山村耕花の大首絵「仁左衛門の柿右衛門」


江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌などを紹介する。
大正から昭和前期に活躍した山村耕花(188619イメージ 142)の代表作、人気歌舞伎役者の当り役姿を描いた浮世絵版画シリーズ『梨園の華』に「十一世片岡仁左衛門柿右衛門」がある。
榎本虎彦作の『名工柿右衛門』の主役を演じる仁左衛門の真横からの胸像画で、いわゆる大首絵のスタイルをとる。歌舞伎狂言は夕陽に映える柿の実のような鮮やかな赤を磁器に焼きつけること一途に打ち込む初代酒井田柿右衛門に、娘おつうの恋愛悲劇、陶磁器商人の裏切りを絡めたフィクション仕立ての物語。地味な老職人の衣装を纏う仁左衛門苦境に陥りながらも、諦めない強い意志と覚悟をひめた表情で描かれている。
 
早稲田大学図書館の松山薫氏はこの作品を「赤絵の皿を焼くために、すべてを賭けている陶工柿右衛門の一徹な風貌、仁左衛門の味わいと風格のある舞台姿を見事に描いた作品である」と述べている。そして『梨園の華』シリーズの作品は「いずれも役者の似顔絵でありながらそれを越えた存在感のある肖像作品となっている」と論じる。(『秘蔵浮世絵大観ムラー・コレクション』講談社1990
 
榎本は大正元年12月号『歌舞伎』の「『名工柿右衛門』に就いて」で語っている。
 
柿右衛門の性格ですか。極ボンヤリした物事に無頓着な男で、唯自己の職業に対する熱心と、娘に対する愛情と、此の二つより外何物も念頭にないという人物です。仁左衛門は老役に成効(ママ)する優(ひと)ですから、柿右衛門はきっと嵌り役だろうと思います。
 
 
名工柿右衛門』は榎本が十一代片岡仁左衛門の為に書き下ろしたという。 大正元年1912)十一月の歌舞伎座での初演以来、何回も再演され人気演目になっていた。不遇や困難にもめげず、一途に目標達成の為に努力する初代柿右衛門のイメージは広く人々に浸透した。 
 
山村耕花(本名山村豊成)は浮世絵師で日本画家の尾形月耕に師事した後、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科で学び、歴史、風俗に取材した作品を多く残している。役者絵に傑作が多い。
梨園の華』大正九年から十一年にかけ発表され、人気を博した。十二枚の役者絵版画シリーズは他に、『哀史』(レ・ミゼラブル)より「十三世守田勘弥ジャン・バルジャン」、「四世尾上松助の加賀鳶の五郎次」(「盲長屋梅加賀鳶、「五世中村歌右衛門のおわさ」(「御所桜堀川夜討」)、「七世松本幸四郎助六」などがある。
「十一世片岡仁左衛門柿右衛門」は東京国立近代美術館、早稲田演劇博物館、ボストン美術館ハーバード大学美術館などに収蔵されている。耕花画、又は豊成画と落款が入る。
 
江戸時代大衆文化として花開いた浮世絵版画は、明治(18681912)に入ると原画、彫り、摺りをひとりで行う創作表現の美術ジャンルとしての創作版画の運動が高まる中、衰退していった。大正時代(19121926)に入り、江戸時代からの複製美術の伝統を蘇らせようと、浮世絵商で版元の渡辺庄三郎が中心になり、絵師、彫師、摺師の分業制作による新版画を興した。耕花は橋口五葉、伊東深水川瀬巴水、名取春仙等と共にその中心的絵師であった。
 
松山薫氏はその論講の中で耕花のスタンスを紹介する。
 
耕花は当時盛り上がっていた創作版画を「芸術的遊戯」とし批判的であった。自らも一時試みてはみたが、版画本来の目的である多数の同じ作品を摺りだすということは専門の摺師でなくては出来ないこととし、「画家は画家で立派な絵を描き、木版師は木版師で、それを忠実に版画にすれば、それで完全な創作だと言えると思う」と述べている。(『秘蔵浮世絵大観 ムラー・コレクション』講談社 1990
 
多くの職人の熟達した技の結集で完成する工芸に通じるものがある。
 
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山村耕花は古陶磁の蒐集家で、柿右衛門を愛好する。1929年、三越で催された柿右衛門展を訪れ、『美術新論』(美術新論社 1929 7月号)の「柿右衛門雑話」で「自分の陶器類への趣味の始まりがそもそも柿右衛門によって開かれたので誠になつかしく想出の深いものがあります」と語る。
 
[柿右衛門]乳白手と称する白い地膚に柿色を帯びた赤い模様が、極めて上品に芸術味豊かな線で描かれてあるのを見ると、心からそれを愛撫する感じを起させます。
 
耕花は画家ならではの目で、鮮やかな色、繊細で優美な模様の輪郭線に着目する。
この談で耕花は乳白色の素地をいち早く乳白手(にごしで)といい、その脆さや、色絵、特に赤や群青が鮮やかに映える特徴を挙げる。
九州陶磁文化館の藤原友子氏は「柿右衛門研究史柿右衛門作品観の変遷―」(『柿右衛門―その様式の全容』九州陶磁文化館1999)で、大正期には乳白色という語で表現されていた素地の特徴が、昭和四年の耕花の「柿右衛門雑話」で「乳白手」として登場し、昭和九年から十一年にかけて(19341936)編纂された『陶器大辞典』で「濁手」は項目として起こされたと記す。
 
 耕花は柿右衛門の器の見込みや縁に施されたレリーフ模様に見る和蘭の陶器の影響、反対に古いオランダやイギリスの陶磁器の柿右衛門の模倣など、江戸時代鎖国政策の下、陶磁史に見える長崎を基点に実現した海外と盛んな交流で文化を取り入れあった事実に興味をいだくと語る。
そして中国から学んだ技術を基に、柿右衛門の成した日本独自の美の創造を称える。
 
柿右衛門支那に模したものでは有りますが、爾来幾多の苦難と不断の研鑽を重ねて、完全に日本のものに作り上げ、世界の柿右衛門として我国磁器を代表するにいたった事は特筆すべき快事でしょう。