加賀の後藤才次郎

 日本でいち早く磁器焼成に成功し美しい色絵を完成した有田焼は、国内外で高い評価を得、肥前鍋島藩の経済を支えていた。 藩はその技術の漏洩を防ぐ為、窯業者の相続、移動などに厳しい規定を設け、材料、製品を管理下に置いた。高い技術と芸術性を認め、産業としての窯業の繁栄を望む他の藩はその技法を得ようと様々試みた。
 加賀の後藤才次郎(1634-1704)、尾張の加藤民吉(1772-1824)は各々の藩の期待を背負い、進んだ技術習得のため、有田、又はその周辺の窯業地に赴いた。 その足跡は古文献、その他の史料に残り、出身地に於いては、有田焼の技法を習得し藩の窯業の発展に大きな貢献をしたとして、才次郎は九谷焼の祖、民吉は瀬戸の磁祖と崇められている。
 その一方で、才次郎と民吉は正体を隠し、有田やその周辺の窯元に入り、直向きに働き、妻を娶り子を儲けその地に落ち着く様子で、信用を得て秘技を伝授されるが、託された使命を思い、妻子を残し帰藩した秘技盗みのスパイのイメージも併せ持つ。
 波乱にとんだ二人の人生は史実を飛び越え、巷で語られた噂も交え伝説化された歴史物語となっている。
 
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 1640年代半ばに加賀大聖寺藩の九谷村の金銀山で良質の陶石が発見され、初代藩主前田利治(1618-1660、加賀本藩三代前田利常の三男)が、金銀を鉱石から吹き分ける煉金役を務めていた後藤才次郎と陶工田村権左衛門(権左右衛門と記すものもある)に製陶を試みさせたのが、九谷焼の始まりと云われている。 九谷焼創始については多説あるが、1655年に大規模な登窯築窯の記録があり、九谷の宮(明治二十三年に三柱神社と改名)に奉納されたと伝わる「明暦元年六月廿六日 田村権左右衛門」の銘のある白磁花瓶が残る。
 焼物好きで芸術を愛する利治は九谷焼に力を注いだが、品質に満足するまでに至らず、二代藩主利明がこの事業を引き継ぎ九谷焼の完成を目指した。
 才次郎は製陶業を学ぶため有田に赴き、数年の修業の後帰藩し、九谷に窯を開いた。 九谷焼はこれを機に格段の進歩をしたと伝えられる。
 九谷焼創成に関する最も古い文献である大聖寺藩士塚谷沢右衛門(1756-
1824)の筆録「茇憩紀聞」(ばっけいきぶん 1802国立国会図書館近代デジタルコレクション)、田内梅軒『陶器考付録』(出版社不明 1855、国立国会図書館近代デジタルコレクション)、松本佐太郎の『定本九谷』(寶雲社 1840)など、記録や研究書により上記のような才次郎像が定着している。
 しかし断片的な情報が多い上、後藤家が絶家したことから同時代の記録に乏しい為、才次郎が修業、または調査に行った窯業地、陶工であったのか、あるいは窯の統率者であったのかなど、謎も多い。 九谷焼は、絵の具、意匠とも、有田の色絵より中国の古赤絵に似ている等々。 十七世紀半ばの創始から半世紀弱、前田利明の没後窯が閉鎖されるまで焼かれたものを後に古九谷と称する。 その後約120年間良質の磁器は作られなかったが、京都の陶工青木木米が招かれ、金沢の春日山に開窯、これに続き一帯に多数の窯が築かれ作られた作品を「再興九谷」と称する。
 
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 刀剣師千手院村正、漆工佐野長寛、柿右衛門など、江戸時代の名匠を紹介する大山創造の『名工物語』所収の「色彩地獄―陶工後藤才次郎―」は九谷焼完成の栄光の陰の才次郎の悲劇を語る。
 殖産興業を志す大聖寺二代藩主利明は九谷焼完成に力を注いで、銀座役で冶金術に長じていた才次郎に磁器の製法を研究させていた。 十年努力したにも拘らず思うような結果を得られない為、才次郎は「名器を産する土地に行って、秘法を盗んでくる]より他はないと考えるに至った。 他藩で秘伝を習得して帰るということは命を賭しての仕事と考えた才次郎は、誰にも告げずこっそりと有田方面に向った。
 才次郎は伊万里の窯元で下働きから始め、その仕事ぶりが認められ、窯主の紹介で土地の商人の娘と結婚して子供も生まれた。 新生活は幸福で製陶の研究は進み、窯主の信用を得た才次郎は土練りから、焼成釉薬の調合まで伊万里の秘法を全て教えられた。 加賀を離れてすでに五年の歳月が経っていた。 窯主の恩、妻子を思うと留まろうと迷う気持ちも強いが、九谷焼を完成させるという大望を捨てることは出来なかった。
 才次郎が秘法習得の為他藩から来たと薄々感じていた妻は、一緒に逃げる覚悟は出来ていた。 寛文五年1665)に一家で加賀へと旅立つのだが、旅の途中で妻子を病で失う。
 一人帰藩した才次郎は九谷焼の製造を命じられ、悲しみに打ちひしがれながらも、九谷村に築いた窯で伊万里に劣らぬ物を焼き上げた。 五年前九州に向かう途中で出会った狩野派の画工久隅守景が才次郎による良質の磁器の完成を知り、九谷に来て絵付けを行い傑作を生む。 才次郎の苦悩を知り励ます守景もまもなく没す。 才次郎は藩主の死後、製陶の職を辞し、玄意と号し妻子の冥福を祈りつつ余生を送った。
 
 『名工物語 九谷焼後藤才次郎』は久保田正衛が少年少女の為に書いた物語だが、歴史背景を丁寧に入れて語られる。 才次郎が有田に旅立ったのは、中国で明が滅ぼされようとしている時期で、九州北部には明から多数の亡命者が来ていて、その中には陶工も多かった。
 才次郎は有田の富村という窯場で下働きを始め、三川内、大川内山、南川原と移り柿右衛門窯で祥瑞五郎太夫に出会う。 五郎太夫加賀藩初代藩主(加賀前田家二代)前田利長の命で東福寺の和尚と入明し、景徳鎮で働き磁器製造の技術を習得し帰国していた。 五郎太夫と才次郎は加賀に恩返しをしようと、いつの間にか柿右衛門窯から姿を消した。 1661年、二人は四、五人の陶工を連れ加賀藩に帰った。
 祥瑞五郎太夫は、明末景徳鎮で製陶修業をして帰国し、有田で磁器創始に関わったと伝えられる伊勢松阪出身の陶工伊藤五郎太夫とされていた。祥瑞といわれる染付磁器に認められる「五郎大甫 呉祥瑞造」の銘款を陶磁史研究家斎藤菊太郎は「呉家の五男の家の長子」と解釈し、日本人陶工説を否定した(陶器全集15『古染付・祥瑞』斉藤菊太郎 平凡社 1974)。 五郎太夫については諸説がありなお謎が残る。
 才次郎の晩年については、藩主の裏切り、追放、私刑など悲惨な逸話が語られた。 九谷焼の産業としての成功による本藩への遠慮、あるいは本藩の妬み、密輸を疑う幕府の睨みをかわす為などといわれる。
 
 瀧川雄の「陶工スパイ伝」では才次郎の製陶修業の地を高麗とした伝承を紹介している。
才次郎は焼物好きの藩主前田利長に発達した焼物作りの技を探る命を受け、慶安三年(1650)に三年の約束で高麗に遣わされた。 しかし高麗も守りが固くなかなか教えてもらえない。 窯元の一人娘と結婚し婿となり、秘伝を伝授され帰国したのは、加賀を後にして六年後であった。 利長はすでに亡く、三年過ぎても帰国しない才次郎に業を煮やし、たとえ帰国しても取り合うなという遺言を残していた。 藩主を喜ばせようと断腸の思いで縁を切り帰国した才次郎は、立つ瀬がなく落ち込んでいたが、家老の計らいで田村権左衛門と九谷村で製陶を始めることが出来た。 旅の途中立ち寄った画家久隅守景が下絵を描き、九谷で天下の逸品を焼けるようになった。
瀧川はこの広く一般に流布していた話は、藩祖利家の子、加賀藩初代藩主利長を大聖寺藩二代藩主とするなど人物と時代に混乱があると指摘する。
この他、修業の地が対馬や中国であったり、九谷焼完成後追放され、窯も廃業したなど才次郎の伝説は様々に語られていると云う。
瀧川は土、釉の原料の成分は土地土地で違うので、知り得た秘法を参考に工夫を凝らさなければ品物は出来ない、そして「創作や発明といっても、無から有は生まれない」と指摘する。 生産地は秘法の漏洩を警戒し、鍋島藩は自藩の陶工が九谷で働いていると判ると虚無僧の姿をした藩士を送り暗殺させた。 後の安永八年1779)、加賀藩も九谷赤絵の技法が漏れるのを防ぐ為、皿山会所で赤絵業者の相続法や使用人の移動、原料の扱いに厳しい規制を設け、転居、結婚にも警戒した。 瀧川は特許権のない時代、スパイは頻繁に起こり、「探偵小説じみた話が生まれているが、必ずしもでたらめでない」と締め括る。
 
後藤才次郎が描かれる物語は『古今名誉実録』第七巻(春陽堂1894)、『職長魂』嘉悦基猪(彰文館1943)、『勅語修身訓話:学生必読』吉岡平助(吉岡平1893)、『勅語修身訓画解説』(吉岡宝文館 1892)など、偉人伝、道徳の教科書的なものも多い。(四冊とも国立国会図書館デジタルコレクション収蔵)
 
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 日本美術の海外での普及に貢献した執行弘道(1853-1923)はワシントンDCのThomas E.Waggmanコレクションのカタログ(1893 編纂)の「九谷焼」の項に九谷焼は十七世紀前半期に、田村権左衛門が大聖寺藩主の指導の下、加賀九谷村に築いた窯で製造された陶磁器で、田村は初期瀬戸の技法で茶碗や壺を焼いたと記す。
有田の技法で焼かれた磁器は、有名な九谷の陶工後藤才次郎が、1650年頃肥前より帰藩した後に初めて製造した。才次郎は藩主前田侯により磁器製造と色絵付けの技法を習得する為に肥前に遣わされた。 南川原の有名な柿右衛門の窯の工人となり、柿右衛門の娘と結婚しこの地に留まると見せかけ、秘技の習得に成功した。才次郎帰藩後、九谷焼は一段と進歩したと続く。
執行は、九谷焼はこの頃加賀にいた狩野派の画家久隅守景による美しい輪郭線を持つ芸術的色絵付けで称賛されていたことも記している。
佐賀出身の執行は1871年アメリカに留学。外務省、商社勤めの後,      1913年工芸の輸出会社、起立工商会社のニューヨーク支店長となり日本美術の普及に尽力した。
 
1914年に結成された陶磁器研究会「彩壺会」の創立者の一人で、『柿右衛門と色鍋島』の著者大河内正敏は『古九谷:清美庵随筆』の中で、後藤才次郎が有田に技術を習業に行ったという説は疑わしいと記す。 物理学者の大河内は、才次郎は陶工ではなく、鉱石の精煉の仕事をしていた関係で大聖寺藩主の御庭焼の手伝いをしていて、藩侯が本式の焼物を始めるにあたり調査の為に窯業の発達した地に派遣されたとする。 大聖寺藩の分限帳に百五十石を領した士分と記録があり、彼の古九谷らしい作品は残っていないので、陶工として生産に従事したとは考えにくいと云う。
大河内は才次郎が窯元で修業し、窯の主人の娘と結婚し子を儲け、秘技を習った後に妻子を捨て帰藩し、九谷焼を完成させたという伝説は信憑性がないと断じ、古九谷は意匠も絵の具も柿右衛門肥前磁器のものとは違い、中国の古赤絵に近いことをみても、長崎で亡命陶工を見つけ九谷に連れ帰り窯を開いたという伝承(田内梅軒『陶器考』の説)に可能性があるという。
又九谷窯を差配していた才次郎だが、一代で廃窯になり、悲惨な伝説が語られていることについて、大河内は「[加賀藩が]古九谷については幕府に対して憚る處があって、事実を曖昧模糊の内に葬り去ってしまうと云う考えが強かったのではないかと思う」という。
 
数年前、肥前鍋島家の古文書から、鍋島家と加賀前田家との深い親交と姻戚関係を示す歴史資料が発見された。両家は藩主鍋島直茂の子勝茂の長女が米沢藩主上杉定勝(謙信の孫)に嫁ぎ、二人の長女徳姫と加賀大聖寺初代藩主前田利治(1618-1660)の婚姻により親戚となった。次女虎姫は勝茂の孫光茂に、腹違いの妹三女亀姫が大聖寺藩二代藩主前田利明1638-1692)に嫁ぎ、両家は強い姻戚関係を結んだ。鍋島藩は産業がない加賀に、有田の焼物職人数人を十年間貸すことになった。職人は沢山のサンプルと材料を持って加賀に行ったと記録されている。
 
NPO法人さろんど九谷の対談シリーズ「古九谷の真実に迫る」の「鍋島家と加賀前田家姻戚関係」で石川県九谷焼美術館の中矢進一副館長は、考古学者で東洋陶磁史の権威三上次男氏が調査委員長となり行われた1970-71年の石川県教育委員会九谷古窯発掘調査で、九谷の古窯や出土した窯道具が有田の物と類似したものであったことから、三上氏が「肥前からの工人の当然移入があったのではないだろうか」と指摘されたと振り返る。
中矢氏は両家の姻戚関係がこれを容易にしたと指摘し、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂加賀藩三代藩主前田利常の親しい親交を示す道具目録が残る1650年代初頭から利明がなくなる1690年代まで両家の交流は続き、この時期が九谷古窯の稼働期と重なり、鍋島家と大聖寺前田家の近しい姻戚関係という背景を考えると、広く伝承されている後藤才次郎の強引なスパイ活動の話を考えなくても「大名同士の付き合いの中で、人、物、技術といったものが、有田皿山と九谷の間に交流があったのではないか」との見方を示す。
いわゆる古九谷産地論争に関しては「結論(産地の断定)を出す問題ではなく、[古九谷は]両産地の交流のもとに生まれたと考える」と云う。そして百花手、幾何学手、九角手などの最高級品の古九谷は、前田家と加賀文化の背景なくして生まれてこなかったのではないかとし、真の古九谷の研究はここからスタートしたといえると語る。
 
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「色彩地獄―陶工後藤才次郎」大山創造 (『名工物語』 東京国民工業学院 1943
少年読物文庫 『九谷焼後藤才次郎』 久保田正衛 (同和春秋社 1957
「陶工スパイ伝」 瀧川雄 (『趣味の陶芸』 雄山閣 1938
“Catalogue of a collection of oil paintings and water color drawings by American and European artists and Oriental art objects belonging to Thomas E.Waggaman of Washington D.C.” (Compiled & edited by H. Shugio 1893)
『古九谷:清美庵随筆』大河内正敏 (日本陶磁協会、宝雲社 1947
「鍋島家と加賀前田家姻戚関係」中矢進一(「古九谷の真実に迫る」NPO法人さろんど九谷 2010、 www.salon-de-kutani.jp/kutani/sinjitu.html >)