三好十郎の『峯の雪』と戦時下の有田

 戦後七十年の今夏、様々な視点から太平洋戦争の検証がなされる中、六月の初め〝埼玉県川越市の川原に大量の陶磁器製の手榴弾の弾体が投棄され野ざらしになっている”ことが新聞やテレビで報道された。投げ捨てられ割れた弾体の山は、戦時中、陶磁器の手榴弾に火薬を詰める浅野カーリット社の工場跡地の近くの川原にあり、終戦時工場が廃棄したものだ。川底に沈むもの、割れずに原型を留めているものもある。それらは土の色や釉から全国の窯業地で作られたことがわかる。信楽備前、瀬戸とともに、有田で作られた物も含まれていた。
 有田では、太平洋戦争末期、物資不足により金属の代用として手榴弾の他、爆弾、戦闘機用燃料タンク、軍用食器、コインなどが作られた。「季刊 皿山」No.59-3 2003秋(有田町歴史民俗資料館)掲載の久富桃太郎の「大東亜戦争と有田焼」によると、手榴弾は、磁器爆弾の特許を持つ清水時一により、1944年七月日本兵器窯業が設立され、約一年生産された。敗戦で実戦には使用されなかった。
 
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 三好十郎(19021958)の戯曲「峯の雪」(1944)は、この時代に生きる老陶工の葛藤する姿を描く。三好は現・佐賀市出身で、代表作は劇団民芸により上演された、「炎の人―ゴッホ小伝」(1951)、「浮標」(1940)、「廃墟」(1946)、「その人を知らず」(1948)、「胎内(1949)等。 

 

舞台は有田と思われる九州の窯業の地。 日中戦争が深刻化していく昭和十六年(1941)、皿山一番の茶碗名人と言われる陶工花巻治平は、ここ一年轆轤を回していない。 陶磁器製造合名会社香陽社の下請けをしている治平は、材料や薪をもらえず、本業の茶碗や壺が作れない。割り当てでくる碍子や数物の茶碗は弟子で遠縁の治六に任せ、出征兵士の留守宅の畑を借り農作業をしている。長年打ち込んだ茶碗や壺の本業を、数物やおざなり仕事で汚したくないのだ。
香陽社代表社員塩沢家の若主人、専務の勝彦は軍需品製作に腕のいい治平の力が必要となり、東京の電機会社の若い社員外記定男と窯を訪ねる。 外記の会社は本来蓄音器会社なのだが、今は聴音器製造をしている。 飛行機や潜水艦に使う電波兵器の部品となる小さな精巧な碍子の試作を窯業地の名人たちに依頼にきた。

 

塩沢: うまくいけば、兵器の方にドンドン使ってもらえるそうで、もし此の町で積出せるやうな事になると、これこそホントの国策的な仕事ですけん、どうか、おんしゃま、一つよろしくー
 
外記: いや、いよいよの事はもう少し先行の話で、当分方々の窯業地で色々試作して貰って試験してみるんです。(図を指して)いろいろありますが、大体、継ぎ目なしの一轆轤(ひとろくろ)で作って貰わなくちやなりません。それに従来の絶縁体よりも膨張係数を少なく、しかも気温に対する抵抗力の巾を拡げてほしいんで。 ……どうも少し矛盾した注文らしいんですが。 

 

塩沢は「国家がこういう風になって来たのだから」、名人でも国家の為に何かすべきと説得する。外記は名人にしかできない精巧なものを粘土や釉薬焼成温度の工夫で作ってほしいと頼む。
治平は関心を示さず、会社が企業整備で資料や燃料を独占する形になり営利主義を貫くため、このままでは、素地屋も上絵師もかつかつと窮状を訴える。
平時、治平の作品は“会社の製品のいわばまあレッテル”なのだが、戦争中は国策で不要不急のものは作らない。治平の仲間、上絵付けの名人志水卯七も釉が手に入らず、荒れている。独立すれば道もあるといわれるのだが、治平は義理にこだわり香陽社を離れない。

 

草の花を一輪持って次女みきが外から帰ってくる。外記はみきを見て、張家口で匪賊に襲われ負傷した時助けられたタイピストだと気付き、再会を喜ぶ。
みきは女学校を卒業して家を出る。治六、姉と自分の関係を察し身を引いたのだ。 その後大陸に渡り、日本軍の特務機関でタイピストとして働き、傷病兵の慰問をしていた。 近所の人たちは満州でカラユキさんをしているなど噂しているが、家族も帰って来たみきに、真相を確かめられないでいた。
 
遠くから、「万歳!万歳!」という大勢の人の声が微かに聞こえる。海軍に配属される近所の青年寄山新吾を見送る声だ。下士官服を着た新吾が治平を訪ね、茶を点てて欲しいと頼む。治平は新吾とみきのために茶を点てる。二人は治平に茶を習っていた。
新吾は茶室に生けてある峯の雪(白い山茶花)に気付く。

 

疲れから自堕落な様子のみきが、顔を洗おうと庭に出て峯の雪が咲いているのを見つけ、「モックリした山がある。 水があって、そいから、峯の雪! ニッポンよ! よく来やはりました!」帰国を喜び、一変して、真剣な顔で純白の大輪の峯の雪を父の作った壺に生けた。 
 
 三人は茶席で静かな深い時間をすごす。新吾は治平の碗の美しい刷毛目に感動する。治平自身いい出来というこの碗を「船で使ってくれと」新吾に贈る。
 
 みきは中国でも毎週花を生けたという。花がなくても、草の葉をむしって、薬瓶やウイスキーの瓶に生けていた。若い兵士も、つらい仕事をしているから余計深く感じるという。
治平は自分と性格の似ているみきに跡を継いで欲しかったので絵、茶、焼物を厳しく仕込んだ。 みきは父に仕込まれ、父が継がせようとしたものは、はずしていないと言い、自分の仕事の中に確信している。

 

ホントに美しいもの、きびしいもの、ツボやカンといったようなものは、なにもお茶やお花や絵に限った事じゃ無い。真剣な仕事、物ごとの中には、何にでも、いえ、そんな物の中にこそ、もっと大きなホントに美しいものがある。 

 

国策に加担して軍需品を作ることに抵抗し続けた治平だが、みき、近所の出征する青年に心を動かされ、轆轤を回し外記の注文した碍子を作りだす。半ば諦めた様子だがそれが自分の役割と考える。
上絵師卯七は治平の行動に納得できない。
 
西村博子は「『寒駅』以後―三好十郎の国策劇と演劇実験―」(「河南論集」二号、大阪芸術大学芸術学部文芸学科研究室 1995)で「名人治平が再び数物の轆轤を回すのは、ひょっとして外地で売春でもと疑っていた娘みきが実は北京の特務機関でタイピストとして働き、かたわら傷病兵を慰めていたのだと知ったからであった。その娘の生ける生け花の美しさ、訪れてきた出征兵士のために立てる茶の静けさは治平を心の底から動かす」、「プロレタリア作家・三好十郎が、その仕事で最初にはっきりと戦争協力への道を踏み出したのは、……日中戦争開始〈昭127〉から一年余り。三好の内部には何よリまず、自分と同じ庶民、農民の中から続々と戦地に赴いていく出征兵士の姿に動かされたのだ、と思われる」と分析する。
戦争に賛成していなかった三好だが、1944年九月十八日の日記に「戦争が拡大、悪化し、精神的にも物質的にも状況が苛烈になればなるほど、すなわち敗れてほしく無い、敗れたく無い。勝ちたい。是が非でも勝たねばならぬ」と記した。(「三好十郎日記」五月書房 1974)

 

「峯の雪」の脱稿は1944年。1945年6月に桜井書房より刊行の予定であったが、刷り上がったところ出版社が空襲にあい、焼失してしまった。この時原稿も焼けてしまう。死後、朱筆直しの入ったゲラ刷りが見つかり、『三好十郎著作集』第一巻(三好十郎著作刊行会 1960)に所収された。
 劇団民芸が1978、1980、1982、2010年に、劇団文芸が1980、198年2に公演、劇団文芸の1980年の公演は第35文化庁芸術祭優秀賞を受賞した佐賀県庁の演劇サークルが初上演したとの記録がある。 

 

ゲラ刷りとともに「峯の雪に関するノート」として残された覚書が見つかった。そこには、『峯の雪』を完全に書き直し、同じ登場人物の敗戦後の姿を描く構想が記されていた。父は国策に協力したことを反省し、本業を淡々と始め、疲れ切って大陸より帰って来た次女の再出発は茶席での語り会いで、 戦争批判の結論として、「廻り遠いようだが日本人の文化を高くする以外再建の道はない」と思い、付近の村の教育活動を始めるとある
『峯の雪』は書き直しは実現しなかったが、国策に加担したことへの反省、戦争責任をその後の作品での課題にした。どのような種類のどのような思想のもとに行われる戦争にも、反対する絶対的平和主義、非武装主義を明確にした。

 

「峯の雪」の原型と推定される「赤絵絵末」に関して1940年の手記の中、松竹京都撮影所渾大防五郎宛の手紙に添えた映画シナリオ案の控えに「肥前有田に於ける幕末世相劇、焼物の芸術としての本質と、藩の資源としての商品性の間にはさまって、赤絵を守り通そうとする名工と、新時代に生きようとする長男の相克」とある。始めは時代物として構想された映画シナリオが現代物の戯曲として実現された。川俣晃自の解説にある。(『三好十郎の仕事』第二巻 学芸書林1968 

 

1944年夏大日本興業協会(大谷竹次郎会長)の「優秀脚本競作」という事業の企画の依頼作家の一人として三好は「峯の雪」を提出した。最優秀作を選び五千円の賞金を出すことになっていた。結果は「峯の雪」と共に菊田一夫久保田万太郎の三作が選ばれ各千円の賞金が与えられた。三好は協会の決定に不服で、友人(上楽秀信)への手紙で「自分の作品が最優秀なら潔く一点選び、三好が憎いなら外せばよい」と反骨精神を見せる。(「三好十郎日記」に下書きが残る。)審査員は武者小路実篤、岩田国士等だった。

 

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 日中戦争が拡大していく中、1938国家総動員法が施行され、人的、物的資源を政府が統制運用するようになった。1939年価格統制令により、一般食器類が統制価格に指定された。 芸術品、また芸術品と一般品の中間で「技術保存を必要とするもの」は「マルゲイ」、「マルギ」と呼ばれ価格の統制からはずされ、府県知事の認定価格での取引が許された。有田焼では「マルゲイ」には初代松本佩山、「マルギ」は 香蘭社深川製磁柿右衛門窯、今右衛門窯、川浪喜作、満松惣市と、伊万里・大川内の小笠原春一と市川光春が指定された。資材確保など優遇され保護策がとられたが、輸入資材や石炭の供給は制限された。1942年計画生産と資材、燃料の有効利用のため佐賀県内では四〇四あった工場が六六に整理統合された。

 

香蘭社は1875年、翌年アメリカで開催されるフィラデルフィア万国博覧会に有田焼を出品するに際し、窯元や商人が集まり合本組織香蘭社を始めた。1942年海軍監督下の軍需工場になり、ロケット燃料製造装置や化学磁器、多種類の碍子の製造を行った。1938年、1939年は満州、朝鮮での産業開発に伴い碍子の需要は拡大した。
日本コロンビアの前身1910年に、現・川崎市に設立された日本蓄音機商会で、戦時中電波兵器等聴音器を製造していた 

 

十三代酒井田柿右衛門はその著書『赤絵有情』で戦争中の窯の危機を語っている。十三代柿右衛門1938年、三十二歳の時に召集され、満州の東南部で国境警備などの任務に就いた。比較的平穏な軍隊生活で、1939年末召集解除で帰国した。 有田に帰った時、職人たちが十二代柿右衛門のやり方に辛抱しきれずやめて出ていくと解散式に集まっていたが、皆と話し合い、説得して閉窯は免れた。当時職人は245人いて45人が兵隊にいった。

 

やはり金がないのが第一原因でした。賃金をキチンと払っていなかったんですね。職人の不満ももっともで、柿右衛門窯はつぶれる寸前でした。おやじに、私にまかせろ、と言って金の工面にいろいろ手をつけ、まず職人に月一回給料を払うようにした。当たり前のことですがね。 

 

1940年、十二代柿右衛門は商工省の工芸技術保存作家の指定を受けるも、生産統制のもと、土や絵の具も配給制普通の状態の生産はとてもできない。
 
生産量はもちろん、壺はいくら、茶碗はいくらと値段の細かい規定まで作ってうるさいことでした。……こっちが考えているものの半値ぐらいの値段で、それ以上は許されない。しかし、いろいろ不服はありましたが、あの制度の中で美術品がいくらかは息をついてきたのも事実ですね。
 
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劇の前半で博多の骨董商宇多宗久が治平を訪ねて来る。〝富豪の若隠居″風の宇多は居合わせた卯七と骨董談義をする。
卯七は「…今、一つ三千円する高麗でん、一つ一万円する柿右衛門でん、そりば焼いた奴が窯開きした時あ、これが今の金にして五十銭か一円したとですたい。 ハハハ、此処の治平しやんの茶碗にしても同しこつ。もう二百年経ってごろうじ、二千や三千なら羽が生えて飛ぶ。大事になさりまっせ、ハハ」と、骨董の価値を経年で考える(昭和15年前後の一万円は現在の貨幣価値で三千万円位)。
そこへ治平が戻ってくる。 宇多は持ってきた壺を、〝白高麗の系統″らしいといい、鑑定を頼む。 治平は轆轤をやめて以来、鑑定もやめているというが、壺の地肌の美しさ、鷹揚さに魅入られ眼を奪われる。手に取って肌を撫で、壺の口に耳をあて音を聴くようなしぐさをし味わい、治六にもじっくり鑑賞するよう勧める。 宇多がこの茶碗の景色をなす紅味の挿した部分を、クスリの具合の窯変かと聞くと、名人治平は土そのものが作る美しさと答える。

 

いやいや、クスリなど、この手の物は大まかなもので。やっぱり、素地ですな。土、……いや、その土の出る気候風土まで行かんなりません。……チャンとそれを心得て、割出した仕事でせう。

 

宇多は高値を付けたく、治平から宋の物などとのお墨付きの言葉が欲しいのだが、好事家が軍需景気でだぶついた資金で道具をあさっているという話を聞き、口をつぐんでしまう。
宇多はさらに去年手に入れたという治平の若いころの作品を見せ箱書きを頼む。治平は四十代に造った伊羅保写しの碗を見て、〝気色ばみ過ぎ″で恥ずかしいといい、持っていた柿右衛門の赤絵の八方皿と交換して、返してもらい割ってしまう。 

 

 十四代酒井田柿右衛門は遺著『遺言 愛しき有田へ』で焼物の美について語っている。

 

 美しいものというのは自然がもっている恵みそのものなんですね。有田の泉山の石も岩谷川内の石も、多治見で使ってらっしゃる石も、何億年、何百億年という時間をかけて作られた自然なんです。気が遠くなるような時間をかけて作られた自然の恵みといいますか、自然の恵みを吸収して作られた自然の恵みです。わたしはそれが宝、宝物だと思っとります。
 有田の古いやきものには、そういう宝物の味が完璧にでとると思います、私は。骨董品で値が高いというのは、そういう自然の恵みがモノにでとるからでしょう。私は、それだから値が高いとしかいわんのです。いい作品だとかなんとかいうまえに、素材のもっている素晴らしさに眼と心を向けないといかんのじゃありませんかね。不純物をふくんだ素材、自然の恵みをそのまま素直に認めんとね。

 

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「峯の雪」三好十郎(復刻版『三好十郎著作集 第一巻』不二出版 2014
「峯の雪」三好十郎(『三好十郎著作集第一巻』三好十郎著作刊行会1960)
「峯の雪」三好十郎(『戦争と平和』戯曲全集 第四巻』日本図書センター 1998
『赤絵有情』酒井田柿右衛門(十三代)川本愼次郎西日本新聞社 1981
『遺言 愛しき有田へ』十四代酒井田柿右衛門白水社 2015