江戸市中の「有田」 (1)


 1616年に朝鮮陶工李参平が肥前有田(佐賀県)の泉山で良質の磁石鉱を発見して以来、有田、秘境大川内山に藩窯が置かれた伊万里は窯業の中心地となり、色絵磁器の優品を作ってきた。伊万里の港から積み出されたことから、この地方で作られた焼物全般は伊万里焼きと呼ばれた。海外文化にも影響を及ぼした伊万里焼、豊かな歴史を持つ有田、伊万里の窯業、そこに働く陶工の人生は多様なテーマで文学に描かれる。

  山本一力の江戸を舞台に、武士や商人、職人など様々な階層の人々の人生の断面を描く時代小説の中に有田焼にまつわる作品がある。輸出磁器として台頭した有田焼だが、国内でも赤絵は高級食器として人気が高く料亭などで使われた。高価な有田焼は金儲けをたくらむ者により時に不正に利用された。
山本の最新作『紅けむり』は有田と江戸を舞台に、幕府禁制の火薬、塩硝(焔硝)を密造する一味と隠密の戦いを描く。 塩硝が有田で密造され、江戸に運び込まれようとしているという噂に、隠密が放たれる。塩硝は密造が明らかになれば藩取り潰しにもなる。有田皿山の薪炭屋の若店主は隠密の密造団捕縛に協力する。
 
 物語は寛政八年(1796)元旦、初詣で賑わう有田皿山の陶山神社から始まる。前年、有田焼 (山本は「海外では、積み出し湊の名にちなみ、伊万里焼と呼ばれた」と注を付ける。江戸でも伊万里焼と呼ばれることが多い)の輸出を一手に担ってきたオランダ東インド会社が閉鎖され、不安な気持ちで冬をむかえた皿山の人々に、師走に江戸から吉報が届いた。
 
「来年春までに手代三名を同道のうえ、仕入れ商談に伺いたく存じます。 江戸日本橋駿河町 伊万里屋五郎兵衛」
 
飛脚便を受け取ったのは伊万里湊の焼物問屋、東島屋伊兵衛。長崎の中国人から伝授された赤絵の技法を初代酒井田柿右衛門に伝えた東島徳左衛門の血筋のものだ。大きな商談に違いないとみた伊兵衛は有田の出店に伝え、皿山の人々を喜ばせた。
江戸から来る大きな商売に期待を膨らませ、焼物景気が盛り返すよう祈願する人々が陶祖を奉る陶山神社に詣で、町に繰り出した。皿山の薪炭屋山城屋では窯焼きから大量の注文が入り、元旦から薪割りを始めている。
 
江戸・日本橋駿河町、市中一番の呉服屋越後屋のある本通りから一本裏の通りに伊万里屋がある。 伊万里焼(有田焼)の大問屋で、初代五郎兵衛は伊万里から江戸に出て1661年焼物問屋を創業した。創業は越後屋より一回り古く、当主も奉公人も伊万里屋が駿河町の元祖と自負し、越後屋のある本通りは裏だと思っている。六十名余りの奉公人を使い、五十畳の売り場座敷で商談を行っている。
正月の皿配り、商品の初納めは老舗大店にふさわしく華やかで人目をひき、伊万里焼の人気とブランド力が伺える。
正月八日、伊万里 屋には千人近い女房の群れが駆け付けている。皿配りが始まるのだ。前年寛政元年(17899月、旗本、御家人の借金棒引き命令の棄損令が出て、札差は大きな損失を出し、その影響で江戸は不景気に落ち、重い空気が流れていた。そんな中、伊万里屋は料亭が注文を取り消して余った200枚の小皿を縁起担ぎにと振る舞った。皿配りは恒例行事になり、多くの女が押しかける。
 
「江戸では名の通った焼物がもてはやされ、とりわけ伊万里焼は特有の赤絵が上客に好まれている。評判が高まるにつれ、伊万里焼の値もうなぎのぼりだ」
 
 小皿は、料亭へは一枚三百文で納める段取りだった。おなじ大きさで、江戸に近い笠間の皿なら一枚二十文だ。伊万里焼の値打ちはその十五倍ほどになる。
 正月十日に伊万里屋は得意先の料亭、本郷菊坂の花ぶさに初納めをする。大皿十枚を含め新しい伊万里焼、二百三十七両分を荷車三台に載せ運んだ。雪の中、伊万里屋の組頭と手代は揃いの濃紺の綿入れ半纏に深紅の襟巻きをし、道中笠をかぶり、車引きに同行する。
花ぶさに向かう途中、伊万里屋の組頭の誠吉が不審な事故で足を骨折する大怪我を負った。
 伊万里屋五郎兵衛はこの事件と噂に聞く伊万里焼の偽物造り一味の関わりを疑う。一味は伊万里屋主人と手代が有田に仕入れに行くのを阻止しようと同行予定の番頭に重い怪我を負わせたのではないか。五郎兵衛は頭取番頭四之助に語る。
 
 「焼継屋が、裏で大層な繁盛ぶりだというのは、おまえも知っているだろう」
 「存じております。傷物の伊万里焼を、法外な高値で売りさばいていると聞き及んでおります」
 「連中は焼継品のみならず、まがいものをも裏の伝手で流しているそうだ。七日の寄合で、それを耳打ちされた」
 
五郎兵衛に耳打ちしたのは焼物屋の越前屋で、出入りの土問屋の手代が旅先のいくつもの旅籠で「微妙に様子のおかしい赤絵」の器に気付いた。旅籠の女中は「ここいらに泊る客は、伊万里焼というだけで目を丸くするでよ。偽物でも安けりゃあ、うちらは重宝するがね」と言い、伊万里焼の偽物を使っていることを認める。 賭場を仕切る六蔵が、伊万里湊の蔵番と伊万里屋の手代を唆し手に入れた物を関東の国々で売りさばいている。
 
有田では、見慣れぬ黒装束の武家集団の姿が目撃されていた。幕府御庭番吉岡甚兵衛他四名の隠密が塩硝密造の諜報活動を行っているのだ。
 
伊万里周辺には塩 硝(爆薬)の密造一味が潜んでおる。密造された塩硝の多くは江戸に運び出されておる」
 
隠密のリーダー吉岡は、爆薬の塩硝が邪心のある者の手に渡れば戦国の世に逆戻りしてしまうので、塩硝の道を根元から断つべく江戸に向かうと言い、江戸に通じている山城屋健太郎に協力を求める。山城屋の跡取り健太郎は、薪造りの新しい技法を学ぶため五年間江戸で過ごし、江戸の女と結婚した。健太郎は「今の世の安泰を保つために身を挺して働いている」と言う吉岡の意気に感じ、藩の安泰のため協力を決断する。
 塩硝は焼物に紛れこませ梱包され伊万里港に運ばれている時、隠密の犬が嗅ぎつけた。密造団一味は塩硝を爆発させ逃走をはかったが、隠密の襲撃で一掃された。江戸での塩硝の受け取りの実態を把握するため、伊万里焼の回漕船に扮した隠密船が江戸へと向かう。この船に健太郎、妻、女中も乗り込んだ。江戸入港目前、不用意な事故により塩硝は破裂。受け取る側も命を落とした。伊万里焼の偽物造りにも関わるこの一味はその後内輪もめで自滅した。
伊万里屋が火薬の買い付を企てたという顛末で事件を終わらせようとした、江戸御蔵の御庭番頭領は健太郎等の共犯を疑い拷問にかけた。健太郎は自分の命のみでなく妻と使用人の命をも失う覚悟で伊万里屋の無実を主張し、事実を曲げなかった。真実を見抜いた若い御庭番が御庭頭領を納得させ健太郎の無実、伊万里屋の無実が明らかになった。
 
皿山では目出度いことがあると、登り窯からさくら色の煙を立ち昇らせる。これを紅けむりという。三月初め、山城屋の窯から紅けむりが立ちのぼり続けている。「伊万里屋が大量買い付けに出向いてくる」、「山城屋の健太郎も同じ船で戻ってくる」。噂が知れ渡り、皿山に活気が戻ってきた。
 
 公儀御法度の爆薬密造団の捕縛がテーマである長編小説で、有田が浮き彫りにされている。有田焼色絵の人気、金儲けの対象となる高価な有田焼、焼物問屋の繁栄などに、江戸市中で「有田」が確固とした存在感を放っている様子が描きだされる。有田、伊万里で暮らす人々、江戸で暮らす肥前出身の人物も登場し、其々個性的な役割をもち、交わり、又対峙して幅と深みを与えて、普遍性を持つ物語となっている。
  
山本は皿山の人々の生き方、その矜持を「ひとこそが財なり」という言葉で説明する。
 
皿山は焼物の町である。窯焼から絵付けまで、その分野の技量に秀でた職人が数多く暮らしていた。
住民の数はさほど多いわけではない。しかし職人はだれもが、余人をもって替えがたい技量を有していた。
ひとこそが財なり。
皿山の住人はこの言葉を胸に抱き、老若男女を問わず、だれもが強くて大きな矜持を持って生きていた。 
 
い拷門を受け大怪我を負った薪炭屋野屋の息子の治療に当たった町の名大川総徳、山城屋の健太、塩硝の密航をる野屋松右衛門等、皿山人が描かれ
 
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高価な美術品があれば、金儲けを企む者が現れ贋作が作られ、偽物が出回る。有田焼もこれらの悪事から逃れられない。
 山本一力の「損料屋喜八郎始末控え」シリーズは江戸を舞台に難事件を解決する元北町奉行同心喜八郎の活躍を描く。喜八郎は損料屋に身をやつして、奉行与力秋山の補佐をする。「赤絵の桜」とその前篇ともいえる「寒ざらし」(文庫判では「ほぐし窯」と改題)で喜八郎は有田焼の偽物で大儲けを企てる一味と対決する。 
 寛政元年(1789)に旗本、御家人等が札差に負った借金の棒引き令である棄損令が出され、札差は多額の債権を失い、江戸中不景気風が吹き荒れる。そんな時代に、江戸北東の郊外、田畑が広がる押上村に大規模な窯風呂ができた。寛政三年(1791)二月のことだ。
「寒ざらし」では喜八郎が江戸郊外の押上村に出来た窯風呂の正体を暴き対決する。
八部屋の窯風呂は小山の斜面に沿って登窯の様な造りになっている。ほぐし窯と称するこの窯に不審を抱いた喜八郎は配下の調べで、一番上の八番目の窯は柵で囲われ、下の窯とは違う上等な薪を使っていることや、有田、伊万里とその周辺出身の焼物に係わる者が出資していることを突き止めた
 
 「目つきのきつい窯焚き」[]
 「火加減を見ながら、薪をくべ続けてやした。ほかの窯焚きと違って、ここだけは形の揃った薪です。くべたあとも、いっときも火から目を離さねえんで」
 
配下の者は報告した。山積みになった薪は、値の張る赤松で強い火力が必要な磁器窯で使われるものだ。
 窯風呂を作った薪炭屋鋏屋森之助は三代目で初代が肥前国から江戸に出て店を開き百六十年になる。五代目青山清十郎の先祖初代は有田生まれで磁器の目利きを身に付け、野心を抱き江戸に出て焼物吟見方同心職で召し抱えられた。三代目の時代に幕府は御殿焼物師を城中に抱えたので、青山家の焼き物吟味の御用は無くなっている。鋏屋と青山家の交流は代々続いている。前年本郷に焼継屋を開いた有田屋吉右衛門肥前出身だ。
札差である米屋政八はこの窯風呂に出資する青山清十郎に三千両を用立てた。
喜八郎は一番上の窯を焼物の窯にして傷物の伊万里焼を焼き直し、箱書を偽造して正価で売る企みが隠されているとみた。 赤絵を用いた高級な有田焼(伊万里焼)は鍋島藩の重要な収入源なので、技法が他国に流出しないように、轆轤引き、絵付け師、窯焚きと完全な分業制で職人一人では作れないが、窯があり職人がいれば、修善できる。
 
 「鋏屋たちが狙っているのは、傷んで値打ちをなくした焼物を集めて焼継しあたかも新品のように売りさばくことです。有田屋が『ほぐし窯』の隠し窯で焼継した焼物に、青山清十郎が箱書すれば、伊万里焼として通用します」
 
喜八郎は磁器などの献上で幕府に味方の多い鍋島藩も絡んでいるので、表沙汰になると奉行与力では収拾できなくなるので、発覚する前に止めるよう米谷政八に掛け合わせることにした。発覚すれば、融通した三千両も帰ってこないし、縄に打たれる羽目になると言われ、政八は引き受ける気になった。
 
「赤絵の桜」は三代目酒井田柿右衛門と箱書のある皿をめぐる物語だ。
 深川の小料理屋、纏屋の主人富蔵は、ほぐし窯が開業した二月の晦日、堀にかかる橋の上から男が包を投げ捨てるのを目撃した。追って捉えると、練り足職人(空気を抜くため陶土を足で踏み込む職人)の長太郎だった。長太郎が持っていたもう一方の木箱には桜の花弁が描かれている皿が入っていた。ほぐし窯で湯女をしているつれあいが窯風呂から褒美にもらったものだと言う。
ふたの裏には『三代目酒井田柿右衛門』と箱書がある。富蔵の店を訪れた札差の伊勢屋四郎左衛門は皿の裏の銘を見てから、形や絵付けを詳しく見定めて、「三代目柿右衛門は、万治三年(1660)年ころからが盛りでした。箱書によれば、この絵皿は三代目柿右衛門の仕事ということになりますが、……」真っ赤な偽物と断言した。ほぐし窯で偽物造りは続けられている。
 三代目柿右衛門の時代は、濁手素地の柿右衛門様式が確立した頃で、作品に銘はない。焼き物に通じている伊勢屋は皿の裏に濁手が途絶えた数代後から使った渦福あるいは他の銘を見たのだろうか。既に江戸時代から、破格の初期柿右衛門作品の偽物を造り金儲けをたくらむ者が横行した。
 
 「箱書きされた焼物なら相当の目利きでない限りは本物だと鵜呑みにします。たとえ焼継された絵皿であっても、それが三代目柿右衛門の作であれば、途方もない高値で売りさばけるでしょう」
 
ほぐし窯が築かれた押上村の地に、今はスカイツリーが立つ。
 
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『紅けむり』山本一力 (双葉社 2014、初出「小説推理」2004年2月号―2013 6月号)
「赤絵の桜」 山本一力(初出:「オール読物」20046月号、『赤絵の桜』文芸春秋 2005、文春文庫『赤絵の桜』 文芸春秋 2008
「寒ざらし」 山本一力 文庫判では「ほぐし窯」と改題 (初出:「オール読物」20042月号、 『赤絵の桜』文芸春秋 2005、文春文庫『赤絵の桜』 文芸春秋 2008