「美とはなんだろう?」

  2000年八月から翌年六月まで朝日新聞の朝刊に連載された村田喜代子の『人を見たら蛙に化れ』は北九州の田舎町で開かれる市に集まる骨董を生業とする三組の男女の物語を北九州、山口、ヨーロッパを舞台に描く。村田はこの小説は「美とはなんだろう?」という謎によって生まれたという。贋物、キズ物、盗掘品まで入り混じり、「美が売り買い」される骨董の世界で、「美とは何だろう?」という謎を追う。
タイトルの『人を見たら蛙に化れ』は美術評論家で骨董品の目利きとして知られる青山二郎19011979)が、外出する時、大切なお宝に向かって言った言葉といわれる。お宝を他人には知られたくないので、蛙に化けてトボケていろという意味だ。村田は「あとがき」で、この通説と共に小林一茶の句「人来たら蛙となれよ冷し瓜」を紹介し、人間の物への占有欲と蛙の取り合わせが面白く、タイトルとしたと記す。
 
大分市から車で三十分ほどの国道沿いの小さな町、荒田で十一日の骨董市が開かれる。古唐津の壺、古伊万里や古九谷の皿、漆器、掛け軸、使われなかったデパートの進物食器、もろもろの古道具が出品される。五月の市の最後に、元禄人形が競りに掛けられた。
 
どうするか、一瞬、建吾は迷った。元禄人形には写し、つまりニセモノが多い。たが首こそ継いでいても、これは本物だ。現代から見ればぼってりした醜女顔だが、それも逆に魅力となっている。当時の鑑賞用陶磁器で、人形の美しい衣装が特徴である。
着物は薄黄の小袖で、金茶の波に赤い小花が散っている。その上に重ねた打ち掛けは、白地に雪輪と菊花模様。
 
 「元禄人形。安からいくぞ。二万!」と競り子の声で始まり、五万五千円まで値がついた時、久住高原で骨董店を営む馬爪建吾は、「六万」と大きな声をかけ元禄人形を競り落とした。
家に帰り、建吾は寝床の上でコップ酒を飲みながら、人形の包を開いた。
 
ガムテープを剥がし幾重にも巻いた新聞紙をひらくと、白いとろりとした地肌の人形の顔が出てくる。続いて立膝に座った女の全身が現れた。
 
汚れ布団の上に人形は建吾と向かいあっていた。灯火に鮮やかな衣装が水を浴びたように光る。江戸が生きている……。独り暮らしの乱雑な部屋に、そこだけ江戸の色絵磁器の光彩が取り巻いていた。
これが柿右衛門手か。
 
それから人形の首に目を落とす。膠で継いだ跡が首輪のように白い喉元を巻いていた。ポッキリと折れたようである。枕元に人形を置いて布団に腹這いになると、建吾はしばらくその顔を眺めていた。
女房と別れて三年になる。
ぼってりした顔立ちがどことなく似ているが、こちらには福々しさがあった。
 
骨董品は家に持って帰って見た時、正真の姿が見えるという。建吾にも人形は市で見たときよりも、はるかに優品に見えた。
江戸中期の大阪の俳人小西来山もその俳文「女人形記」に片膝を立て脇息に持たれた柿右衛門人形に魅了され、楽しむ様子を余すところなく記している。
柿右衛門手の元禄人形は完全な形なら一千万円はする。首が折れている致命的破損があるので六万円で落札できたのだ。
馬爪はこの人形を福岡市に住む医大の解剖学教授加納に四百万円で売った。骨董愛好家で、首のないはにわ、口が欠けた信楽の壺など集めている壊れ物マニアの教授は、人形を膝に抱き見惚れている。
 
「何という色気だ。完品よりも情をそそる……。傷という物は美しいよ、君。無残なぶんだけ哀れでいとおしい。首吊り心中の片割れみたいな風情じゃないか。凄艶だよ。」
 
建吾の別れた妻富子は北九州市でアクセサリーなどを扱うアンティークの店を持つ。西洋骨董に興味がある富子は建吾をヨーロッパ旅行に誘う。
十七世紀、柿右衛門の華やかな色絵磁器はヨーロッパの人々を魅了し、人形も数多く輸出された。ロンドンの高級古美術店で、完品の人形は千三百万円の高値がついているが、多くは首が折れたり、手が欠けたりしたキズ物で、売ることが出来ず個人の家の地下室に放ってあるという。
博多の洋物骨董商で、イギリス、イタリアに詳しい鮫島を案内に、建吾は富子と共にヨーロッパへ旅立った。建吾はこの旅で二体の柿右衛門手の人形を手に入れた。
イギリスを立ちローマに滞在中、鮫島から紹介されたオックスフォードに住むイギリス人婦人から建吾にダンボール箱が届いた。中から濁手の肌に切れ長の目がほほ笑む元禄人形が出てきた。首、胴体、右手の三つに割れている。同封の手紙には、「故国に帰りたがっている人形が見つかりました。近所の友達が自宅の屋根裏から探し出した物です。馬爪さんへよろしくとの伝言です」とあった。
もう一体はフィレンツェ中央駅の近くの骨董品屋で手に入れた。アジアの陶磁器に疎い店主は「日本製の聖母マリア像」と思いこんでいる。破損はなかったが右肩から腕にかけて六、七センチのひびが入っていた。七百リラ、日本円で約六十万円で買った。
 
 帰国後建吾は解剖学者加納を訪ねると、加納は「壊れたものには命がない」と柿右衛門人形の返品を申し出た。建吾は壊れたものにも命があるからこそ、金継ぎされた茶碗等が名宝として大切にされているのではないかと問う。
 
 「首折れは、死体と同じなんだ。いくら愛情を注ぎ込もうとしても、一緒に抱いて寝ても、命の失せた死体なんだ。虚ろな人形の体が僕の想いをはねつける。布団の中で人形はしんしんと冷えた、抱いているぼくの体までその冷たさに凍えていくんだ」
 
加納は学会で京都に行った折に、完品の元禄人形を見つけそれを買いたいと言う。母と二人で暮らすこの教授は、「人形が待っていると、家に帰るのが楽しい」とまで言っていたのだが、楽しみ料三割を引き二百八十万、無理なら二百万でいいといい、人形を強引に返してきた。
元禄人形を求めて行ったヨーロッパ旅行で金は使ってしまった。旅費や仕入れのための金を融通し一緒に旅をした富子は、旅が終わると建吾から離れていった。
 
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馬爪建吾が荒田の骨董市で買った元禄人形はハタ師飛田直彦の荷から出たものだった。
ハタ師は店をもたず、旧家に眠る骨董や古道具を買い集めて全国の市に出し利鞘を稼ぐ。妻の李子は目利きのハタ師の父親の商売を見て育ち目を肥やした。
大宰府に住む二人は、店を閉めた老骨董屋からダンボール箱一杯の骨董を只同然のような値で買い取った。韓国人の女が持ち込んだもので、その中の古道具が包まれていた古い紙が李朝前期の民画とわかる。朝鮮半島の放浪の絵師が一宿一飯のお礼に描いた自己流で大らかな絵で、祭礼や年中行事に飾られ、古い物は高値がついていた。 
民画はダンボール箱から七枚出てきて、湯布院の老舗温泉旅館、久住高原の長湯温泉宿泊の若いカップル、京都の市等で売り約四百万円になった。湯布院の旅館は、主人自身用と民画に心を打たれ、寮の部屋に飾りたいと言う美術大学生の息子の勉強の為にと二点買った。息子はその場で、民画に倣って太い幹の枝に咲く大きな赤い花のある絵を描き、「好きだわ!」と、褒めた李子に贈った。
その後、李子は乳癌と診断され手術を受ける。術後のリハビリや抗ガン剤治療の副作用は辛いものだった。李子は病室で「骨董の功徳」を語る。
 
  「李朝の壺の雨の朝みたいな雲った白……。綺麗やなあ、と思うと胸が一杯になるわ。その幸せな気持ちをゴクッと呑みこむ。薬一粒より効くみたい。」
 
「良い物の有難味はね、それがもう客の手に渡ってしもうた物でも、思い出せばありありと目に浮かんでくることやわ。酒匂さんに売った李朝民画は良かったねえ。あの花の赤の迫力。途方もない構図。思い出しとると、胸が一杯になって震えてくるわ」
 
「しがない商売でも、何度か良い物に巡り合うてきたわ。それを一つずつ取り出して見るの。一つで薬一粒分。ううん、薬よりずっときく」

美しい物、良い物はそれを見たときの感動は消えない。飛田もこの感動が残り、蘇るからこそ、この商売を続けることができるのだと思う。
「美とは何だろう!」村田は李子に謎の答を語らせる。
李子の治療費はかさみ、切羽詰まった飛田は湯布院の旅館の息子の描いた絵を李朝民画と偽って売った。売り先が県内の温泉旅館だった為に発覚し、詐欺罪で逮捕された。夫が刑を務めているので、病後の李子は独りで仕事を始めている。
 
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「[佐賀]県内の古窯跡はもう三百ほども発見されとるが、わしはまだ出るとにらんどる。というのも隠れ窯だけでも、四、五十は埋もれとるはずじゃ」と、ベテラン掘り師の寺西は県内の窯跡に精通する。隠れ窯とは薪の松の伐採で山が禿げるのを防ぐ為、藩が窯数を厳しく統制していた時代、鑑札を持たない業者が密かに築いた窯で、史料に記述はない。
窯跡を発見すると、ダンボール箱に二、三十個分の陶片が出て、絵がらの好い物なら破片でも万の値がつくという。焼成に失敗した製品が捨てられる物原は埋蔵品が多く、潰れ窯の跡からは完品にちかい物も出る。軽い欠損品は金継ぎでよみがえり、名窯からの物は百万円にもなるという。
萬田鉄治は寺西の元で修業した掘り師で金継ぎに定評がある。下関で若い安美と暮らす。手に怪我を負った寺西に一緒に仕事をしようと誘われ、安美も加え三人で唐津、有田、萩と各地の窯跡を埋もれている古陶磁をもとめ掘り漁る。
有田町から八キロ程山に入った木暮の窯跡は、数年前林道の新設工事の途中で見つかり県の文化財に指定された。今は工事が行われている。調査発掘の始まる前に盗掘に合ったのだが、寺西はまだ埋もれた窯跡があるはずとにらんでいた。三人はここで初期伊万里の首の曲がった徳利、人気のある月兎文の皿や下がり唐草の茶碗等を掘りあてた。
寺西の地元古唐津最古の岸岳窯は肥前松浦の領主波多氏が秀吉の勘気に触れ、文禄二年(1593年)に断絶した為、一緒に潰れた。古い窯は十四世紀後半まで遡り、宋の青磁に似たものが出たという岸岳群窯の外れで、三人が窯壁等掘り当て始めた頃、見回りに見つかり怒鳴られた。
 
「そうやって掘り返した土は二度と戻らんとぞ。窯跡の土層ば破壊されっと、窯の構造も判定も出来んごなるぞ」
 
走るぞ、と寺西が言った。
盗掘がみつかったら逃げるしかない。現行犯しか逮捕できないので、逃げ切れば助かるのだ。
 
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文化財保護法の罰則はとても軽い。佐賀県文化財保護条例は「県重要文化財を損壊し、き棄し、又は隠匿した者は、一年以下の懲役若しくは禁錮又は二十万円以下の罰金若しくは科料に処する」(第四十六条 刑罰)と規定する。
 
有田町歴史民俗資料館の公式サイトに「窯跡の盗掘発生」の記事が載っている。今年(2014年)五月の西部地域の原明・小溝中窯跡、続いて九月に山辺田窯跡周辺の窯跡で盗掘があったのだ。相次ぐ盗掘に憤り、国民全体の宝を侵害する行為は犯罪であると警告している。
同館サイトのブログ「泉山日録」の有田町出土文化財管理センターを紹介する記事20121031日付け「はじめに」)に、学芸員の村上伸之氏は何百年もの歴史を堆積する地層から出た発掘品の重要な役割を解説する。
 
こうした出土資料類は、有田焼の歴史を研究する上で、極めて重要なことは言うまでもありません。たとえば、よく博物館や美術館などに展示されている有田の古陶磁に、何年代頃などと製作年代が示されています。そういう年代もほとんどはその展示品自体から判明するわけではなく、発掘品の研究がベースとなっているのです。
 
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窯跡の見回りは厳しく動けなくなり、萬田は有田で掘り出した初期伊万里の皿の金継ぎに専念した。 萬田は「在るべき所に継ぎが在るというような感じで、この器はこのように割れたのだ、欠けたのだと、受難の来歴が淡々と自然に残されている」、自然で美しい金繕いをする。
唐津を断念し萬田と安美は下関に帰り、金継ぎを続けた。萬田はこの頃から安美の行動に疑いを抱きはじめる。
安美を町から離したかったこともあり、今度は萬田が寺西を萩行きに誘った。
萩焼文禄・慶長の役の際朝鮮から連れてこられた陶工李勺光、敬兄弟が山口県萩に窯を築き始めた。今に続く坂高麗左衛門は弟敬の家系で、本家兄勺光の山村家は五代で絶えた。毛利藩の管理の下、中ノ倉で城用や寺用に高麗茶碗を思わせる優品を焼いていたが、山中に隠れ窯も存在した。
地元の窯跡探しの名人興梠の案内で、三人は中ノ倉の奥の隠れ窯の物原を掘りはじめる。五メートルの深さのすり鉢状の穴があいた頃、細かい破片に混ざって、形のある物が出始めた。 三日月高台で見込みに貝殻の痕など残る古萩の完品に近いものがどんどん出た。安美は興梠の息子と姿を消していた。
 
十月の荒田の市に萬田の姿はない。山口の同業者によると、萬田は萩の中ノ倉で盗掘現場を見回りの警官に発見され、警官に殴りかかって重傷を負わせ現行犯で逮捕された。寺西は顛末書で釈放された。
 
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『人が見たら蛙に化れ』 村田喜代子朝日新聞社 2001
「女人形記」小西来山 『睡余小録』下巻附録 河津吉迪 1807『日本随筆大成』第一期第六巻 吉川弘文館 1975
「泉山日録」 rekishi.town.arita.saga.jp/>(有田町歴史民俗資料館公式サイト)