広島の皿山

 太平洋戦争終結から73年目の今年、8月のはじめNHK ETV特集 シリーズ アメリカと被爆者 第1回 「シュモーさんを探して」とラジオ第二の宗教の時間「平和の家を作る」でアメリカ人森林学者で平和活動家フロイド・シュモー(Floyd Wilfred Schmoe 1895-2001)の戦後広島での活動を特集した。シュモーは1949年8月から5年間、原爆で家を失った人々の為に寄付を集め、アメリカから資材や道具、食糧を持ち込み、アメリカ人の仲間と日本のボランティアで21戸の住宅を建設し、「平和の家」と命名し市に寄贈した
シュモーは多様な人々の交流が期待できるとして、「是非、江波の地に家を建てたい」と云い、1950年から52年にかけて中区江波二本松に10戸の住居と1戸の集会所を建て、ここを“ Eba Ⅴillage”又は“Sarayama Ⅴillage” と呼んだ。
この地は江戸時代末期から明治の初めまで、磁器を製造していた皿山の跡地だ。
現在江波皿山公園になっている上山と呼ばれていた標高約50メートルの山の南東の麓で、有田焼風(伊万里焼風)の江波焼と呼ばれる染付磁器が焼造されていたことを知った。
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イメージ 1江波焼は広島浅野藩が、文政11年(1828 )に殖産興業政策の一環として製陶場を開き、有田から土を仕入れ、有田の陶工の技術を導入して生産を始めた。天保年間(1830-1844)を最盛期に約50年間、皿を中心に日用食器を生産した。明治になり藩の後ろ盾を失うと、遠方からの陶土の調達は難しくなり閉窯した。 江波焼の代表的な文様は広島湾の似島安芸の小富士と二本の松、帆掛け船を描いた山水図だ。湾の島影、網干のある漁村などの海浜風景、鶴亀、鷺、うさぎ等の動物文もある。
余白をとり模様化されていない染付絵図が素朴なタッチで描かれている。周縁は15個前後の波状になっている輪花、又は染付で波状が縁に沿って描かれている。口縁に縁銹をもつものもある。 裏には唐草などの模様のない白地のままの裏白が多く、通常銘はない。普段使いの10枚揃、20枚揃の小皿、中皿、小鉢や、径30センチ前後の大皿が残る。
素地は純白ではなくやや黒味があり、焼成で染付の色が安定しない物もあり、底に歪みが出たりしていて、有田焼と比べると、技術的完成度は低い。
伝世品は多く、素朴な山水は古陶磁愛好家に人気がある。
 しかし埋め立てや戦後の復興、急速な市街化で窯跡や物原が失われ、破片の発掘や明らかに江波窯製品と判断できる伝世品は非常に少なく江波焼は‶幻の焼物といわれている。
素朴な海浜画の江波皿の人気とともに、日用雑器の小皿や小鉢、絵替わりの大皿、中皿等多様な伝世品が出回り、江波焼研究者もそれらすべてが江波の製品と言い切れない状況だ。
もとは広島湾に浮かぶ江波島が、土砂の堆積や干拓が進み海岸線は南下し、17世紀末には陸続きになる。上山と下山(現・皿山と江波山)の間は養魚場となり、上山の南東の麓に窯が開かれた。しかし閉窯後、江波南側の埋め立てや開発が進み、昭和初期まであったといわれる窯跡、物原があったと伝えられる養魚場は埋められた。
窯場の上に建つシュモーの住宅も1970年代、老朽化が進み取り壊され、集会所として建てられた一軒が2007年からの広島高速三号線(南道路)建設に際し北西に40メートル曳家され、広島平和記念資料館の付属展示施設シュモーハウスとして残るのみで、十分発掘調査がなされる前に遺跡は閉じ込められた。
藤葉平造は、江波焼は「窯跡は勿論物原や、破片もなく陶工も知れず、数行の記録と人々のうわさに聞くだけの幻の窯となっている」と述べ、「新芸州 江波皿考」で存在を明らかにする根拠となる史料や製品、証言の調査を以下の様に記している。
江波の古老達の記憶によると巾二間、長さ十三、四間(3.6 m x 24m)のなだらかな傾斜の窯跡があり、最上部には煙突のようなものがあった。
1974年、使用者の名前と思える「皿山細工人 吉蔵」、「天保五年七月五日 又市細工」と刻まれている湿台がみつかり、江波南にある海宝寺の過去帳で名前は確認された。
藩による開窯の経緯や事業の記録が古文献に残る。
「今中大学日記」には、文政十二年(1829)四月藩の執政今中大学等が真菰にある藩の別荘に「江波皿山窯元油屋忠右ヱ門と職人5人を召し製陶術を実見せし」とあり、五月には江波皿山に行き「製陶の実況を視察し」、六月には皿山掛りを任命し、「十月四日には藩主もその業務を観覧せられしことあります」との記述がある。
浅野十一代藩主の「温徳公斎美録」には九代藩主斎粛が天保六年(1835)、陶業を視察と記されている。
明治、大正時代の独文学者三浦白水(吉兵衛)の『蒔絵苦心談』(「尚古」第二年 第五号 明治40)には「その染付(皿に紺色の染料で絵付けしたもの)の絵柄は江波から厳島を望んだ風景が多く、京都から招いた瀬平という人のによった」と記述がある。
「新修広島市史」には古陶磁研究家高木正実の談話として、漆芸の一国斎塗の池田(木下)兼太郎(三代金城一国斎 1829-1915)も絵師であったと記される。三代一国斎は江波の陶工池田金五郎の長男で、一国斎高盛絵の秘法を受け継ぎ、江波村で業を営んだ。
確定的な伝世品がなく、窯跡は失われ出土品などの科学的な調査が難しい現状であるが、藤葉は江波焼を裏付ける参考品をあげる。
・高木正実採取の素焼破片は蛇の目高台の向付け、径13センチで素焼両面に染付と思われる黒い粗雑な唐草模様が残る。窯跡から出土の素焼は、重要な資料だ。高木はその他、32点の江波焼の特徴を持つ茶碗、深鉢、向付け、小皿、大皿等の破片を発掘した。
・「江波焼手塩皿」、「文久2年」(1862)と書かれている時代箱に収まる江波の旧家尼子家所蔵の手塩皿32枚は、径9センチの丸皿で宮島、又は安芸の小富士を眺望した山水画が描かれ、裏は無地。焼成むらで黒みがかったものも混ざる。尼子家は江戸初期より醤油業を営む旧家で茶屋も経営していた。
・窯跡近くの伊予家に残る伊万里風の白い破片は、裏にシンプルな竜の絵の染付のある磁器茶碗のもので先祖の作品として保存していた。見込みにウニか、栗のようなものが描かれている。先祖は旭屋(嘉八)の屋号を持つ窯元で、1969年頃の建築工事の時一緒に多くの道具や磁器破片が発見されたがほとんどを遺棄したり、庭に埋めたという。
・「天保三壬辰歳、大皿弐拾人前入り、井原小一右衛門」と書かれた時代箱入りの江波の典型的な海浜風景の描かれた中皿20枚は広島テレビの延岡慶啓氏が発見した。
・寛政時代から続く江波の白魚料理の料亭山文が先祖から伝承している輪花山水図の中皿十枚セットは周縁を装飾模様が囲む、時代のやや下ったものと推定される。
・旭屋の屋号を持つ浅尾家の子孫の香口家所蔵の達筆な“旭”の字が書かれた徳利は伊万里風で胎土はやや黒みがかっている。
藤葉は、これらの参考品の信憑性は高いが、伝世品に多い径30センチ前後の大皿やその出土破片で江波焼と特定できるものが無い為、すべてを江波焼と断定するのは不可能に近いという。

鍋島藩のきびしい統制下、胎土を取り寄せたり、技術の移入や陶工の招へいは難しいはずだが、1828年の文政の大火は有田内山を焦土と化し、多くの陶工が職場を失い、出稼ぎに出たと伝わる。江波で製作又は指導をした可能性も考えられる。    
浅野家六代藩主宗恒の次男忠鼎が初代唐津藩主水野忠任の養子となり二代藩主になり、浅野家は肥前に強いつながりを得ている。
熊野町の光教坊の立派な鬼瓦に「天保三壬辰年五月調之」、「沼田郡江波村」と三人の職人の名前が刻まれているのが発見された。高さ2.55メートル、幅3.2メートルの大作の江波瓦の発見で、江波焼を始める時点で、高度な窯業が存在していたことが分る。
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1989年からの有田の大外山、嬉野市塩田町の志田焼の窯跡の発掘調査で、従来江波焼といわれてきた皿類の染付絵柄と類似の絵柄のある破片が出土したことから、江波焼は塩田で焼かれた志田焼だったとの説が出された。
江波焼の典型的な文様とされていた水辺の鷺、氷裂地に竹と雀のいる丸窓、雲竜等と一致する。江波皿に多い輪花の縁を持つものも多かった。
古陶磁研究家小木一良は江波焼と云われている伝世品数は膨大で、江波の古老の記憶に残る小規模な窯からはこれ程の量は作れないとし、これらは規模の大きい志田窯の作品と特定して間違いないことと思われると論じる。

 『江波焼』(上写真:掲載の江波焼大皿)の著者で陶磁器コレクター浦上恒右衛門は「江波焼の諸種の疑問に対する解明は、今後にまつものが多いが、物原と思われる昔の養魚場附近が、市街地と化している今日では非常に困難である。今後、高層建築でも計画され、地下の掘起こし作業に伴い、民家の底に眠る破片が発見され、伝世品と対比検討されて解明の糸口となることを祈る次第である」と記す。
広島市文化財団の「ひろしまWeb博物館」の記事に広島城跡で発掘された広東碗の破片の目跡等に、江波焼の窯跡と推定される場所の近くで見つかった広東碗(伊予家所蔵)と共通の特徴を確認したとある。又、江波焼とされている資料は科学分析で、イットリウムを含む割合いが、伊万里、瀬戸、砥部等と比べ2~3倍高いことが判明したと報告がある。
65回日本伝統工芸展で切金螺鈿箱「青麦」で2018年朝日新聞社賞を受賞した江波東に工房を持つ漆芸家七代金城一国斎(1965生れ)は、2018年5月14日付朝日新聞広島版の「ひとin広島」で、祖先が江波焼を手掛けた縁もあり、異分野だが江田島の土で江波焼の復活、再興という新たな挑戦を始めたと語っている。
2015年千葉県横芝光町の町民ギャラリーで開催された横芝光町在住の斉藤純一氏のコレクション展、「幻の青い皿 江戸後期志田窯の染付皿」の図録の編集後記で横芝光町の社会文化課学芸員道澤明は「ここに紹介した志田焼は、まだ産地が解明されてわずかしか経っていない。まだ、不明な部分が多々ある。これに出展器の解説をしたが、おそらく錯誤しているものもあると思う。この紹介によって、志田焼がより解明されることをのぞむ」と記す。出展品の多くは江波焼と伝承されていた。
幻の焼物を解明する努力は今も続く。さらなる研究の成果で、江波焼の真実が明かされることを期待する。
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 江波は爆心地より3キロから4キロ圏にあり、被爆による死傷者は出て、建物の一部損壊があったが焼失からは免れた。爆心地近くで被爆し、家は全壊焼失した多くの人達が江波に避難した。
中沢啓治の自伝的漫画「はだしのゲン」の主人公ゲンが江波の北、舟入本町で父、姉、弟を失い、家を焼かれ、身重の母と逃れてきてしばらく暮らした地である。
「この世界の片隅で」のすずの生まれ故郷でもある。
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『江波焼』浦上恒右衛門 (浦上恒右衛門 1979
「新芸州 江波皿考」藤葉平造(『ふるさとひろしまひろしま郷土史研究会 1981
「陶片は知っている」十五、志田西山六号窯作品ーそれは江波焼と云われてきた器物だった!ー」小木一良(「小さな蕾」280 創樹社美術出版 1991 11月号)
「埋もれた文化 江波焼」(広島市立江波小学校創立百周年記念誌』 2000)
「幻の青い皿 江戸後期志田窯染付皿展」図録横芝光町教育委員会 2015
「シュモーさんを探して」<www.dailymotion.com/video/x6rft53