薩摩焼420年のドキュメンタリー全国で上映

 薩摩焼沈壽官窯の歴史をたどり、朝鮮と日本の陶芸文化を考えるドキュメンタリー「ちゃわんやのはなし―四百年の旅人―」が5月18日より、東京のポレポレ東中野で公開され、順次全国で上映される。

 「やきもの戦争」といわれている豊臣秀吉の明征服を狙い朝鮮に侵攻した文禄、慶長の役の際、秀吉の死後の1598年撤退時、主に西日本の大名が多くの朝鮮の陶工を連れ帰った。 当時陶磁はヨーロッパで宝石同様の価値を持っていた為、陶磁産業の発展をねらってのことだった。 連行された朝鮮陶工が西日本各地に窯を開き、陶芸産業が生まれた。その一つが鹿児島県の薩摩焼だ。

 薩摩藩島津義弘が朝鮮陶工約80名を連れ帰り、そのうちの沈氏沈壽官窯の祖当吉を含め40名が串木野に上陸し陶器づくりを始めた。その時点で島津義弘関ケ原の戦い敗戦処理などにおわれ、援助を受けられず大変苦労した。 彼らは日本人とのトラブルもあり、その後故郷の風景に似ている苗代川(現・日置市美山)に移った。 島津藩のサポートを得て、沈氏の窯はこの地で栄え、定着以来420年一子相伝の技術が伝わり現在一五代が窯を継ぐ。

 島津藩は渡来陶工を優遇した。士族とし、国籍、扶持、土地を与え、軍務を免除し、氏を変えず、日本人との結婚を禁止し、母国通りの暮らし、朝鮮文化を維持するよう命じた。  

 福岡上野焼の渡仁窯、萩焼の坂倉新兵衛窯、有田焼の李参平、深海宗伝の窯等、渡来陶工は厚遇されるが差別、苦難もあり、其々の地で花開く。

薩摩焼は連行された朝鮮陶工が一から始め、日本の窯業の影響は少なかった。日本人とは隔離され守られ朝鮮風の焼き物を作った。 

 沈壽官窯十二代は1867年パリ万国博覧会に作品を出展し好評を博した。 十二代は1873年ウイーン万博には「錦手大花に瓶」(180cm)を出展。 SATSUMA はヨーロッパで高く評価される。 藩は工場を運営し、磁器食器を大量に輸出。後に景気が低迷し藩工場は廃窯となったが、十三代壽官が引き継ぎ、薩摩焼の地位を確かなものにした。 

 十四代壽官は日置市美山生まれ。1966年、沈家で初めて故国を訪ねソウル大で講演し、 「あなた方が36年をいうなら、私は370年を言わなければならない」と、日韓併合の36年(1910-1945)を言いすぎることは「すでに後ろ向きである」と諭した。その数か月後 司馬遼太郎との出会いがあり、短編小説「故郷忘じがたく候」(1968、文芸春秋)に十四代及び沈家の葛藤が描かれる。 十四代は日韓橋渡しのため、その後30回訪韓ツアー企画、実行した。1989年、日本人初の大韓民国名誉総領事になった。 

 420年15代、技術を引き継いでいる薩摩焼沈壽官窯。

 117分のドキュメンタリーは十五代沈壽官のインタビューを中心に故国朝鮮への望郷、朝鮮人として自覚、戸籍上また15代続く日本国籍、それ故の葛藤、差別を描くとともに、朝鮮、日本の陶磁文化 、日韓二国の関係、歴史を浮彫にする。

「やきもの戦争」に際し渡来した朝鮮陶工にルーツを持つ萩焼十五代坂倉新兵衛、上野焼十二代渡仁他がそれぞれの窯、アイデンティティ、日韓両国の陶芸文化に関するインタビューで語り、鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸員、深港恭子氏が薩摩焼の解説を担当する。

 監督は 松倉大夏。松倉は「君のことを忘れない~女優渡辺美佐子戦争と平和~」(WOWOW、2013)で、日本民間放送連盟賞優秀賞受賞。 

 プロデューサーは李鳳宇。 李は「パッチギ」、「フラガール」等をプロデュース。 「シュリ」の輸入を手掛け韓流ブームをもたらした。 ボン・ジュノ監督のヒット作「パラサイト 半地下の家族」の舞台化をプロデュース。

「ちゃわんやのはなし―四百年の旅人―」は東京を皮切りに全国で順次上映予定

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東京・ポレポレ東中野 (03-3371-0088) 5/18~

   東京都写真美術館ホール (03-3280-0099) 5/25~6/14 

千葉・キネマ旬報シアター(047-141-7238)6/15~

群馬・前橋シネマハウス (027-212-9127)6/15~

栃木・宇都宮ヒカリ座 (028-633-4445) 6/28~

大阪・第七芸術劇場 (06-6302-2073) 6/15~

京都・アップリンク京都 (075-600-7890) 6/21

横浜シネマリン (045-341-3180)、ナゴヤキネマ・ノイ (052-734-7467)、長野上田映劇(0268-22-0269)等にて順次公開。