文学者と柿右衛門(3)


 

江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌などを紹介する。


 
 

 

陸軍軍医森鴎外(本名林太郎)は明治十七年(1884)、衛生学研究の為、ドイツに留学した。ベルリン、ミュンヘンライプチヒドレスデンに滞在し、明治二十一年(1888)帰国した。ドイツ留学の四年間の経験を題材に著した、『舞姫』、『うたかたの記』、『文づかい』はドイツ三部作といわれ、初期の代表作だ。
1891年に発表された『文づかい』は、ドイツ帰りの若い士官小林がザクセン軍の演習に参加し、ドレスデンに滞在した時の珍しい経験の回想で、皇族が主催する名門星が岡茶寮での供宴で報告する形をとる。
若い日本の士官小林はドレスデンで秋に行われたザクセン軍の演習に参加した折に、貴族の城に宿泊し五人の若い姫たちのいる家族にもてなされる。ここで士官は、長姉のイイダ姫から国務大臣夫人である伯母宛の手紙を託される。年が明け士官は国務大臣の夜会に招かれ、夫人にイイダ姫からの手紙を渡すことが出来た。その後王宮の舞踏会に招かれた士官は、女官となったイイダ姫と再会し、「陶ものの間」に招じ入れられる。
十八世紀、ヨーロッパでは中国や日本から大量に輸入された磁器で部屋全体を飾る磁器装飾室が流行し、磁器の間、ポーセリン・キャビネットなどと呼ばれていた。ドレスデンの王宮には、東洋磁器やマイセンのコレクションで飾られた磁器の間があった。鴎外はこれを「陶ものの間」と書く。
 
「かしこなる陶ものの間見たまいしや、東洋産の花瓶に知らぬ草木鳥獣など染めつけたるを、われに釈きあかさん人おん身のほかになし、いざ」といいて伴いゆきぬ。
 ここは四方の壁に造りつけたる白石の棚に、代々の君が美術に志ありてあつめたまいぬる国々のおお花瓶、かぞうる指いとなきまで並べたるが、乳のごとく白き、瑠璃のごとく碧き、さては五色まばゆき蜀錦のいろなるなど、蔭になりたる壁より浮きいでて美わし。
 
四方の壁に効果的に飾られた華麗な磁器に、士官は圧倒される。しかし王宮に慣れた客達は陶ものの間に興味を示さず、入室する者もない。陶ものの間でイイダ姫は士官と二人だけになり、手紙の秘密を打ち明ける。親が決めたザクセン軍中尉メエルハイム男爵との結婚に気が進まず理解のある伯母に相談し、逃れるために女官になったと明かす。
手紙を託した事情を伝えるため二人になれる口実として、イイダ姫は日本の磁器の珍しい意匠の解説をして欲しいと士官を陶ものの間に招きいれる。陶ものの間は、秘密を打ち明け、封建的なドイツの貴族社会に疎外感を抱く姫が思いを語るクライマックス場の舞台になる。
十七世紀末から十八世紀にかけ、東洋の磁器はヨーロッパの人々を魅了した。日本の古伊万里柿右衛門は人気が高く大量に輸入され、十八世紀初頭にヨーロッパで磁器生産が出来るようになると、マイセンはじめヨーロッパの窯が日本の磁器の写しを作った。古伊万里柿右衛門、その写しがヨーロッパの様々なシーンで存在感を示していた。
『文づかい』で士官は、ザクセン軍の演習に参加した際、視察に来た王が地元の猟愛好家会館で開いた宴に出席する機会を得た。
 
田舎なれど会堂おもいの外に美しく、食卓の器は王宮よりはこび来ぬとて、純銀の皿、マイセン焼の陶ものなどあり。この国のやき物は東洋のを粉本にしつといえど、染めいだしたる草花などの色は、わが邦などのものに似もやらず。されどドレスデンの宮には、陶ものの間というありて、支那日本の花瓶の類おおかた備われりとぞいうなる。
 
士官は宴のテーブルを飾るマイセンの器の絵付けの花などは、日本のものを手本としたものなのだが、ドイツ独自の色となっている。そして後に行くことになるドレスデンの王宮の陶ものの間の中国、日本の華麗な磁器のコレクションは皆の知るところのものである。鴎外は磁器、陶器を区別せず、磁器マイセン焼きを、陶器を意味する「陶もの」と書き、磁器装飾室を「陶ものの間」と書いている。
 
岡山大学名誉教授松尾展成氏は論文「ザクセン森鴎外」(岡山大学経済学会雑誌 29 (4)1998)に、鴎外は明治三十年(1897)の談話「自作小説の材料」で「『文づかい』は独逸の中部ドレスデンを舞台にして書いたものです。……人物には真実のは余りありません、王宮の祭りの模様だの、拝謁の有様などは少しも拵えた所はない、皆目撃したことをかいたのです」と語っていると記す。又、『独逸日記』には、明治十九年(1886) 一月一日にドレスデンの宮城で中国と日本の焼き物が四壁に飾られた陶ものの間を見たとの記述があると指摘する。
松尾氏によると、磁器の間は王宮の物見塔の三階、十メートル四方の塔の間と呼ばれる部屋で、十八世紀初め、アウグスト強王が自身の磁器コレクションを収蔵していた日本宮の増築工事で当分の間陳列できなくなるコレクションの一部を飾った。
鴎外は『文づかい』の中で日本の磁器を柿右衛門古伊万里などと特定していないが、松尾氏が磁器博物館に照会した所、磁器の間にあった柿右衛門の瓶は白磁五彩あるいは青花併用五彩であったとの回答を得たと記す。
「乳のごとく白き」、「五色まばゆき蜀錦のいろなる」と鴎外の書く磁器は柿右衛門又はその様式の磁器だろうか。
ドレスデン国立美術博物館陶磁美術物館元館長メンツ
アウセン女史の指摘によれば、マイセン磁器の中にも伊万里磁器の模造品が数多く含まれていた。その手本はたっぷりと余白をとった柿右衛門様式磁器であり、華美な古伊万里様式五彩磁器などであった。
メンツアウセン女史は、1970年、深川正森正洋十四代酒井田柿右衛門等、有田の焼き物関係者七人、いわゆる七人のサムライ、の統一前で国交のない東ドイツ訪問実現に尽力された。香蘭社社長深川氏はその著書『海を渡った古伊万里―美とロマンを求めて』(主婦の友社1986)に、七人がドレスデン、ツィンガー宮殿の陶磁博物館で膨大な数の柿右衛門古伊万里を見た感動を記す。1975年、東京、京都、名古屋、佐賀を巡回する「ドレスデン古伊万里名品里帰り展]、この成功を受けドレスデンでの「日本磁器特別展」の開催は、メンツアウセン女史の力なくして実現はしなかったという。女史は二度来日にされ、有田を訪れたという。
 小林士官がドイツでの経験を報告した会が開かれた星が岡茶寮は東京・永田町にあった、明治、大正時代の上流階級の社交場。経営不振に陥り、大正14年(1925北大路魯山人が借り受け、主宰する美食倶楽部の会員制料亭となったことで知られる。
 
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挨拶のうまい男がある。舌そよぐの観がある。そこに全精力をそそいでいるかの如く見える。恥かしくないか。柿右衛門が、竈のまえにしゃがんで、垣根のそとの道をとおるお百姓と朝の挨拶を交している。お百姓の思うには、「柿右衛門さんの挨拶は、ていねいで、よろしい。」柿右衛門は、お百姓のとおったことすら覚えていない。ただ、「よい品ができあがるように。」
柿右衛門の非礼は、ゆるさるべきであろう。藤村の口真似をするならば、「芸術の道は、しかく難い。若き人よ。これを畏れて畏れすぎることはない。」
 
森羅万象の美に切りまくられ踏みつけられ、舌を焼いたり、胸を焦がしたり、男ひとり、よろめきつつも、或る夜ふと、かすかにひかる一条の路を見つけた! と思い込んで、はね起きる。走る。ひた走りに走る。一瞬間のできごとである。私はこの瞬間を、放心の美と呼称しよう。断じて、ダス・デモニッシュのせいではない。人のちからの極致である。私は神も鬼も信じていない。人間だけを信じている。華厳の滝が涸れたところで、私は格別、痛嘆しない。けれども、俳優、羽左衛門の壮健は祈らずに居れないのだ。柿右衛門の作ひとつにでも傷をつけないように。きょう以後「人工の美」という言葉をこそ使うがよい。いかに天衣なりといえども、無縫ならば汚くて見られぬ。
 
太宰治は雑誌に連載した『碧眼托鉢』の「挨拶」で芸術の道の並大抵のものでない厳しさを初代柿右衛門一途一心に没頭する姿で語り、同時期に書いた『もの思う葦―当りまえのことを当たりまえに語る』の「放心について」で、人工の美――文学、演技、工芸など人間がインスピレーションを得て行う創作活動が生む芸術の美に価値を見出す。
『碧眼托鉢』、『もの思う葦』とも1935年から1936年にかけて太宰数え年27歳の時、雑誌「日本浪漫派」に連載したもので、自身で「感想断片」といい日々遭遇する出来事、思い、書評、作家評、文学とは、自分が書くべきことはなどをテーマに綴っている。時に辛辣、懐疑的、時に理想主義的、高い芸術を目指す若い太宰の悩む姿、覚悟と希望が伝わってくる。
十五代目市村羽左衛門大正から戦前昭和の代表的歌舞伎役者。立役として活躍。アメリカ人で明治政府の外交顧問チャールズ・ルジャンドル福井藩松平慶永の血を引く池田絲の間に生まれた私生児といわれ時代を代表する美男子であった。
 
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 燃えるような柿の色に暗示されて、赤絵を焼いたという柿右衛門の陶器には、器の一方に片寄せて花鳥をえがき、それに対する他の一方は素地の清徹をそのまま残して、花鳥の花やかな配色と対照させているのがよくある。ちょうどそのように柿の実の紅玉を見て楽むにも、それをもぎ取って手のひらに載せたり、果物籠に盛ったりしたのでは感興が薄い。やはり大空を陶器皿の見込に見たてて、深い空の色を背景として見あげるに越したことはない。柿右衛門の製作には、そのまま残された素地に、ちぎれ雲とか小さな鳥とかを描き込んで、その器の向きを示しているのがよくあるが、頭の上の柿の実に見とれる折にも、慾をいえば、雲の一片か小鳥かが空を飛んでいてくれたら、どんなにかおもしろかろうとも思うが、世のなかのことは、そうそう注文通りにはゆきかねるから仕方がない。
 
薄田泣菫は身近な動植物にまつわる随筆を集めた「艸木虫魚」の一話「柿」で、秋の陽に照らされた柿の実を見て柿右衛門の色絵を連想する。柿の木と柿の実は陶器画が一番よく表現出来そうだといい、柿右衛門様式の余白の効果、形の誇張や現実にはない色で気ままに描かれていて、快活で自由な精神に富んでいるという。
 
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「文づかい」森鴎外(『日本の文学 2 森鴎外(一)』中央公論社 1972、うたかたの記:他三篇岩波文庫 1961、初出:『新書百種』第十二号 吉岡書籍店 1891
「挨拶」太宰治(『太宰治全集10』(ちくま文庫筑摩書房 1989筑摩全集類聚版 太宰治全集』 筑摩書房 1975、初出:「日本浪曼派」1936 1月~3) 
「放心について」太宰治(『もの思う葦』(新潮文庫)新潮社 2002、『太宰治全集10』(ちくま文庫筑摩書房 1989、『筑摩全集類聚版 太宰治全集』筑摩書房 1975初出:「日本浪曼派」1935 8月~12
「柿」薄田泣菫 (『艸木虫魚』(岩波文庫岩波書店 1998
 
*上記作品はすべてインターネット電子図書館青空文庫に公開されている。