入る。真摯な河童は堕落してはならぬと、お菊の呼び止める声をふり切り井戸から逃げ出す。
しかし心は揺らぎ、会いたい気持を押さえきれず再び井戸に戻った河童は、目は憎悪に満ち、骸骨の様に変わり果てたお菊を見る。お菊は河童を見ると、悪魔と罵り、「この皿を持ってとっとと帰りやがれ」という。
皿が見つかる前は青ざめてはいたが、皿はいつかは見つかるという希望で生き生きとさえ見えたお菊だったが、十枚目が見つかるとすることがなくなり見る見る衰え、美しい九枚の皿を叩き割りその破片の中で命を絶える。
 
悲しいとはいへ次に望みを托し得る生活の持続感とは、お菊にとっては魂の火花であった。
 
河童は人間に化け、お菊から突き返された皿を骨董商に持ち込み高額で売る。河童は店を出た時,裏口から出てきた怪しい男達に襲われ金を奪われる。店では骨董商が粉々に砕けてしまった皿を前に茫然としている。
 
河伯洞と自宅を名付けた火野葦平は河童の世界を描いた。四十三の短編を集めた豪華版の作品集『河童曼陀羅』(写真:右上)がある。火野は「河童作品は自分のライフワークの一つだといえるかもしれない」と記している。 弟政雄氏によると兄弟は沖仲仕の父から寝床でタヌキやモモンガ、河童等妖怪の荒唐無稽の話を聞かされ、そのことで火野が河童好きになったといえるとふり返る。火野の出身地若松市(現:北九州市若松区)は河童伝説が多く残り、河童の祟りを封じたくぎ地蔵が祀られ、毎年七月に河童祭りが催される。隣県佐賀には『河童伝説発祥の地」を謳う武雄市潮見神社や河童のミイラを保管する伊万里市の酒蔵などがある。
火野(1907-1960)は、北九州若松生まれ。1938年(昭和13年)『糞尿譚』で芥川賞受賞。太平洋戦争に従軍した火野は『麦と兵隊』等戦記物、若松で炭荷役請負玉井組を設立した父と母の伝記的小説『花と龍』等著した人気作家である。
 
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 「皿屋敷」怪談は誘いを断わられた主人の腹いせ、奥方の妬み、陰謀を知られ口封じのため等バリエーションがあるが、主家の家宝の皿の紛失という濡れ衣を着せられ手討ちにされた女中のお菊が幽霊になり恨みを込め皿を数える復讐劇。
 火野葦平の「皿」では皿が見つかり復讐は完結させる。
 大正時代(1916)に書かれた岡本綺堂の新歌舞伎「番町皿屋敷」は、旗本青山播磨と腰元お菊の悲恋物語といえる。愛を誓う仲だが、お菊は身分の違いや播磨の縁談話も聞こえて来て不安になり、青山家の家宝の十枚揃の高麗焼の皿を一枚割って播磨の愛を確かめようとする。血気盛んで潔癖な二十五歳の播磨は、家宝の皿の過失の破損は全く問題にしないが、お菊に彼女への愛を試されたと知り、怒りが収まらず残りの皿を全部割り、お菊を斬刹し井戸に投げ込む。お菊の命は皿ではなく、深い愛が疑われたことの怒りと失望で奪われる。
古典落語の演目「皿屋敷」、「お菊の皿」は、葵の皿を紛失し殺されたお菊乃幽霊が毎晩井戸を出て皿を数え続けている。美しいお菊の噂を聞いた町内の若者衆が見物に押し寄せる。九枚と数える声を聞くと祟りで死ぬと伝えられているので六枚で逃げるよう言われていた見物人だが、美しいお菊に見とれ八枚で逃げ出したがお菊の計算は終わらず十八枚まで数える。一日に二日分数え、翌日は休日を採るという現代風の話に代わっている。
 
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火野の「皿」を原作とした水木しげるの漫画がある。 『河童の三平』等河童や妖怪の世界を多く描いた水木は火野の河童作品十四編を原作とする十一編の漫画を描いた。「皿」のように原作をなぞり、水木流の脚色をしたり、独自のオチで絞めたりしたもの、火野の作品二編を一編にまとめたもの等がある。
水木の「皿」の結末は河童の惨殺はなく、「なるほど 人間には いや生物には 満ちたりない 不足感が常に 必要なんだなあ」、と感慨にひたる河童の姿で終わる。
焼き物好きの火野が鍋島の皿の文様を詳しく描写しているのとは異なり、水木は 「天下の名器色鍋島」とし、皿の文様は走り書きでモチーフは判明しないが、余白をたっぷりとった絵文様の皿になっている。
 
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「皿」火野葦平 (『河童曼陀羅火野葦平 四季社 1956)(初出:「中央公論文芸特集」1952
「皿」火野葦平(『日本の文学51 尾崎士郎火野葦平中央公論社 1973
「皿」水木しげる・原作 火野葦平(『水木しげる漫画大全集』河童シリーズ全073 水木しげる火野葦平 講談社 2016
「皿」水木しげる・原作 火野葦平(『河童千一夜』水木しげる 筑摩書房 1993
「番町皿屋敷岡本綺堂 (『現代日本文学全集6筑摩書房 1975
皿屋敷(『円生全集』別巻中 三遊亭円生 東京青蛙房 1981
皿屋敷(『古典落語大系』第8巻 江口滋他編 三一書房 1979
 
 

地図皿 若き陶工の異国への想い

 
 1616年に朝鮮陶工李参平が肥前有田(佐賀県)の泉山で良質の磁石鉱を発見して以来、有田、秘境大川内山に藩窯が置かれた伊万里は窯業の中心地となり、色絵磁器の優品を作ってきた。伊万里の港から積み出されたことから、この地方で作られた焼物全般は伊万里焼きと呼ばれた。海外文化にも影響を及ぼした伊万里焼、豊かな歴史を持つ有田、伊万里の窯業、そこに働く陶工の人生は多様なテーマで文学に描かれる
イメージ 2  日本地図、世界地図を描いた染付大皿は江戸後期に数多く製作され、伝世品も多い。 武家や豊かになった庶民の間で、テーブルを囲んで大皿に盛られた料理を小皿にとりわけ楽しむ卓袱料理の祝宴が流行し、伊万里焼日本図皿(写真右:神戸市立博物館所蔵、『図説 日本古地図コレクション』より)の需要が大きく伸びた。 地図文は異国を意識するようになった人々の好奇心を刺激する人気の意匠になった。主に天保年間(1830-1844)有田で焼かれ、外山の窯跡から陶片が出土している。


 有田陶磁美術館開館七周年を記念して、1961年に出版された永竹威氏の『肥前やきもの読本』の第三章 「史話 肥前陶工抄」に地図文大皿を作った下南川原の若い陶工峯吉が登場する。
 峯吉は下南川原の窯焼き兵太夫の息子だ。 兵太夫は大物手洗鉢を宗廟八幡宮や勧請寺に寄進した程の轆轤の名人だが、不窯が続き窮地に陥り、窯焼きの名代札を返納して農家になる。 しかし慣れない農作業で収穫もままならず、窯焼きとして再出発を期し名代札の再交付を願うが叶わず、借金を負い、不遇のうち病に倒れ生涯を終えた。
 文政十二年(1829)の春、九代柿右衛門は大坂の蔵屋敷詰めの藩吏より、「余りにも不出来なので、用立て出来ず。 気の毒だが返品をする」との書状を受け取った。 大阪に送った赤絵小皿百十九個の内七七個が返品となったのだ。
 柿右衛門は翌日祖先の墓を訪ね無力を詫び、ここ数年、南川原一帯の窯の出来が悪くなったことを不安に思った。 亡き友人、同職の兵太夫の窯場が傾きかけていることを思い冥福を祈った。
 内山の大火の翌年である。
 その夜嵐の中、十五歳になった峯吉が柿右衛門を訪ね、父の念願であった窯の再興の助力を頼んだ。柿右衛門は借金返済を同職皆で行い、名代札の再交付を取る約束をする。
 復活した峯吉は、長崎に出稼ぎに行った仲間から、土産にもらった異人絵図や日本諸国絵図を見入り、時代の変化を感じ、そこに描かれる異国に憧れる。


、、、長崎の番所をとおり過ぎる異国船上で異人達が遠目鏡を見て両手をあげている絵図をみた峯吉は、皿山を出て海の彼方の南ばん国に出稼ぎにゆきたいと、いった夢を描いたものである。黒船の両側に車のついた版画や、日本の絵図の中に見出される九州の島々の形や、横広い版画に世界諸国の地図を描いてあるのをみると小躍りして喜ぶ峯吉である。


 若い窯焼き峯吉の、遥かなる異国へのあこがれや、異国絵図に見入る喜びは、若い陶工のひとりひとりに相通っていった。峯吉は親ゆずりの器用さで尺八寸の大皿を、自由にこしらえてはこの皿に日本の地図を描いた。


彼の遥かなる願いは、いつのまにか、大皿に世界の地図絵を描く力となったのである。峯吉は染付の地図絵だけでは、物足りなく波文様を土型で浮き彫りにして、皿の天地に二羽の鶴を染付で描き、自ら「地図皿」と銘打っては、安眠をむさぼり、特権に名を借る内山の赤絵屋を驚かしたのである。


峯吉は地図を浮出した大皿に、思うままに日本の島々の形をかき、夢にみた未知の国の天ジュクの国や女人国、エゲレス国などを描いた。大皿の裏には本朝天保年製、肥前国南川原山とかいては、遠い異国への思いを走らせたのである。


 永竹の『肥前やきもの読本』は 肥前窯業の歴史、肥前陶磁の魅力、史話、および詳細な年表からなる(第三章の「史話」は1961年初版にのみ所収。その後の増補版には含まれていない)。 著者は「歳月とともに―後書にかえて」で史話について記す。 


近世時代に生きた、肥前陶工の足跡を、旧記により、伝え話により、私的な解釈で史話としてとりまとめたものである。 、、、お断りしたいことは、ある程度の虚構をまじえた史話として構成したものの、小説といったものではないことである。つぎに文中の陶工名は、筆者が好みのままにとりあげたもので、 、、、かならずしも実在した陶工とは限らないことである。 また現存する陶家に直接、間接に縁故のある陶工名や史実があるが、陶工達の思索のあと、作陶態度などは、往時の陶工の心を心とした私自身の全くの創作であることをご諒承ねがいたいと思う。


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 史話の舞台、江戸時代後期の佐賀藩は飢饉、イメージ 1台風、異国船の出没する長崎沿岸の警護の負担で財政は悪化し、殖産興業による藩政改革に取り組んでいた。 農業の保護、主要産業の育成や交易を進め財政は潤った。ドル箱の陶磁器産業は大量生産を実現し内外に販路を広げたが、量産に走り技術が落ち粗悪品も増えていた。 有田内山の文政の大火(1828)後、職を失い外山や、長崎、他の窯業地へ出稼ぎに出たり、異国の存在に刺激を受けた陶工達の間に封建社会より抜けだそうとする意識も芽生えていた。
 多くの日本図、世界図が出版され、その中心は長崎であった。 江戸時代中期から出版されていた浮世絵師石川流宣の日本図や、十八世紀末に出版された地理学者長久保赤水の経緯線の入ったより正確な日本図、世界図、それらに倣った地図が、寺子屋ができ、大衆文化の生まれた時代に普及、活用されていた。 流宣図は正確さより、大名、名所、宿場の情報が詳しく参詣旅行に活用されベストセラーとなった。 
 長久保赤水の世界地図を簡略化し、まわりに伝説の国女人国、小人国などの人物絵、異国船、方位図、長崎からの海里数表が描かれた「世界万国日本ヨリ海上里数王城人物図」(写真右上:神戸市立博物館所蔵、『図説 世界古地図コレクション』より)などの色刷版画が庶民の間で流行した。
 人文地理学者応地利明は、「絵地図は、それを描いた人々、またその描かれた絵地図を受容した人々の、当時の生活世界や観念世界に関する知覚内容を図の上に表現したものだ」と云う。(『地図絵の世界像』)
 正確な測量を基に制作された伊能忠敬の日本全図も完成し、1821年に幕府に提出されていたが、厳重な管理下に置かれ一般の目には届かなかった。
 当時流布していたのは流宣図、赤水図を倣った地図であったが、皿の意匠となったのは行基図だった。近世各地の土木工事の指導をしたことから奈良時代の僧行基により最古の日本図が制作されたとする。 各国が楕円のような形で描かれ連ねられているもので行基の描いたものは残っていないが、これにならって描かれた同様の図を行基図と呼んでいる。
 皿の意匠が単純な行基図となったのは、正確さより、工芸品のデザインとしての面白さからと思われる。 日本のまわりに朝鮮、その東に小人国(コヒトシマ)、松前蝦夷琉球国、伊豆諸島の南に女護国(あるいはニョコノシマ、女人国)が描かれる。 日本図の中には富士山、琵琶湖が描かれ、伝説の国も含み意匠はパターン化し量産された。
 地図皿は円形、長方形の他、扇面型、水車型など多様で、海の部分は青海波、蛸唐草や網目、松葉文で埋められ、地図の周りに鶴や雲、南蛮船、煙を吐く黒船や方位図が描かれる。
 テーブルを囲む宴席の皿の国名は一方向でなく、周囲から読めるように方向を変えて書かれている。 豊かになった町人の祝宴の皿は尺八寸(径54.54センチ)前後の物も多い。
 江戸中後期の贅沢品をとりしまる幕府が経済統制を逆手に取り、地図皿は藍一色ですっきりした粋な意匠で、小紋等と共有する庶民の美意識を感じさせる。
 日本図の場合、型押しで国を盛り上げ、国境を線で描く。 型造りは有田外山、南川原山の窯で多用された技法といわれる。
 数は少ないが伝世する世界図皿は中央に日本を置き、アジア、ヨーロッパ、南北アメリカ、オーストラリアを配し、日本からの海上里を示す表を付ける。小人国は一万五千里、女人国は一万四千里等とある。


 二つの伝説の国の起源は女人国は羅列国、小人国は雁道、又は韓唐という。女人国は今昔物語に出てくる女ばかりが住み男性が入ると戻らないという国で、此の国の女は実は鬼で男が行くと食われてしまうと伝わる。奘 三蔵法師)の『大唐西域記』など世界の伝説にある雁道は、雁の来る道の果てにある渡り鳥の故郷で、大雁に導かれ行き着つくとそこに住むものは人の様に見えるが実は龍だった。本朝図鑑網目に韓唐:「この国不有人」とある。
 ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』(1735年に完全版刊行)でガリヴァーは、唯一実在の国日本に短期間滞在するが、小人国、大人国、飛び島、馬の国など空想の国を訪ね冒険する。 1609年刊行の中国の『三才図会』、『三才図会』を下敷きに寺島良安編纂、1713年刊行の『和漢三才図会』、日本の「ガリヴアー旅行記」といわれる1774年刊行、谷遊子の『和荘兵衛』には小人国、長人国、不老不死国など伝説上の国が登場する。 海外に目を向け、未知の国を想像し夢を膨らませた時代の共通の世界観の表現だ。

 伝世された地図皿の多くは高台内に「本朝天保年製」の銘を持つが、天保18301844))以前の文政年製(1818-1830)、以後の嘉永年製(1848-
1854)、又一重角福の銘もある。
 有田外山の十八世紀後半から大正時代まで使われたとされる窯黒牟田多々良の元窯跡から地図皿の陶片が出土している。
 陶磁器研究家水町和三郎は『伊万里染付大皿の研究』の染付地図皿の解説に、「地図皿は有田内山或は大外山では製産されないで専ら外山で製産されてゐる。 外山の内でも特に黒牟田、南川原山はその主産地であらう」(ママ)と記す。
 海事史学者で古地図、地図皿のコレクター、南波松太郎は「カタカナで国名が書かれているのは加賀産、加賀国が極端に大きく書かれている」(「地図皿と器物に描かれた地図のいろいろ」『古地図にみる世界と日本:地図は語る―夢とロマン』)と指摘する。 銘は大日本文政年製とあり、変り形の四角が主で、伝統の幾何学模様や二羽のコウモリが羽を広げた図等の華美な枠模様がある。
 伊万里地図皿より半世紀ほど早く、江戸中期の科学者平賀源内が長崎留学で学んだベトナムの焼物の技法を取り入れ、讃岐の志度で作らせた源内焼の地図皿がある。 緑、黄、紫の三彩でより正確な日本図世界図を国名、国境を陽刻で描き、実用というより知識人の観賞用といわれる。
 
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 「兵太夫」、「峯吉」の名は史料に見ることが出来る。

 宮田幸太郎著の『有田皿山の制度と生活』には皿山代官の下南川原庄屋 兵太夫他二名の庄屋と登心遣一名宛て、藩の殖産の方針に従い職務を果たしたことに対し褒美を与えるとの文書が残る。


  文政三年
  鳥目一貫文ずつ
                  下南川原山庄屋    兵太夫
                  広瀬山庄屋      弥平次
                  谷・稗古場登心遣   十兵衛
                  土伐庄屋       武吉


其方共儀、庄屋・登心遣など仰せつけ置かれ候処、かねて心がけ厚く、窯火入れなど度数相増し、或は土伐り出しかた行き届き、旁、心遣行届き、御運上銀(を)御日限通りさきに納めかた相整い、神妙の至りに候。 右の次第御小物成所へ申し達し候処、御ほうびとして左に書載の通り御酒頂戴仰せつけられ候者なり。
 

 中島浩氣の『肥前陶磁史』では 立林兵太夫、峯吉は「南川原の名工達」として取り上げられている。 


    立林兵太夫は下南川原の名陶家であった。そして彼は窯出しする時
   に特殊品だけは直ぐそれを長持の中に匿くして誰にも決して見せ
   なかった変わり者で、それは自分が工夫した意匠を模倣されるの
   を嫌ったのであろう。 
    こうして彼は天保七年(一一九年前、1836)十二月二十六日に
   死去し、 、、、 


    維新前の窯焼で下南川原の立林峰吉(森之助の祖父)が盛んに製造
   したが、彼は天保九年四月六日に死去しており、、、


 「史話」では兵太夫は早世したが、この資料では九代柿右衛門と同じ1836年に六十一才で死去したとある。
 
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肥前やきもの読本』永竹威 (金華堂書店 1961
肥前陶磁史』中島浩氣著、永竹威編 (肥前陶磁史刊行会 1955
『有田皿山の制度と生活』 宮田幸太郎(神近桂二、1975
伊万里染付大皿の研究』水町和三郎(桑名文星堂 1944

『古地図にみる世界と日本:地図は語る―夢とロマン』(神戸市立博物館開館一周年記念特別展図書 1983

『図説 世界古地図コレクション』三好唯義編 (河出書房新社 1999

『図説 日本古地図コレクション』三好唯義、小野田一幸(河出書房新社  2004

『小さな蕾』2000年2月号No.379  (創樹社美術出版 2000

『続 ガリヴァ―旅行記 (飛び島・馬の国)』岩波少年文庫) ジョナサン・スウィフト中野好夫訳(岩波書店 1980