吉川英治:「芸術には国境がない」
「彩情記」(別名「隠密色絵奇談」)は名匠と評判高い窯元旧家の鶴太夫の身に起きた悲劇を描く。
鶴太夫は仁和寺の宮方へ自作の献上香炉を届けるため、娘曾女を伴い京都へ行った。滞在中、侍務めが向かず芸術的な仕事をしたいという寺侍の義理の弟槇宗次郎に内弟子にしてほしいと頼まれるが、藩の難しい事情を話し断った。しかし宗次郎の決意は固く帰途に就いた鶴太夫父娘を追い弟子入りを懇願し許され、一緒に有田へ向かう。
芸術家肌で経営には無頓着な鶴太夫の窯は困窮していた。鶴太夫は長崎に立ち寄り、一度限りと藩の法度を犯し密貿易をする仲士十右衛門に自作の色絵磁器を売った。その帰りに賊に襲われ、旅を通して父娘の後をつけていた怪しい虚無僧に救われるが、槇宗次郎がこのどさくさで殺される。虚無僧は仁和寺執事の身元人別書を持つ宗次郎になりすまし有田入りする。
鍋島藩は藩の重要な財源である色絵製品は、藩印を受けなければ一切持ち出すことは許さず、技術が藩外に漏れないよう人物の往来も厳しく取り締まった。絢爛精緻な色鍋島は藩の産業として重要な財源になっていて、色絵釉の秘法が漏れると藩の財政に大きな崩壊をきたす。
偽者の宗次郎は鶴太夫の元で、誠実に働き腕を上げ、曾女と愛し合うようになる。
窯入れの前に、鶴太夫は新たに有田郡奉行となった宇佐伝右衛門に国禁を犯した罪は死して詫びると誓う献言書を血書した。そこには「芸術には国境はない」という言葉が繰り返され、「強いてそれを固守すれば、将来無数の犠牲者が生まれ、ひいては、固守する芸術も衰退してゆく」ことを力説していた。
鶴太夫は駆け付けた伝右衛門に感謝のまなざしを捧げ、舌を噛んで命を果てた。
それかあらぬか。
幾年かの後には、北陸の加賀からは、九谷焼の彩絵ものが製り出され、その他京や諸国の窯からも、三彩五彩の優雅な日本の色と姿を持った陶品(すえもの)が繚乱の花野のように産出されて来た。
それはまた、津々浦々の小さい家庭、大きい家庭の食器、酒器、茶器ともなって、われらの生活を彩ってくれた。
吉川英治文庫本版巻末に載る「『きつね雨』『彩情記』茶話」で松本昭は、「江戸初期の加賀の前田と、肥前の鍋島家との葛藤を中心に、有田焼の色絵の秘密を探って君家の為めに私生活を犠牲とした忠烈な武士にしてまた、九谷焼の祖と言われる名工後藤才次郎の伝を書こう」というのが『彩情記』の狙いである」とする「作者〔吉川〕の言葉」を引用する。
松本は昭和五、六年(1930-1931)にかけて有田で李朝系肥前古窯跡群の発掘調査が行われ、有田焼の歴史が世間の関心を集めることになり、この時期、骨董美術に興味を持ち、蒐集にも熱心だったという吉川が有田焼の歴史に関心を惹かれたのは当然だろうと記す。
しかし才次郎の事件は藩史の秘密の部分である為、資料が集まらず久しく篋底にしていたという。
「彩情記」は「婦人倶楽部」1940年一月から翌年一月号に連載された。
松本は篋底から引き出された材料が「彩情記」として生まれたのが「昭和十五年(1940)であったということは、思いがけず深い意味合いが籠められているようである」と指摘する。
あの太平洋戦争突入の前年のこと、重苦しくたれこめた時代の暗雲の下で、言論活動は著しく制約されていた筈である。そんな中にあって吉川英治が「何気なく日常手にふれている一陶器にも、かつては古人の文化的な苦闘が、どんなに積まれてきたものか」(「作者の言葉」)としみじみと感慨をもって、このドラマを綴りつつ、最後に「芸術には国境がない」という言葉を以て結んだその胸中はいかなるものであったろうか。
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吉川は「彩情記」とほぼ同じ構造の短編「増長天王」を書いている。
1927年「サンデー毎日春季特別号」に発表され、名工の聞こえの高い鍋島家の御用細工人久米一を主人公とする。六十代でかくしゃくとしていて、遊女に囲まれ贅沢な暮らしをし、誰にも屈せず、その傲慢な性格で増長天王とあだ名された。
山目付鈴木杢之進は春さきのある日、窯焚きの百助から久米一の絵描座の兆二郎が他藩から御用窯の秘法を盗みに来ている隠密だと告げられる。百助が、山目付と久米一の前で兆二郎に白状させようと迫ると、突然久米一が百助を足蹴にし、叱りつけた。
「おれの持つわざというものはな、自体こんな狭いやまだけに、秘し隠しにされておしまいになるような小さな物ではないのだぞ。芸の術が大きければ大きいほど、世にも響こう世間にも溢れで出よう。それが当然の成行きだわえ! だが兆二郎が加賀の廻し者だとは汝れだけの悪推量、娘の棗に懸想して、それが成らぬところから卑怯な作りごとをして、仇をしよう腹だろうが! ば! ばか者奴ッ」
久米一は、将軍家からの要望として、藩からあらたな献上品の注文を受けていた。なかなか制作にかからない久米一ではあったが、秋になると細工場にこもり作品作りを始めた。百助に罵られて呼ばれた「増長天王」の像と決め、「一生一品」の制作に取り組んだ。
久米一は皆が寝静まる頃になると、独り言を洩らし始める。仕事をしながら、へら使い、釉薬の調合、見ているだけでは分らない技の秘密を説き続ける。兆二郎は天井裏に忍び、小さな穴から師匠の仕事を見つめて、独り言に耳を凝らす。そして師匠は何もかも知っていると悟る。
一級の献上品を用意しなければならない藩は、機嫌を損ねた百助に大金を与えなだめ、久米一の作品を焼かせる。百助は焼成を始めたが、恨みは消えず、作品にひびが入るように火を調整していると、兆二郎と久米一の娘棗が現れ刺し殺される。二人は暗くなってきた窯に必死に薪をくべ火を蘇らせ焼き上る。
藩の掟を破った罪で捕らわれていた久米一が断罪となる日、窯が壊され中から巧緻な細工の豪華絢爛な染付の増長天王像が出てきた。「煩悩もあり、血の通っている、人間相手の陶器を焼くんだ」と言っていた言葉通りの名品だ。
山目付木之進は、窯焚きを終え国境へ急ぐ兆二郎と棗の姿を目撃した時、若い二人の前途を祈る心が湧き、飛縄する気にはなれなかった。久米一が「芸の術が大きければ大きいほど、世にも響こう世間にも溢れで出よう」といった言葉を思い出していた。
藩主は増長天像の完成の知らせを受け、久米一の助命の急便を走らせたが、久米一は刑場に送られる途中心血を注いだ作陶で命を燃やし尽くし息絶えていた。
天明四年(1784)、増長天王像は江戸に送り出された。久米一に告げた将軍家へではなく、鍋島家をにらむ田沼意知の機嫌を取り結ぶ賄賂として贈られるのだ。しかし同年三月、意知は刺殺され、増長天王像はしばらく鍋島家の上屋敷にしまわれていた。その後徳川家斉に懇望され献上したのだが、安政六年(1859)の江戸城の火事で土に返ってしまった。吉川はこの名品の数奇な運命で小説を結ぶ。
吉川はこの二つの陶工小説で、時代に翻弄されざるをえないものづくりの悲哀を描き、意志と情熱を注がれた芸術―作品は失われても、技は残る―は一国、一藩で独り占めすることはできない大きなものだと繰り返す。
吉川の肥前陶工小説にはもう一つ、伝説的名細工人副島勇七を描いた短編がある。
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