文学者と柿右衛門 (2)


 江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌などを紹介する。
 
 
泰造と伸子とは、それから、三四軒、骨董商を見て歩いた。クラシックな趣味の建築家である泰造はルネッサンス前後の家具と陶器に着目した。この日の巡遊記念に、日本の柿右衛門ロココ風に模倣したセーブルの小さな白粉入れを伸子は泰造からもらった。
 
宮本百合子の自伝的小説『道標』第三部の、伸子が父泰造とパリのボナパルト街の骨董商めぐりをしている一場面だ。
宮本はロシア革命の十年後、1927年から1930年までモスクワに滞在し、その間西ヨーロッパの国々も訪ねた。『道標』は宮本自身がモデルである伸子のソ連とヨーロッパ諸国を舞台にしたこの時期の物語だ。
泰造のモデル、宮本の父は建築家中條精一郎。文部技官として札幌農学校の図書館や校舎を設計。ケンブリッジ大学に留学した後、先輩の曽禰達蔵ともに曽禰中條建築事務所を主宰し、代表作、重要文化財慶応義塾大学図書館はじめ、学校建築、オフィスビルを中心に多くの建築作品を手がけた。
宮本がソ連滞在中、1928年八月弟英男が二十一歳で自ら命を断った。父は英男の死の翌年、母の心の傷を癒そうと、家族を伴いヨーロッパ旅行をした。
小説でも泰造は、死ぬまでに一度外国を見ておきたいという病弱の妻の希望を入れ、ヨーロッパへの家族旅行を決行する。伸子は、家族をマルセイユで出迎え、一行とともにパリ、ロンドンに滞在する。
弟の死後、ぎくしゃくしている家族に接し重い気持ちになっていた伸子は、パリで初めて父と二人で外出する機会を得て骨董店街に行った。この機会に父は家族の問題からのつかの間の解放を求め、長女である伸子は愛し、深いところで理解しあう父と家族の問題を話したいと思った。父はこの旅行の資金を作るために、大切にしていた陶磁器をかなりの売ったと告白する。伸子も知っている十客揃いの鍋島の逸品「セキレイ」と「牡丹」と呼ばれる中皿と大皿も手離したと語る。
 
宮本は父中條精一郎の追悼文集に寄せた「写真に添えて」で、父との思い出として綴るパリの裏町の骨董店歩きは、引用した『道標』のエピソードと重なる。
 
パリにいた或る日、父は私をつれてどこであったか裏町の骨董店歩きをして、私にいろんな家具のスタイルだとかを話してくれたことがありました。ある店で、柿右衛門を模倣した小さい白粉壺が見つかり、父が、しきりに外国で日本の作品が模倣されている面白さを云うので、では二人で歩いた記念にこれを買いましょうと、私がおそらく生涯に一度の骨董的買いものをしたこともあります。
 
 宮本にとってこの柿右衛門写しの小さな壺は、父との絆を感じる特別のものだった。長女である宮本と父は他の家族とは違った深いところで理解しあう信頼関係と親密さがあった。美術の話をしあい、建築調査に行く父に伴われアメリカに行き、遊学した。深く愛するが、時にぶつかる母を避ける気持ちもあった。
小説『道標』で、家族がパリからロンドンに移る為の荷づくりで、伸子が父からもらった磁器の壺を大切に扱う場面は伸子の心情を表わす。
 
伸子、素子(共同生活をする吉見素子として登場、モデルはロシア文学翻訳家湯浅芳子)、つや子(妹)の三人は、二日間口かず少なく能率的に働いた。伸子は、いつか父に買ってもらった柿右衛門もじりの白粉壺をよく包んで、トランクの片隅にいれた。
 
 「写真に添えて」によると、宮本の父は高校時代に祥瑞の一輪ざしを買うほどの陶磁器ファンだ。子供たちに美術の教養を身につけさせようと特別なことはしなかったが、柱に掛かる祥瑞の花瓶を眺め、自分の見たてを自慢した。好い絵を買う余裕はなくカタログを見てこれが欲しいななどと百合子に語った。
 
陶器の趣味についても同様でした。やっぱり逸物を手に入れるには金がいる。そこまでは手が届かぬ。それで晩年は見物だけでした。……自分の手で建てられた家のそれぞれの場所に、自分の気にも入った世界的レベルの絵画や工芸品の飾られるのを見て、深いよろこびと満足とを感じている様子でした。そういう時の、父の老いたが若々しい光のある顔は、美術に対する無私な情愛というようなものに溢れており、娘の私の心をうごかしたものでした。
 
大正五、六年(19161917)の日記にも宮本の肥前磁器、柿右衛門への嗜好が窺われる。大正五年、宮本は女学校を卒業して、日本女子大学英文科に入学した。処女作『貧しき人々の群』を中央公論九月号に発表し、注目を集めていた。
 
七月二十八日(金曜)
……強い嵐で千葉先生(東京女子師範学校附属高等女学校恩師千葉安良)へも行かれず、何処にも行かれなくなって仕舞った。妙に気の落着かないdreamy な日を送ってしまった。
 夜客室の庭をながめた。雨にしずかにぬれた苔と、光る木の葉と、ザワめく風とが、よく調和されて美しい感じを与えた。初代柿右衛門の香炉は私でもいいのがわかる。今の一部の人が求めて居る、ある大きなものがふくまれてある縁であることを感じる。
 
  
父は陶磁器を愛好した。名門唐津藩士の血を引く、建築事務所の共同経営者曽禰達蔵の影響もあったのだろうか。宮本も陶磁や芸術を愛した。初代の作と伝わる柿右衛門の香炉が客室に飾ってあったのか、あるいは他の所で見たのだろうか。宮本は柿右衛門に、雨に日の庭の景色がかもす「調和された美しい感じ」を見る。それは若い宮本が社会に求めるものでもあり、柿右衛門がそれをビジュアルに具現する。
後年宮本は『貧しき人々の群れ』について、この小説は自分が「どういう風に社会に生き、人生を愛し、そして文学を生んでゆきたいと思っているか」を暗示していると書く。福島県の開拓村の貧しい人々とヒューマニズムから彼らを助けたいと思う東京から来た地主の孫娘は無力だった自分を責めながらも、「どんなに小さいものでもお互に喜ぶことの出来るものを見つける。どうぞそれまで待っておくれ。達者で働いておくれ! 私の悲しい親友よ!」と調和された社会を約束し、呼びかけ『貧しき人々の群れ』を締めくくる。それは『道標』では、伸子がソ連永住を断念し、挫折味わうかもしれない日本に帰るのは「心を傾けて歌おうと欲する生活の歌」があるからと表現される。
 
九月二十三日(土曜)
 小雨がして居る。三越の彩壺会へいった。……岡田信一郎氏(建築家。旧歌舞伎座など設計)に先ず会う。大変工合が悪そうだった。……柿右衛門鍋島、古伊万里は好い、が九谷はどこと云うことなしに俗なものだ。
 
大正六年一月明治座で『名工柿右衛門』を見た。十一代片岡仁左衛門が主演、市川左団次が弟子の栗作を演じた。この公演では原作者榎本虎彦の弟子堀美雄の手により序幕が書きかえられた。
 
一月十四日
左団次の会で、明治座へ行って見る。もうよっぽど前に、市村座へ行った限りなので、かなり期待して居たが、どうしても道具立てから何から「芝居」と云う気がして全然没頭して涙などこぼせなかったのは、どう云うわけだったのか。自分にも分らないが、同じ見るなら、舞台の上の人間と一緒に泣き笑いしたい、出来た方が快い。
 柿右衛門は、彼の人格――勿論私にだってよくは分ろう筈もないが――を極くコンベンショナルなものにした。ああしなければ芝居にはならないけれども、若し柿右衛門が真の芸術家であったのなら、有田屋を潰してやろうために、赤絵を発見したのではない。芝居として成功したかどうかは私には分らない。一番終りの幕、山の竈の前に柿右衛門が独り、ポツネンと火の番をして居るところの色調がおそろしくよかった。が、何とか云う娘が出てすっかり打ちこわした。黒鼠色で、かすんだような大きなかまの前に、背を丸くして黒赤い着物、オリーブの袴をつけた彼の姿は、日本のこう云う芝居よりも、ビョルンソンか、メーターリンクの舞台に出て来そうな色の調和があった。ああ好いと思ったのは、其処ばかりであった。
 仁左衛門が、科白の中に、折々、最も印象的にしようとするとき、常盤津長唄かのような旋律をつけて、声をゆすったがあれは、果して、いいか悪いか分らない。
 
宮本はかなり手厳しく自身の柿右衛門観とのずれをあげる。
宮本百合子は、1918日本女子大学英文予科を退学し、渡米。遊学中、1919年ニューヨークで出会った十五歳年上の古代東洋語研究家荒木茂と結婚。帰国し、1924年、湯浅芳子と出会う。翌年、荒木と離婚、芳子と共同生活を始める。ソ連滞在を経て、その後、日本共産党運動員宮本顕治(後、党委員長)と出会い、1932年に結婚する。顕治と共に投獄、執筆禁止などを受けながら、作家活動を続ける。 1951年一月、五十一歳で急逝。 代表作は『貧しき人々の群』(1916)、『伸子』(1924)、『播州平野』(1946)、『二つの庭』(1947)、『道標』(1950)など。
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『道標』~  宮本百合子筑摩書房 19481951初出:『展望』1947 月号-1950 十二月号 筑摩書房、その他、新潮文庫岩波文庫、角川文庫、新日本文庫から刊行
「写真に添えて」 宮本百合子 (『宮本百合子全集 第十七巻』新日本出版社 1981、初出:『中條精一郎』(追悼録)(国民美術協会 1937
「日記」 宮本百合子宮本百合子全集 第二十三巻』 新日本出版社 1979
「作者の言葉宮本百合子『貧しき人々の群』新興出版社 1947宮本百合子全集 第十八巻』 新日本出版社 1981
 
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