江戸の盆栽愛

  四月の中旬、柿右衛門窯公式ホームページの「窯便り」に都忘れの鉢植えの写真が掲載された。 小型長方鉢の四面は赤地に四段の丸紋つなぎで、白の丸紋の中に緑と黄、心が赤の十字花が描かれている。柿右衛門作品の地文の一つで、十四代柿右衛門は濁手作品の口縁、瓶の頸、高台周りに描いた。代表作、「濁手桜文花瓶」(2003)の頸と高台に緑の同地文が巡らされている。十三代柿右衛門の作品にも同じ文様は見られる。    
園芸鉢は柿右衛門窯では稀な製品で、現在は注文に応じ制作しているとのことだ。
江戸時代初期から明治初期まで,柿右衛門窯に植木鉢や盆栽用石台鉢が注文されていた。 酒井田柿右衛門家文書の御注文控えに植木鉢、石台の記述があり、御注文絵形には湯呑みや手塩皿、重蓋物など様々な器と共に染付山水と瑠璃釉の植木鉢の図がある。
 元禄四年(1691)、六代将軍徳川家宣甲府藩主時代、三十歳位の頃植木鉢を注文した。 三代将軍家光は家臣大久保彦左衛門にいさめるために愛蔵の盆栽を壊されたという逸話が講談に語られるほどの盆栽好きだったと云われている。 家宣は家光の孫にあたる。
 
甲府様御用蘭鉢 口差渡し弐尺余
   一、青磁もつかうなり   弐ツ
右は千丹置上ケ
口差渡し右同断
   一、同瓜なり   弐ツ
     右ハ無地。
     未三月

 直径60センチほどの蘭鉢と、センダンの浮き彫りをした青磁木瓜形鉢二個、青磁瓜形鉢二個とある。

六代将軍となった、二十年後の正徳弐年(1712)、家宣は再び柿右衛門窯に園芸鉢の注文をした。その控えの文書も残る。


御公儀様御用石台鉢
一、角白焼   壱ツ
平四尺八分、取手共ニ横弐尺弐寸四分。
惣廻りニきつこう、ほり上ゲ、
  平ニ亀之ほり上ケ、尤、ゆえん形之内ニ
  横ゆえん形之内ニ、岩ニ浪之堀内上ケ、
右何茂大白也
一、青磁瓜成り   壱ツ
胴之廻り菊唐草之ほり上ケ、
指渡し三尺弐寸四分
一、丹しき手太鼓   壱ツ
指渡し三尺三寸
 
正徳弐年
 辰四月十一日、右者北島十郎右衛門殿御存也。
 
家宣はこの注文の六か月後の五十一歳で死去してしまう。
 「植木鉢が作られるようになるのは、これまで十八世紀からと考えられてきた。  これは江戸の遺跡の発掘状況からの推測であったが、[酒井田柿右衛門家文書から]十七世紀終わり頃には、すでに精巧な植木鉢も作られていた」と依田徹氏は著書に記す。  だが、柿右衛門窯でも青磁や錦、白焼の同様作品は確認できず、破片の発掘は無いことから果たして製造できたか確証はない 石台は大きく高い技術を要するが、白磁は大きな色絵窯は必要なく技術的には可能だった。   元禄四年は五代柿右衛門の亡くなった年で六代柿右衛門が叔父渋右衛門の後見で家名を継いだ。
大橋康二氏は有田町長吉窯跡から出土した染付山水文鉢は、十七世紀中葉のオランダ東インド会社注文のヨーロッパ向け輸出用植木鉢と推定する。
家宣は元禄四年、蘭鉢と青磁の器、計五点を注文した。その約二十年後正徳二年に再び三点園芸鉢注文していることから、前回の注文品は届き出来映えに満足したのであろうと推測できる。しかしおそらく家宣自身は正徳二年の二度目の注文の完成品は見ることはなかったと思われる。
さらなる江戸城及び甲府城の遺跡発掘が待たれる。
柿右衛門家文書にはその後も園芸鉢や石台の注文が複数ありその控えも残る。
 
江戸初期の六曲一双の「盆栽図屏風」(出光美術館所蔵)がある。 金地に青磁、色絵、陶器、木製の盆鉢や石台に植えられた二十三の盆栽が浮かぶように描かれている。 陶磁器の鉢は中国の物といわれる。 屏風は盆山コレクターのコレクション披露のために描かれたものなのか?
出光美術館黒田泰三氏は、狩野山雪あるいは周辺の絵師の作と推定する。 山雪は肥前出身で京都の狩野山楽の元で修業し、山楽が江戸に移った後も京に残り京狩野と呼ばれる一派を成した。 「樹木や器の正確な認識に基づく高い表現力」から黒田氏は山雪説を唱える。
家宣は屏風に描かれている鉢をヒントに自身の草木を育てる確かな器を注文したのではなど想像が広がる。
 
太田記念美術館の2009年特別展「江戸園芸花尽し」の図録に徳川家由来の鉢と石台についての記述がある。 
 
縁先の花台は木製の物であった。大きな石付の盆栽などを植える取っ手付きの木製鉢はいつしか「石台」となる。
酒井田柿右衛門家文書に、六代将軍家宣が正徳二年(1712)に石台、鉢を注文したと記されている。 寸法は取っ手の付いた形状で長径   約124cm、幅約68cmと大きい白磁の鉢、しかし江戸城の庭に今はない。 木製の石台は朽ちたが、鑑賞用に小型化された磁器製石台となって僅かに残り往時を追懐させてくれる。
 
磁器の園芸鉢や石台は有田で始まり、尾張に伝わり盛んに造られるようになる。染付、色絵、青磁、瑠璃釉鉢などは江戸後期から明治初期にかけて洗練されたものになった。 龍に山水が描かれる鍔付蘭鉢や、貼花など白の模様との対比の美しい瑠璃釉の鉢など、松、桜、梅、鉄線などの高級品種に見合う良質な鉢が作られた。
イメージ 1皇居の大道庭園では毎年伝統の正月用盆栽「春飾り」を準備する。松、竹、梅、千両、万両など縁起物の寄せ植えが名器に作られ新年に宮殿,御所等に飾られる。昨年末の「春飾り」の準備の様子を伝える日テレNEWS24の動画映像に、明治時代に有田の精磁会社で作られた色絵盆栽鉢二個(写真:右ページの寄せ植えの鉢と左ページの下段左の鉢 『明治有田 超絶の美』 「宮中の盆器」より)が確認できる。 精磁会社は1879年に日本初の磁器製造会社香蘭社から分離して設立、20年足らずで終焉したが、有田の名工による最高レベルの名品を残した。

  園芸熱は武士や富裕階級の人々に止まらず江戸庶民にも広がり、花見をし、植木市が開かれ、盆栽や鉢植えを愛でた。 この様子は浮世絵に描かれた。
三代歌川豊国(1769-1825)による「春宵梅ノ宴」は庭の地植えの梅と鉢植えの梅を鑑賞する贅沢な集いに集まる人々を描く。 庭の盆栽棚には多くの鉢植えが飾られている。染付と瑠璃釉の蘭鉢が並ぶ中に家宣が柿右衛門窯に注文した位の大きな石台が描かれている。 家宣注文から約百年後の浮世絵であるが、大きなタタラ作りの石台が実際作られていたことがわかる。
庭を持たない庶民も小さな鉢で草花を栽培し手元において楽しんだ。
喜多川歌麿1753-1806)描く「娘日時計 辰ノ刻」は夏の朝、小さい白磁に植えられた朝顔の花を鑑賞する若い娘の姿を描く。
鈴木春信(17251770)の「夏姿 母と子」の背景には鉄絵の大きな鉢に植わった鶏頭が描かれている。
歌麿の「錦織歌麿形新模様 浴衣」、豊国の「十二月ノ内 水無月土用干」には、浴衣姿で涼む女性の後ろにそれぞれ石鉢、山水文の染付蘭鉢が描かれている。
江戸後期の名優、三代尾上菊五郎17841849)は園芸好きで知られる。俳人でもあり俳名を梅幸から梅寿に改名した時の『梅幸改名披露発句集 梅寿』に歌川国芳の描いた秘蔵の蘭珍種を植えた鉢の図が残る。風蘭、万年青、松葉蘭などの珍種五種を植えた、色絵の長方鉢、染付、青磁の正法鉢、鉄絵や瑠璃釉の蘭鉢が描かれている。
 
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『盆栽の誕生』 依田徹(大修館書店 2014
『将軍と鍋島・柿右衛門 大橋康二(雄山閣 2007
『明治有田 超絶の美』 監修鈴田由紀夫(世界文化社 2014
「江戸の園芸熱 浮世絵に見る庶民の草花愛」展図録たばこと塩の博物館 2019
「花開く江戸の園芸」(開館20周年記念特別展)図録(江戸東京博物館 
2013) 
『江戸の技と匠―独自の文化を支えた職人と科学者たち―双葉社スーパームック歴史ビジュアルシリーズ(東京 双葉社 2012) 
「皇室伝統春飾りの準備が大詰め」日テレNEWS24