悲運の名工 副島勇七

 十七世紀初頭に磁器焼成、次いで色絵付けに成功した有田の焼物はずば抜けて優品であった。積出港の名をとり伊万里焼と呼ばれ全国に出荷され、有田が海外貿易が唯一許されていた長崎に近いこともあり、焼物は藩のドル箱的存在であった。
藩は山に囲まれた大川内山の直営の窯に優秀な職人を集め、量産体制の下高級磁器を生産し、将軍家への献上品、大名等への贈答用や城内で使用するお道具とした。藩窯で働く御用職人は名字帯刀を許され、扶持をあたえられ経済的には保証されるが、高度な技術が他領に漏れないよう、私生活にも及ぶ規制はとりわけ厳しかった。
天明(1781-1789)の頃の伝説的名工副島勇七(祐七、久米勇七とも伝わる)は名工ゆえの悲劇的な運命を生きた。古文書にその名は残り、逸話が語り継がれた。勇七を主人公にした創作も書かれている。
 
吉川英治初期の作品「皿山小唄」は久米勇七の葛藤と悲劇を描く。
将軍家より鍋島藩に勇七の色絵皿百客献上の命があり、藩は勇七に制作を申し付けた。しかし勇七はこれを無視し、一向に作り始めない。藩の陶器を管理する納戸組御陶器方柴作左衛門が、注文の品を期日までに作らせる役を帯びて、息子彦七を介添に勇七の細工屋敷を訪ねる。勇七は鍋島藩の宝とまで言われる名工だが、「権力づくめの、期限をきっていいものを作れという仕事に我慢が出来ない」と、頑として命令を聞き入れない。
勇七の説得に努め、勇七の強情を堪えていた作左衛門だが、或る日勇七の雑言にカッとなって斬りつけてしまう。勇七は一命を取りとめるが、作左衛門は勇七宛に、恋しあう勇七の娘和歌と彦七の将来を託す遺言を残し、責任をとって切腹する。作左衛門の父の情に動かされ、勇七は百客の皿を焼く決意をする。しかし弟子の三次郎が奉行と相談の上、刎ね除けた傷物から百客を選んですでに荷出したと聞き激怒し、三次郎の首に斬りつけ、出奔してしまう。
窯は取り壊しとなり、一家は処払いとなった。藩は密偵を出して勇七の行方を追うとともに、彦七に勇七の捕獲を命じ、勇七を討取った折には帰参かなうという恩命を付けた。
 
何故に、かくも執念ぶかく、詮議するかといへば、それは彼が一代の名匠であるばかりでなく、鍋島家の唯一の財源とする色絵伊万里の陶法の秘密が、他国の藩窯に伝はっては、其の名声と財政上に、大打撃をうける惧れがあるからだった。
 
逃亡から十数年経った頃、寛政六年(1794)、江戸や上方に、伊万里手の優品が出廻っているとのうわさが立ち、藩の密偵は伊予(現・愛媛)の砥部の小さな陶器師の家に勇七を見つけ召し取ろうとした時、後ろから来た巡礼僧に斬り伏せられ勇七は難を逃れる。
巡礼僧の白衣をまとった彦七は、和歌と夫婦になり、勇七にとっては孫となる子もなしたことを告げ、その二人に会わせようとするが、勇七は喉を突き、「皿山の轆轤唄が聞こえる。…お和歌の小さい時よくわしも唄った。……」と昔日を想い命を果てる。
 
煩悩、優悶、愛憎、芸術の血みどろ――あらゆるものが去って、彼自身が、一個の白い壺みたいに、冷たいものに帰っていた。
              
陶工、陶器商人は運上銀を上納し、窯業が財政を支え、御用窯の製品に政治的役割を負わせる藩の体制は、時に陶工から物作りの自由を奪い過分の負担をかけた。勇七の台詞に芸術肌の陶工の葛藤が窺える。
 
「将軍家の藩公のと――権力づくめや日限を切って、この勇七に仕事をさせるといふのが無法だ。先が天下の将軍様なら、おれも天下の勇七だ。藝道にかけては、たとえ誰であらうと、勇七の我を曲げるこたあ難しい」
 
 「だから偉いと侍は[将軍家を]怖がるのだろう。だが、おれは陶器師だ。どこまでも藝術の上からいふのだ。――例へば皿を註文するのでも、やれ形はかうせい、寸法はかうだ、不吉な模様は相成らぬ、どれにも葵の紋を入れ、胎土はよく篩へ、轆轤の目の立たぬやうに引け、釉薬は濃くの、金泥は盛れの、何だのかんだのと、小喧しい、しかも成上り好みのごたくばかり並べて来て、揚句に、日限が一日違っても、すぐ追放だとか、縛り首だとか。――わはゝゝゝゝ笑はしちゃいけねえ、それでいい陶器が出来るなら、牢屋の土で囚人に焼かせるのが一番いゝゝ」
 
芸術は、経済論理と相いれないこと、芸術は独占されるべきものではなく、ひろく世の中に出て、より多くの人に受容されるべきものであるという吉川の芸術観が、芸道は曲げず自分の作品を作ることに命をかけた勇七の舌鋒に著される。
 
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佐賀に長く暮らした小説家滝口康彦の短編「鼓峠」は、遁走し他藩で作陶し鍋島の秘技を洩らしたとし処刑された副島勇七の首がさらされたと伝えられる鼓峠をタイトルにした。
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腕を認められ、若くして藩窯の細工人に登用されたが、芸術家肌の勇七は閉鎖的で注文通りのものしか作れない藩窯の仕組みに反発し、改革を訴えるが聞き入れられない。仲間たちも理不尽な待遇に不満を持つが、経済的に保証され身分も武士と同格であることから、同調しない。泉山の弁財天に奉納される狛犬一対(写真:雌 有田陶磁美術館リーフレットより)を作り、その腕の高さは認められているが、妬まれてもいる。御道具山の仕組みに陶工魂をつぶされると、執拗に抵抗する勇七に理解のあった御用赤絵屋の娘である妻お絹の気持も離れていき、喧嘩をした弾みに遁走してしまう。四国に渡り、その地の磁器産業に貢献するが、藩が放った密偵に京に卸された作品を見破られ捕獲される。処刑前に一世一代の作品を創りたいという希望が受け入れられ精根籠め色絵狛犬一対を創る。勇七はこの献上狛犬を条件に改革を求めるが、拒まれ割ってしまう。
勇七は1790年、三十一歳で処刑され短い生涯を終え、鼓峠に首がさらされた。
滝口康彦19242004)は長崎県佐世保市生まれ。佐賀県多久市に在住し九州を舞台にした時代小説を数多く発表した。代表作「異聞浪人記」は、1958年サンデー毎日大衆文芸賞を受賞。1962年、小林正樹監督、仲代達矢主演の「切腹」、2011年、三池崇史監督、市川海老蔵主演の「一命」として映画化された。
 
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戯曲「炎の陶工 副島勇七」は鍋島御用窯の罅青磁の秘技を持つ名陶工の工人魂を描く大矢野栄次の原作を川口眞帆子が脚色し、1996年、世界・炎の博覧会のプレイベントとして劇団若獅子により佐賀、福岡両県で上演された。
勇七は、八代藩主鍋島治茂も藩の宝と誉める名陶工だが、腕を誇り傲慢なので仲間から妬まれて、あらぬ噂をたてられ、藩窯から追放となる。弟弟子から処刑と嘘の藩令を伝えられ、伊万里津から加賀に向かう船で逃走する。旅芸人おあきの機転で追手から逃れ、京、大阪、瀬戸を経て砥部に辿り着くが、追い詰められ捕まり、藩に連れ戻される。勇七の技を認める藩主はどうにか命を救おうと手を打つが叶わず、処刑となった。逃走中、勇七はおあきに、本物の罅青磁を伝えて欲しい頼む。良い焼き物を作るということは、技術を学ぶことではなく、良い焼き物を知り、何を作るべきか知ることだと説く。
「罅青磁を焼けるのはこの国で、唯一人、俺しかいないのだ。俺が作る本物を見て覚えて、自分が打ち首になった後も、何が本物の焼物かを見極めてもらいたい。本物を作ろうという人が出て来たときに、本物を知る人が必要なのだ」
久留米大学経済学部教授である原作者は、近年の経済空洞化を防ぐには、今何を作るべきかを知り、よいものを作ろうと励む勇七の生きざま、物作りの心が不可欠とのメッセージを小説に込めたという。
川口の演出で、笠原章、仁支川峰子(旧芸名西川)が主演した。翌1997年にも佐賀、福岡、熊本で上演された。 劇団若獅子は1987年九月に解散した新国劇の中堅メンバーによって、翌十月に結成され時代劇を中心に公演を行っている。
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陶磁研究家永竹威の『有田やきもの読本』1961年出版の初版にのみ所収されている第三章「史話 肥前陶工抄―有田、皿山の喜びと悲しみ―」で副島勇七の伝説が語られる。藩主より水戸藩への献上品の注文を受けたりする誰もが認める名工であるが、勇七は若く、名人気質ゆえ納める期日が決められていたり、分業で手頭(注文書)通りに製作することに納得しない。
 
「俺は、罪人にも等しい格子窓のある仕事場で、昨日もきょうも何の変りもなく、手頭のままに細工をつづけている。俺は一体、これから、どうしようというのだ。俺の手細工は、あの陶石を突く唐臼の水車にも劣っている。何の自由があるのだ。力のない仕事、伸びのない手細工だ」
 
弁財天社に奉納された赤絵狛犬の出来栄えが認められ、勇七は藩おかかえの御細工師ととなり、身分や処遇に喜んだが藩窯の実情を知るにつけ失望した。良いものを作りたいという一念で、改革を求めた。勇七は弁財天社の狛犬を作る前、太宰府天満宮、肥後水天宮なとの石像の狛犬や唐獅子を見て回り、日田の宿で江戸の瓦版屋から瀬戸の名陶工藤四郎作の天下一品の狛犬のことを聞いていた。他国焼物の技を学びたいと願いでたが受け入れられず、不満がつのり藩を出る決心をした。勇七は逃走途中、夜明け前、日ごろ慕っていた柿右衛門の窯場を訪ね事の次第を話した。
 
 「お前の陶工気質は立派だが、藩吏のきびしい眼は、ごまかせぬのでのお。陶工としての、そなたの気持は尊いもの、私にもよくわかる。だが、さりとて預かるわけにはゆかぬ」
 
柿右衛門は心を鬼にして慰め、路銀を与え、裏山から長崎街道への近道を教えた。勇七は薬売りに身をやつし四国砥部の窯場にたどり着き、窯場で働いていたが、やがて藩の追手に捕えられ、鼓峠で曝し首にされた。
 
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副島勇七についての記述は陶磁史家中島浩気の『肥前陶磁史考』に、十八世紀後半の轆轤、彫刻、捻り細工の名人で、窯詰め、原料調合、青磁制作に至るまで熟達していたとあり、寛政12年(1800)に処刑と記される。
 
「三田焼の研究」(三田市教育委員会編)に陶磁器研究家大橋康二が寄稿した論文「肥前磁器と三田焼」に「皿山代官旧記」に残る、拝借銀 明和五子[1768]申渡帳の下南川原釜焼 柿右エ門宛に、「あなたは近年、経済的に困窮しているが、お目見えをも仰せ付けられている者なので、資金援助として、一貫目を二十登返上で貸与する。……祐七は、細工巧者のため、今度、あなたの所に配属し、ふさわしい御用物などがあったときには作らせること。よってこの拝借銀のうち銀百五十匁を祐七に配当し、返上についてはあなたが取り立てて納めること」(現代語訳 大橋氏による)とある。そして祐七を藩の御用に役立つよう指導、監督するようにと記している。
上幸平山 祐七宛には、御用窯から追放されたが近頃は行跡もよいようだから、柿右衛門に配属するので御用物があるときは柿右衛門の指導の下、作陶するよう、又、配当金百五十匁を与えると申し渡しをし、今後も続けて御用に立つよう心得よと命じている。
柿右衛門にも祐七にも祐七の捻り細工は一般に売る事を禁じている。
大橋はこのことから祐七の捻り細工は特別巧みであったと推測する。
 
有田泉山の弁財天社には副島勇七の作と伝えられる色絵磁器の狛犬一対が奉納されていたと伝えられている。誰もが認める傑作で、一対の内口を開けた雌が残り、県の重要文化財に指定され、有田陶磁美術館に展示されている。勇七作と伝えられる青磁麒麟置物の大作が鍋島家に残る。
 
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「皿山小唄」吉川英治 (吉川英治文庫131『松風みやげ』(短編集七)講談社 1976、「富士」19499月号 世界社、初出:「講談倶楽部」19386月号 講談社
「鼓峠」滝口康彦 (講談社文庫『謀殺』1987、初出「小説新潮19699月号 新潮社)
『炎の陶工 副島勇七』原作・大矢野栄次、脚色・川口眞帆子
大橋康二「肥前磁器と三田焼」(「三田焼の研究」三田市教育委員会2005)
〈www.nogami.gr.jp/chousa_kenkyu/.../mokuji1.html〉
『有田やきもの読本』永竹威(有田陶磁美術館1961
肥前やきもの読本』永竹威(金華堂1961
(注・『有田やきもの読本』、同内容の『肥前やきもの読本』とも確認できる限りでは1961年出版のもののみに、第三章 「史話肥前陶工抄―有田皿山の喜びと悲しみ―」が収録されている。両書ともその後の増刷版には第三章はない。)