教科書に載った柿右衛門
江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌などを紹介する。
日本で初めて磁器の赤絵付に成功した初代酒井田柿右衛門の物語は、「陶工柿右衛門」あるいは「柿の色」として大正十一年(1922)から終戦の年(1945)まで小学五年生用の国語教材となり、多くの子供たちが学んだ。夕日に照らされ美しく輝く柿の色を色釉で磁器に再現しようと努力のすえ成功した柿右衛門の物語は子供たちの心に響き、深く記憶された。
友納友次郎著の尋常小学教科書第三期(1918-1932)、いわゆる「ハナ、ハト本」に載った「陶工柿右衛門」(写真)は1,200字あまりの短い文であるが、柿の実の色の美しさに感動する芸術家の感性、その色を磁器に焼付けようと一歩一歩工夫を重ねる科学者の挑戦心、技術を磨き納得のいく作品に作り上げようとする職人気質を持つ柿右衛門を、その心の動きを混じえ、魅力的な人物に描いている。
「あゝ、きれいだ。あの色をどうかして出したいものだ。」 日頃から自然の色にあこがれていた喜三右衛門(のちの柿右衛門)は、夕陽に照らされ「珊瑚珠」の様に輝く柿の実の色の美しさに打たれて、居ても立っても居られなくなる。磁器に焼付ける色の中でも赤は最も難しい。当時は不可能とも思われていた技術の開発は困難を極めたが、喜三右衛門はひたすら熱中し、研究を止めようとしない。
人は此の有様を見て、たはけとあざけり、気ちがひと罵つたが、少しもとんぢやくしない。彼の頭のなかにあるものは唯夕日を浴びた柿の色であった。
かうして五六年はたつた。或る日の夕方、喜三右衛門はあわたゞしく窯場から走り出た。
「薪はないか。薪はないか。」
彼は気がくるつた様にそこらをかけ廻つた。さうして手當り次第に、何でもひつつかんで行っては窯の中へ投込んた。
喜三右衛門は、血走つた目を見張つてしばらく火の色を見つめて居たが、やがて「よし。」と叫んで火を止めた。
其の夜喜三右衛門は窯の前をはなれないで、もどかしそうに夜の開けるのを待ってゐた。一番鶏の声を聞いてからは、もうじつとしては居られない。胸をどらせながら窯のまはりをぐるぐる廻った。いよいよ夜が明けた。彼はふるへる足をふみしめて窯をあけにかゝつた。朝日のさわやかな光が、木立をもれて窯場にさし込んだ。喜三右衛門は、一つ又一つと窯から皿を出してゐたが不意に「これだ」と大声をあげた。
「出きた出来た。」
皿をさゝげた喜三右衛門は、こをどりして喜んだ。
かうして柿の色を出す事に成功した喜三右衛門は、程なく名を柿右衛門と改めた。(旧仮名遣い、原文のまま)
秋空のもと、赤く輝く柿の実を見ると柿右衛門の物語を連想する人は世代を超えて多いのではないか。小学校でこの教材を習った人は今は70歳代後半以上になっている。 感動をバネに、努力を重ね目標を達成した柿右衛門の苦労話の印象は強く、この世代の多くの人たちの人生訓となっている。
大正元年(1912)に榎本虎彦作の歌舞伎世話狂言『名工柿右衛門』が初演され、十一代片岡仁左衛門の名演で人気を博し、この演目が繰り返し上演されたこともあって、柿右衛門の物語が広く語られ、親しまれるようになった。
世代を超えて、分野を跨ぎ多くの人が柿右衛門の諦めない心を学び、自身の生き方、目標達成の教えとしたことを随筆などに書きとめている。そして成功の証が目で見、接することのできる“柿右衛門という美しい色絵磁器”に具体化されていることが、この物語を力強いものにしている。」
国定国語教科書四期、五期の改訂版では「柿の色」と題が変わり、文語調の歯切れのいい文章で約800語に短縮された。改訂版のクライマックス場面を以下に記す。
人は此の有様を見て、たはけとあざけり、きちがひとのゝしる。されど、喜三右衛門は動かざること山の如く、一念たゞ夕日に映ゆる柿の色を求めて止まざりき。
かくて数年は過ぎたり。或る日の夕、あわだだしく窯場より走り出でたる彼は、
「薪、薪。」
と叫びつゝ、手當り次第に物を運びて、窯の火にことごとく投じたり。
其の夜、喜三右衛門は窯のかたはらを離れざりき。鶏の声を聞きては、はや心も心にあらず、窯の周囲をぐるぐると廻り歩きぬ。
夜は明けはなれたり。胸をおどらせつゝ、やをら窯を開かんとすれば、今しまお朝日はなやかにさし出て、窯場を照らせり。
一つ一つ、血走る眼に見つめつゝ、窯より皿を取出しゐたる彼は、やがて、「おゝ。」と力ある声に叫びて立上がれり
あゝ、多年の苦心は遂に報いられたり。彼は一枚の皿を両手に捧げて、しばし窯場にこをどりしぬ。
喜三右衛門は、やがて名を柿右衛門と改めたり。(ママ)
十四代酒井田柿右衛門さんも曲川国民学校五年生の時、この教材を学んだ。柿右衛門さんが朝学校に行くと、「陶工柿右衛門の家」に見学に行くという事になり、学友と一緒に家に行き、見学後又学校に戻り、片道40分くらいの道をこの日は一日に二往復した思い出があるという。
「家を継ぐとか名前を継ぐとかいうことを子どものころは全然意識しなかったというか、考えませんでしたね。工場が遊び場で、家は工場をやってる家だとぐらいのことしか思ってなかったんじゃないでしょうか」
「そのころでしょう、みんながいろいろ言うし、先生も授業のときに『君が跡を継ぐんだぞ』というようなことをいわれたりして、『そういうことかなあ、やきもの屋になるのかなぁ』と思うようになったのは」
柿右衛門さんは『陶工柿右衛門』を学んだことで、「自分がどういう立場にあるのか少し気づいたのかもしれません」と著書『余白の美 酒井田柿右衛門』(十四代酒井田柿右衛門 集英社 2004)のなかで語っている。
友納友次郎(1878-1945)は福岡県出身、綴り方、読み方教授論等を著した国語教育学者である。小学校で教師を務めるなどした後、1921に文部省図書局嘱託となり『陶工柿右衛門』他多くの読本教材を著した。
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『柿の色』友納友次郎(国定国語教科書 第四期(1933-1940)“サクラ読本”小学国語読本 巻十、国定国語教科書 第五期(1941-1945)“アサヒ読本”初等科国語 六巻)