戯曲になった柿右衛門: 歌舞伎と曾我廼家喜劇


江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌などを紹介する。
 
初代酒井柿右衛門の赤絵創成の物語が東京歌舞伎座で初演されたのは大正元年
1912)十一月。十一代片岡仁左衛門の好演で好評を博し、仁左衛門の当り役、片岡家の家の芸となりその後もしばしば上演された。
榎本虎彦作の世話物狂言名工柿右衛門』は柿右衛門が苦労の末の赤絵焼成に成功した話を軸に、娘おつうの恋愛悲劇、商人の欲と名誉心ゆえの非道を絡めたフィクションで、柿右衛門の登場人物は創作で実在の人物ではない。戯曲は以下の三幕で構成されている。
 
序幕 肥前伊万里有田屋の場
柿右衛門の娘おつうは陶磁器商人有田屋五兵衛の息子兵三郎との結婚を前提に、有田屋で家事を手伝っていた。しかし五兵衛は名誉に囚われ、武士の娘を息子の嫁に決めてしまい、二人の仲を裂く。
二幕目 柿右衛門内の場
失意のおつうは死を覚悟して、父や妹にそれとは知らせず別れを告げに実家に帰り、書置きを遺し家を出ていく。柿右衛門は五兵衛の非道を知り憤る。妹娘おたねと弟子栗作もおつうの行方を心配する。
大詰 有田皿山丸窯の場
復讐の念が燃える柿右衛門は苦難の末赤絵の焼成に成功し、海に身を投げたおつうの霊にささげる。五兵衛の店は火事になり、兵三郎は火に中に飛び込み命を失う。
 
歌舞伎狂言作者河竹黙阿弥の曾孫で演劇学者の河竹登志夫は「陶工酒井田柿右衛門の一徹な名人気質が仁左衛門の柄にぴったり合っており好評を博した。しかも構成などかなり近代的で、心理や性格の描写もよく、虎彦の最高作のみならず、新歌舞伎の傑作のひとつに数えられる」としている。(『歌舞伎 名場面名台詞』秋田書店1964
 
劇評家和田魚平は有田屋五兵衛の俗物的で非情な性格からおこる悲劇を「寛文年間の出来事の様に書いてはあるが、真実今日の社会の出来事と見て何の差支へもない芝居である。現代の社会劇として我々を引き着ける」と初演後、雑誌『歌舞伎』(大正元年12月号)に書いた。
 
江戸期の職人の話が断片的な記録しか残っていないことから、榎本の作はしばしばサミュエル・スマイルズの『自助論』の翻訳『西国立志編』に収録されているフランスの陶芸家ベルナール・パリッシーの話を翻案脚色したものといわれているが、演劇界ではその説を含めて、翻案説は三説ある。
歌舞伎評論家加賀山直三はフランスの劇作家ユジェーヌ・ブリューの一幕韻文劇『ベルナール・パリッシー』(Bernard Palissy”  Eugene Brieux 1880)を原拠としたとする。
井口海仙によれば(『竹陰抄』河原書店 1947)、劇作家で演出家の小山内薫が同氏の連載随筆「劇場茶話」にアーサー・ジョーンズの四幕劇『ザ・ミドルマン』(“TheMiddlemanHenry Arthur  Jones 1889)を翻案したものと書く。『ザ・ミドルマン』は1889年にイギリスで上演され、翌1890年にはアメリカに渡り好評を博した。4幕で、名陶工とその娘の恋愛、窯主との確執をテーマにしていることからもこの説が有力である。
 
下敷きにするものがあったとしても、榎本虎彦の戯曲に傷がつくものではない。榎本のテーマは柿右衛門の創造意欲、美を感じとる感性、失敗にめげない熱意と努力であり、物質的な利益は求めず目標に向かう一人の芸術家像をくっきり描き出し、感動的な芝居に仕上げている。
「秋が来れば、自ずと柿まで色がつく、然かも其の色が生々として、目が覚めるやうじや。造化の力と人間の業は、かうも違うたものか知らん」と、思うような色を出せない喜三右衛門は柿の木を見上げて嘆息する。喜三右衛門が色絵に求める明るい赤を熟した柿の実の色に結びつけた劇作家のインスピレーションは優れたもので、この作品を傑作にした。 自然の造形の妙をたたえるしなやかな感性は観客に感動を与え、柿の実の色と柿右衛門は相互に連想を呼ぶ。
榎本は雑誌『歌舞伎』(大正元年12月号)に執筆の動機を書いている。
 
 「……左様たしか明治40年頃だと思いますが、肥前の方に遊びに行ったことがあります。その時柿右衛門のこしらえた珍しい焼物を見て非常に面白く感じたのです。その後柿右衛門のことを英文で書いたものを見て、これは一つ芝居に仕組んだら面白かろうと思い、そのことを仁左衛門に話しますと、仁左衛門も賛成して、すぐ書いてくれろという頼みで、去年あたりからまだかまだかの催促をうけて、やっと今度出来上がったようなわけなのです。……」
 
榎本は柿右衛門の二人の娘に柿に因んだ名を付けた。姉娘はつう, 妹娘は種とした。佐賀の方言で蔕のことをつうという。(『佐賀県方言辞典』佐賀県教育会編 国書刊行会 1975) 
片岡仁左衛門は大正14年6月の帝国劇場所演に際し、『演芸画報』(大正147月号)の「芸談」で、「さて此の柿右衛門の性格としては、まことに物事に頓着なく、只管自己の職業に対する熱心さと、娘達に対する愛情の二つより何物もないといふ人物なのです」と分析し、演技を語る。
 
柿右衛門が演處(しどころ)としてはお通の書置を低い声で読み、猶声を出さないやうにするのと五兵衛がお通に対しての仕打、その無情さ(つれなさ)を憤って、一層腕一本で有田屋の身代を潰してくれると怒ったり恨んだりしますが、その涙の乾かぬ折から、五兵衛の袖を掴んで泣きながらお通を嫁に取ってくれと哀願しますところを、伊原[敏郎]先生(脚本家、演劇評論家)は………、仁左衛門は貴い役者であると、えらうほめて下さいました。
あの仕事場を出て上手に立つ熟柿の木の梢を見上げるところは、柿の実がいつもより大き過ぎるやうで、自分ながら感心出来ませんでしたが、こゝは柿右衛門の心持を示すところです。
[有田屋の]番頭與九郎のいふことに少しも頓着なく秋の日脚を眺めて素焼きを置き替へるところはつまり陶工の陶工らしい様を見せるところです。
 
「竈の火は消えても胸の火は消えぬ」と五兵衛の非情を許さず、娘の死に悲嘆にくれる。赤絵が出来て迎えるクライマックスを強く印象づけるため、そこまでに観客を笑わせたり、泣かせたりの演技の工夫をするという。名優仁左衛門は心の表現に苦心する難しい役だが、何回も演じているのでやり易くなっているものの、馴れ過ぎて居ないかと自問する。
 
名工柿右衛門』は大正六年(1917)に榎本の弟子堀美雄により、序幕を陶磁器商有田屋の店先の場から伊万里海岸の場に書き替えられている。宇野信夫脚色による二幕版もある。
英訳日本古典戯曲集 “Japanese Plays: Classic Noh, Kyogen and Kabuki Works” に“The Potter Kakiemon”として収録されている。 多くの歌舞伎の演目から選ばれ英訳戯曲集に収められたことから、この戯曲が名作であると共に、「柿右衛門」の色絵磁器が海外でも広く受容され、知られていることがわかる。
喜三右衛門が思うよう赤が出せずに柿の実を見上げて嘆く場面の台詞を引用する。
Kakiemon(Looking at the persimmon-tree): When autumn comes then the persimmon  too begins to redden.  And what a splendid vivid red it is! Ah, there’s a difference between the work of nature and man’s handicraft.
 
陶磁研究家の永竹威の随筆「とき世ひと世―十二代柿右衛門に陶芸を聞く―」(『柿右衛門柿右衛門調査委員会、鍋島直紹編 金華堂 1957)で十ニ代柿右衛門は語る。
 
昨年[1956]の春のことだったか、市川左団次が東横ホールで『陶工柿右衛門』をやった。仁左衛門や六代目菊五郎の頃とは本の中身がだいぶん変わっていた。はじめの頃の芝居は初代柿右衛門と娘おつうと弟子の栗作とを中心にして義理人情の世界がこまやかに組立てられていた。
ところが、こんどの芝居は少々味が変り初代と伊万里の商人有田屋五兵衛との関係が強く打ちだされ、悪徳の強い商人と一筋の道に生きようとする陶工の人間味を盛上げていたようだ。やはり世の移りと共に劇も少々組変えられたのであろう。
 
明治、大正、昭和三代の激動の歴史、目まぐるしく変わる世相の世を生きた十ニ代柿右衛門は、歌舞伎「名工柿右衛門」の改訂に重ね、伝統に生きる柿右衛門の向かう方向を示唆する。
 
 
とき世、ひと世で家の構えも、人の考え方も、着物の絵柄も、さまざまに変てきた。 、、、とき世,ひと世にあった器をこしらえて、他の材料や家具調度品や、家の構えとも調和のとれる品物を作り柿右衛門の赤絵を生かしてみたいと思っている
 
 
*****
 

 

歌舞伎『名工柿右衛門』は娘と伊万里の陶磁器商人の息子の恋愛悲劇をからめた赤絵創成の苦労物語であるのに対し、関西松竹新喜劇の礎を築いた脚本家で俳優の曾我廼家五郎の『陶工柿右衛門』は娘とただ一人残った弟子に支えられ、妥協をしない名人気質の頑固な職人柿右衛門を描く二場の戯曲だ。 喜劇役者で脚本家の曾我廼家は「榎本虎彦の名狂言を関西喜劇曾我廼家一派の為に焼き変えた」と記す。
第一場は有田南河原皿山の渓谷。薪も買えず、満足に食事もできないほど困窮している柿右衛門を支えようと、娘おさとと弟子芋作は柿右衛門が失敗作として川に捨てた皿の中から傷のないものを探し出し、売って薪代を工面しようとする。誇り高い柿右衛門はそれを知り、「息も通はず血も流れぬ師匠の死骸を売るも同然」と怒り、厳しく叱る。柿右衛門は南京焼に成功し、さらに赤絵錦の成功を目指して挑戦を続けている。
 
舞台は第二場、柿右衛門の窯場に移る。長崎の陶磁器商長崎屋久左衛門が赤絵錦の成功を間近とふみ、独占を狙い薪代の援助を申し出るが、「他国[長崎]の者の力を借りるのは有田の恥」と受け付けない。しかし跡取り娘が身を売り薪代を工面しようとしたことを知った柿右衛門は、娘を犠牲にはできないと赤絵創生を諦める覚悟をするが、長崎屋に「身を売って日本の宝物を世に出そうとする娘の健気な心を無駄にするな」と説得され、娘の気持ちをうけることにする。有田屋五郎兵衛のずるい企みで窯の火は落ちてしまったかにみえたが、残っていた最後の火が燃え上がりついに赤絵焼成に成功する。
 
柿右衛門は他国の商人の援助は受けないという頑固さ、又焼成に成功した南京焼(明末清初期景徳鎮で作られた磁器)風の磁器の技術を秘密にしないで有田の他の窯に公開し有田焼が栄えることを願い、貧乏に拘らないでいつか成功すると信じている一途で温かい気質の人物として描かれる。 おさとはじめ登場人物は歌舞伎に比べ、庶民的で行動的、たくましくもある。
 
*****
 
佐賀県出身の作家吉田絃二郎の年譜に昭和20年12月「戯曲『陶工柿右衛門』を完成」との記載がある。出版に至ったかは不明だが、「名工柿右衛門の村を訪う」、「陶工柿右衛門」等、柿右衛門に関するエッセイがあり、歌舞伎『二条城の清正』の作者でもある吉田の戯曲を是非読んでみたい。
初代柿右衛門の伝記物語は大正、昭和初期の国語教科書に載ったこともあり、多くの作家が児童劇に脚色し、学芸会等で上演された。
 
*****
 
歌舞伎世話狂言名工柿右衛門榎本虎彦(『世話狂言傑作集第五巻』春陽堂1925
“The Potter Kakiemon” By Enomoto Torahiko (“JapanesePlays: Classic Noh, Kyogen and Kabuki Works” A.L. Sadler with a new foreword byPaul S. Atkins, Tuttle Publishing 
2010)
『陶工柿右衛門曾我廼家五郎(『曾我廼家五郎全集第十二巻』アルス1933