文学者と柿右衛門 (1)
江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌などを紹介する。
渦福のうつはの前に阿弥陀ぐみ夜来花庵主は涙をおとす
手にとればうれしきものか唐草はこと国ぶれる渦福の鉢
渦福の鉢ながむればただに生きしいにしえ人の命し思ほゆ
この鉢のうづの青花たやすげに描きて死にけむすゑものつくり
渦福の銘のある柿右衛門の鉢を眺め、手に取り感触を味わい、芥川の喜びも一入だった。唐草模様に異国情緒を感じ、銘の見事な筆跡を見、遠い昔ひたむきに生き、美しい器を作った陶工に思いをはせる。第一首の阿弥陀ぐみとは、阿弥陀如来の印相を組んで器の前に座りじっくり鑑賞したのだろうか。芥川は田端の自宅を夜来花庵と名付け、夜来花庵主と名のった。
この三日前、三月十三日に親友の画家小穴隆一宛に出した手紙で、芥川が『新潮』に寄稿した随筆を見て、田村松魚が柿右衛門の鉢を一つやろうといってきたと報告している。小穴を人形町(東京都中央区日本橋)に天ぷらを食べに行こうと誘う手紙で、その時までにもらえたら、持って行って見せると書き、とても楽しみにしている様子が窺える。
今日本郷通りを歩いてゐたら、ふと托氏宗教小説と云う本を見つけた。價を尋ねれば十五錢だと云ふ。物質生活のミニマムに生きてゐる僕は、この間渦福(うづふく)の鉢を買はうと思つたら、十八圓五十錢と云ふのに辟易した。が、十五錢の本位は、仕合せと買へぬ身分でもない。僕は早速三箇の白銅の代りに、薄つぺらな本を受け取つた。それが今僕の机の上に、古ぼけた表紙を曝してゐる。
本郷で托氏(トルストイ)の宗教を題材とした短編小説集の中国語訳古書を手に入れ喜んでいるのだが、以前、欲しかった渦福の銘がある柿右衛門の鉢が高価で手が出なかったことを思い出す。この時芥川は二十九歳。海軍機関学校の英語教師を辞め、大正八年大阪毎日新聞に就職。出費は極力抑えた生活であったのだろう。小学校教員の初任給が十二円から二十円だった大正時代は、1円 が 現在の約1万円。十八円五十銭はかなりの額だ。
芥川は田村に、出張を控え礼に伺えないことをわびている。
芥川は大阪毎日新聞社の海外視察員として中国へ行くため、三月十九日に東京を立ち、大阪経由で二一日に門司から海路上海に向かった。約四ヵ月間の視察を終え七月帰国、8月に中国視察報告「上海游記」を大阪毎日新聞、東京日日新聞(東京発行の毎日新聞の前身)に連載した。
上海に向かう芥川は、ひどい船酔いに悩まされた。「海上」と題した第一回にその様子を書く。
少しでも體を動かしたが最後、すぐに目まひがしさうになる。その上どうやら胃袋の中も、穩かならない氣がし出した。
だから私は一心に、現在の苦しさを忘れるやうな、愉快な事許り考へようとした。子供、草花、渦福(うずふく)の鉢、日本アルプス、初代ぽんた、後は何だつたか覺えてゐない。いや、まだある。
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赤なしの柿右衛門なる鮓の皿
虚子は二女星野立子が主宰する俳誌『玉藻』昭和六年(1931)八月号に寄せたエッセイ「柿右衛門」の最後にこの句を添えた。大河内正敏の『柿右衛門と色鍋島』(彩壷会1916)を読み、華麗な色絵を持つ柿右衛門磁器に興味を抱いた。
初代柿右衛門は、歌舞伎『名工柿右衛門』で片岡仁左衛門が演じるような浮世離れした名人気質の人だったのだろうか、あるいは武骨な職人だったのだろうか、いずれにしろ赤絵の開発に一心に取り組んだのだろうと思い巡らす。豊富に収録された作品のカラー図版を見て、柿右衛門の絵に高い芸術性を見出し、娘にその感動を伝える。
虚子は『玉藻』に昭和五年(1930)の創刊号から三十四年(1959)に亡くなるまで三十年間、俳句の作り方、旅、友人のことから人生観、芸術観等幅広いテーマで寄稿し、娘に愛情深いアドバイスと応援を送り続けた。
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“彼は陶界の詩人である……様々な色で色の詩を書いた。私はその詩を読み、いな、眺めて音楽的永劫へと誘われていく。
英文学者で詩人の野口米次郎は随筆「柿右衛門の皿」で柿右衛門を陶芸界の詩人と呼ぶ。柿右衛門固有の赤、黄、緑は表面に焼き付けられたというより、もっと深い心から光って来るように見え、魔法の詩を潜ませているという。野口はアメリカの彫刻家イサム・ノグチの父。
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文芸評論家小林秀雄も骨董品や美術品に熱中していた時期があった。評論集『考えるヒント』の「井伏君の『貸間あり』」でその骨董いじりを説明する。
かつて、形というものだけで語りかけて来る美術品を偏愛して、読み書きを廃して了った時期が、私にあったが、文学という観念が私の念頭を去ったことはない。形から言わば無言の言葉を得ようと努めているうちに、念頭を去らなかった文学が、一種の形として感知されるに至ったのだろうと思っている。
国語学者中村明氏(早稲田大学名誉教授)によると小林は「骨董の形から無言の言葉を得ようとしていた。すると骨董が一種の軽妙な言葉で語りだしたことがある」と経験を語る。(NHKカルチャーラジオ『文学の世界――文学の名表現を味わう』第八回「刺激的な逆説、矛盾語法」2012年八月放送)。
文学者は美術品を眺めることにより、形が語りだす言葉を待つ。形が語る言葉を得て、形を持たない文学、観念だけでは語れない真理を形として感知しようと美術とつき合うのであろう。
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大正10年(1921) 713(3月13日 田端から。小穴隆一宛)
大正10年(1921) 715 (3月16日 田端から。田村松魚宛)
「柿右衛門の皿」 野口米次郎 (『微笑の人生読本』金星堂 1933)