白い黄金


江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌などを紹介する。
十七世紀、磁器はヨーロッパで「白い黄金」と呼ばれ、金に匹敵する価値があった。王侯貴族たちは中国や日本からもたらされた白く艶やかな肌を持つ磁器を競って買い集め、華やかに館を飾った。ヨーロッパではまだ作ることがでず、磁器は彼らにとって、地位、権力、趣味の良さの象徴だった。
そんな東洋の磁器の中で柿右衛門は珍重され、東洋磁器の屈指の蒐集家ザクセン公国のフリードリヒ・アウグスト一世(並はずれた腕力の持ち主で、又その絶倫ぶりから、強王と呼ばれた)の熱愛する「白い黄金」だった。
 
当時手に入った東洋の磁器の中でおそらくもっとも洗練され、疑いなくもっとも高価だった柿右衛門の磁器は、日本で十七世紀末から焼かれていた。その名前は伝説的な人物、酒井田柿右衛門に由来する。この人物は東洋の天才的な美術家であり、窯元の家の出で、日本の色絵の技法を発明したといわれる。柿右衛門は日本の磁器造りの中心、有田でつくられていた。この土地では、色彩豊かで錦のような伊万里焼きや繊細な染付など、他にも名高い輸出品を生み出していた。
 
これはジャネット・グリーソンのベストセラー『マイセン―秘法に憑かれた男たち―』の柿右衛門磁器を紹介する一節だ。この本は東洋の磁器に魅せられたアウグスト強王の命により、ヨーロッパで初めて硬質磁器の製造に成功し、絵付けや磁器像制作の技法を開発し、王立の磁器製造工場マイセンの基礎を築いた三人の才能ある男たちの長い苦闘の道のりを描いたノンフィクションだ。彼らとは錬金術師ヨハン・フリードリヒ・ベトガー、画家ヨハン・グレゴリオス・ヘロルド、彫刻家ヨハン・ヨハヒム・ケンドラー。
­­­­­­­­­­­­­­­三十年戦争16181648)など、たびたびの戦争で出費がかさみ、その上流行の磁器を買う為に莫大な金を使った王たちは黄金が欲しかった。化学の力で卑金属から金を精錬できると信じていた王たちは、錬金術師を雇い秘法の発見を競った。
アウグスト王は若い才能のある錬金術ベトガーを雇った。しかし化学の知識があるベトガーは、実験を重ねるうちに黄金変成は不可能と悟り、代わりに土から出来る「白い黄金」、磁器の製造を王に約束した。
需要が増し価格が急騰した輸入磁器を自前で造れば、東洋に流れる大金を自分の懐に入れることが出来ると考えたアウグスト王は、磁器の開発をベトガーに急がせた。
半ば監禁状態に置かれて実験を続けたベトガーは1709年、中国に遅れておよそ1000年、白い硬質磁器の製造に成功した。この偉業はベトガーの理解者で集光レンズの製造に成功した物理学者、エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウス伯爵の助力なくしては成しえなかった。鉱物資源を開発し、製造業を発展させ、戦争で荒廃した国に繁栄を取り戻す任務を担うザクセン公国の宮廷顧問官チルンハウス伯爵は、磁器の製造に強い関心をもっていた。
 黄金ほどの価値を持つ貴重品、磁器を大量に生産しようと、アウグスト王は1710年マイセンのアルブレヒト城に磁器製造工場を設立した。1717年染付を完成するものの、王が技法が他国に漏れるのを恐れたため、ベトガーは幽閉という異常な環境のもとに置かれ、ストレスで精神の病に侵され、1719年に三十七歳で生涯を閉じた。
中国の政権交代による混乱で、十七世紀半ばより日本の磁器が輸入の主流となり、美しい白い肌に余白を残し、鮮やかな赤、青、緑、黄、紫、金彩の色絵を持つ柿右衛門はヨーロッパの人々を魅了した。
 
アウグストの肥えた目に、柿右衛門は力強く魅力的な対照の妙を持つ磁器と映った。くっきりと鮮やかな色はまるで宝石のように美しく、それでいて青、赤、紫、黒という、ごく限られた色しか使っていない。その装飾は非常に洗練されていて、例えば桜や松の非相称な背景の中に虎がうろついていたり、着物をきた美人が鳥や蝶と戯れている。無駄のない線と純白の背景の広がりが、絵の繊細さを一層際立たせていた。
 
アウグスト王は自身の膨大な柿右衛門コレクションを自慢にしつつも、自分の工場でそれらを凌ぐような製品を作ることを願っていた。やがて土に­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­カオリンを加えることで素地の黄ばみが取れ白く焼き上がり、絵具の調合にも目覚ましい進歩を見、ウイーンから来た画家ヘロルドも腕をあげた。王は熱中していた柿右衛門を模したものを作るよう要求した。
 
1725年一月、シュタインブリュック(ヨハン・メルヒオール・シュタインブリュック:ベトガーの義理の弟で、マイセンの工場長、)は興奮気味に記している。「七点からなる大型のマントルピース用のセットが、やはり赤や日本風の彩色を施され、今月二十二日、ドレスデンの倉庫に送られた。仕上がりはとても素晴らしく、陛下はこれを見ていたく喜ばれたという」。
 
マイセンの色絵磁器の完成度は高まり、ついに柿右衛門と肩を並べるようになった。ヘロルドのシノワズリと呼ばれる中国風文様や柿右衛門の写し、彫刻家ケンドラーの写実的な人物や動物像など特徴のある製品を出し、王の磁器工場は急成長した。1717年から1732年の間に、アウグスト王は二万七千ターレルを儲け、八十八万ターレ(現在の額に換算すると約20億円)相当の磁器を手に入れた。
現在、王のコレクションを収蔵する国立ドレスデンの美術館は1000点の古伊万里200点の柿右衛門を収蔵する。
美術館には中国の染付大壺「竜騎兵の壺」がある。プロイセン王フリードリヒ一世がシャルロッテンブルグ城に残した百点以上の東洋磁器コレクションの一部で、1717年アウグスト王はこのコレクションを買い代価として、自身の竜騎兵600騎を譲り渡した。単純に計算して、磁器一点につき数十人の兵との取引になる。
柿右衛門の人気が商売になるとみたフランスの抜け目のない企業家、リュドルフ・ルメールはマイセン工場の特別支配人フォン・ホイム伯爵と組み、柿右衛門写しで法外な利益を得ようと企んだ。
 
パリの目抜き通りの店に足を運ぶあかぬけた客の間では、東洋陶磁、とりわけ柿右衛門への受容がまだ満たされていないことにルメールは気づく。柿右衛門はマイセンよりずっと値が張ることも彼は知った。
フォン・ホイムはそこで工場に手配し、柿右衛門様式をそのまま模倣した作品をルメールのもとにたくさん出荷させた。二人はおそれ多くも国王の所蔵品のうちで最良の作品から、図柄と形をそっくり頂戴することにきめた。そのため、オランダ宮殿(後、日本宮殿と呼ばれる)にあるアウグスト御自慢の作品百二十点以上が念入りに梱包されて、十二マイル離れたマイセン工場まで危険なでこぼこ道を運ばれ、そこで多数の複製品がつくられた。
 
フランスのシャンティー、イギリスのボウ、チェルシー、ウスターなどの窯でも柿右衛門写しは盛んに作られた
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   「創造主なる神は錬金術師を陶工にしたもうた」
 
 ベトガーが彼の実験室のドアの上に記したと伝えられている。これは ベトガーの自嘲的な言葉のようでもあるが、錬金術で黄金を作りだすことは不可能と悟り、チルンハウス伯爵の指導を受け磁器開発に情熱を傾けているうちに、その美しさに魅せられ、陶工となるのは、神の意志と受け止めたのではないか。
『マイセン―秘法に憑かれた男たち―』に描かれるヨーロッパの磁器開発は、権力者からの強制、富や、名声への欲望が渦巻く話で、日本の磁器創成、続く喜三右衛門(初代酒井田柿右衛門)の赤絵付け成功物語とは大きく趣が異なる。東西共に秘伝を盗もうと画策するものはあり、「白い黄金」の生み出す富に向けられる目、財政の危機は共通するものの、磁器製造を産業として捉えたヨーロッパで戦いはより壮絶なものであった。組織に組み込まれ、経済論理で動かされた事がベトガーの悲劇を生んだ。
喜三右衛門の赤絵開発の歴史資料は、民間の事業だった故か、王の事業としてのマイセンのそれと比較して圧倒的に少ない。
 
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『マイセン―秘法に憑かれた男たち―』 ジャネット・グリーソン/訳・南條竹則集英社2000
 “The Arcanum: The Extraordinary True Story”  Janet Gleeson (Warner Books 1998)