ヨーロッパの城からななつ星まで


 
十四代酒井田柿右衛門さんのご逝去を悼み、心から哀惜の情を捧げます。
 

 
 
財界人、工学者、その他の陶磁研究の門外漢にとっても長寿企業としての柿右衛門窯、有田焼産業は興味を引くもので、経営の理念や成功をもたらす視点に注目が集る。
 
十四代[酒井田柿右衛門]はこの伝統[濁手]を守ることに「命をかけている」とおっしゃっていた。代々の柿右衛門がそんな自らの命を投げ出してかかる位の気概を持って、大切な教えを守り抜いてきたからこそ、今日でも、柿右衛門の窯から生み出される作品は、世界を代表する陶磁器であり続けているのである。
 
京セラの元社長の伊藤謙介は十四代柿右衛門の講演を聞き、四百年もの間代々守り抜くものに命をかける柿右衛門の姿に、物作りの神髄を見たという。その著書『リーダーの魂』の一文「柿右衛門の濁手に学ぶ」に、濁手は「企業の理念」であろうと書く。
伊藤も歌舞伎「名工柿右衛門」で初代柿右衛門が夕日に照る柿の実の色を磁器に焼き付けることを心に誓う名場面を思い浮かべる。柿右衛門焼の真価は、その赤を中心とした色絵を最も美しく見せる地、濁手にある。柿右衛門窯の理念は、困難を極め途切れた年月はあったものの、代々続けられてきた濁手が象徴する。伊藤は十四代柿右衛門が濁手と取り組む姿勢を自らの企業経営と重ねる。
 
企業が創業され、幾多の年輪を刻みつつ成長発展を重ねていく。また、そこに住む人々も集まり散じて、世代交代を繰り返していく。長い時間を重ねようとも、「濁手」の技法と同じように、次の世代へ確実に手渡していかなければならない大切な「バトン」があるはずだ。
それは企業の「理念」であろう。企業が何を目指すのかという目的、それを実現するための考え方、つまり「哲学」である。
 
伊藤は創業者稲盛和夫の盟友といわれ、稲盛の経営哲学を社員に伝えてきた。企業経営のみならず、経済の社会的役割、人間の生き方まで取り込んだ稲盛の経営哲学は「京セラフィロソフィー」として知られる。
伊藤は「日経ベンチャー200512月号(255号)で「京セラフィロソフィー」の伝道こそ我が使命といい、企業の哲学を社員一人ひとりに伝える大切さを語っている。
伊藤は京都の老舗メーカー松風工業で稲盛和夫が率いる特殊磁器の研究開発、事業化を担当、その後,京セラ創業に参加した。開発製造畑を歩み、平成元年社長となる。文学に造詣深い財界人として知られる。
伊藤は十四代柿右衛門の「創り出すことよりも、守ることが難しい」と言う言葉にも共感を覚える。どんなに確かで揺るぎないものも時の経過により希薄化し、変質してしまうという宿命を克服するには、よって立つ「原点」を明らかにして、事あるごとに原点に立ち戻ることが大切という。
 
なにごとも社会や市場の変化、技術革新に合わせて進化し、変化していかなければならない。しかし「不易流行」と言われるように、変えるべきものと変えてはならないものを明確に峻別することが大切である。
 企業の「理念」とはいうまでもなく、絶対に変えてはならないものである。それが人間としての普遍的な原理原則に立脚しているであろうからである。時代がいかに変化を遂げようとも、人間が人間として生きるかぎり、生き方や働き方に迷った時に、常に正しい方向を指し示し続けてくれるものに違いない。
 
同じ窯業を営む京セラの開発製造畑を歩んだ伊藤は、柿右衛門の濁手に重ね、「企業が永遠に発展していくために」、又「一人ひとりの社員がみのり多い人生を生きるためにも」、理念を社員と共有し、確実に次世代に継承していかなければならないと結論する。
 
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 失敗学で知られる工学院大学教授畑村洋太郎と彼の主催する実際の設計研究会はその著書、『実際の設計〈第七巻〉成功の視点』でプリウス液晶テレビSuica、揚水式水力発電所などと共に、有田焼を成功事例として取り上上げる。磁器製造産業として四百年も存続していること、十七世紀初期に開発された技術の根幹が先端技術としても活用されている二点を、有田焼の成功と捉える。
 
有田焼の技術の根幹は、十七世紀の初期の段階で完成していた。分業システムの下で材料、道具を作る土屋、型屋、絵具屋生産工程のロクロ成形、絵付け、焼成などを担当する職人各々が技術を高く保ち、高い品質の製品を作り、手工業でも近代工業の大量生産に負けない産業となった。著者は有田全体が一企業のようなものと捉える。
十七世紀、有田焼はヨーロッパで王侯貴族の宝となり、金と当価値の評価を得る有田はヨーロッパの要求を正確に把握し、それを満たす製品を作るシステムが確立していた。著者はいいものを作れば売れると考える順方向の視点だけでなく、何が必要とされているか考える逆方向の視点を持っていたことが成功をもたらしたとする。
ヨーロッパへの大量輸出、輸出の減少、大火による壊滅的打撃、明治の殖産興業、機械化、原材料の変化などによる盛衰の波を超え、伝統技術がほぼ同じ形で産業として四世紀存続している。
近代以降には有田焼の技術で磁器の絶縁碍子が開発され、原料が違うが、伝統の磁器窯業技術が最先端の電子機器に使用される積層セラミックコンデンサの製造に活用されている。
 
有田焼産業のなかの柿右衛門窯の役割は、「最高級品を作り、産業と表裏一体で、芸術としての有田焼きを発展させてきた」とする。十四代柿右衛門と対談して、「変化しないことに意味がある技術もある」と認識を新たにする。
 
技術屋はとかく、性能を上げる、正確に作る、安く作る、などを目的にする。しかし、酒井田柿右衛門氏の視点では、美しいものを作るということが基本にある。美しいものを作ることが第一目的で、技術はそのために使っているだけなのである。技術屋とは根本的に目的が違う。技術を変える必要があるかといえば、仮に変えてより美しいものが作れるようになるなら変えればよいが、十分な技術が既にあるならば、変えずに継続させることが大事だ、という視点で技術を捉えている。
 
技術屋とは違う芸術家の視点である。代々の柿右衛門は陶芸家であると同時に、柿右衛門という職人チームの監督であり経営の責任を負う。美しものを作り続けるため、変えないため、職人を育てることに力を注ぎ、昔と変わらぬ原材料や燃料の調達などに多くの工夫と努力をなす。
 
有田焼の今後を考えたとき、器の絵柄や形を変えたりはするだろうが、作り方と分業体制は今のままで問題ない。ただし、それを維持していくのは容易ではない。満足のいくものを作り続けるためには、分業体制と腕のいい職人がそろっていることが必要だが、そのためには地域が活性化して動いていなければならない。
 
そして芸術品にも有田焼にも共通した課題として、世の中が何を求めているのかを考える視点や問題意識を有田焼き産業に携わる皆が共有することをあげる。 
(2013年) 十月十五日に運行を開始したJR九州の豪華寝台車「ななつ星」に、十四代柿右衛門の濁手の洗面鉢が設置されている。洗面鉢の他、テーブルランプ、一輪挿しなど柿右衛門窯、有田の老舗、今右衛門窯、源右衛門窯の作品も客車を彩る。有田焼の現在の一例である。
 
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金剛組、明珍本舗、小西酒造、虎屋、キッコーマン八文字屋、そして柿右衛門窯。舩橋晴雄の『新日本永代蔵―企業永続の法則』で紹介される創業三百年を超える長寿企業だ。
シンクタンクシリウス・インスティテュートの代表取締役舩橋はその長寿の秘密を探るべく国内四十社を訪ね、そのあとがきで書く。
 
父祖から伝えられた経済倫理や技を絶えずリマインドしてリレーランナーのように伝え、それを糧にして自己変革する努力を黙々と続けている人々が大勢いるのである。その代表選手が本書で訪ねた「超長寿企業」の人々である。
 
柿右衛門窯は長期的な視野で、戦略的アプローチを実践する企業として、その製品が日本的であることで国際的な評価と受容を実証した企業として取り上げられる。
 
「私たちは綺麗で、格好よくて、合理的なものを作っているのではありません。そういうものとは違った世界にある美しさを感じとってもらいたいのです。われわれが作ったものを見て土の味、絵の具の味、轆轤の技を感じ取ってほしい。それがわかる人が少なくなってきたのではないかと心配しています。」
 
当主十四代柿右衛門は、土や絵の具の深みのある味、轆轤の技が生み出す美しい形こそ日本人の美意識が作りあげたものであり、こだわり作り続けたいという。
柿右衛門窯では、不純物が残るゆえかえって深みのある味をだす上絵の絵の具を昔からの方法で年月をかけ作り、江戸時代からの窯で松を燃料に焼く。一人前の轆轤師や絵師になるまでに30年かかるという。将来を見据え、各々の能力を最大限に引き出し、製品が完全であることを求める。十四代柿右衛門は、長い修行なくしては元禄の時代からのものを決して乗り越えられないと言う。
十七世紀、柿右衛門の色絵磁器は日本人の美意識の表現としてヨーロッパの人々を魅了した。ナショナルなものであることが国際的価値となった。
 
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武雄簡易裁判所判事の中島巌は随筆「初代柿右衛門のかくし技」で、初代柿右衛門の興味深い一面を垣間見せる遺文書を紹介している。中島は195311月に佐賀県西松浦郡の曲川村公民館で催された初代柿右衛門の三百年祭記念遺作展を訪ねた。
 
中央の遺文書の中に長さ一尺五寸、幅五、六寸位の古い大福帳があって、これを係の人がめくっていた。そこには長崎丸山町の名妓楼と遊女の玉代と年令と源氏名とが列記されてあつて遊女の名を書きつらねた名の上にところどころに直径三分位の黒丸が丹念に印されてある。そのことについて係の人はこの黒丸が何を意味するかは自分にも判らないと意味ありげな笑をみせ、これをのぞき見していた四、五人の人々も互に顔を見合わせてこれ又意味ありげに笑うのであつた。その黒丸がオイランの美醜を区別したものか其の他の何を意味するものであるかは、作者初代柿右ヱ門ならでは判らぬことながら、これを見せてもらった多くの人々がめいめい其の妄想をたくましくしたであろうことは争えない。
 
初代柿右衛門は陶工として制作に励む傍ら、商人の接待のためのこのような情報集めを行っていた。中島はこの大福帳の存在は制作に精魂を傾けると同時に、貿易にも並々ならぬ力を注いだ柿右衛門を、雄弁に物語るという。
この大福帳には、長崎花街には千四百十三人もの遊女、芸者がいたとあり、当時の花街の繁栄が伺える。
 
一代にして赤絵付けの技法を完成した陶工柿右衛門が、其の余力を斯様に人情の機微をうがった商才の面にもいかんなく発揮したところに、陶工柿右衛門の偉大さを偲び、今更のごとく感歎したのであった。
 
中島はこのことから、初代柿右衛門の晩年は歌舞伎や小学校の国語教科書で語られる話とは違い、「相当活計を営んでいたと見る方が正しいと推定される」と書く。
初代柿右衛門は金銀の焼付法の伝授をかたくなに拒む中国人商人が囲碁を趣味とすると知り、数日その相手をして親しみ、やっと秘法を伝授されたという逸話も残る。
この三百年祭は十二代柿右衛門の時代で、後に十三代、十四代を襲名した渋雄、正と三代そろって祝った。十四代柿右衛門は大学に入学した年で十九歳の時だった。
 
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柿右衛門の濁手に学ぶ」伊藤謙介 (『リーダーの魂』文源庫2010
「驚異的な産業寿命を誇る有田焼」畑村洋太郎/実際の設計研究会 (『実際の設計<第7巻> 成功の視点』日刊工業新聞社 2010
柿右衛門窯 ナショナルなものの価値」舩橋晴雄(『新日本永代蔵―企業永続の法則』日経BP社 2003
「初代柿右衛門のかくし技」中島巌(『法曹』1954 3月号 法曹会)
ななつ星」お目見え (朝日新聞9月13日付 夕刊
ななつ星」ベール脱いだ 漆色の機関車、客室に木材… 朝日新聞デジタル:朝日新聞のニュースサイト www.asahi.com/
  *十四代柿右衛門作の洗面鉢の写真掲載