フレディ・マーキュリーとアフリカに渡った伊万里

  イギリスのロックバンド「クイーン」の軌跡をそのボーカリストフレディ・マーキュリーを主人公にたどる映画「ボヘミアン・ラプソディ」(2018年 11月公開)の大ヒットで、栃木県足利市の栗田美術館に多くのファンが訪れているという。 栗田美術館は伊万里、鍋島焼の充実したコレクションを持つ陶磁専門の美術館で、伊万里焼のコレクター、フレディが1986年に同館を訪問したことがテレビ番組で紹介され、聖地巡礼の地となっている。

 1975年の初来日以来、多数の日本公演を行ったクイーンのメンバーは親日家で、とりわけボーカルのフレディは日本文化を愛し、伊万里焼を蒐集した。

  映画では、フレディのロンドンの自宅ガーデンロッジに飾られている沢山の伊万里焼や骨董品が背景に映し出される。

 映画の冒頭、1985年7月、ロンドンのウェンブリースタジアムでアフリカ難民救済のためのチャリティーコンサート Live Aidが開かれる朝、ロンドンの自宅でフレディが目覚める。着物(長じゅばん)のガウンをまとい身支度を済ませ、階段を降りホールに出るとそこに古伊万里沈香壺が置かれている。 背景の一部ではっきりした映像ではないが、蓋付きでシンプルな色絵文様のある大壺で、古いものの様に見える。 この他にも多くの壺(その中の一つは着物姿の婦人が描かれている)、古伊万里の色絵婦人立像、鉢などを確認できる。 終わりの方のシーンではピアノのそばで愛猫が伊万里焼の鉢と思われる器で餌をたべている。 落語「猫の皿」を思い起こさせる。 フレディの実家には中国景徳鎮のアラベスク文様の青花双耳篇壺が飾られている。

  フレディ・マーキュリーは1946年、イギリスのザンジバル保護国(現タンザニア)で誕生した。ザンジバルは東アフリカ沿岸部のインド洋の島でダルエスサラームの北に位置する。 両親はインド生まれのイスラム系インド人のパールシー、父の仕事でザンジバルに住んでいた。 しかしフレディが17歳の1964年ザンジバル革命が起こり、一家はイギリスに逃れた。 

 フレディの生地、ザンジバルは中世以来イスラム商人のインド洋貿易の拠点として栄えた都市の一つで、遺跡から中国陶磁が大量に出土し、東洋陶磁流通史研究の重要なフィールドの一つだ。日本の磁器破片も発見されている。 

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 学術系クラウドファンディング「アカデミスト」の長崎大学多文化社会学部の野上建紀教授のサイトに、ゼミの学生の一人が2017年、ザンジバルのフィールドワークで海岸で採取した近現代の陶磁の欠片の中に日本磁器があったと報告がある。

 野上教授は「これは、日本とアフリカの間に陶磁器が運ばれた海の道(セラミック・ロード)があったことを意味します」と指摘する。         

 積み出し港に因み伊万里焼として広く知られる肥前磁器は江戸時代、ヨーロッパに運んだオランダ船の中継地だったケープタウンモーリシャスに数多く残るが、東アフリカでは現時点でタンザニアケニアで少数の発見例しかない。

2018年10月13日付けの西日本新聞は野上教授の肥前磁器流通に関するタンザニア調査を報じた。

 野上教授はタンザニアに注目し、インド洋側のダルエスサラーム近郊及び、南の世界遺産キルワ・キシワニ遺跡を調査した。キルワ・キシワニ島もかつての東西貿易拠点で、スルタンの墓に肥前磁器がはめ込まれていた丸い跡も残り、17世紀後半の肥前染付芙蓉手皿の破片が見つかっている。 

 記事は野上教授は「[鎖国時代]中国船が東南アジアやマカオに運んだ肥前磁器を、ポルトガルイスラム商人の船が東アフリカに持ち込んだと推測。 モスクや墓の装飾に中国磁器が使われる事例があり、それに代わる肥前磁器が見つかる可能性は高いとみて調査を続ける」、「(欧州に輸出した)オランダとの交易が注目されがちだが、中国船の役割も大きく、その先を調べることで肥前磁器の世界的な流通の実態が見えてくると話す」と伝える。

 野上教授はこれまでの研究で、スペイン船が太平洋を渡りラテンアメリカに運んだ肥前磁器を確認している。 

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インド洋に面する海岸を南にソマリアケニアタンザニアと下ると、その海岸や島々に中国陶磁を出す遺跡が驚くほどたくさん散在しているのに気がつく。それにタンザニア沖のザンジバル島や、巨大なマダガスカル島にもある。 

   ユーラシア大陸の東西を結んだ交易路を中国から絹を運んだことから絹の道と呼ぶのに対し、陶磁器を運んだ海路を「陶磁の道」と名付けた考古学者三上次男氏は、その東洋陶磁流通史の名著『陶磁の道』に記す。 1950代、イギリスのフリーマン・グレンヴィル氏(Freeman Grenville)はタンザニア沿岸部に46の中国陶磁を出す遺跡を確認した。

 象牙や奴隷の貿易で勢力を持つオマーン商人はザンジバルを拠点とし中国陶磁を大量に輸入した。ここでは宋銭も見つかり中国との密接な関係を示す。 交易の拠点ストーンタウンはユネスコ世界遺産に登録されている。  スルタンの宮殿であったパレス博物館は豪華な家具調度が飾られ往時の隆盛をしのばせる。 2018年の野上教授の調査で、幕末明治に有田で作られたとみられる色絵大壺三点と大皿二点の所蔵が確認された。

 キルワ・キシワニ島の遺跡からはイスラム陶器に混ざって、十世紀から十六世紀ごろまでの多様な中国磁器のほかベトナム、タイの陶磁器、古伊万里染付の破片が発見されている。 ユネスコ世界遺産に登録されている遺跡にはモスクや宮殿の廃墟が残る。

  中国南部、東南アジアからスタートする貿易ルートはインド、アラビア半島、アフリカ東海岸に至り、ペルシャ湾、紅海を上り地中海に通じ、八-九世紀に東西世界が結ばれた。この地域は古くはペルシャ人、ユダヤ人、13世紀にはアラビア商人も加わり、アフリカの金、宝石、象牙、奴隷、中国、アジアからの香辛料、陶磁器の交易で栄えた。 

 野上教授は「伊万里の輸出は17世紀中頃の中国磁器の輸出減少とともに始まり、17世紀末に再び中国磁器が大量に輸出されるようになると減退していった、中国磁器の代用として伊万里の輸出が始まったことを考えると、中国磁器が確認される地域では、伊万里が発見される可能性が高いのである。 今後、〔東アフリカ沿岸地域は〕とても興味深いフィールドになると思われる」と記す。 (「特集:日本-アフリカ交流史の展開 アフリカに渡った伊万里」) 

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 ケニア南部の海岸都市 マンブルイ、ゲティ、モンバサは多様な民族が暮らし、アラベスク模様の装飾のある建物、イスラムのモスク、ヒンズー教の寺があり、遺跡からは中国磁器とともに日本の磁器が出土している。 

 モンバサはアラビア語で「戦いの島」という意味でポルトガルとアラビア商人が戦っていたが、15世紀にはアラビア商人がこの地を制した。交易で栄えたオールドタウンの元ポルトガルの砦、フォート・ジーザスは現在博物館となっている。

 ここには古伊万里の大壺が完全な形で残っている。胴に窓枠をとった赤と濃い染付が印象的な花鳥文の壺だ。 『セラミックロード―海を渡った古伊万里』に上野武は驚きを書き留める。引用に登場する井村欣裕さんは京都美商、井村美術館の代表で取材に同行した。 

 驚いたことに、予想もしてなかった古伊万里があった。 高さ約四十センチ、染錦手の堂々たる大壺だった。 井村欣裕さんによると、十七世紀末から十八世紀初めにヨーロッパへ輸出されたのとまったく同じタイプだという。これはいったいどういうルートでモンバサに来たのだろうか。

 

 博物館にはモンバサの北、ゲティのアラビア人の遺跡から出土した十四世紀ごろの中国の青磁、染付、釉裏紅の壺、十五、六世紀のおびただしい数の中国染付の破片があった。

 三上次男は「釉裏紅の壺は数百キロ離れたキルワ島の都市遺跡から出た破片と同じ種類のもの」と『陶磁の道』で指摘している。 

 ゲティの海辺のジャングルの中の遺跡には内部の壁にくぼみが残るモスクがある。すでに抜き取られているが中国磁器の皿や鉢が埋め込まれていたと推測される。アラビア建築のタイル装飾に倣い中国磁器が使われた。この遺跡はケニア国家記念物に指定されている。 

 ゲティの北のマンブルイの16世紀のアラビア人の墓地に残る円柱型の柱墓に明の染付や青磁が埋め込まれている。 

 コーラン偶像崇拝を禁じているため、神の姿や、神の創造物である人間、動物の描写を避けたため、イスラム、アラブの社会では建築物の装飾に模様タイルを使った。 東アフリカでは窯業が遅れていてタイルを焼くことが出来なかった為、代用とし中国磁器の皿や鉢が埋め込まれモスクや墓を飾った。このため大量の磁器が輸入されたと推測される。 陶磁を壁に埋める装飾は東南アジアのイスラム社会にも残る。 

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 細野不二彦の漫画シリーズ『ギャラリーフェイク』の一話「伊万里の道」はゲティの遺跡を舞台に展開する。日本人がジャングルの中に埋まった廃墟化したモスクの内壁に埋め込まれた膨大な数の古伊万里を発見する。発見者はギャラリーフェイクの上得意だったいわゆるバブル紳士でバブルがはじけ事業に失敗し負債を負い行方不明になっていた。ギャラリーフェイクは表向き偽物を扱う悪徳美術商だが、オーナーのフジタは目利きで真にアートを愛し、相応しい人とは良心的な取引きをする。(2015年9月5日投稿記事「ギャラリーフェイク」参照)                    

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南アフリカ伊万里

 オランダ東インド会社によるアジア貿易の中継地、南アフリカモーリシャスには大量の肥前磁器が残る。 

 南アフリカに最初に入植した西欧人はオランダ東インド会社の社員約90人で、長崎の出島に滞在したこともあるヤン・ファン・リーベック(1619-1677)の指揮のもと、貿易船の補給基地としてケープ植民地を建設した。1652年から1662年まで初代総督を務めたリーベックは、岩だらけの穀物栽培には向かないが、 四季のある地中海気候のこの地でブドウ栽培が出来ると考え、1670年代にブドウ酒作りの技術を持つフランスからの移民を受け入れ良質なワインの生産を始めた。白人入植者は自らをアフリカーナと呼びこの地に根付いた。 

 松本仁一元朝日新聞ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長は、その著書アフリカは今:カオスと希望と歴史再発見』に記す。 

アフリカーナのブドウ農家の中には、何百人もの黒人労働者を使って大規模農場を経営し、豪邸を建てるものも出てきた。彼らはアジア帰りのオランダ商船から、中国・景徳鎮や日本の有田、伊万里の高価な陶磁器を競って買い集めた。ケープタウン周辺のブドウ地帯には、伊万里の見事な大皿や壺を飾った農家の家屋敷がいまも残されている。 

 ケープタウンのかつての要塞キャッスル・オブ・グッドホープにはウイリアム・ファー・コレクションが展示されている。古伊万里の染付や金襴手の大壺、花瓶、皿、V・O・A マークのある染付芙蓉手皿が開拓時代を描いた絵画、当時の家具と共に飾られている。

 上野武は『セラミックロード―海を渡った古伊万里』に、コレクションの図録にこのV・O・Aマークの皿は「日本の有田・サルガワ・キルンの万治~天和期(1658-1683)の作」と記述があることに驚き、どうしてケープタウンで窯を特定することができ、焼成年代まで断定しているのかと、不思議に思ったと記している。

 後にヨハネスブルグで東洋陶磁の研究者C.S.ウッドワードさんに、「オランダ東インド会社の古文書がのこされていて、長崎やバタビアでの舟積みやケープタウンでの荷揚げなどの記録があり。確実なことがわかる」との説明受けた。

 ケープ州知事公邸には古伊万里の壺や瓶の他、色絵婦人像、鯉にまたがる金太郎像などが飾られている。

 ウッドワードさんによると、ケープタウンに大量の古伊万里がもたらされるようになるのは、ヨーロッパへの輸出が下火になっていた1720年以降、東インド会社の公的な貿易ではなく船員が私的な荷物として持ち込んだものも多いという。

 南アフリカ共和国の行政首都プレトリアプレトリア大学ファン・ティルバーク・コレクションは膨大な量の古伊万里と中国の染付皿を所蔵する。 

 マダガスカルの東、インド洋に浮かぶモーリシャスでは、オランダ植民地時代(-1710)のフレデリック・ヘンドリック砦跡から十七世紀後半から十八世紀前半の白磁のアルバレロ、十八世紀前半の染付芙蓉手皿などの肥前磁器が出土している。(『伊万里焼の生産流通史』)  

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「特集:日本-アフリカ交流史の展開 アフリカに渡った伊万里」野上建紀 (『アフリカ研究』72:67-73、 2008)

「近世肥前磁器における考古学的研究」野上建紀 (『伊万里焼の生産流通史』中央公論美術出版 2017)

『陶磁の道―東西文明の接点をたずねて―』三上次男岩波書店 1969)

『アフリカは今:カオスと希望と歴史再発見』 松本仁一NHK出版 2016)

『セラミックロード―海を渡った古伊万里』写真=白谷達也、文=上野武朝日新聞社 1986)