長谷川路可の屏風絵「或る日の柿右衛門 」
江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌、美術などを紹介する。
実をつけた柿の木を見つめる柿右衛門が第四扇に大きく描かれ、足元には廃棄された大壺と皿が転がっている。壺の上にはカラスが羽をひろげ止まっている。背筋を伸ばして立つ柿右衛門の真横からの姿はがっしりとしていて、壮年のエネルギーを感じる。初代柿右衛門が赤絵付に成功したのが四十代後半と伝わるが、この画は丁度その少し前の、満足がいくまでには至らないが、成果が見え始め、赤絵創成に決意を新たにした若々しい姿を表わす。
上のモノクロ写真は「美之國」昭和五年五月号に掲載されたもので、現在のところ六曲一双の屏風作品は一隻、この画像でのみしか知ることが出来ない。
この画が発表された昭和五年というと、歌舞伎『名工柿右衛門』が大正元年(1912)の初演以来好評を博し再演され、又大正十一年(1922)より小学五年生用の国語教科書に「陶工柿右衛門」、後に「柿の色」として教材となり、庭の柿の実の色を赤絵焼付けに再現しようと苦心惨憺の末成功する老境に入った陶工としての柿右衛門のイメージが広く定着していた。十一代片岡仁左衛門の演じた歌舞伎の柿右衛門、あるいは教科書の挿し絵に描かれた柿右衛門である。
酒井田柿右衛門家に伝わる喜三右衛門(後の初代柿右衛門)著名の古文書「覚」(通称「赤絵初りの覚」)には初代柿右衛門は1640年代、四十歳半ば過ぎに赤絵創成に成功し、長崎で赤絵製品を大名や唐人、オランダ人に売ったと書かれている。
陶器商の東嶋徳左衛門が中国人から赤絵の技法を大金を払って習い、その試作、商品化を柿右衛門に依頼している。赤絵の焼成がなかなかうまくゆかない柿右衛門はごす(呉須)権兵衛という、恐らく陶磁器絵の具の専門家と考えられるが、彼の協力によって遂に実用化に成功した。決して一人だけでゼロから赤絵を創出したのではないのである。今日の産業界でもあるような商社が外国の技術を買い、国内の優秀なメ―カ―を使って新しい商品をつくろうとする構図に似ている。
「覚」には完成した赤絵磁器を長崎に持って行き、唐人所に宿をとり、加賀藩の御買物師に売ったとある。その後中国やオランダ人に売ったのも自分が最初であったと続く。
「覚」から、焼物の制作だけでなく、商品を開発し、窯を統率し、商売にも積極的な、国際感覚のある人物を想像できる。
長谷川路可の絵は、そんな柿右衛門を描いているように見える。
求龍堂から1989年に刊行された「長谷川路可画文集」にこの作品の図版は載っていない。路可の二女深谷百合子さんによると、刊行に際してこの作品の所在を確認できなかったそうだ。路可三十代初めの作品で、百合子さんはまだ誕生していない。
中島浩気の『肥前陶磁史考』に、実業界で成功を収めた藤山雷太は明治の末年には西松浦郡出身の在京有志、松尾覚三(前代議士、勧業銀行理事)、森永太一郎(森永製菓創設者、生家は伊万里の陶磁器問屋)等と十一代柿右衛門を引立て後援したとあり、歌舞伎「名工柿右衛門」初演の折には、起立工商会社などで日本美術の海外紹介に努めた佐賀市出身の執行弘道の考案に成る大壺図案の引き幕を、主演の片岡仁左衛門へ贈ったとある。
藤山雷太旧蔵のこの屏風作品は、親族によると現在藤山家には伝わっていない。
長谷川路可(1897-1967)は東京芸術大学で日本画を学ぶ。卒業後、ヨーロッパに留学し、油絵、フレスコ画を学び、日本で最初のフレスコ壁画を東京カトリック喜多見教会に制作した(教会閉鎖のため、神奈川県大和市の聖セシリア八角堂に移された)。ヨーロッパ留学中制作した、現地の博物館が所蔵する敦煌等、アジアの壁画の模写は東京国立博物館、母校に残る。1951年イタリア、チヴィタヴェッキアの日本聖殉教者教会に日本二十六聖人をテーマにしたフレスコ壁画を制作。此の作品制作により1960年菊池寛賞受賞。長崎日本二十六聖人記念館のフレスコ画「長崎への道」「長崎の春」が遺作となる。カトリックの信者で、日本人をモチーフにした宗教画がよく知られるが、日本画家としての意識は強く作品も多い。
競技場の主な美術作品は2020東京オリンッピクを機に建設された新・国立競技場に移された。 路可の壁画は競技場の東エントランス左右に設置された。
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「美之國」第六巻五号(昭和五年五月号)(美之國社 1930)
『長谷川路可画文集』 長谷川路可 (求龍堂 1989)
『藤山雷太伝』 西原雄次郎編 (藤山愛一郎 1939)
「長谷川路可伝」〔上、中、下〕渡部瞭(<kugenuma.sakura.ne.jp/k095a.html>、「鵠沼」第95、96、97号 鵠沼を語る会2007)