小西来山の「女人形」(2)


  江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌などを紹介する。
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大正三年(1914)六月、東京の歌舞伎座で「来山」が初演された。「来山」一幕一場 今宮十萬堂の場は、「名工柿右衛門」の作者榎本虎彦が書いた世話物狂言で、小西来山を主人公に、俳人にまつわるエピソードを織り交ぜ、愛玩した色絵人形を登場させる創作劇だ。「名工柿右衛門」(1912年初演)と同じく十一代片岡仁左衛門のために書いた来山の有名な俳句や俳文「女人形記」からの引用が台詞に入る。
台本のト書きに、小道具として焼物の女人形がある。 
 
今宮来山庵の場     本舞台真中に四間常足の二重、三方竹縁、藁葺屋根、よき處に白字にて、十萬堂、と書いた木の額、正面上手床の間、続いて塗壁、下手二枚の襖、光琳の絵、竹縁、上手へ折廻して九尺の附屋体、障子を〆切る、矢張り藁屋体、風雅を極めた建物、平舞台いつもの處に枝折戸、垣根、此の外正面今宮の在家を見せたる秋野の書割、枝折戸内、庭の心にて飛び石、灯篭、秋の七草の下草等よろしく、二重に文台、料紙、硯箱、茶道具等を置く、よき處に焼物の女人形を置く、都て今宮の来山庵の体よろしく。時刻は七ツ下り、古風な唄にて幕開く。
 
初演の舞台写真(上・「演芸画報」大正三年七月号)、来山の部屋の床脇棚に焼物の人形が飾られている。仁左衛門が来山、市川松蔦が芸子小ふじを演じた。大正十四年(1925)十月の歌舞伎座公演の写真(下・「演芸画報」大正十四年九月号)でも片岡千代之助の小西清兵衛と中村福助の小ふじが向かい合う背後に脇息に肘をつく人形が認められるほか、番付のイラストにも人形の置物が描かれている。
 
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 物語は浮世を離れ俳句三昧の生活を送る来山(号・十萬堂)の庵で展開する。薬種問屋を継いだ甥の清兵衞は遊郭通いで商いに身が入らず、遊女小ふじとの結婚を望んでいる。来山は父の知れない遊女との結婚は店の名に傷がつくと心配する番頭に頼まれ、甥に諦めるよう諭すうちに、小ふじは、来山が若き日に夫婦の約束をしたものの義理に迫られ別れた芸子との子とわかる。素性がわかり小ふじと清兵衞は晴れて結婚することになる。
 
小ふじに横恋慕し、強引な薩摩の侍がいる。拒まれた侍は来山の庵に逃げ込んだ小ふじを見つけ、刀を抜き切りつけようとする。来山は、女を殺せば自分は切腹、それほど大きな代償に値する女はいないと侍を戒め、代わりに人形を切るようさしだす。
 
来山 、、、、世間一通りの女は此の人形の様に上に五色を彩って美しう見せかけても、中は土塊同然。それに男の魂を打込んであたら命をさゝげるは大きな阿呆。この来山も訳あつて浮世の女は皆水臭いものじやと見限って土人形の色娘、[]此の方が余程罪が無うて良う御座ります。 あなた様もまだお年若、お国には親御さんも御座ろう。さりとては御不料簡、抜いた刀は血を見ずに元の鞘へ納まらぬと云う事なら、此の人形を真二ツ、それで御勘弁なされませ。
 
来山に諭され薩摩の侍は冷静さを取り戻し庵を去る。
演芸画報」大正三年七月号に作家岡本綺堂の「歌舞伎座を観て」に初演の批評が載る。甥の放蕩を諭したり、若い頃の情人の消息を知り悲しい行き違いを想う「しんみりとした味が舞台の上に出こじれた気味」があったと評価は余り高くないのだが、「肝腎の土人形もモウ少し働かす工夫がありそうに思いました」と批評を展開する。
中山白峯は大正七年(1918)五月、大阪中座の公演の批評「六代目璃寛襲名劇」(「演芸画報」大正七年六月号)で「土人形を出して薩摩武士を戒める警句は来山のお伽人形の俳文を生で聞くようでもあった」記す。
 
 物を云わず笑はぬかはり、腹も立ねば悋気もせず、蚤や蚊の痛みを覚えねば、いつまでも居坐ひ崩さず、夏は撫でるに心地よく、冬は爐のもとを離れねば好い加減に暖もる、物に障らずば千歳経るとも代らぬ姿、この来山が亡き後の若後家更に気遣ひなし、此方が余程罪が無うてようごさります。  
 
天留遠の上演の記録「小西来山 (芝居見たまゝ)」(「演芸画報」大正七年六月号)によると、中座公演の来山が薩摩武士を諭す場面ではオリジナル台本にはない「女人形記」からの引用(上記)が ◎印の所に追加された。
人形は脇役ではあるが、舞台を盛り上げ、「女人形記」や句の引用は台詞を簡潔で豊かなものにしている。
 
来山 此方は生きた女房、わしは土人形の色娘、ア、浮世の夢は、味なものじゃなア。
土人形を見て思入。 清兵衞と小ふじは嬉しき思入。 、、、、
 
幕は下りる。
榎本虎彦は、来山が愛蔵した柿右衛門婦人像、そのモデル吉野太夫に纏わる事実と伝説を巧みに取り入れ、物語を展開した。小ふじは吉野大夫に、来山の甥清兵衛は太夫身請けし結婚した佐野紹益(本名重孝)に重なる。吉野の伝説、来山の人形観、色絵人形が共鳴し、観客のイマジネーションを膨らませる。好事家だけでなく、芝居や俳諧を楽しむ町人の間にもそれらは受容され、そのイメージが浸透していたと推測される
 
演芸画報』大正七年六月号に載る「中座の楽屋廻り」で著者青一味は、1918年五月に大阪中座で「来山」上演中の十一代片岡仁左衛門を訪ねる。楽屋の脇床には小道具に使われる女人形が置いてある。
 
たしか噂によれば大阪の去るヒイキ先が仁左衛門に本当の来山遺愛の女人形と来山自筆の女人形記とを贈ろうとしてゐさうだ、この二品は二三所持者があるが河内の某家にあったのが眞物だとかいふこと、それが入札に出たのを某好事家が買って秘蔵してゐる、それを是非に懇望して仁左衛門にやらうといふのだそうな、その話を問えば、
 
 「まだくれはりまへん、もうツイくれはりまつしやろ。」
 
来山の人形は河内八尾の西尾家から大正四年1915の二百年忌に出品されて以降、確かな所蔵者の記述は現段階で見つけられていない。来年2015年は来山三百年忌にあたる。二百年忌には多くの研究者により研究が進み重要な事実が確認された。三百年忌にあたって研究の画期的成果に期待する。
 
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平安時代陰陽師安倍清明の父安倍保名が自害した恋人の形見の小袖を持ち菜の花の咲く春の野を狂い彷徨う情景を描く歌舞伎舞踊の名曲、清元「保名」の歌詞に小西来山の俳文「女人形記」の語句や俳句の一部が取り入れられている。
「保名」は竹田出雲作の人形浄瑠璃蘆屋道満大内鑑」(あしやどうまんおおうちかがみ)の二段目「小袖物狂ひ」を粉本とする人気演目で、坂東玉三郎片岡仁左衛門市川海老蔵等、多くの歌舞伎役者や日本舞踊家がしばしば上演する。
菜の花が一面に咲き誇り、満開の桜の木が立つ舞台に、みだれ髪に物狂いを表わす紫の病鉢巻を巻き保名は登場し、恋人の形見の小袖を持ち悲しみに沈み茫然と彷徨う。そしてふと立ち止まり台詞をいう。
 
「なんじゃ 恋人がそこにいた ドレドレドレ エ、また嘘いうか わっけもないこと言うわやい」
アレあれを今宮の 来山翁が筆ずさみ 土人形の色娘 高根の花や折ることも 泣いた顔せず腹立てず 悋気もせねばおとなしうアラうつつなの妹背仲
 
篠田金治の詞は保名の台詞の後に「アレあれを今宮の、、、、」と「女人形記」からの引用を続ける。保名は彷徨う場面から我に返ったように、来山と人形を表わすしぐさの振り付けで踊る。
「保名」の筋とは全くは関係ない「女人形記」からの引用の詞が、突然挿入される。
国文学者で文部省唱歌の名曲、「春の小川」、「故郷」等の作詞家高野辰之は『日本舞踊全集』第六巻の解説で、「現代の作家にはできない無法の筆運びだが、これは文政時代の狂言作家の態度なり」と記す。
「全体の上から見てどうしても名文と評する事は出来ないが、文句に十分の働があり、含蓄の多い句を列ねてあるので、踊りの手をつけて振事にするには極めて便利にできてをる」と評価する。
『睡余小録』で河津吉迪が指摘するよう、「女人形記」全文を読む人は多くは無かったはずだが、来山や「土人形の色娘」のイメージは広く浸透し、町人達の娯楽である芝居や語り物に取り入れられアクセントになっている。柿右衛門人形も庶民にとって身近なものであったとは思えないが、色絵人形が現在考える以上に沢山生産され、庶民の手の届く所にあったのであろうか。
蘆屋道満大内鑑」1734年大阪竹本座で初演、歌舞伎化もされ通称の「葛の葉」として知られる。物語は安倍保名、清明の親子と蘆屋道満との陰陽道の秘伝書をめぐる対立を描く。清明は保名が助けた白狐が姿を変えた娘と結ばれて生まれた子で、白狐から特別な力を与えられている。
清元「保名」は江戸時代後期、1818年三代目尾上菊五郎が江戸都座で初演。その後上演は途絶えていたが明治になって九代目市川団十郎が復活した。大正末期六代目菊五郎が新しい演出、振付で抒情的に踊り、踏襲されて人気演目となった。
 
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「来山」榎本虎彦(『世話狂言傑作集』第五巻 榎本虎彦の巻 春陽堂 1925

「小西来山」(芝居見たまゝ)天留遠、「中座楽屋廻り」青一味、「六代目璃寛襲名劇」中山白峯(「『演芸画報』大正七年六月号 演芸画報社 1918
歌舞伎座を観て」岡本綺堂(『演芸画報』大正三年七月号 演芸画報1914
写真:演芸画報」大正三年七月号、大正14十四年十一月号(演芸画報社)
   ☆写真は演芸画報誌所蔵の公益財団法人松竹大谷書館許可を得て転載
「清元 保名」初代清元斎兵衛作曲、篠田金治作詞(『日本舞踊全集』第六巻 日本舞踊社 1982
「清元~青海波・保名・三社祭浄瑠璃 清元登志寿太夫、三味線 清元那寿他(コロンビア 1998