瀬戸の加藤民吉 

 江戸時代末期、八百年の陶器生産の歴史を持つ窯業の中心地尾張藩瀬戸は厳しい状況に置かれていた。庶民の生活の向上で焼物の需要が拡大していく中、藩が殖産興業政策で窯屋を保護し利益の増大を図るシステムを築いていったが、窯屋は藩からの拝借金の利息支払いが負担となったり、問屋の代金滞納や踏み倒しに合い困窮していく。
瀬戸市美術館館長服部文孝氏によると「[従来言われていた有田の生産する良質な色絵]磁器に押されて困窮していたということではなく、生産が増大しても、その状況は厳しくなるという構造であったのである。この状況を打破するためにも、新しい焼き物である磁器焼造への期待が大きく、その研究が積極的に進められていくこととなる」。 (「瀬戸染付の歴史」、加藤民吉九州修業200年記念『瀬戸染付の全貌:世界を魅了したその技と美』 瀬戸市文化振興財団 2007
清の磁器解説書「陶説」(1767-1774)全五巻を持ち南京焼(染付)製造法を研究していた熱田奉行津金文左衛門は大松窯の次男加藤民吉(17721824)に磁器の製造開発を命じた。一子相伝の取り決めがある瀬戸で、兄が窯を継いだため、吉左衛門と熱田新田開発に携わっていた民吉は、文左衛門に製法を教えられ、磁器焼成に成功するが、その質は肥前で作られているものに大きく劣っていた。 民吉は肥前の先進技術を習得する為に、文左衛門の養嗣子庄七、瀬戸焼取締役で庄屋の加藤唐左衛門、代官水野権平等の支援を受け、1804年32歳の時九州に赴く。
九州では磁器の技法、特に釉薬、顔料の調合は秘法として守られ、他藩の者に漏らすことは固く禁じられていた。 民吉は各地の寺の住職の助けを得て、天草の高浜焼窯元、庄屋で天草陶石の総元締めでもある上田源作、肥前佐々、市ノ瀬窯の福本仁左衛門の下で働き、土作り、蹴ロクロでの成形から窯焚きまで習得し、釉薬、顔料の調合、色絵焼付も最後に伝授された。 帰路、原明から有田に入り柿右衛門窯を目指したが、外から威容を眺めるだけで宿に行き、翌日報恩寺を訪ねた。檀家堤惣衛門を紹介され、黒牟田山での築窯に参加し、1807年瀬戸に帰った。瀬戸で磁器用丸窯を築き、民吉が良質の染付磁器焼成に成功したのは、後藤才次郎により九谷で色絵磁器製造を始めた1655年に約150年遅れる。
瀬戸では陶を本業焼、新しく開発された磁器を新製焼と呼んだ。瀬戸窯業が陶器から磁器製造に発展し、世界的窯業地となる基礎を築いた民吉は藩主より苗字帯刀を許され、磁祖と呼ばれ、窯神神社に祀られている。
 
加藤民吉の九州での修業は、瀬戸深川神社宮司二宮守恒の民吉の口述の筆記「染付焼起源」(1818)に詳しく記録されている。奉行津金庄七の「新製染付焼開発之事」、瀬戸焼取締役加藤唐左衛門の手記「染付焼物御発端之事」、上田源作の「庄屋日記」など当事者による信頼できる資料も残っている。
加藤庄(1901-1979)は『民吉街道:瀬戸の磁祖・加藤民吉の足跡』、「『染付焼起源』とその詳解」の章で二宮の記録を辿り民吉の修業の足跡を明らかにしていく。加藤は史料を丹念に調べ、九州各地を訪ね、関係者の子孫を取材した。
瀬戸の資料に民吉が修業地で妻を娶ったとは書かれていないが、磁器産業を守る為、技術の漏洩を厳しく禁じ処罰を科していた肥前、肥後での民吉の色絵磁器の秘技習得は、冷徹なスパイ行為や悲恋の逸話が史実を補うように口承され、多様な物語を生んでいる。
毎年九月に開かれる磁祖民吉の功績をたたえる瀬戸物祭りの二日間は雨にたたられることが多く、瀬戸では「民吉に捨てられた佐々の女性の涙雨」だと言い伝えられている
 
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昭和二年(1927)十月、大阪中座で上演された歌舞伎「明暗縁染付」(ふたおもてえにしのそめつけ)は「佐々の悪魔、瀬戸の窯神」という副題が付けられ、加藤民吉を肥前平戸焼の秘法を盗み、故郷瀬戸に伝えたスパイとして描く。
民吉は武蔵と名を偽り、佐々の御用窯に入り修業し、故郷に妻がいながら窯元の娘千鶴を娶り、秘技を伝授された後、行方をくらます。
序幕は佐々の皿山。秘技を他国人に盗まれた廉で窯主福本仁左衛門と息子の小助が水牢の刑に処せられた。怒った村人達が民吉の像を描いた染付の踏み絵を作り、千鶴に踏みつけるように迫っている。そこに皿山代官所の手代中里角右衛門が止めに入り、瀬戸に逃げ帰ったと見る民吉を必ず捕えてくると約束する。
舞台は瀬戸に移る。民吉は苦労の末染付焼に成功し、窯では職人たちが集まり祝が開かれている。そこに角右衛門が田舎商人を装い訪ねてくる。尾張藩主にお目見えした民吉は、苗字帯刀を許され大小を差して帰宅する。皆が奥へ行ったところに、千鶴が幼い息子嘉蔵を連れ現れ、弟子の一人に名乗り出るが、追い返されてしまう。民吉は千鶴と嘉蔵を見て、福本家を陥れてしまった不実を恥、ライバル忠治に秘法を伝え瀬戸を託し、死の覚悟を決める。民吉は窯場で千鶴と嘉蔵に再会する。千鶴はしかし肥前から皿山代官所の役人が民吉を捉えようと追ってきていることを告げ、逃げるよう勧める。陰から見ていた瀬戸の妻は、千鶴の直向きな愛を知り、追い返そうとした自分の嫉妬心を恥じる。
 
民吉: 六年以前、この瀬戸を水盃で出た時から命はもとよりない覚悟、したかお国で掟を設け我が国一手の産物で利を得やうとは狭い了簡、皆隔なく技を磨き高価な唐物を追のけて異国までも売拡ろめ日本の焼物の名を挙げてこそ真に国産とも云わるゝ道理、その生贄に捨つる命何の女々しう惜しまうか、そなたも福本仁左衛門の娘、技の為に命を捨てる私の心をよう察してこの嘉蔵を守り育て、立派な焼物師に仕立てゝくれ、いひ置く頼みはこれ一つ。
 
角右衛門: いや、私は見る通りの旅商人、御三家たる尾張公御寵愛の焼物師、加藤民吉保賢殿の意見を聞いてどうやら広い世間が見えて参った。
 
代官所手代角右衛門は二人の妻の愛と、民吉の磁器にかける思いを知り、自首する民吉を前に役目を捨てる。角右衛門は民吉を瀬戸に残し磁器窯業の発展を託し、千鶴と嘉蔵を連れて肥前に帰る。
二幕三場の芝居は大森痴雪(18771936)作、民吉を初代中村雁次郎、千鶴を高砂屋四代目中村福助(後の三代目中村梅玉)、民吉の本妻お品を三代目中村雀右衛門が演じた。
歌舞伎は人気を呼び、民吉の現地妻を裏切り秘技を盗んだスパイのイメージを広めたが、クライマックスの民吉と角右衛門の台詞には、陶工のスパイ物語の底に共通に流れる“経済、政治の論理では論じられない”物作りの道理がある。作り手は技術を共有し、技を磨き合いよりよいものを作ることを願い、交流があって物作り文化が熟すると考える。
 
瀬戸への帰路、民吉は天草の上田源作を訪ね、窯を脱け出したことを詫びた。源作は腕を上げた民吉に感心し、民吉の瀬戸の不況を救い、日本の磁器の発展に賭ける思いに共感し、色絵の技法を口授し調合書を渡し、帰藩する民吉に職人惣作を同道させた。
 
右は、秘事にそうらえども、ご熱心の実意に感じ、書外に授をもって、相伝え致しそうろう。決して他に伝えること、これありまじきそ也。
 
源作は民吉に渡した絵具調合の秘伝に書き、署名と花押をした。この秘伝書は今も天草の上田家に残る。上田家の「庄屋日記」には民吉がに東向寺の僧に伴われ初めて上田家に来た日の記述がある。
 
児童文学者神戸淳吉の「あたらしいやきもの―加藤民吉―」にはこの時、上田元作(二宮資料は元作と記す)が民吉に語る場面がある。
 
よく正直にうちあけてくださった。さぞこわい思いをしただろう。けれど、わしもよいやきものをつくろうと苦労しているものだ。わしの知っていることはぜんぶ教えてあげよう。瀬戸のために役立つならわしもこんなうれしいことはない。
 
示車右甫の歴史小説瀬戸焼磁祖加藤民吉天草を往く』では民吉は佐々で修業を終え、有田に近い木原に淡青磁、色絵磁器を焼く横石治平を訪ね色絵の技法の教えを乞う。一子相伝が家訓で他国の人には教えられないという横石だが、民吉は横石の物作りの信念を見る。
 
、、、お前さんも、一廉の修業者であろう。であれば、先人の苦労によって得られたものを、わけもなく手に入れるなど、なすべきことではない。我らご先祖は、いかにして苦労の果て、赤絵の秘法を得られしや。 子々孫々、夢にも忘れるものでない。これが、手前の存念である。わかられたか。
一言もない民吉に治平は「とはいえ、お前さんも、遠いところ、よくぞこの鄙びた木原に来られた。これも縁であろう。よって、記念に一品進呈する」と赤い粉末の入った袋を与えた。 赤絵の顔料ベンガラで、白玉と硼砂の粉を混ぜ焼いたものと教えられ、分量は言えないが研究するようにとわれ、民吉は治平の恩情に感謝した。
「明暗縁染付」は若干筋を変えられるなどして大衆演劇が作られ各地で上演された。
劇団テアトルハカタによって1988年に佐々町文化会館で上演された石山浩一郎原作の「皿山炎上」は佐々皿山に潜入した民吉と福本仁左衛門の娘いとの悲恋を描く。
「皿山炎上」はその後主演した玄海椿が一人芝居に脚色して九州を中心に上演されている。作詞・荒木とよひさ、作曲・三木たかしのテーマ曲「皿山情話」を玄海が歌う。この曲はその後嶺陽子が歌うCDに制作され、YouTubewww.youtube.com/watch?v=CIlS-XGkn6g>で聴取できる。歌詞は歌ネット動画プラス<www.uta-net.com/movie/76793/>に所載。
オペラ「民吉」は加籐庄三の『民吉街道』などを原典として創作され、  1997年、瀬戸市文化センターで上演された。同オペラは2005年の愛知万博長久手会場のEXPOホールで再上演された。
 
インターネットのデジタルライブラリー「藤澤茂弘の小説庫」所収の「焔街道 加籐民吉伝」は封建制下、藩の力の前に個人の意志を通す術のない民吉の悲哀に光をあてる。
民吉は肥前佐々の福本仁左衛門の窯で磁器製造法一切を教えられ、全幅の信頼を得て窯焚きまで任され、娘智と夫婦同様に暮らし心を通わせていた。 佐々を離れることは心苦しく、しかし瀬戸窯業復興の任を果たせねばならないと、必ず戻る約束をして佐々を離れた。
民吉が佐々を離れて数年後、智が幼い男の子を連れ訪ねてくる。 民吉は九州で習得した磁器製法を瀬戸に伝え、染付磁器焼成に成功し瀬戸は活気を取り戻していた。瀬戸焼取締役の加藤唐左衛門は、結婚して娘もいる民吉に佐々に戻れば殺され、秘法を洩らした家にも責任が及ぶと告げ、又「御三家筆頭の我藩が、有田から密かに磁器焼の秘法を探り出す陶工を送り、藩の財政改善に役立てた、など疑われるようなことがあっては、断じてならぬのじゃ」と藩の面子を理由に佐々に行くことを許さなかった。民吉は自ら生死をかけての仕事として行動していたつもりでいたが、唐左衛門が「藩のため」と繰り返すのを聞き、九州修業は尾張藩挙げての事業で、天中和尚はじめ曹洞宗の僧の協力、危険を知らせてくれた人や協力者、時々感じる尾行者の陰など思うと、自分は「藩の傀儡」に過ぎなかったのではないかと疑問を感じる。民吉は有田行きを志願し、磁器焼の秘伝を瀬戸に持ち帰り大望を成し遂げたのだと感じながら、智との再会もならず虚しさを禁じ得ない。
 
お智、許してくれ。
わしが必ずお前のもとに帰るといったのは、決して嘘ではなかった。裏切るつもりなど毛頭なかったのだ。わしにはどうにもならぬ力がこうさせたのだ。
…その子はもう五、六歳になっているはず。どんな男の子に育ったろうか。ひと目なりと会いたい。そして、お前にもその子にも心から詫びたい。
 
民吉はその年の暮れ、福本一家に贈り物を送ったが、何の便りもなかった。
藤澤は名古屋出身の元新聞記者で尾張関連の時代小説を多く手掛ける。
 
福岡県出身の詩人で文芸評論家の野田宇太郎1909-1984)はその文学散歩シリーズで民吉の足跡を訪ね、瀬戸で妻の名も刻まれている民吉の墓を確認する。瀬戸訪問から三年後佐々を訪ね、福本家の墓地に福本仁左衛門の次女のものと思われる墓を発見した。「蓮室智香善女」という戒名が刻まれている墓は仁左衛門夫婦の墓のわきにあり、天保三年(1832)と没年がある。独身で50才位で没したことが窺える。その脇に次女の子供のものか、名もない石塊の墓が転がるようにあったのを見つけた。
 
邦枝完二18921956)の『江戸名人伝』に収まる「陶工民吉」は天草の上田窯が舞台。窯に入り一年近く過ぎ、民吉は他藩から来た自分に釉かけや絵の具の調合は固く秘せられ伝授されないことを悟る。目的が果たせず悶々と悩むうちに、心が乱れ、自分を慕う窯の娘お絹に秘伝書を盗み出してもらい、駆け落ちする。
 
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「産地間の人や技術、あるいは情報の交流により、それぞれの産地で多様な製品が生み出された」、佐賀県立九州陶磁文化館学芸員徳永貞紹氏は有田焼創業400年記念の年を祝う『日本磁器誕生』展の図録に記す。開催中(2016年10月7-1127日)の同展には民吉作と伝わる「染付松竹梅文茶碗」、「染付花菱縦湧文手桶形瑞水指」が展示してある。
 
フィクションとは異なり、瀬戸と佐々は良好な関係にある。
民吉研究者加藤庄三の遺志を継ぎ、子息正高氏は庄三が没した翌1980年に佐々皿山に謝恩碑を寄贈した。高さ四メートルの大理石で「佐々皿山 加藤民吉翁習業之地」と記されている。瀬戸市は民吉が頼った曹洞宗僧侶の天草東向寺に民吉の記念碑を建てた。しかし加藤は磁器製造に移行して瀬戸の繁栄の基礎を築いた民吉に磁器の技術を伝えた佐々の窯こそ瀬戸が恩を感謝すべきと考える。加藤は1969に福本家墓地の参道入口に道標も寄贈している。
福本家の市ノ瀬窯は三代七十五年(1751―1825)続き閉窯した。皿山公園にある窯跡は長崎県指定文化財に指定されている。「民吉に白磁の技術を伝えた窯として、佐々皿山の窯跡は佐々町の誇るべき史跡である」と佐々町教育委員会の説明がある。
福本家の子孫はその後炭鉱業で成功したと伝えられる。
 
 佐々町に「佐々音頭」がある。佐々の自然の美しさ、農業、大正から昭和にかけて栄えた炭鉱産業などを歌う五番まであり、その四番に民吉が歌われている。作詞矢野洋三、作曲川上英一。町制施行七十周年記念「長崎県佐々町町勢要覧2011」(dbook-佐々町 <www.sazacho-nagasaki.jp/youran>)に所載。町の祭や小学校の運動会で演じられる。
 
アーアー昔しゃ皿山皿焼く煙りヨー
加藤民吉ネよか男
瀬戸の茶碗も有田の皿も
種がこぼれて咲いた花チョイト
さっさよかとこよい佐っ佐ソレ
さっさよかとこよい佐っ佐
 
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加藤庄三は『民吉街道:瀬戸の磁祖・加藤民吉の足跡』に、「民吉に関する芝居や小説は、身分を隠し、染付の秘法を盗みに行ったことになっているが、スパイと修業では大変な相違である。民吉は各地の寺の住職に身元証書を書いてもらい紹介状を持ち窯元に修業を依頼した記録が残る」と記す。
 
曹洞宗僧侶で愛知学院大学教授の川口高風は「磁祖加藤民吉をめぐる洞門僧」(「宗学研究」1983 3月 駒澤大学曹洞宗宗学研究所)で民吉の九州修業の各過程で曹洞宗寺院の僧が重要な役割を果たしたと指摘する。尾張藩は九州行きを許可したが、九州との縁がないため、瀬戸出身の洞門の僧に民吉の紹介を託した。
1804年、民吉は尾張大森村の法輪寺の長老祖英の紹介状を持ち、瀬戸の隣菱野村出身の肥後天草の東向寺天中和尚を訪ね、天中の紹介で天草高浜の窯元上田源作の窯に入ることが出来た。半年ほど働き、磁器製造の大体のことを教わるが、絵具、上釉の作り方を教えてもらえない為、再び天中を訪ね肥前行きの望みを伝え、佐世保西方寺の住職洞水(天中の友弟子)を紹介される。洞水に紹介された早岐薬王寺住職舜麟により江永村の福本喜右衛門を紹介され、喜右衛門の親戚の佐々市ノ瀬窯の福本仁左衛門の下で働くことになり、佐々の東光寺圭観に伴われ、仁左衛門窯に行く。
平戸焼三川内の流れを汲む仁左衛門の窯で、約二年働き磁器製造の技術のほとんどの工程を習得し、仁左衛門の息子が伊勢詣で留守の際、窯焚きまで任され、一窯焼き上げたことで自信をつける。ほぼ目的を達した民吉は瀬戸に戻りたいと告げるが難色を示され、一年近くお礼奉公の後、佐々を立つ。
佐世保西方寺に報告し、有田での錦手技法の習得の希望を頼んだが叶わず、有田の百婆仙の墓のある報恩寺に行き、檀家の堤惣右衛門の下で錦手用の丸窯作りを手伝った。瀬戸への帰路、報告と謝意を伝えるため東光寺、上田窯に立ち寄った。
川口は民吉の九州修業に大きな役割を果たしたとし、さらに二人の洞門僧珍牛と黙室を挙げる。二人の僧は共に天草出身で珍牛は国葬で送られる等、尾張藩主に破格の厚遇を受けた記録がのこる。川口は民吉が無事に磁器製法を習得出来た恩に対しての返礼と推測する。珍牛は天中を東向寺住職に推挙し、黙室が民吉を天中に紹介したと考えられるが、文書の記録は無い。川口はもし文書が存在したならば、肥前松浦藩や将軍との争いが生まれたかもしれないという。九州修業出発前に民吉父子が黙室に贈ったと伝わる獅子香炉が尾張の普門寺に残る。
川口は瀬戸の陶祖加籐四朗左衛門も曹洞宗の開祖道元と宋に行き、陶業を習得して以来、曹洞宗と瀬戸窯業の縁は深いという。
 
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「磁器の原料製法を知るというのが民吉にとって〔三川内に来た〕最大の狙いだったと思います」、金内嘉一郎、三川内窯元で陶磁工業協同組合代表理事は「肥前から見た民吉譚」(「波佐見の挑戦―地域ブランドを目指して―」長崎新聞社 2011)で指摘する。 
理由は質に問題があるものの瀬戸でも磁器を焼いていたことと、瀬戸の多くの人は民吉は佐々ではなく有田に行ったと思っているが、しかし有田は泉山の陶石をほとんど単味でつかっていたが、三川内の流れをくむ佐々では陶石を混ぜた土を使っていたため、数種の土を調合して作る瀬戸の磁土作りに役立った。民吉は天草陶石に佐世保針尾島網代陶石など交ぜ、虎の置物など細工が出来る粘り気のある土が欲しかった。そうすれば磁器の細工物ができ、有田と違ったレベルの高い焼物が出来ると考えたのであろうと云う。
 
加藤徳夫の『不況大突破 瀬戸の民吉』は銀行員の経歴を持つ経営コンサルタントの著者が『民吉街道』からの引用を交え民吉の半生を辿り、瀬戸の不況を乗り切るための技術革新と重ねる。陶業を「尾張の花」として保護した藩、奉行、代官、庄屋が力を発揮して技術革新を成し遂げ得たのは、「制度改革、政治への働きかけと活用、仲間の団結などで、いまの時代に通じる不況突破のモデルとなり得る」とする。
瀬戸では鍋島藩の御用窯を追われ、藩を出た副島勇七から製法を伝授され、民吉の親戚筋の加藤粂八、忠治が十八世紀末までに磁器を製造を始めていたと伝わるが、陶器産業を守る藩の方針で本格的には行っていなかった。
1807年、四年ぶりに瀬戸に帰った民吉は、肥前式の丸窯を築き、技法に工夫を加え染付磁器の焼成に成功した。丸窯は勾配が緩やかな登窯で各部屋は火の通りが穏やかで均一に火力を保つ。
瀬戸焼取締役加藤唐左衛門は釉薬の融剤になるイスの木の植樹をしたり、原料確保などをして陶器の本業焼から磁器の新製焼に転換する者を援助した。陶窯の次男、三男が磁器窯を開いたり、他業から新しく磁器製造に参入することも可能になった。
1814年に千倉石鉱脈が発見され、砂絵と呼ばれる呉須が採れる。唯一国産の呉須で、鮮やかな瀬戸独特の染付を生む。
「染付山水図大花瓶」、「青磁染付龍文花瓶」などは民吉作と伝わるが数は少ない。佐々時代の木の葉形皿も残る。色絵磁器はほとんど作らなかったといわれている。
九州修業の最終段階に釉薬や絵具の秘法まで伝授され、窯業を救い、地域に貢献した民吉の成功の鍵を「決意が固い、理念がはっきりしている、誠実であること」と挙げる。
                                                           
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会津本郷焼は十七世紀中葉に現在の福島県会津若松市に近い本郷で始まり、陶器と磁器両方を製産している。茶器や実用品を作っているが、近年では鰊の山椒漬けを作るタタラ作りの鰊鉢が民芸ファンの人気を集めている。
民吉が瀬戸を離れる少し前の1797年本郷で陶器を作っていた佐藤伊兵衛 (1842没 享年81歳)は磁器製造技術習得の為、肥前行きを志し、常滑、瀬戸、信楽、京都、有田、萩、伊部等一年間各地を回り技法を学んだ。京都では清水六兵衛の窯で修業した。
会津本郷焼の磁器導入も曹洞宗の僧の支援があった。
伊兵衛は大阪に立ち寄り、鍋島家御用達の布屋の紹介で鍋島家の佐賀の菩提所高伝寺に行き、有田の窯場入りの仲介を頼んだが、規則が厳しく叶わなかった。住職が皿山出身なので、伊兵衛は寺男となり窯場に通うことが出来、土の調合、釉薬、窯、道具など観察し、知識を十分得て、帰路、長崎に寄り呉須を買い求め帰藩した。1800年、伊兵衛は肥前皿山式の窯を築き白磁の製造に成功し、藩の産業として育てた。
 
瀧川雄の「陶工スパイ伝」は三川内(現・佐世保市)今村三之丞の秘技盗みを語る。
三之丞は秀吉の朝鮮の役(文禄・慶長の役 1592-96159798)に出征した肥前平戸領主松浦氏が連れ帰った陶工巨関(松浦郡中野村窯を開き、後初代今村弥次兵衛を名乗る)の子で三川内で磁器を焼いていたが、南川原で焼かれるより優れた色絵磁器の技法を知りたかった。しかし鍋島藩は秘法を守る厳しい掟を敷いていた。そこで三之丞は女房を女工として柿右衛門窯に入れ、調合をさぐらせた。
ちょうど高原五朗七(竹原五朗七)が柿右衛門窯で南京焼や白手焼を教えていた。五郎七は優れた陶工で秀吉の聚楽台に召されて茶碗を焼いていたが、キリシタン禁令が出て疑われ処刑されるのを恐れ放浪に出る。九州を放浪していた頃、1626年から四年間、柿右衛門窯に逗留していた。
五郎七は女工釉薬の原料を運ばせることにしているので、女房に五郎七のところに原料を持っていく前の重さと、五郎七が使い終わり残った物を持ち帰った時の重さを量らせた。これをもとに三之丞は絵具を調合したが、三川内と南川原(本文では南河原)では土や釉の成分が異なる為、すぐには成果は出ず、思うようなものが出来たのは、息子の代であったという。
三之丞は1633年に佐世保針尾島網代石を発見、さらに息子弥次兵衛(如猿)が、1662年に天草陶石と網代石との調合に成功して原料が揃い、三川内で磁器焼成が本格化した。
今村家の祖巨関は福本仁左衛門の祖先従次貫と同じ朝鮮南部熊川の出身。名工といわれた従次貫は豊臣秀吉に命じられ作った茶器の精巧さを激賞され福本の姓を賜ったという。
 
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福成和光の小説『かくれ赤絵師』は新聞記者が現代版色絵秘法盗みにまつわる事件を追うミステリー(平岩弓枝の同名のテレビドラマ「かくれ赤絵師」とは関連はない)。
1923年(大正十二年)、美濃で農業のかたわら焼物を焼く貧しい家の二人の少年が有田の窯元に修業に出た。 二人は出身地を隠し技術を習得し、故郷に帰ることになっていた。
60年後、東京の新聞記者が知人から割れた瓢箪型の壺の鑑定を頼まれた。 友人である瀬戸の陶芸家に持って行った所、壺の釉薬の中に人骨と同じ成分が入っている疑いがあるといわれた。瓢箪型の壺は唐津の陶芸家の個展に出たものだった。
この頃、色鍋島の贋物が出回り、真贋論争が起きていた。
瀬戸の陶芸家の義父は作陶と共に全国の窯場を廻り作品を集め骨董商店に持ち込んでいたのだが、十年ほど前、旅先で行方不明になっていた。
新聞記者が調べるうちに、義父は美濃から有田に修業に出た少年の一人源吉だとわかり、一緒に修業に出た少年喜兵衛は有田の窯元の婿養子になり窯を継いだのだが、赤絵技術盗みのうわさが町で広まり有田を逃れた。
源吉は喜兵衛が唐津にいることを突き止め、色鍋島を作らせ売りさばいていた。喜兵衛には源吉が知る、肉親にも言えない秘密があった。喜兵衛は唐津を訪ねた記者に、源吉が筆が握れなくなった喜兵衛に代わって、息子に色鍋島を作らせようとしたことで思い余って源吉を殺したと告白し、窯の方を指さした。
 
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加藤庄三は『民吉街道』の第四章「肥前有田より技術導入」を“皿山五人男”を挙げ締めくくる。
 
歌舞伎に「白浪五人男稲瀬川勢揃の場」という一幕ものがある。立派な人ならともかく、大泥棒ばかり五人が花道に並んで勝手なことをしゃべり、大見得を切っているのを見て、見物人は大いに堪能している。
ここに、碗屋久兵衛・後藤才次郎・副島勇七・佐藤伊兵衛・加藤民吉と「皿山五人男」が揃う。
稲瀬川の勢揃いの台本を見本に「皿山五人男、閻魔ノ庁三途の川の場」と題して、伝説・事実関係を問答形式に書いたら、さぞ面白かろうと思う。
 
悪役に甘んじ、時に悲惨な運命の犠牲になった五人男はじめ“スパイ”達の存在があって、全国に美しい陶磁器が生まれ、焼物産業が発展し、栄えている。
 
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『民吉街道:瀬戸の磁祖・加藤民吉の足跡』加藤庄三著、加藤正高編東峰書房 1982)、歌舞伎「明暗縁染付」の台本を巻末に付録として所収。
「焔街道 加籐民吉伝」 藤澤茂弘 <sigehiro.web.fc2.com/tamikiti1.html
「陶工民吉」 邦枝完二(『江戸名人伝』大都書房 1937
瀬戸焼磁祖加藤民吉天草を往く』示車右甫(花乱社 2015
「あたらしいやきもの―加藤民吉―」神戸淳吉(『新しい日本風土記 ぼくらの郷土(2)中部近畿』 和歌森太郎編 小峰書店 1957
「加藤民吉の旅 陶祖と磁祖」、「佐々にて」野田宇太郎『日本文学の旅 第八(東海文学散歩③山道編)』、『日本文学の旅 第十二(西日本文学散歩)』人物往来社 1968
『不況大突破 瀬戸の民吉』 加藤徳夫 叢文社 2001
「陶工スパイ伝」瀧川雄(『趣味の陶芸』 雄山閣 1938
『かくれ赤絵師』福成和光 文芸社 2010