昭和中期の有田の窯場

 
イメージ 1
 
 昨年有田焼は創成四百年を祝った。磁器の優品を作り続けた有田窯業の現場、窯場とそこで働く陶工を田中太郎と夫人の優紀子は油絵と短歌に印象的なスタイルで描き出した。
有田に暮らした洋画家田中太郎は昭和中期、二十年代、三十年代の窯場や有田の風物を勢力的に描き、日展一水会展等に出品した。
 油彩作品は「窯」、「肥前窯場風情」、「有田窯場」、「肥前有田の窯場」、「陶磁窯場」、「素焼本焼窯」、「窯出風趣」等のタイトルが付けられ、窯場の様子や働く人々の姿が描かれている。これらの作品と共に、「対山窯」、「聖陶苑」、「辻製陶窯」(写真『陶器油絵短歌作品集』より)、「柿右衛門窯」、「今右衛門工房」「深川製磁窯場」、「山徳窯」、「都山窯」、「武富窯」、「泉山貞山工房」、「舘林源右衛門窯」、「親和陶磁器窯」等、今も続く名窯の名がタイトルに入った作品も多い。100号、60号、50号等大きい画面に写実的に描かれている。
 作品の大半は窯元や有田商工会議所、有田小学校、有田中部小学校、佐賀県庁(佐賀県立美術館に委託)等の公共施設、肥前陶磁器商工協同組合、大有田焼会館等が所蔵し、展示されているものも多い。
 
陽の当たる庭の後方に瓦門が見え、大きな石組の窯とその脇で働く女性が描かれている「対山窯」は岩尾対山窯ショールームに飾られている。ここに描かれている窯場は現存しない。岩尾対山窯は現在は岩尾磁器工業が母体で、水浄化用の耐酸磁器、レリーフタイル等、セラミック工業が中心になっている。ショール―ムには有田の大物を得意とした名人轆轤師が引き、対山窯が焼成した色絵人間国宝加籐土師萌の皇居新宮殿に納められた「萌葱金襴手菊文大飾壺」(1969)の姉妹作品が展示されている。
「岩尾対山窯」とタイトルの付けられたこの窯元を描いた作品はもう一点あり、1980年出版の『陶器油絵短歌作品集』に載る。広い窓を背景に成形作業をしている男性が描かれている。
終戦直後の昭和二十四年(1949日展出品の岩谷川内の「聖陶苑」(50号)に描かれている窯は取り壊され、今は川側の後方に築かれている。後の建物は今も使われている工房と思われる。昭和三十年代生まれの窯関係者はこの場所に窯があった記憶はないという。終戦四年後の窯場ではあるが、窯の前には薪が積まれ、窯道具、鞘や素焼き作品と思われるものが山積みされ、働く人の後姿も見え、順調な復興をうかがえる。この作品は、『陶器油絵短歌作品集』に長埼県庁所蔵と記録されている。 
「辻製陶窯」(1954)に描かれる辻精磁社の細工場は増築され、窯が後方に築かれているが、太い柱と梁、製品を置く棚、粘土を練る台等は半世紀以上前に描かれた絵とほぼ同じ位置にある。長い間仕事をしてきて、最も作業のしやすい動線でレイアウトが出来上がっているのだろう。日展に出品された60号の絵には、大甕の釉薬をかき混ぜる職人、長い板に製品を乗せて運んだり、屈んで仕事をする人物が描かれている。
「有田町裏通り」(又は「御用門のある露地」)は辻精磁社の宮内省御用窯の門札のある立派な瓦門とトンバイ塀の通りが描かれている。トンバイは窯の内壁に使われ窯変した煉瓦の廃材で、これを積み赤土で塗り固め塀を築いた。古い窯元の建物が残るこの通りはトンバイ塀のある裏通りと呼ばれ有田の観光名所になっている。道巾が広がり、道路が高くなっているが、この絵が描かれた半世紀ほど前の陶都有田の風情は、今も変わらない。一水会展に出品された。
「舘林源右衛門窯」(30号)に描かれた窯場の奥に見える素焼窯はないが、右上の窯は上部と内壁一部が現代の耐火煉瓦に代えられ鉄骨で補強されて、今も変わらず使われている。 焼成中に出る大量の煙は地下を通り、外に立つ煙突から吐き出される構造になっているそうだ。窯元社長によると轆轤場は別の場所にあるが、絵の構図上、轆轤を回す職人、床に並べられた沢山の製品、道具類が前景に描かれた。制作年は不明だが、活況を呈する窯場風景となっている。窯の古伊万里資料館に展示されている。
 「泉山貞山工房」(60号)は轆轤を引く職人、製品が積み重ねられている頭上の棚、奥には大きな甕の釉薬を長い棒でかき混ぜている女性の姿を描いた静かな細工場風景。この工房は貞山窯が、共同工場で生産するようになり閉鎖された。有田町本町の馬渡クリニックが所蔵。
1956年に日展に出品された100号の「柿右衛門窯」に描かれている窯は現役で素焼き、本焼きに使われている。春、秋の有田陶器市期間に赤松を使う薪焼成が特別公開されている。窯場の屋根や周りの建物は建て直され、煉瓦は数年で脆くなるので代えられている。
この絵と1958一水会出品の60号の「柿右衛門窯」の二作品に登場する庭の井戸の水は絵付け絵具を薄めるために今も使われているという。塩素を含む水道水とは違う成分の井戸水が伝統の色を保っているのだろうか。
 1957日展出品の「今右衛門工房」(100号)に描かれている工房も基本的なレイアウトは変わっていない。中央の柱も轆轤の位置も同じで、今もここで作業が行われている。
 
田中の描く窯場や工房には静寂な雰囲気の中で働いている人物が二、三人描かれている。男性の職人と共にスカートの女性の働き手が目立つ。 伝統的に女性とされているダミ手ではなく、作品を運ぶ姿、釉薬を混ぜる姿が見られ、女性も窯業復活のために大きな役割を担っていた様子がわかる。
太平洋戦争中は量産物の製造を強いられ、技術が失われていくことの恐れもあったのだろうが、戦争が終わるとすぐに立ち上がり、その後の大躍進に繋がる昭和二、三十年代の日常を取り戻した窯場で働く人物は人数は少ないが、続々と作品が出来ている様子が伝わる。 
田中太郎(19041988)は福岡生まれ。幼少から絵の才能を見せる。1945年五月に佐世保相浦海兵団に入団するが、終戦で家族が疎開していた夫人の故郷有田に移り住み、絵画、陶芸に専念する。二科展、日展一水会展等に風景、静物等、具象画の出品を続ける。有田小学校で美術教室を開き青少年を指導した。
舘林源右衛門窯金子昌司社長は祖母に連れられ、この教室に通った思い出があるという。
アカデミックな美術教育は受けず、基本的には独学。太郎が私淑した坂本繁二郎は『田中太郎還暦記念作品集』(1964)に言葉を寄せている。
 
田中君の作品を思ふ時先づ胸にくるものはその強烈独特の色彩であるそれは抽象的に色彩斗りが誇張されたものではなく物を見られた色彩である。田中君は陶境有田に在りて陶の色彩に就ても永年実地に研究され北国方面にも独特の色彩感覚が物を言って成果があがりつつある。
 
*****
 
 乳白色たをたをと湛ふる釉薬に素焼きを浸せりをとめはもろの手に 
 
  田中太郎の妻優紀子は歌人で、窯場や有田の風物を詠う多くの短歌を残している。
釉薬かけをする女工を詠うこの歌は、呉須に焼成された歌碑「白磁の韻」となり、有田大樽の田中家の庭に建つ。優紀子の実家藤井家は祖父、父が稗古場に十二軒登り窯を経営した。 登り窯は老朽化により、1948年に取り壊された。優紀子は「短歌 陶峡」に詠む。(『陶説』日本陶磁協会 1971
 
父祖の業十二軒登りの稗古場窯ありしもいまは哀話となりつ 
 
優紀子の有田の歌の多くは『白磁の韻』短歌集に載る。『田中太郎還暦記念作品集』、太郎との共著『陶器油絵短歌作品集』にも短歌を寄せている。
白磁の韻』は1953年から1959年までの七年間の作品で、「光と音」、「白磁の韻」、「北辺」の三編からなる。「光と音」編の「柿右ヱ門の窯」に所収されている歌は1953から1955年に詠んだもので、太郎のこの窯の油絵作品と時代が重なる。
 
 陳列場の初代がなせし陶の器柿のいろひをさながらになす
 
 初代柿右ヱ門の大丼のしだれ桜やさしく描かれゐて冬陽うつり来
 
 轆轤場は素乾きの酒器のふち削り廻る蹴ろくろが須の間あらせず
 
 素乾きの彫りこまかなる女身美は真珠観音とふこの工房に成る
 
 ごす絵の具練りて練りつむ数日を練りまはす呉須に白き冬陽落つ
 
 バス待ち合う魚屋のゆふべ鰯鯖竹輪など買ふ男工員達
 
 夥しく魚買ひし小父が窯の職婦に口説きゐるなり職場変更を 
 
当時国道のバス停「柿右衛門入口」の向いに魚屋があり、仕事を終え帰途に就いた職人たちが夕餉の買い物に立ち寄ったのだろう。
白磁の韻」編の「陶の有田 文化財今右衛門窯」には19561957年作の歌が載る。
 
 藍グリーン紅が白磁の皿を彩へり陶絵の具代々秘めて継ぎたり
 
 廻る轆轤に土盛りあがり盛りあがり来て刀の触るるや須型成りぬ
 
 画工達が太き絵筆にダミてゆけばごす黒々と素焼きが吸ひあぐ
 
 寡黙にて過ごすひと日の茶の時間巷のニュース聞きてくつろぐ 
 
 晴るる朝かけつらねゐし濯ぎ物に窯の煤煙ふりかかりくる
 
優紀子は九州出身の北原白秋に師事、初め耽美的な短歌を目指した。後に木俣修の形成に参加して実生活に題材を求めた今日的な歌を詠む。「柿右ヱ門の窯」の魚屋の歌等にその傾向がみられる。白磁の韻』の後記に「木俣先生に依って歌の新分野が拓け、作品も少しずつ様相を変えてきたと思うのであるが、永い間つちかってきた対象への美的追究の態度からいまだ脱皮していないかも知れない。木俣先生の提唱にかかる人間主義的な方向が新しい時代の文学理念としてもっとも正しいものであるという信念もようやく深くなり、今はひたすら、その方向にむかって精進したいという念願に燃えている」と記す。 
 
*****
田中太郎は有田の風物や陶磁器のある静物も描いた。泉山磁石場の作品は数点あり、佐賀銀行有田支店、肥前陶磁器商工共同組合等が所蔵し、展示されている。「黒髪山」は伊万里市農業組合三階ロビーに展示されている。黒髪山は標高518メートルの奇岩が連なる険しい山で武雄市と有田町に跨りそびえる。大蛇伝説のある黒髪山を詠う村田昭典の短歌がある。(『肥前の新しい歌枕』 白鷲短歌会・潮鳴り短歌会、1991
 
黒髪山積乱雲に包まれて伝説の蛇の潜むがごとし
優紀子の母方の実家は武雄の松尾家で、母の実弟松尾将一は佐賀銀行二代目頭取を務めた。松尾家は黒髪山の大蛇退治伝説の万寿姫の後裔という。
平安末期、今から八百五十年程前、黒髪山の麓の白川の池に大蛇が住み、村人たちに害を加えていた。領主が兵を連れ大蛇退治に向かうが、姿を隠し現れない為、美しい娘を囮におびき出そうということになる。応じる者がないなか、武雄の高瀬に住む万寿という娘が、お家再興を願い、身を犠牲にすると申し出た。家臣であった万寿の父は、陰謀からお咎めにあい命を落とし、家は断絶となった。万寿が池にしつらえた棚に座り大蛇を待つと、不穏な空気が広がり大蛇が現れ一飲みにしようとした時、鎮西八郎為朝が現れ長い矢を射ると、大蛇は火を噴いて山を転がり落ちて行った。弟小太郎は褒美に高瀬の里を与えられお家は再興となったという。
高瀬(現・西川登町)に万寿を祀る万寿観音堂と父と弟を祀る松尾神社がある。
源頼朝義経の叔父にあたる為朝は乱暴者だったため、父に九州に追放されたが一帯を制覇して鎮西八郎を名乗った。黒髪山一帯にはびこる群盗を弓の名人源為朝が退治したという口碑があり、これが大蛇伝説の起源といわれる。
 
元有田商工会議所会頭で対山窯十三代岩尾新一社長は『田中太郎還暦記念作品集』に寄せた。
 
ともすれば時代の繁忙に取りまぎれて忘れられ壊ち去られ様とするトンバイ塀のかなしさ、平素見なれたつもりでも絵になれば妖しい迄に美しい磁器の肌合ひ、さりげない作業場の気付かなかった構成美、之等を丹念に制作され継続して私達の前に取り出してまなかった田中さんの毎年の労作は有田の殆どの人の瞼にありありと遺って居るのである。
 
田中太郎の絵は芸術作品であると同時に、優紀子の短歌と共に、昭和中期、戦後の復興期の伝統と技術を持つ窯場の落着きとその後の繁栄をもたらすエネルギーを蓄える静けさを感じさせる作品で、記録としても大きな意味を持つ。
 
 *****
 
『陶器油絵短歌作品集』田中太郎、田中優紀子(田中太郎 1980
『田中太郎還暦記念作品集』田中太郎(田中太郎還暦記念作品後援会1964
白磁の韻』田中優紀子(形成叢刊 短歌研究社刊 1967
肥前の新しい歌枕』(白鷲短歌会・潮鳴り短歌会、1991