井上光晴の伊万里、父探し (1)


 1616年に朝鮮陶工李参平が肥前有田(佐賀県)の泉山(写真)で良質の磁石鉱を発見して以来、有田、秘境大川内山に藩窯が置かれた伊万里は窯業の中心地となり、色絵磁器の優品を作ってきた。伊万里の港から積み出されたことから、この地方で作られた焼物全般は伊万里焼きと呼ばれた。海外文化にも影響を及ぼした伊万里焼、豊かな歴史を持つ有田、伊万里の窯業、そこに働く陶工の人生は多様なテーマで文学に描かれる。


 
 
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戦争、被爆者、差別など重い問題をテーマに、戦後日本社会を問い続けた井上光晴に北九州の皿山を舞台に陶工を描いた小説、エッセイがある。井上はその自筆年譜に、「大正十五年(1926)五月十五日 旅順で生れた。父雪雄。母たか子。四才の時、母と生別。父はかなり腕の立つ陶工だったが、何か夢のごときものにとりつかれて、北満州、北中国を放浪。そのうちぷっつりと消息を絶った。そのため、祖母、妹とともに、日本に帰り、父方の親類を頼って伊万里皿山に身をよせた」 とある。(新日本文学全集 19」 集英社 1964)
作家没後、詩集(『十八歳の詩集』集英社1998)を刊行するに当たり、編者川西正明が改めて経歴をしらべたところ、生地が福岡県久留米市であることを始め、いくつかの誤りが発覚した。幼い時母と生別し、祖母に育てられた事情から、一緒に暮らす年月が短かった父や自分自身に虚像を与えたのは、井上にとって 家族の「真実」に迫る手段であったのではないだろうか。
 
『黒縄』、『村沢窯の血』、『「民芸の死」覚え書き』の三つの小説で実父雪雄をモデルにしたと思われる陶工は、名門窯元の家に生まれ窯を継ぐが、家の伝統を受け継ぐ事への葛藤、あるいは民芸運動への傾倒と失望、狭い皿山社会の複雑な人間関係の中で破綻していく。
☆皿山:九州地方の磁器製造地のこと(「インターネット陶芸祭うまか陶」用語集)
 
昭和三十四年(1959)発表の『村沢窯の血』の主人公の名は井上の実父と同じ雪雄だ。
昭和三十年代初め、伊万里外れの山中にある村沢皿山が舞台。二十九歳の村沢雪雄は鍋島藩窯系の親代々の村沢窯を切り盛りする。民芸ブームのあおりを受け、窯経営は厳しいうえに、労働問題に揺れる。雪雄は東京美術学校彫刻科に学び、民芸論には距離を置き、富本憲吉の作品制作を個人の美意識の表現とする「個人陶工論」に共感する。
祖父宇太郎は天才肌で窯の伝統を無視し作陶し、奔放な生活を続け莫大な借財を抱えたまま、「ほとんど窮死に近い」死に方をした。だみ手(赤絵付けの職人)の女が宇太郎との関係を苦に首を吊って死んだ事件もあった。
跡を継いだ父宇内は、製品を伝統の作風に戻し窯を立て直そうとするが思うようにはいかない。京都の絵の学校で学び、若い時に魅かれたのか、蔵書に柳宗悦民芸運動の書物もあるが、精巧な磁器より粗末な民芸風磁器が高く売れる事に納得できず、制作意欲を失い、窯は息子雪雄に任せている。雪雄は苦しい経営状況の下で、職人は減らし、高級品を作って窯を立て直そうと考えている。
雪雄は新年の抱負として「個人陶工へのみち、抜群の作品五十個を目標として試作すること」と手帳に書き込んだ。そして続ける。
 
現代日本磁器の絵付(及びロクロ)における第一人者富本憲吉が最近殆どロクロ成形を行わず、もっぱら京都、砥部などの窯場に白生地を依頼し、自分では絵付だけをするようになったのはなぜか。(企業としての磁器業界における分業化の影響) ……民芸運動の発足当時は熱心な推進者の一人であった富本憲吉の現在の位置と方法をもっと精密に調べる必要がある。磁器は結局、分業機械化されねばならないか、どうか。くり返す、五十個の新しい感覚の染付とロクロを試みること」。
 
その一方で雪雄は愛欲のままにだみ手の女、陶磁器商の娘、女学校の女性教師、六歳年上の父の三番目の妻らと交わり、純粋な窯のだみ手の女性を自殺に追い込むこととなる。自殺を予告する手紙を受け取り、動揺する雪雄に、祖母ふくは、「雪雄、人はしてよかことと悪かこととあるぞ」と諭す。宇太郎を婿養子にとった窯の血を継ぐ家付娘の祖母は、宇太郎はだみ手の女の自殺にも眉一つ動かさなかったと言い、「細工場に先祖の暗い魂を呼び戻すよう」に甲高い声で、「だみ手の女一人くらいであわてふためくようじゃ、よか赤絵もよか染付も生み出すことはできんぞ」とだめを押すように言うのだった。
 
井上の実父はダミ手だった祖母と名門窯の血をひく男との婚外子で、戸籍上は祖母の弟となっている。父と同年代の宇内と主人公雪雄に父を投影した。窯の伝統と経済問題、封建的人間関係、欲望、芸術家のエゴや非情をモチーフに物語は展開する。
 
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『黒縄』は伊万里皿山で起きた不審火で窯主夫婦が死亡する事件を発端に浮かび上がった黒髪窯を取り巻く男女の愛憎を描く。題は『往生要集』の黒縄地獄(こくじょうじごく)から取った。
黒髪窯の当主古場光雄の祖父光内は名人肌の陶工だが、身ごもった女とその母が自殺する事件があった。この女の遺児泉田隆は古場家に激しい憎しみを抱き滅亡に追い込もうとしている。父光吉は柳宗悦の民芸理論を信奉し光内の天才を否定し、「祖父が骨身を削った形も色艶も何ひとつ発展させようとせず」窯の製品を泥くさいものにしてしまう。光雄は光内が完成した「黒髪」と呼ばれる名碗を復活し、窯出しを控え手ごたえを感じている。 不審火がきっかけで皿山では噂や中傷がかけめぐり、薄幸な姉弘子が不倫相手の窯主の家に放火したと疑いをかけられる。 
光雄は知人より泉田の言葉を告げられる。 
 
「光雄さんは先々代の光内さんと同じことをやろうと考えとんなさるらしいが、口に土を噛んでやきものを焼いた人と、理屈だけこねまわしとる人とじゃ、構えが違うよ。どだい、窯の方でうけつけんじゃろ。黒髪碗は碗でも、白髪染めになるのと違うか」
 みておれ、一昨日の午後、すでにその黒髪碗の染付を入れて本焼きの焼成は終わっているのだ。さらに赤絵の工程をひかえているが、一切は明後日の窯出しが決定する。黒髪か白髪染めか、窯出しの染付を見てからほざくがいい。彼は後ろにのけぞるようにして、祖父と父の眠る墓石を見上げた。
 
しかし狭い皿山社会で姉の放火の証拠が次第に動かし難いものとなり、泉田の復讐が黒髪窯を滅亡に導く。光雄は姉の冤罪を主張しながらも追い詰められていく。
 
「そこに一切の物を投じた今度の窯出しはどうなるのか。しかし、それはもう二の次だ。火つけをだした家の皿に、一体どんな感動が集まり、いくらの値段がつけられるというのか。」
 
井上は黒髪窯三代に実父雪雄の葛藤を重ねる。「ふるいつきたくなる」と形容される名碗「黒髪」を一代がかりで造り上げた古場光内は、酒色に明けくれる光内に反発して民芸運動に走る息子光吉を理解できず名碗の継承を孫光雄に託す。
民芸運動が実父の人生に大きな跡を残したと考える井上は小説の中で陶芸論を展開する。
 
(光内)「染付でも赤絵でも美しかものがうつくしかとだ。民百姓の心もへったくれもない。味噌瓶だって同じことさ。たとえ味噌を入れればそれですむ器でも、泥臭いものがよかという事にはならんぞ。それをようおぼえとけ。ましてや黒髪だ。やきものがすぐれとるということは、色艶も匂いも、焼きも、型も、全部がいちばん美しか線でくるまれとる時だ。それを忘れるな。。……」
 
(光吉)「工芸から<工芸美術>に転ずるとき、そこに必然的に絵画的(もしくは彫刻的)要素が著しくなる。進んで言えばかかる美術的要素がその作品の主要な価値に転ずる。……もし彼[尾形乾山]の焼物からそこに描かれた絵画を取り去ったら、何が残るであろうか。絵画が彼の焼物を支える力である。素地とか釉薬とか、私はそこに卓越した彼を見ることができぬ。彼の焼物は私たちに、彼が陶工たるよりさらに画工であることを告げてはいまいか。実際彼の筆画、特に彩画に転ずる時、彼は常に陶工たる彼よりも偉大である。」
 
もしその作品に絵画的要素がなかったら、野々村仁清柿右衛門も存在はなかったと、光吉は酒に酔うたびに呪文の様に繰り返した。光雄は柿右衛門の価値が「ほとんどすべて絢爛たる赤絵に集中して」いたとして、「なぜそれが工芸の名において批判されねばならないのか」と納得ができない。
 
御用窯の陶工の血を引き、腕の立つ絵付師であった井上の実父は伝統と向き合う中で、民芸論に共感し、夢を追い満州に渡るが挫折を味わう。伊万里、長崎で一緒に暮らした年月は短く、放浪の生活は謎に満ちているが、父は井上にとって自身のルーツとして追い続ける大きなテーマだ。
 
鍋島藩窯跡第三次発掘調査委員の報告(1975)によると「明治四年(1871)廃藩にともない200年以上本邦磁器の源流となり、代表的な優品を生産した鍋島藩窯はついに解散させられてしまった。三十一人の職工たちには金禄公債が与えられ士族に編入されたが、藩の保護に頼って生活してきた職人たちの打撃は大きく、いわゆる大川内崩れの人達は、有田皿山、三川内(長崎)その他各地の陶山に転住していった」とある。
井上の祖先もこのような陶工の一人であったのか。
 
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昭和六年五月、柳宗悦先生が、「北九州の古陶を知ろうとする者は、活きたこの窯に来ねばならない」[(民芸紀行『日田の皿山』 雑誌「工芸」9号)]と書かれた時、私はようやく十九歳の誕生日をむかえ、日田の皿山ならぬ、伊万里、群代窯の座敷で、交々細工人のさしだす祝い酒をうけたが、それからほぼ三十年、ただ「民芸」一途に歩いてきた。なぜ親元を飛びだしたのか。父が死んだあと、なぜ細工人たちを叔父の側につかせてしまったのか。借金は何のためにしたのか。いや愚痴はもう言うまい。
 
一人称で書かれている短篇『「民芸の死」覚え書き』は、癌をわずらい余命がそう長くないと自覚した主人公が、受け継ぐべき親代々の御用窯を借金で手放し、民芸に魅せられ仲買人として歩んだ30年をふりかえる。
井上の実父雪雄が亡くなった翌年に発表されたこの作品の主人公は、年齢は十歳ほど若い設定ではあるが父雪雄と重なる。若き日、柳宗悦の民芸論を信奉した「私」だが、「民芸は讃えられなければならぬが民芸運動は半可通の半可趣味を生み出しただけで、すでに民衆の芸術に与える力を喪失してしまっている」と言う。「民芸運動の結末を見定める」ことが、民芸と歩んだ自分の人生を見定めることであり、民芸運動がもたらした「民芸の死」を現場に居ながら共犯的に見ていただけの自分を自覚する。
 
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『黒縄』井上光晴筑摩書房 1975、初出:1965年10月から1966年12月まで「淡交」に『黒髪の碗』として連載)
村沢窯の血』井上光晴 (上光晴作品集〈第2巻〉」 勁草書房 1965、 朝日文庫 「新編ガダルカナル戦詩集」 朝日新聞社1991新日本文学全集19」集英社1964、初出:「新日本文学
19591月号) 
『「民芸の死」覚え書き』井上光晴 (「戦後短篇小説選 世界3 1946-1999岩波書店2000、「上光晴作品集 第3巻」 勁草書房 1965、初出:「世界」1963年11月号)