つくも神の宿った柿右衛門
江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌などを紹介する。
中学生の風雅は、作られてから百年たった美術品や道具、自然のものに宿るといわれるつくも神が姿を変えた美貌の青年紗那と兄弟の契りを結び、行方不明になっている風雅の両親の骨董店を引き継いでいる。この兄弟が活躍する、あんびるやすこ著『アンティークFUGA』シリーズの第二巻「双魂の精霊」は十七世紀イギリスに渡った一対の柿右衛門の沈香壺にまつわる物語である。何人もの人の手を経て現代の日本に戻ってきた沈香壺の周辺で起こる謎を、兄弟が解き明かす。
美濃や伊万里の焼き物のコレクションで有名な津田美術館が「目玉になるような展示品」として、鳳凰が描かれた柿右衛門の壺を買い入れてから、不吉なことが次々に起こる。柿右衛門の壺の購入を決めた美術館の創設者の縁者で新人学芸員津田涼子は自信を持って本物と主張するのだが、偽物ではないかと疑われる。
先輩学芸員の柴山晴香は正式な専門家の鑑定を前に風雅、紗那の兄弟に壺の鑑定を依頼する。涼子は「…私には知識がある。その知識を総動員して、この壺を見たのよ。濁し手、色、柄、……、すべて『柿右衛門』の特徴と一致してる。まちがっている部分はひとつもないわ!」と主張し、晴香も涼子を認める。
「一番気になるのは、絵のバランスね。なんだか片寄っているような、妙に安定の悪い構図だわ。『柿右衛門』は『余白の芸術』といわれるくらい、構図に気を配っているはずなのに。この壺はそうは見えないの。それに『濁し手』の具合もたしかにちょっと……。箱も失われているし、ホンモノだといい切れる切り札がないのよ」
高さ六十センチもあり、鳳凰の柄であることからヨーロッパからの注文で作られたインテリアではないかと考えた紗那は、対で作られた可能性に気付き、「そう考えると、鳳凰の壺の構図が間が抜けて見えたのも納得がいく。対でおいたときのバランスを考えての構図だったからだ」と考える。
丁度その頃、兄弟と親しいフレンチ・レストランのシェフは古い壺に漬けられていた百年梅を買った。紗那と風雅は百年梅で作ったソースの香りと、美術館の壺の匂いが同じものだと気付き二つが対だったと考えた。梅の漬かった壺の汚れと埃を落とすとみごとな筆致の龍の絵が現われた。龍の壺に宿る白衣の精霊から紗那は壺の来歴を聞いた。
…エミールは、そのとき、素晴らしい思いつきをした。
「柿右衛門の壺を対で作らせよう。僕たちのためだけに作らせるんだ。メアリローズ、壺の柄は何がいい?」
そう聞かれると、メアリローズはすぐに答えた。
「ステキ!もちろん、フェニックスとドラゴンがいいわ。中国では王様とお妃を意味するんですって。私たちにピッタリ」
当時のヨーロッパでは中国風のものがはやっていた。中国風の焼き物を屋敷にかざることは最新流行だったのだ。
しかし結婚式直前、エミールは出征し、そのまま帰ってこなかった。一年程後に沈香壺がメアリローズのもとに届いた時には、エミールは外国で結婚したという噂が流れていた。メアリローズは貴婦人として気丈にふるまうのだが、フィアンセを疑い、友人の幸せを妬む暗い気持ちが日に日に増し、そんな気持ちを振り払うように、沈香壺の一方、鳳凰が描かれている壺にエミールの不実を呪い、人の不幸を願う言葉を投げ入れ、これを帳消しにしようと、もう一方龍が描かれている壺には皆の幸せを願う言葉をいれた。
終わらない愛を願い、他方なくしては存在できないものとして作られた一対の壺に宿るつくも神は一人で、メアリローズが入れた善と悪の言葉により善と悪の精霊に分裂し各々の壺に宿ってしまい、そのまま人の手に渡っていく。
紗那、実は高位のつくも神シャナイアが津田美術館の鳳凰の壺と百年梅の漬けられていた龍の壺を並べて善の精霊が悪を滅ぼすよう仕向けたが、善と悪の精霊は戦い共に消滅し、つくも神も同時に消滅した。
つくも神を失った一対の沈香壺は津田美術館の収蔵となり、柿右衛門の識者永竹先生が帰国してホンモノと認定した。「いやはや。これほどのものが海外から里帰りして、しかも『対のまま』残っているとはねえ。めずらしい。じつに、めずらしい!!」と永竹先生は絶賛した。
十七世紀後半から十八世紀にかけ、ヨーロッパの王侯貴族の間で柿右衛門の色絵磁器は絶大な人気を博した。なかでも対の壺は大量に輸出され、彼らの館を豪華に飾った。今では古色蒼然としてつくも神など精霊の宿る恰好の骨董である。
この秋、十四代酒井田柿右衛門の襲名三十周年記念の作品として「濁手松竹梅鳥文角壺」が発表された。一辺十二センチ、高さ三十センチのなだらかな肩をもつ蓋付の角壺で、ハンプトンコート宮殿の有名な対の六角壺と同じ板作りだ。板作りは江戸時代からの技法だが、手間がかかり割れやすい為久しく行われていなかったが、古典的な美しい形の作品を生み出す。
つくも神と呼ばれる精霊は禍、あるいは幸を齎す。民間で広く信じられ多くの文学に登場する。
古典お伽草子 第5話に付喪神(つくもがみ)の話がある。作られてから百年経った道具には精霊が宿り付喪神となり、人間へ悪さをするが、最後には改心、仏門での修行を経て成仏を果たす。古い道具や使い込まれたものを神聖視し、道具や家畜などを大切に扱い、役目を終えた道具や生き物に対する感謝の供養を行う習慣につながる。
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園村昌弘に『柿右衛門の壺』という短編小説がある。
昭和二十年の初夏、翌朝鹿児島の特攻隊の基地に向かうという若い兵士が最後の贅沢をしに来たと言って熊本市内の名の知れた料亭を訪れた。兵士は上等な部屋に通され、板前が腕によりをかけて作った最高の料理を振舞われ、ゆっくりと午後を過ごして、料亭の用意したハイヤーで去った。軍服のよく似合う凛とした若者だった。
料亭の主人は国の為に命を捧げる覚悟で任務に就く兵士に、手厚いもてなしをしたのだ。主人が兵士の過した部屋の床の間に置かれていた上客にしか見せない自慢の柿右衛門の壺がなくなっているのに気付いたのはその直後だった。似たようなことが、ライバルの料亭でも起きていた。
戦後ずいぶん経ってから、主人の息子宛に壺が小包で返されてきた。差出人の名は兵士で、手紙が入っていた。
「これはちょっと失敬したもの。他の品は売却したが、なぜかこれだけは手放せなかった。妙なことに売る気にならなかったのです。ところで、ここ半年ほど毎晩夢に見るのです。壺の霊が自分に喋るのです。持ち主に返せ、必ず返せと。半年もですよ。負けました。よって返却いたします。悪しからず。」
料亭は空襲にあい全焼したが、復興し代々続いてきた。当時十歳前後だった息子は今や隠居の身で、父の自慢の柿右衛門の壺がどんなものであったかも覚えていなかったが、木箱を開けようとした時、「なぜかドキドキしてきた」とある。
壺が作られてから100年が経ち、つくも神が宿ったのだろうか?
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