友納友次郎の講演『「陶工柿右衛門」が出来るまで』


江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌などを紹介する。
 友納友次郎の国語教育真生命 私の読本教育明治図書1926)に「陶工柿右衛門が出来るまでと題する地方で行った講演の記録がある。
国定国語教科書 第三期の小学国語の教材としての芸術家の苦労話の企画に、紆余曲折を経て初代柿右衛門を取り上げることになり、史実を調査して書き上げるまでの経緯を語る。
「一篇の文章が出来上がる迄に、どれ丈に苦心が拂はれるものかと言う事に就いて実例を一つ上げてみませう」と、友納は講演を始める。
運慶、左甚五郎、狩野芳崖、応挙など候補に上がり調べたが、史実に確認できないことが多く教材としての採用は難しく、初代柿右衛門を題材と決めた。しかし、赤絵が柿右衛門の創作か否か、中国の模倣ではないかなど議論の分かれていた当時、窯業史、美術書をもとに書いた友納の草案が文部省の委員会で教科書にふさわしいものか、疑問が出された。
友納は陶芸家板谷波山1872-1963)を訪ね、窯業の実際について教えを請い、意見を求めた。波山は中国人から伝えられた秘法は、ヒントにはなったであろうが、柿右衛門の赤絵は想像以上の困難の末なし得た創作であると断言した。
 
[中国人から伝えられた秘法は]まァ赤い色には酸化鉄を使うとか、コバルトを使へばどんな色が出るとか、言った位のことでせう。それが何になります。現に私共でもこんなに毎日苦しんでゐます。今日では鉱物学も進歩してゐますし、化学も進歩してゐます。何という鉱物を使へば、どんな色が出る、熔解度が何度、どれ位の熱を与えれば、どんな色が出る、言つた様な事が、ちやんと研究されてゐます。それですら仲々色を焼き出すことは出来ないのです。こんなに毎日研究に研究を重ねてゐるでは有りませんか、柿右衛門さんの當時では、学問も進歩してゐないし、総てが遅れてゐる際に、あれ丈の事を仕上げたと言うのですから、その困難はとても想像することが出来ません。その骨折は今日の人の想像以上です。(ママ)
 
さらに窯業史の第一人者塩田力蔵(1864-1946)も柿右衛門の手法は萬暦赤絵の手法とは全くちがい、ずっと進んでいて、「特に柿右衛門風に至っては、実に天下一品、世界に其の類例を見ない程」と言い、世界の窯業界に多大な影響を及ぼしたと柿右衛門を高く評価した。
友納は二人の専門家の話を聞き柿右衛門を色絵磁器の創成者として描くことに確信を得るに到った。そして、窯業の実際家と研究者の話が「符節を合わせたように合ってゐる」事から、さらに「拠り所となるもの」を得ようと、上野の図書館に行き、偶然、官報に載ったアーネスト・ハールト(Ernest Hart)の講演記録「日本美術品ノ説」(Lectures on Japanese Art)を見つけた。ハールトは日本美術に造詣が深いコレクターで、明治十九年(1886月、ロンドンで開かれた日本美術品展覧会の関連で日本美術全般にわたる講演をした。柿右衛門に関する部分「彩釉磁器、徳左衛門及柿右衛門」で二人の役割と功績を正確に述べていた。
 
 柿右衛門善く徳左衛門の極意を伝授し、而して支那の古傳のみを墨守してその製法に制せられるが如きことをなさず、遂に彩色釉画を以って装飾せる一種の磁器を創造せり、即ち是れ日本磁器製造上の新時期を開けるものなり。是より柿右衛門は磁器の彩色及び仕上げに関する製法に於いて、完全の域に達し又ほかに之におよぶものなきに至れり。
 
ハ―ルトは柿右衛門の磁器を「白色にして基礎極めて堅硬之を打つときは宛も無玷の鈴鐸の如し」、「菊花の形容成せるせん(戔の下に皿)盆は、其釉乳白にして之を粧飾するに竹及梅花の彩色を以てして頗る美麗なり」と描写し、ヨーロッパの窯への多大な影響を欧羅巴の窯業界は柿右衛門に学び、柿右衛門に模して発達したものだ……と解説している。友納はこれが世界の真只中で世界の人を相手にしての講演であったことで調査にさらなる力強い裏付けを得る。
友納はハ―ルト講演記録が一番大切な原拠であり、これを見つけたのは天祐だったと振り返る。
陶芸家として初めての文化勲章受章者である波山は、田端に窯を持ち窯業研究に没頭するあまり、「田端仙人」、「田端狂人」といわれていた。友納の柿右衛門像は波山からのインスピレーションも大きいのではないか。
既存の美術史、窯業史から離れて、柿右衛門の偉業と人間像を描いた草案を波山に見せると、「、、、兎に角事実だけはこれで結構です。柿右衛門さんの当時もきっと斯うであったに違いありません。随分貴方方も骨がおれますね。柿右衛門さんも之で浮かべませう」と言い喜んでくれたと振り返る。
 
柿の木の見える縁側に腰をおろす柿右衛門の教科書の挿絵は、友納がモデルとなって画家に描かせたもので友納にそっくりだといわれている。友納の柿右衛門への熱い気持ち、この教材への力の入れようが伝わってくる。
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『「陶工柿右衛門が出来るまで』 友納友次郎 (「国語教育真生命 私の読本教育」明治図書
1926
『日本美術ノ諸説 彩釉磁器 徳左衛門及柿右衛門(官報第1189号 明治二十年六月十七日  外報 英吉利)
”Porcelain Decorated Over The Glaze、Tokuzayemon And Kakiyemon”
Ernest Abraham Hart (’Lectures on Japanese Art' Society for the Encouragement of
Arts, Manufactures and Commerce, Great Britain 1887)