平岩弓枝: 赤絵師


1616年に朝鮮陶工李参平が肥前有田(佐賀県)の泉山で良質の磁石鉱を発見して以来、有田、秘境大川内山に藩窯が置かれた伊万里は窯業の中心地となり、色絵磁器の優品を作ってきた。伊万里の港から積み出されたことから、この地方で作られた焼物全般は伊万里焼きと呼ばれた。海外文化にも影響を及ぼした伊万里焼、豊かな歴史を持つ有田、伊万里の窯業、そこに働く陶工の人生は多様なテーマで文学に描かれる。

御宿かわせみ」、「はやぶさ新八御用帳」などの時代小説シリーズの人気作家平岩弓枝はやきものにまつわる作品をいくつも書いている。
「やきもの師」、「赤絵獅子」、「火の航跡」、「青の背信」、「お吉の茶碗」、「夫婦茶碗」などで、その中で有田を舞台にしたもの、有田の陶工や有田焼が登場するものがある。
平岩弓枝自選長編全集 第八巻』に載る「作品と私のこと」というエッセイに、平岩は母が茶道をたしなみ、やきものが好きだったことから、陶芸家や陶磁器商との付き合いがあり、「身分不相応なやきものが日常の食器としても使われていることがあった」と書いている。
平岩は「やきものへの関心は、どうやらそれらを作り上げる人間の方に魅力を感じてスタートしたというふうで、それは、物を書いている人間としては当然のことだと思う」とふり返る。江戸時代、そして現代の焼物師像を描くにあたり、歴史を調べ、綿密な取材を重ねている。
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平岩の最初のやきもの関係の作品はTVドラマだった。1961年、NHK福岡の
術祭参加ドラマ「かくれ赤絵師」の脚本で、江戸後期、藩の厳しい取り締まり
をくぐり、禁制の赤絵作りに命をかけた有田皿山の女性赤絵師の悲劇を描く。    
 江戸時代、有田焼赤絵(色絵磁器)は佐賀鍋島藩貴重な財源で、陶技が他領に漏れないよう採石から、土作り、成形、焼成、絵付けまですべて分業にし、伊万里大川内山の藩の御用窯で本焼きし、それに有田赤絵町で上絵をつけた。
 その総仕上げの色絵付けに携わる赤絵屋は、皿山代官が監視と保護にあたった。寛文年間(16611673)に上絵業者は十一軒と決められ(その後1779頃、五軒が加えられたが)、秘法漏洩防止策として絵の具の調合は一子相伝、長男のみに伝えられた。職人たちの移動には厳しい規制が加えられ、他国の商人は赤絵の買い付けはできなかった。藩は製品を幕府や大名に献上し、輸出も独占した。しかし有田の赤絵の評判は全国に広がり、技法を得ようと忍び込む者は後を絶たなかった。
職人にとってはとても窮屈な環境で、腕のある細工人や絵付師の中には御用窯を脱け出し、密かに窯を築き赤絵を密造する者も出ていた。見つかれば直ちに鉄砲で撃たれ、死ぬものも多く、さらし首が行われた。
ドラマはそんなかくれ窯の一つで起きた悲劇である。
   
文化・文政(18041829)の有田皿山のはずれ応法山の窯では、若い夫婦、弥平とおはるが法度を犯し赤絵を焼いている。六十五歳の作爺こと作右衛門は、御用赤絵屋宮永平兵衛の次男で、赤絵の秘宝を盗み覚えたかどで目を傷つけられ、家を追い出されて二人を手伝っている。おはるは作爺に絵付けを習い、作爺が「おはるにまさる花ダミ手は有田皿山に一人もおりやせん」というほどに腕を磨いた。
作爺は「御用窯のない自由な他国へ行って、思う存分俺の技で赤絵を焼くんだ」と夢み、チャンスをねらっている。
 
赤絵窯の焼成の前に、弥平とおはるの赤子多吉が熱を出す。祭りの唐人囃子が聞こえている。唐人囃子に化けた抜荷仲間が小道具箱に赤絵を隠し運び出すので、間に合わせる為、やむなく窯に火を入れる。二人は窯から離れられなくなり、多吉は手遅れで死ぬ。
きれいに焼き上がった赤絵を見せられるが、悲しみに沈むおはるは「赤絵があの子を殺した。多吉が死んだ今となっては仇と同じだ。割ってやる」といい、「二度と赤絵は描かない」と心に決める。
 
 唐人の商人は足元を見て値切る。しかしキリスト教の聖母子の図を見せこういう図柄の皿が欲しいと求める。この当時キリスト教は禁教だった。
 
弥平: こういう赤絵皿だったら、いくらでも高く買うとぬかしやがる。こちらが出来んと知ってのことたい。名前は忘れたが、とにかく南蛮の観音さまみたいなもんだ。すっ裸の赤子ばだいとる。
作爺: ああそいつは駄目だ。もっとるだけで首がとぶ。
おはる:この子、死んだ多吉の顔にそっくり。……観音様に多吉が抱かれている。 
 あの子が死んでから私は二度と赤絵付の筆は持つまいと思ったけれども、この絵ばかりはどうしても心の中から離れないんだよ。観音様に抱かれている多吉の姿をせめて絵皿に描き、きれいに焼き上げたなら死んだあの子の供養になるような、、、
 私は 私に出来る陶器(やきもの)の赤絵皿の上にもう一度あの子を生かしてやりたい。母親の私に出来ることは、もうそれだけしかないんです。私は多吉を、この赤絵皿の中に生き返らせたいんです。
 お願いです。これだけは私の想い通りにさせて、、、。私の命のありったけをこの赤絵皿に注ぎ込んでやりたい、、、。あの子のために、、、
 多吉、お前は生まれかわるのだよ。きれいな皿になって、また私のところへ帰ってくるのだよ。
 
おはるは絵筆をにぎり、母子像を赤絵で描き上げ、再び窯に火を入れる。
皿山代官の隠密小太郎が応法山の窯に向っている。
窯のまわりに注連縄が張ってあり、その下に聖母子の絵が貼られている。藩の役人が窯を壊そうとするのを、おはると作爺が体をはって防いでいる。そこに小太郎が来て窯を崩したら証拠品がなくなると役人を止める。おはるは小太郎を見て、山で行き倒れになっていたところを助け、多吉の子守をさせていた作男だと気付く。
 
小太郎: 窯の火を消すな。この窯は証拠品なんだ
 
窯には観音が裸の赤子を抱く絵皿が入っているので、おはるは逃げようとしない。
作爺は役人に切られ倒れる。「職人は死してもおはるに伝えた技術は残る」と堅く信じて、、、
 
最後の場面は侍姿の小太郎が大事そうに抱えてきた桐の箱を静かに開き、一枚の皿を取り出し、牢の中のおはるに示す。
 
小太郎: 応法山のかくれ窯で、お前が焼いた赤絵皿だ。よく見るがいい
おはる: これが私が描いた皿でございますか
 
焼き上がった絵皿を見て、おはるの目が輝きだす。
 
小太郎は藩の役人ではあるが、職人の立場を理解し共感を自らの行動とした。
 
有田の歴史、有田焼を作り上げてきた職人たちの自由な創作への意欲、進取の気質、技術継承の熱意がドラマの核となっている。
主演は岸旗江、原田甲子郎、河野秋武他。企画・演出 角田嘉久。1961年11月8日に放送された。
平岩弓枝は1932年、東京の代々木八幡神社宮司の長女として生まれる。女学校時代演劇活動に熱中し、日本舞踊、長唄、清本、鼓、仕舞、狂言等、稽古事をした。後に戯曲「瞼の母」で知られる長谷川伸の門下となり、小説、戯曲の勉強をした。この脚本は第一子を妊娠八カ月を過ぎた頃に執筆したという。
企画・演出の角田嘉久(19181980)は「かくれ赤絵師 後日譚」(「九州文学」二月号 九州文学社 1962)で、戦中から終戦直後まで有田工業高校の国語教師として、3年あまり有田に住み、やきものの話をドラマにするのが長い間の夢だったと明かす。角田は、ドラマは永竹威の『肥前やきもの読本』の第三章「史話肥前陶工抄―有田皿山の喜びと悲しみ」の一話「かくれ赤絵師」からインスピレーションを得たという。かくれ赤絵師は永竹の創作語だという。
ドラマは「一部の人にはすごく好評であった。そしてまた、一部の人にはすごく不評であった。 ……主観的に見れば好評であり、客観的に見れば不評と、私はそう思っている」と記している赤絵の皿も白黒で、スタジオが一つしか使えず、技術的にままならぬ時代、セットの見事さは皆が口をそろえてほめてくれたとふり返っている。
博多放送物語 秘話でつづるLKの昭和史』によると小道具の皿は親交のあった十二代今泉今右衛門さんに制作を依頼した。
 
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 平岩弓枝の赤絵師を巡る短編『赤絵獅子』(1962)は親子二代にわたる赤絵技術盗みの物語だ。
 
七十歳になる赤絵屋小柳万兵衛は秋口に引いた風邪で、病床で正月を迎えたが顔色も機嫌もいい。前年秋の孫の誕生を機に、小柳家は長男万作の跡目相続が済み、一子相伝の絵の具の調合の秘伝の伝授も終えた。万兵衛は万作の妻里枝の父、皿山代官きっての剛直の士という評判の舟木作左衛門と、どちらにとっても初孫万太郎の誕生を喜び、初春を祝っている。
 
一人万作は、小柳家と取引のある窯業家の職人治助の突然の呼び出しに、不安な時を過ごしている。万作は夜更けに治助に会い出自を知らされ、翌日、一対の磁器の獅子像を手渡された。
 
「私が二十年かかって、この土地で会得したものを形に造り上げたのだ。これにお前の赤絵付けで仕上げをして、故郷への土産にするつもりでいるのだが……」
 
治助は加賀藩士、本名室生源七郎。二十数年前、赤絵の秘法を盗み出す命を受け、妻とともに伊万里津に潜入し、旅商人を装い有田に通っていた。翌年男の子が生まれた。
その半年後、小柳家の門前に赤子が捨てられていた。子のない小柳家では赤絵の家の存続のため、万作と名付け、実の子と偽り 育てた
 
万作との密会の帰り、治助は加賀の隠密との疑いをかけられ捕えられ、代官所に引かれる途中舌をかみ切って死んだ。事件は舟木作左衛門の機転で収められたかに見えたが、万作は弟小柳万次郎に脅迫され動揺した。真実が明かされれば、育ての父母、妻子も厳しい罰を受ける。育ての親に深い恩を感じながら、目的を遂げられず果てた実の父の死を無駄にしたくないとの思いも強く、加賀に帰ることにして密かに有田を離れたが山の番所で捕縛され死刑と決まる。
全てを打ち明けた義父作左衛門に、最後の願いを聞かれ、万作は処刑の前に父の造った獅子に赤絵付けさせてほしいと願った。
 
その年の秋、舟木作左衛門は加賀へ向かう母子を伊万里津で見送った。 母里枝は美しく焼き上がった一対の赤絵獅子が入った箱包みを抱えている。
作左衛門はよちよち歩きの孫万太郎にささやいた。
 
「父の国へ行くのじゃ。達者で成人せいよ」
 
「その赤絵獅子を父の国の白い雪の上にそなえるのだ。父の声が祖父の声がその雪の中から聞こえて来ようぞ」
 

 子は隠密の使命を担わされていることを知らず、里親の元で修業し赤絵の技法を修得した。

親子二代、三代に渡り他領に住みつき、使命を遂行する隠密を里隠れと呼んだ。彼らは、家族を成し敵中に「故郷」を作るが、いざというときは家族を捨て秘密を持ち帰る。
 
色絵獅子像は十七世紀中期より有田で作られた。ヨーロッパにも多数渡り、阿形、吽形の対をなす水玉模様の獅子像は英国のヴィクトリア&アルバート美術館他に残る。ミュンヘンの宮殿博物館所蔵の獅子像には豪華な金細工が取り付けられ燭台になっている。
 
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平岩は「技術を外へ洩らさないよう非情なまでに秘伝をまもり続けた歴史を持つ有田皿山のもっている重く暗い影のようなもの」を現代人の背景において『火の航跡』に書いたと「作品と私のこと」(『平岩弓枝自選長編全集 第十五巻』文芸春秋 1989)に記す。

「火の航跡」は週刊朝日に1977年六月から翌年二月まで連載された。平岩自身が脚本を書き、フジテレビ平岩弓枝シリーズの第六作としてテレビ化され、1978年 23回にわたって放送された。 

 

外国語学校で英語の講師をしている城重久仁子の夫、文夫が突然失踪した。文夫は六本木に事務所を持つカメラマンで、ドキュメンタリーの小品やコマーシルフィルムの撮影に忙しい。久仁子はいつものように家を出た夫は仕事の旅をしていると疑わなかった。

事務所のマネージャー兼秘書の小笠原君子から、文夫と連絡が取れなくなっていることを知らされる。愛情を感じ、幸せな生活をしていた久仁子には、結婚一年になる夫の失踪の原因が全く分からない。

文夫は家を出て、平戸に行き有田の実家の両親を訪ね、その足で海外へ旅立った。実家は窯業の家で、父は中風の発作後引退している。

久仁子は手がかりを求め有田の両親を訪ね、養女千津から文夫が親から大金をもらい、大切にしていた大壺を持ち出したと聞く。

 

「高さが五十センチ近くもある、大きな壺でした。真ん中に何とも言えないいい色で梅の幹が弓なりに描かれていて、思い切って大きな梅の花が一面に赤で……、大胆な図柄なんです」

色鍋島風でもあり、柿右衛門風の写実美もある。

「文夫兄さんは、お好きだったように思います」

 

久仁子は文夫が「俺の家に、どこで作られたかわからない赤絵の壺がある。梅の木に梅が咲いている。日本的な図柄で、そりゃあ素朴なものなんだが……どうも、正体不明なんだ」と言っていたのを思い出した。

千津は「この壺は南国生まれなのですって……」とつぶやいた。

まもなく文夫の助手、楠本功から文夫を追いギリシャに旅立った君子が、ホテルで急死したことを知らされる。

君子の死因が薬物中毒と判明し、その後文夫の母と妹淳子も不審死を遂げ、警察が動き出す。

実家で遺言書が見つかり、文夫は君子から逃れるために海外に出たことがわかる。千津は、文夫が二十歳の学生のころ窯で女工とした働いていた八歳年上の君子との間に生まれた子で、窯の体面を保つため事情のある親戚の子として養女にして育てた。文夫が結婚するまで関係を続けたが、君子は文夫の結婚に一度は納得したものの一年経過して幸せそうな二人を見て離婚を迫っていた。このままの生活は続けられないと文夫は考えた。

 

久仁子の外国語学校の同僚で、淳子の夫朝比奈耕一郎は、予てから久仁子に恋心を抱いていた。耕一郎は、城重家の事情を知る文夫の旧友で、二卵性双生児の兄、陶芸家の月山と結託し、久仁子と財産を奪い城重家に復讐しようと企む。

 

月山は江戸初期に有田の陶工が外国に連れ去られ、日本でない土地で有田焼を焼き続け、生涯を終わったという記述がオランダの史料にあり、そこに載る日本人陶工の一人が城重家の祖先の一人と同名であることを上げ、文夫に国外脱出を勧める。

有田の御用赤絵屋の分家の血を引き、子供のころから青年期まで焼き物に没頭し一人前以上の技術を持つ文夫の中に潜む陶工のロマンが、実家に遺る南国生まれの正体不明の大壺の謎を求め、又、連れ去られた陶工の足跡を探る旅への情熱を掻き立てる。

日本の史料には全く見当たらないこの件は、長崎のオランダ商館のキャピタンの日記に「十七世紀の初め、あるオランダ人が鍋島藩と交渉して有田の陶工を数名大金をもって買い取り外国へ極秘に連れ去った」のではないかと思われる記述がある。彼らはまず最初に中国広州の南、珠江に近いある場所〔マカオ近辺〕でオールド伊万里の試作をさせられたが、失敗し、別の場所に移された。彼らの乗った船の航跡を辿ると、インドを経て、アフリカ喜望峰を回りポルトガルから地中海に入ってトルコ、ギリシャまで行っている。日本の陶工たちが最後にどこに定住したかの記録はないが、スペイン、メキシコには日本の影響の濃い焼き物の伝統が受け継がれている。

 

久仁子はメキシコ、カリフォルニア半島の南端サン・ルカス岬で文夫との再開を果たし、事件の全容も明らかになる。ここに窯を築いた文夫から、焼き物を続けこの地に骨を埋めたいと聞かされる。夫への愛の証として夫の失踪の謎を追った久仁子には虚しさだけが残った。

 

日本でない国で、新しい焼き物を作ることにも、情熱を燃やしている。

「ここで死んだ日本人が俺の祖先の誰かかどうかなんてことも、もうどうでもいい。ここの土に、俺は惹かれたんだ」

遥かな太平洋のむこうに故郷をみつめながら、ここで生涯を終えたいという。

「千津もここにねむっているのだ」

 

久仁子は岬を去る。共に文夫の行方を捜した楠木功が久仁子の後を力強く歩んでいる。この様子を文夫は岬の上から見ている。

 

平岩はスペインの田舎で、梅や竹が描かれた花鳥風月の図柄のある古伊万里そっくりの焼き物が売られているのを見たり、メキシコのプエブラでは有田焼を思わせる唐草模様を描いた現地産の焼き物を見つける。同じ頃オランダのカピタンの日記の中に、日本の陶工が売られて外国船に乗っていったという記事を見つけた。

「有田から売られていった職人たちは技術指導の為だったのだろうか」、「どこへ行ってどんな焼物を作って一生を終えたのだろう」といろいろな資料を読んでいる最中に『火の航跡』を書いたと、「作品と私のこと」に記す。

☆ 本文中の「火の航跡」からの引用は、文春文庫、1980版による。

 テレビドラマでは城重久仁子を大原麗子、朝比奈耕一郎を竹脇無我、城重文夫を藤竜也が演じた。
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「かくれ赤絵師」台本 平岩弓枝NHK 1961) 松本康有田町町長(任期19521963)寄贈の台本を有田町東図書館が所蔵
『博多放送物語 秘話でつづるLKの昭和史』NHK福岡を語る会編 (海鳥社 2002LKは福岡放送局のコールサインJOLKから)
「赤絵獅子」平岩弓枝(短編集『ちっちゃなかみさん』角川文庫 2014、大きな活字で読みやすい本シリーズ第十巻『平岩弓枝集』リブリオ出版1999

「火の航跡」平岩弓枝 朝日新聞社 1978)、(文春文庫 1980)、初出:「週刊朝日」 1977 6月3日号~1978 2月3日号連載

『有田やきもの読本』永竹威(有田陶磁美術館 1961

肥前やきもの読本』永竹威(金華堂 1961
(注・『有田やきもの読本』、同内容の『肥前やきもの読本』とも確認できる限りでは1961年出版のもののみに、第三章 「史話肥前陶工抄―有田皿山の喜びと悲しみ―」が収録されている。両書ともその後の増刷版には第三章はない。1961版両書とも国立国会図書館が収蔵) 

 

 

 
 

三好十郎の『峯の雪』と戦時下の有田

 戦後七十年の今夏、様々な視点から太平洋戦争の検証がなされる中、六月の初め〝埼玉県川越市の川原に大量の陶磁器製の手榴弾の弾体が投棄され野ざらしになっている”ことが新聞やテレビで報道された。投げ捨てられ割れた弾体の山は、戦時中、陶磁器の手榴弾に火薬を詰める浅野カーリット社の工場跡地の近くの川原にあり、終戦時工場が廃棄したものだ。川底に沈むもの、割れずに原型を留めているものもある。それらは土の色や釉から全国の窯業地で作られたことがわかる。信楽備前、瀬戸とともに、有田で作られた物も含まれていた。
 有田では、太平洋戦争末期、物資不足により金属の代用として手榴弾の他、爆弾、戦闘機用燃料タンク、軍用食器、コインなどが作られた。「季刊 皿山」No.59-3 2003秋(有田町歴史民俗資料館)掲載の久富桃太郎の「大東亜戦争と有田焼」によると、手榴弾は、磁器爆弾の特許を持つ清水時一により、1944年七月日本兵器窯業が設立され、約一年生産された。敗戦で実戦には使用されなかった。
 
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 三好十郎(19021958)の戯曲「峯の雪」(1944)は、この時代に生きる老陶工の葛藤する姿を描く。三好は現・佐賀市出身で、代表作は劇団民芸により上演された、「炎の人―ゴッホ小伝」(1951)、「浮標」(1940)、「廃墟」(1946)、「その人を知らず」(1948)、「胎内(1949)等。 

 

舞台は有田と思われる九州の窯業の地。 日中戦争が深刻化していく昭和十六年(1941)、皿山一番の茶碗名人と言われる陶工花巻治平は、ここ一年轆轤を回していない。 陶磁器製造合名会社香陽社の下請けをしている治平は、材料や薪をもらえず、本業の茶碗や壺が作れない。割り当てでくる碍子や数物の茶碗は弟子で遠縁の治六に任せ、出征兵士の留守宅の畑を借り農作業をしている。長年打ち込んだ茶碗や壺の本業を、数物やおざなり仕事で汚したくないのだ。
香陽社代表社員塩沢家の若主人、専務の勝彦は軍需品製作に腕のいい治平の力が必要となり、東京の電機会社の若い社員外記定男と窯を訪ねる。 外記の会社は本来蓄音器会社なのだが、今は聴音器製造をしている。 飛行機や潜水艦に使う電波兵器の部品となる小さな精巧な碍子の試作を窯業地の名人たちに依頼にきた。

 

塩沢: うまくいけば、兵器の方にドンドン使ってもらえるそうで、もし此の町で積出せるやうな事になると、これこそホントの国策的な仕事ですけん、どうか、おんしゃま、一つよろしくー
 
外記: いや、いよいよの事はもう少し先行の話で、当分方々の窯業地で色々試作して貰って試験してみるんです。(図を指して)いろいろありますが、大体、継ぎ目なしの一轆轤(ひとろくろ)で作って貰わなくちやなりません。それに従来の絶縁体よりも膨張係数を少なく、しかも気温に対する抵抗力の巾を拡げてほしいんで。 ……どうも少し矛盾した注文らしいんですが。 

 

塩沢は「国家がこういう風になって来たのだから」、名人でも国家の為に何かすべきと説得する。外記は名人にしかできない精巧なものを粘土や釉薬焼成温度の工夫で作ってほしいと頼む。
治平は関心を示さず、会社が企業整備で資料や燃料を独占する形になり営利主義を貫くため、このままでは、素地屋も上絵師もかつかつと窮状を訴える。
平時、治平の作品は“会社の製品のいわばまあレッテル”なのだが、戦争中は国策で不要不急のものは作らない。治平の仲間、上絵付けの名人志水卯七も釉が手に入らず、荒れている。独立すれば道もあるといわれるのだが、治平は義理にこだわり香陽社を離れない。

 

草の花を一輪持って次女みきが外から帰ってくる。外記はみきを見て、張家口で匪賊に襲われ負傷した時助けられたタイピストだと気付き、再会を喜ぶ。
みきは女学校を卒業して家を出る。治六、姉と自分の関係を察し身を引いたのだ。 その後大陸に渡り、日本軍の特務機関でタイピストとして働き、傷病兵の慰問をしていた。 近所の人たちは満州でカラユキさんをしているなど噂しているが、家族も帰って来たみきに、真相を確かめられないでいた。
 
遠くから、「万歳!万歳!」という大勢の人の声が微かに聞こえる。海軍に配属される近所の青年寄山新吾を見送る声だ。下士官服を着た新吾が治平を訪ね、茶を点てて欲しいと頼む。治平は新吾とみきのために茶を点てる。二人は治平に茶を習っていた。
新吾は茶室に生けてある峯の雪(白い山茶花)に気付く。

 

疲れから自堕落な様子のみきが、顔を洗おうと庭に出て峯の雪が咲いているのを見つけ、「モックリした山がある。 水があって、そいから、峯の雪! ニッポンよ! よく来やはりました!」帰国を喜び、一変して、真剣な顔で純白の大輪の峯の雪を父の作った壺に生けた。 
 
 三人は茶席で静かな深い時間をすごす。新吾は治平の碗の美しい刷毛目に感動する。治平自身いい出来というこの碗を「船で使ってくれと」新吾に贈る。
 
 みきは中国でも毎週花を生けたという。花がなくても、草の葉をむしって、薬瓶やウイスキーの瓶に生けていた。若い兵士も、つらい仕事をしているから余計深く感じるという。
治平は自分と性格の似ているみきに跡を継いで欲しかったので絵、茶、焼物を厳しく仕込んだ。 みきは父に仕込まれ、父が継がせようとしたものは、はずしていないと言い、自分の仕事の中に確信している。

 

ホントに美しいもの、きびしいもの、ツボやカンといったようなものは、なにもお茶やお花や絵に限った事じゃ無い。真剣な仕事、物ごとの中には、何にでも、いえ、そんな物の中にこそ、もっと大きなホントに美しいものがある。 

 

国策に加担して軍需品を作ることに抵抗し続けた治平だが、みき、近所の出征する青年に心を動かされ、轆轤を回し外記の注文した碍子を作りだす。半ば諦めた様子だがそれが自分の役割と考える。
上絵師卯七は治平の行動に納得できない。
 
西村博子は「『寒駅』以後―三好十郎の国策劇と演劇実験―」(「河南論集」二号、大阪芸術大学芸術学部文芸学科研究室 1995)で「名人治平が再び数物の轆轤を回すのは、ひょっとして外地で売春でもと疑っていた娘みきが実は北京の特務機関でタイピストとして働き、かたわら傷病兵を慰めていたのだと知ったからであった。その娘の生ける生け花の美しさ、訪れてきた出征兵士のために立てる茶の静けさは治平を心の底から動かす」、「プロレタリア作家・三好十郎が、その仕事で最初にはっきりと戦争協力への道を踏み出したのは、……日中戦争開始〈昭127〉から一年余り。三好の内部には何よリまず、自分と同じ庶民、農民の中から続々と戦地に赴いていく出征兵士の姿に動かされたのだ、と思われる」と分析する。
戦争に賛成していなかった三好だが、1944年九月十八日の日記に「戦争が拡大、悪化し、精神的にも物質的にも状況が苛烈になればなるほど、すなわち敗れてほしく無い、敗れたく無い。勝ちたい。是が非でも勝たねばならぬ」と記した。(「三好十郎日記」五月書房 1974)

 

「峯の雪」の脱稿は1944年。1945年6月に桜井書房より刊行の予定であったが、刷り上がったところ出版社が空襲にあい、焼失してしまった。この時原稿も焼けてしまう。死後、朱筆直しの入ったゲラ刷りが見つかり、『三好十郎著作集』第一巻(三好十郎著作刊行会 1960)に所収された。
 劇団民芸が1978、1980、1982、2010年に、劇団文芸が1980、198年2に公演、劇団文芸の1980年の公演は第35文化庁芸術祭優秀賞を受賞した佐賀県庁の演劇サークルが初上演したとの記録がある。 

 

ゲラ刷りとともに「峯の雪に関するノート」として残された覚書が見つかった。そこには、『峯の雪』を完全に書き直し、同じ登場人物の敗戦後の姿を描く構想が記されていた。父は国策に協力したことを反省し、本業を淡々と始め、疲れ切って大陸より帰って来た次女の再出発は茶席での語り会いで、 戦争批判の結論として、「廻り遠いようだが日本人の文化を高くする以外再建の道はない」と思い、付近の村の教育活動を始めるとある
『峯の雪』は書き直しは実現しなかったが、国策に加担したことへの反省、戦争責任をその後の作品での課題にした。どのような種類のどのような思想のもとに行われる戦争にも、反対する絶対的平和主義、非武装主義を明確にした。

 

「峯の雪」の原型と推定される「赤絵絵末」に関して1940年の手記の中、松竹京都撮影所渾大防五郎宛の手紙に添えた映画シナリオ案の控えに「肥前有田に於ける幕末世相劇、焼物の芸術としての本質と、藩の資源としての商品性の間にはさまって、赤絵を守り通そうとする名工と、新時代に生きようとする長男の相克」とある。始めは時代物として構想された映画シナリオが現代物の戯曲として実現された。川俣晃自の解説にある。(『三好十郎の仕事』第二巻 学芸書林1968 

 

1944年夏大日本興業協会(大谷竹次郎会長)の「優秀脚本競作」という事業の企画の依頼作家の一人として三好は「峯の雪」を提出した。最優秀作を選び五千円の賞金を出すことになっていた。結果は「峯の雪」と共に菊田一夫久保田万太郎の三作が選ばれ各千円の賞金が与えられた。三好は協会の決定に不服で、友人(上楽秀信)への手紙で「自分の作品が最優秀なら潔く一点選び、三好が憎いなら外せばよい」と反骨精神を見せる。(「三好十郎日記」に下書きが残る。)審査員は武者小路実篤、岩田国士等だった。

 

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 日中戦争が拡大していく中、1938国家総動員法が施行され、人的、物的資源を政府が統制運用するようになった。1939年価格統制令により、一般食器類が統制価格に指定された。 芸術品、また芸術品と一般品の中間で「技術保存を必要とするもの」は「マルゲイ」、「マルギ」と呼ばれ価格の統制からはずされ、府県知事の認定価格での取引が許された。有田焼では「マルゲイ」には初代松本佩山、「マルギ」は 香蘭社深川製磁柿右衛門窯、今右衛門窯、川浪喜作、満松惣市と、伊万里・大川内の小笠原春一と市川光春が指定された。資材確保など優遇され保護策がとられたが、輸入資材や石炭の供給は制限された。1942年計画生産と資材、燃料の有効利用のため佐賀県内では四〇四あった工場が六六に整理統合された。

 

香蘭社は1875年、翌年アメリカで開催されるフィラデルフィア万国博覧会に有田焼を出品するに際し、窯元や商人が集まり合本組織香蘭社を始めた。1942年海軍監督下の軍需工場になり、ロケット燃料製造装置や化学磁器、多種類の碍子の製造を行った。1938年、1939年は満州、朝鮮での産業開発に伴い碍子の需要は拡大した。
日本コロンビアの前身1910年に、現・川崎市に設立された日本蓄音機商会で、戦時中電波兵器等聴音器を製造していた 

 

十三代酒井田柿右衛門はその著書『赤絵有情』で戦争中の窯の危機を語っている。十三代柿右衛門1938年、三十二歳の時に召集され、満州の東南部で国境警備などの任務に就いた。比較的平穏な軍隊生活で、1939年末召集解除で帰国した。 有田に帰った時、職人たちが十二代柿右衛門のやり方に辛抱しきれずやめて出ていくと解散式に集まっていたが、皆と話し合い、説得して閉窯は免れた。当時職人は245人いて45人が兵隊にいった。

 

やはり金がないのが第一原因でした。賃金をキチンと払っていなかったんですね。職人の不満ももっともで、柿右衛門窯はつぶれる寸前でした。おやじに、私にまかせろ、と言って金の工面にいろいろ手をつけ、まず職人に月一回給料を払うようにした。当たり前のことですがね。 

 

1940年、十二代柿右衛門は商工省の工芸技術保存作家の指定を受けるも、生産統制のもと、土や絵の具も配給制普通の状態の生産はとてもできない。
 
生産量はもちろん、壺はいくら、茶碗はいくらと値段の細かい規定まで作ってうるさいことでした。……こっちが考えているものの半値ぐらいの値段で、それ以上は許されない。しかし、いろいろ不服はありましたが、あの制度の中で美術品がいくらかは息をついてきたのも事実ですね。
 
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劇の前半で博多の骨董商宇多宗久が治平を訪ねて来る。〝富豪の若隠居″風の宇多は居合わせた卯七と骨董談義をする。
卯七は「…今、一つ三千円する高麗でん、一つ一万円する柿右衛門でん、そりば焼いた奴が窯開きした時あ、これが今の金にして五十銭か一円したとですたい。 ハハハ、此処の治平しやんの茶碗にしても同しこつ。もう二百年経ってごろうじ、二千や三千なら羽が生えて飛ぶ。大事になさりまっせ、ハハ」と、骨董の価値を経年で考える(昭和15年前後の一万円は現在の貨幣価値で三千万円位)。
そこへ治平が戻ってくる。 宇多は持ってきた壺を、〝白高麗の系統″らしいといい、鑑定を頼む。 治平は轆轤をやめて以来、鑑定もやめているというが、壺の地肌の美しさ、鷹揚さに魅入られ眼を奪われる。手に取って肌を撫で、壺の口に耳をあて音を聴くようなしぐさをし味わい、治六にもじっくり鑑賞するよう勧める。 宇多がこの茶碗の景色をなす紅味の挿した部分を、クスリの具合の窯変かと聞くと、名人治平は土そのものが作る美しさと答える。

 

いやいや、クスリなど、この手の物は大まかなもので。やっぱり、素地ですな。土、……いや、その土の出る気候風土まで行かんなりません。……チャンとそれを心得て、割出した仕事でせう。

 

宇多は高値を付けたく、治平から宋の物などとのお墨付きの言葉が欲しいのだが、好事家が軍需景気でだぶついた資金で道具をあさっているという話を聞き、口をつぐんでしまう。
宇多はさらに去年手に入れたという治平の若いころの作品を見せ箱書きを頼む。治平は四十代に造った伊羅保写しの碗を見て、〝気色ばみ過ぎ″で恥ずかしいといい、持っていた柿右衛門の赤絵の八方皿と交換して、返してもらい割ってしまう。 

 

 十四代酒井田柿右衛門は遺著『遺言 愛しき有田へ』で焼物の美について語っている。

 

 美しいものというのは自然がもっている恵みそのものなんですね。有田の泉山の石も岩谷川内の石も、多治見で使ってらっしゃる石も、何億年、何百億年という時間をかけて作られた自然なんです。気が遠くなるような時間をかけて作られた自然の恵みといいますか、自然の恵みを吸収して作られた自然の恵みです。わたしはそれが宝、宝物だと思っとります。
 有田の古いやきものには、そういう宝物の味が完璧にでとると思います、私は。骨董品で値が高いというのは、そういう自然の恵みがモノにでとるからでしょう。私は、それだから値が高いとしかいわんのです。いい作品だとかなんとかいうまえに、素材のもっている素晴らしさに眼と心を向けないといかんのじゃありませんかね。不純物をふくんだ素材、自然の恵みをそのまま素直に認めんとね。

 

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「峯の雪」三好十郎(復刻版『三好十郎著作集 第一巻』不二出版 2014
「峯の雪」三好十郎(『三好十郎著作集第一巻』三好十郎著作刊行会1960)
「峯の雪」三好十郎(『戦争と平和』戯曲全集 第四巻』日本図書センター 1998
『赤絵有情』酒井田柿右衛門(十三代)川本愼次郎西日本新聞社 1981
『遺言 愛しき有田へ』十四代酒井田柿右衛門白水社 2015

 

 

 

ギャラリーフェイク


 江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、
人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌、美術などを紹介する。
 
 贋作を専門に扱う画廊、「ギャラリーフェイク」の経営者藤田玲司が活躍する細野不二彦原作の人気漫画『ギャラリーフェイク』に伊万里焼、柿右衛門が登場する。
ギャラリーフェイク」は表向きは贋作専門のギャラリーだが、裏では美術館の横流し品、盗品などいわくつきの真物を扱う。藤田は元メトロポリタン美術館の優秀な学芸員で古今東西の絵画、彫刻、工芸、骨董等、美術に関する知識は広く、かつ深い。作品の鑑定、見る眼は確かで、修復の技術は超一流との定評がある。
藤田は真の美を解する者、真に美に対して心を開いている者とは、儲けを度外視した商売をする一方、美術界の裏に潜む虚飾や悪事、不正に挑む。
 
「芸術はひたすら愛好する時のみ、その全き姿を現す」
ユニークな美術館ガイド『ギャラリーフェイク美術館』(小学館2005)の共著者府中美術館館長井出洋一郎は『ギャラリーフェイク』全巻の訴えることはこれただ一つと監修者後序に記す。
 
ギャラリーフェイク』は「週刊ビッグコミックスピリッツ」(小学館)に1992年から2005年に掲載され、人気が高かった。1995年、第41回小学館漫画賞を受賞。細野の代表作は『さすがの猿飛』、『太郎』、『商人道(あきんどう)』等。『ヒメタク』(「漫画アクション」)、『いちまつ捕物帳 』(「ビッグコミック」)を現在連載中。 
 
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 このシリーズに「欠けた柿右衛門」という一話がある。
特別養護老人ホームに心臓の病を抱え入所している田上老人は、ホームの職員の目を盗んで愛用の柿右衛門の猪口で酒を飲み至福の時を過ごす。或る日若いヘルパー、エリカに見つかり止められると、
 
でもなぁ……この猪口でさァ、
ぐーーっと一杯やるのがたまらんのよ!めったにお目にかかれねえシロモノだぞ!
江戸時代の柿右衛門だ。わしのお宝よ。 
 
猪口は八角の輪花で、縦長の胴部八面に数種の可憐な草花文が描かれている。江戸時代の柿右衛門で田上老人の自慢の物だ。ある晩この猪口で一杯やっているとき、発作を起こして病院に運ばれる。この時猪口を落として欠いてしまった。田上老人は猪口が気になり、優しく接してくれるエリカに、猪口を修理に出して欲しいと頼む。
 
 
老人ホームで身寄りのない入居者が遺産を残した場合、ホームに託されることがある。その中に高価な骨董や美術品もある。ここはこれらを売り運営基金に充てないとやっていけないホームなのだ。ホームに時々フジタが顔を出すのを田上老人は見ていた。 
 
アレはめったな人間にはいじらせたくない。
そこで思い出したのが、いつかホームで見た男じゃ!
間違いなく、ギャラリーフェイクのフジタ……
美術品修復の腕は超一流という評判だ。
お願いじゃ…… エリカさん。
フジタに猪口を修理してもらってくれぃ!!
 
エリカはギャラリーフェイクを訪ね修理を頼むが、フジタは猪口をニセモノといった上に修理費は三十万円という。エリカは躊躇するが、田上老人の達ての願いなので自分の貯金を下ろして払うことにし、急いで修理を頼む。修理された柿右衛門は田上老人のもとに戻るが、老人は掌にのせたまま逝ってしまう。
田上老人は身よりがなく、猪口はフジタが買う。エリカにはニセモノと偽ったが、画面のフジタがホームの所長に渡した札束の包みは分厚く、元禄時代柿右衛門に見合う代金で買い取ったことがうかがえる。
フジタは所長に代金の中から三十万円を、偽物と信じきっているが、老人の頼みをかなえる為自腹を切って大金を払ったヘルパーの娘に返すよう伝える。
フジタがエリカに柿右衛門を解説する場面には、代表的な作品、柴垣のある松竹梅鳥文の皿、草花文八角深鉢、瓢箪型の瓶、碁盤に座る童子、虎の置物、元禄柿と銘のある皿が丁寧に描かれている。
 
ギャラリーフェイク』は実在の美術品、芸術家や実際のエピソードを取り入れて、美術に関する基本的な背景が簡潔に語られる。美術愛好家も美術に詳しくない者も等しく楽しめる。 古今東西の美術、骨董と共に、柿右衛門古伊万里、古九谷、萩、黄瀬戸、井戸、高麗青磁李朝白磁南宋哥窯青磁等陶磁器が登場する。
 フジタは表向き偽物を扱うギャラリーの経営者で悪徳美術商と評判されているが、真物を愛し、裏では相応しい人と相応しい値段で取引する。 絵画を心から楽しむ、元農夫でアパートの大家の老人に本物のモネの絵を5万円で売ることもいとわない。
 
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江戸時代、有田焼はオランダや中国の船で大量に東南アジア、中東、ヨーロッパに輸出された。インドネシア等に運ばれた有田焼は当時インド洋を制していたアラビア商人によりさらにケニア東海岸に運ばれた。有田焼はその積出港の名から伊万里焼と呼ばれていた。 
 
伊万里の道」と題する一話は、アフリカに運ばれた伊万里焼が登場する。
バブル紳士泡田はギャラリーフェイクの上得意だったのだが、バブルがはじけ事業に失敗し莫大は負債を背負い、返済の為マグロ漁船に乗り働いていたがアフリカで行方不明になっていた。困窮する日本の家族に、アフリカの泡田から数年ぶりに荷物が送られてきた。荷物は本物の古伊万里の大皿で、フジタに買い取ってもらうようにと、手紙がついていた。そこには「オレはとんでもない宝の山を手にした。もう借金に苦しむ必要はないんだ」と書かれていた。
本物の古伊万里がアフリカにあることを知るフジタは、その宝の山と泡田を探しにモンバサに行き、ジャングルの中に埋まったモスクの廃墟を発見した。その内壁には見事な古伊万里の皿群が埋め込まれている。泡田はしかし、ここでエボラ出血熱におかされていた。
 
インド洋に面したケニアの南部の港町モンバサはアラビア語で戦いの島という意味でポルトガルとアラビア商人が戦っていたが、15世紀にはアラビア商人がこの地を制していた。町のオールドタウンにはアラベスク模様の建物、モスク、ヒンズー寺院があり、インド、アラブ、ポルトガル系の人々が生活している。
モンバサの北のゲティの海辺のジャングルの中の遺跡には焼物を埋め込んだくぼみが壁に残るモスクの廃墟がある。陶磁器はすでに抜き取られている。ゲティの北25キロのマンブルイの16世紀のアラビア人の柱墓に明の染付が埋め込まれている。
 
三上次男(『陶磁の道』)によるとソマリアからタンザニアに至るアフリカの海岸地帯のアラビア人の社会では宮殿やモスクの壁、柱状の墓に中国の陶磁器を埋め込む風習があった。陶磁を壁面に埋め込む装飾法は中近東の装飾タイルを起源とする。
 
モンバサの元ポルトガルの砦、フォート・ジーザースにある博物館には古伊万里の大壺がある。このことから当地に古伊万里も大量に輸入されたことが窺える。 
泡田は古伊万里が埋め込まれたモスクを発見したのだ。 
 
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フジタの助手サラ・ハリファは中東の王族の娘で、戦争で両親を失い知人を頼って日本に来た。サラは莫大な資産を持ち高級ホテルに住む。
「箪笥の中に」ではサラが軽井沢に東京庭園美術館のレプリカでアール・デコ様式の別荘を買ったことから事件が起こる。旧軽井沢の骨董品店でフジタはさすが高級別荘地と思わせる骨董陶磁器の名品の数々を見る。サラはこの店で和箪笥ファンに人気の岩手の車箪笥を買う。
 隣に住む老婦人は二人を骨董好きとみて近付き、「箪笥の上に置いたらとても映えると思うの」と言い、サラに古伊万里の大皿をプレゼントする。老婦人はサラに言う。
 
「いいものにはいいものを組み合わせてあげないと、よさがダメになってしまうのよ。」
「だから、あのタンスにはいいもの――大切なものを、入れてあげてちょうだいね。」 
 
 食事に招待された二人は骨董の名品でもてなされるが、フジタはそれらが別荘地で盗まれた盗品リストに乗っているものと気付く。老婦人が別荘荒しと気付いてフジタは商売を持ちかけるが、すでに薬を盛られ眠ってしまう。老婦人はサラの別荘に忍び込み、フジタに偽物といわれた古伊万里の皿を割り、箪笥に入れてあったフジタの財布を盗み消える。
 
別荘荒しの老婦人は沖縄に逃げ、又獲物を探す。
 
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ギャラリーフェイク」は2005年に完結したが、東日本大震災からの復興支援プロジェクトとして2013年出版された『ヒーローズ・カムバック』で特別篇として再登場した。『ヒーローズ・カムバック』は細野不二彦の呼びかけに答え、有志のマンガ家が描いた作品を一冊の本にまとめたもので、経費を除いた収益と印税を被災した子供たちの支援団体に寄付する試みだ。細野の他、『犬夜叉』の高橋留美子、『うしおととら』の藤田和日郎等が参加し、其々のヒーローを召喚した。
 
2011311日、フジタは商談で宮城県K市にきていた。旅館が津波に流される中、高台に逃れ、二週間避難所暮らしをした。震災から三カ月、大災害で津波の塩水をかぶったり、破損し失われようとしている文化財を救い出し、修復して後世に残す活動が歴史保全NPO 法人により始まった。
このNPOの活動は東北大学平川新教授率いる宮城歴史資料保全ネットワークの被災地での活動をモデルにしている。
フジタも文化財の救出ボランティアに参加しようと再びK市を訪れたが、フジタの評判を知る責任者の教授に参加を断られてしまう。
 被災地ではどさくさに紛れ、骨董商やハタ師がうろつき回り、名家の蔵に眠る高価な骨董や古文書を二束三文で買い漁っていた。フジタも同類と疑われたのだ。
フジタは高台の寺で独自に活動を始め、ガレキの中から掛け軸等文化財を見つけ修復し、写真や人形等思い出の品を洗浄し持ち主を探した。
 骨董商たちのあくどい商売を苦々しく思うフジタは彼らを懲らしめようと、文化財レスキューの責任者の教授に協力を求め、一芝居打つ。
 教授に旧家の当主を演じてもらい、フジタが自分で持ってきた偽の安物古九谷の大平鉢を旧家に眠っていたお宝として買い取り交渉をしている。この旧家のお宝を狙う悪徳ハタ師は、目利きといわれるフジタが「これほどの逸品」、「800万、いや1千万円出してもいい‼」と言い、執着しているのだから掘り出し物なのだと考え、割り込み、競り合うことになる。2千万、3千万、3千6百万と競り合い、ハタ師が5千万の値をつけた。ここでフジタは「ダメだ。そんなには出せない」と言いながら教授にOKサインを出す。教授はハタ師に「あなたにお譲りしましょう!」と言う。
ハタ師は「サイコ-にいい気分っ! へっへっへっ! こーんな掘り出し物をひろった上に、あの高慢ちきなフジタをへこませてやれたんだから♬」と大鉢を持ち有頂天で帰っていく。
 
フジタは「…… あんな偽物に大枚はたいて。もう当分買いつけもできまい」と見送る。
フジタはあっ気にとられている教授に、被災者の見舞金にと売上金を託す。
 
細野は2014年6月の日本マンガ学会第14回大会のシンポジウム「マンガと震災」の 第一部「マンガ家の支援活動」で被災地を舞台にした特別編に込めた思いを語っている。(「マンガ研究」Vol.21 2015. 日本マンガ学会
 
やはり実際にあったこととして、震災の被災者の方のうちへ行って詐欺行為をしていることがあるという話は伺っていました。それは実際に事実としてあったのでしょうけれども、それに対する怒りがありまして、話はフィクションですが、それに自分の中で制裁をくらわしてやりたいというような気持ちがあって、フィクションとして作ってもよいだろうなと、自分の中での縛りというか、ここまではやってもいいのではないかと思って描きました。
 
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「箪笥の中に」細野不二彦 (『ギャラリーフェイク19 2000 小学館
『海を渡った古伊万里 セラミックロード』 文・上野武、写真・白谷達也朝日新聞社 1986
☆『ギャラリーフェイク』は1992年から2005年まで「週刊ビッグコミックスピリッツ」に連載された。32巻の単行本と23巻の文庫本として小学館から刊行されている。 Kindle 版もある。
2005年にテレビアニメ化され放映された。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

オリエント急行にも“ボタン”が落ちていた


江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌、美術などを紹介する。

 


 
 十四代酒井田柿右衛門JR九州の豪華寝台列車ななつ星」の客室に備える洗面鉢、テーブルランプ、花瓶等の調度品の他、蜂の巣やボタンのオブジェを創った。
焼成前の乳白色の洗面鉢、花瓶、瓢箪型水筒等実用品の他、蜂の巣、手ぬぐいで頬かむりした泥棒(?)型の文鎮、扇形の皿等々、柿右衛門窯の細工場のテーブルの上に並んでいる。2014年四月、NHKで放送されたドキュメンタリー「有田焼・人間国宝 最後の挑戦~密着・豪華列車知られざる舞台裏~」のワンシーンだ。
柿右衛門は、「見せたいものがある」と「ななつ星」のデザイナー水戸岡鋭治を案内する。
これらは窯に残る昔の型から作られたもので、かつて柿右衛門窯ではこういう焼物を多く作っていたという。
「見る人を楽しませる、小さな品々に込められた遊び心を現代によみがえらせたいと十四代柿右衛門さんが提案して作った作品」とナレーションが入る。
水戸岡はハチが止まっている蜂の巣と小さなボタンに格別の興味を示していた。柿右衛門は昔の品々に加え、今回新しく洋服のボタンのオブジェを創った。ボタンは車両の床にはめ込み、こんなところにボタンが落ちていたと思わせ、蜂の巣は天井に取り付けあんな所に蜂の巣があると驚かせるという趣向だという。
 
「ボタンを落としたかな、落ちるわけないけどな。そういう遊びっていうか、楽しみっていうか、お客様にニコッと笑っていただければ、それでいいと思うんです」
 
柿右衛門は語っている。
水戸岡は「懐かしさと新しさが未来を創る」をコンセプトにした「ななつ星」に、遊びの象徴として遺作(十四代柿右衛門は2013年6月15日逝去)の濁手のボタンを額装し、ラウンジの壁に飾った。「人と人をちゃんと結ぶボタン、かけはしですよね。」「にこっとしてくれればうれしいね」と語る。
蜂の巣も額装されラウンジに飾られている。
ななつ星」ツアーは2013年10月15日に運航を開始した。
 
 ななつ星」のクラッシカルな姿、豪華な客室やラウンジ、寝台特急の旅は、アジアとヨーロッパを結んだ寝台特急オリエント急行と重なり、アガサ・クリスティー18901976)の『オリエント急行殺人事件』へと連想は繋がる。
1934年に出版された推理小説の名作はイスタンブールからカレーを走る日間のヨーロッパ横断の旅に出たオリエント急行の中で起きた残忍な殺人事件を名探偵エルキュール・ポアロが解き明かす。落ちていた“ボタン”が重要な意味を持つ。
 
大雪で立ち往生している列車の中で、乗客のアメリカ人富豪ラチェットがベッドで刃物で刺された死体が発見される。コナン・ドイルシャーロック・ホームズに匹敵するクリスティー・ミステリーの名探偵エルキュール・ポアロが謎の多い事件を調査する。
被害者の隣の部屋のアメリカ人老婦人ミセス・ハバードが、自室で男物の上着から「取れたボタン」を見つけポアロに報告する。夫人は夜中、部屋に不審な男が侵入したと車掌を呼んだが、誰も発見されなかった。
 
「このボタン、わかります? いっときますけど、わたしのじゃありませんよ。わたしの服からとれたんじゃありません。けさ起きたとき、見つけたんです。」
 
「、、、わたしはゆうべ、寝るまえに雑誌を読んでたんです。電気を消す前に、窓の近くの床においてあった小型のかばんの上に、その雑誌をおきました。そこまで、いいですか。」
 
「、、、けさ見ると、雑誌の上にボタンがのってたんです。え、どうです?」
 
「手がかりというやつですね」とポアロはいった。
 
雪で立ち往生し密室となったイスタンブール発カレー行の一等車両の乗客全員が犯行可能という状況でポアロは乗客すべてと面接し、尋問して二つの解釈を割り出した。
ポアロの一つ目の解釈は雪に閉じ込められる前、駅に停車した時、列車に侵入した犯人が、被害者の部屋に忍び込み犯行に及んだというものだ。
 
「寝台車の車掌の制服を手に入れていた犯人は、それを自分の服の上から着ました。マスターキーももっていたので、鍵がかかっていたラチェットの部屋に入ることもできました。ラチェットは、睡眠薬を飲んで眠っていました。男は勢いよくラチェットを刺し、ミセス・ハバードの部屋につうじるドアからででいきましたーー」
 
「そうです」とミセス・ババートがうなずいた。
 
「そして通りがかりに、使った短剣をミセス・ハバートの洗面用具いれに突っこみました。また、知らずに制服のボタンを一つ落としていきました。それから、部屋から通路に出ました。そして、あいていた部屋にあったスーツケースにいそいで制服を押しこむと、数分後、発車まぎわに、ふつうの服装で列車を降りました。このときも、食堂車の近くの扉という、おなじ出口を使いました。」
 
制服はこの列車に勤務している車掌のものではないことは、ボタンを縫い付けてある糸が全部古いものだということで証明された。
 
ポアロの第二の解釈は一等車両の乗客全員と車掌、計十二名が、互いにアリバイを補完しあう綿密な計画の下に、犯人を殺害したというものだ。死体には十二の角度や強さの異なる刺し傷が残っていた。
 
ポアロはこの列車に乗り合わせた旧友で国際寝台車会社の重役と検死を担当した医師にどちらの解釈が正しいと思うかを問う。
 
この小説は、1932年大西洋単独無着陸飛行に成功したリンドバークの幼い息子の誘拐殺人事件を基に書かれたといわれる。身代金を得、共犯者は捕まり死刑となったものの、主犯格の男は国外に逃れた。ラチェットはこの男をモデルとした。
 
誘拐され殺された幼児の祖母であるハバード夫人は殺人犯の凶悪さと犯罪が引き起こした悲劇をかたり「世間は、カセッティ(ラチェットの本名)に死を宣告しました――わたしたちは、それを執行しただけなのです」と語り、もし第二の解釈を公にせざるをえないなら自分一人に責任を負わせてほしいという。
乗客と車掌は幼児誘拐事件の犠牲者の親籍、友人、元雇人等で犯人に深い怨恨を抱いていて復讐の機会を狙っていた。ボタンは第二の推理を覆し、乗客たちの犯行を否定し得る証拠品として使われた。乗客たちを〝結ぶ"シンボルでもある。
 
オリエント急行殺人事件』は推理の醍醐味とエンターテイメント性を備えた人気作品であるが、私刑の是非、私立探偵の倫理的基盤や限界等の問題提起したTVシリーズも近年制作された。小説の基となったリンドバーク愛児誘拐事件については犠牲者を増やしてしまった社会問題、冤罪説など論争が続く。
 
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“Murder on the Orient Express” Agatha Christie  (Collins CrimeClub 1934, Harper Paperbacks)
映画『オリエント急行殺人事件』(Murderon the Orient Express(イギリス1974
 
 
 
 
 

十津川警部「ななつ星」に乗る


江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌、美術などを紹介する。

 
警視庁捜査一課の十津川警部が活躍する西村京太郎の人気トラベルミステリー最新の二作は「ななつ星」が舞台だ。全国の鉄道を舞台にさまざまな犯罪捜査を描いてきた西村は「ななつ星」の豪華な空間は殺人トリックにふさわしいという。
 
JR九州の豪華寝台列車ななつ星」のツアーは開業二年になる今(2015)も参加希望者は多く、十四室、三十人定員のツアーの予約申し込みの抽選倍率は二十から三十倍という。豪華な客車は福岡県大川の組子、手織り緞通等、伝統建具や家具調度、工芸や美術が飾られて贅沢な雰囲気を作り出している。
有田焼では、柿右衛門、今右衛門、源右衛門の磁器の洗面鉢、花瓶、テーブル・ライトが設置され、皿やコーヒーカップ等、星のロゴが入る白磁の食器は高麗庵清六窯の中村清吾のオリジナルものだ。
『「ななつ星」極秘作戦』に登場しツアーに参加する十津川警部の妻、インテリアデザイナーの直子は部屋に入ったとたん感動を言葉にする。
 
「わあッ」
「まるで芸術の森に入ったみたい」
 確かに、洗面所にある洗面鉢は十四代柿右衛門の名前が入ったものだし、壁は、窓を除いて、木の細工でおおわれている。窓は、ブラインド、障子、カーテンの三通りが可能である。
その窓は異常にタテに長い。ベッドに寝転んで、その理由が分かった。ベッドに寝たまま、外の景色が見えるように、ベッドの低さまで、窓になっているのだ。
ぜいたくと、繊細さ、と。その二つが、果たして、現代にマッチするかと考えているうちに昼食の時間になった。
 
1930年生まれで、陸軍幼年学校在学中に終戦を迎えた西村京太郎は、終戦七十年の機会に戦争を振り返る作品を書くことにしていたという。「ななつ星」を舞台にした二作は「謎に包まれた日中和平工作」と「占領下の接収の闇」の検証を絡めて展開する。
西村は取材のため、博多から長崎、阿蘇、湯布院を巡る一泊二日の「ななつ星」ツアーに参加した。
 
『「ななつ星」極秘作戦』では警視庁捜査一課の十津川警部が「ななつ星」に乗り、殺人と列車乗っ取り事件に挑む。事件は、中心人物の名をとり繆斌(みょうひん)工作と言われた第二次世界大戦末期の日中戦争終結工作を行った繆斌の孫、日本側関係者の子孫、歴史家たちが「ななつ星」で行う検証会議を妨害し、歴史の真実を葬るための犯行だ。
 
1945年、蒋介石の密令により来日した繆斌は、日本の中枢にいる人物と接触し和平の道を探ったが失敗に終わり帰国、その後1946年に処刑された。この和平交渉は日本の歴史には記されているが、中国の共産党の歴史には記述がない。
繆斌の孫周作文は歴史の真実を明らかにし、蒋介石裏切り者として処刑された祖父の名誉を回復しようと、「ななつ星」で日本側関係者と話し合う企画を立て妻紅花、台湾の同志二名と来日し三泊四日のコースに参加した。日本側は気鋭の歴史学者田中久子とその友人の歴史学者、当時の情報局総裁緒方竹虎(三男四十郎の妻は元国連難民高等弁務官緒方貞子)の秘書の孫で外務省職員の及川久男と妻美由紀、総理大臣小磯國昭の孫平田英輔等がこの検証会議に参加した。三日目の晩、阿蘇駅停車中、先頭のラウンジカーを借り切り外部から遮断し、関係者が集まった。
会議の概要は世界的に権威のある雑誌に発表することになっている。
このツアーには他にアメリカ人夫妻、日中友好協会会長とその妻、警視庁副総監の命を受け十津川警部が乗客を装い妻直子と参加している。
繆斌工作検証の会議の妨害が疑われるが、十津川はマークすべき人物が誰かもわからない。
 
列車は阿蘇駅に朝まで停車することになっていたが、明け方突然後方に走り出した。ラウンジカーの前の「ななつ星」の機関車は取り外されていたが、最後尾のスイート・ルームに在来線の普通の機関車が連結されていた。
日中友好協会会長とその妻が行方不明になり、アメリカ人夫妻、田中久子の友人である歴史家が殺害されていた。
十津川は共産中国の歴史に不都合な和平工作が明るみに出るのを阻止する為の犯行と考え、列車が爆破されると見、会議の参加者をラウンジカーの非常口から脱出させた。福岡県警のヘリコプターを動員し、関係者はすでに列車から脱出していることを知らせ、列車に取り残されている無関係の乗客を巻き添えにしないよう、列車を走らせている犯人に呼びかけ続けた。 
乗客は非常ボタンを押し、一時的に速度の落ちるタイミングで全員脱出した後、列車は鉄橋上で爆発した。
ストーリーは現代のフィクションだが、登場人物が会議で語る歴史は、戦争の時代に中枢にいた実在の人物がリアリティーのある場面に登場し、歴史小説のようだ。複雑な国際関係、軍部と政府の力関係、思惑、事情、他国との駆け引き、人間の限界が浮き上がり、バラバラに行われた複数の戦争終結工作が失敗し、双方に想像を絶する犠牲をもたらす終戦への過程が語られ、繆斌工作が、各々の国の歴史にどういう意味を持つか分析される。
検証会議には当時陸軍参謀本部の第十二課、通称ナンバー十二グループの参謀の孫も加わり米ソの冷戦を作り出し利用、日本が同盟国となり有利に和平に持っていく計画の存在が、繆斌工作の失敗に繋がったと明かす。
 
西村は「僕は陸軍幼年学校にいましたから、戦争が終わってからも*『偕行』なんて雑誌が送られてきて、戦争を様々な角度から振り返った記事や手記を読んできたし、実際に戦争を体験した人が少なくなってる現代だからこそ、書きたいことがいっぱいあるんです」と語っている。(『本の話Webインタビュー・対談 豪華列車「ななつ星」にあの十津川警部も驚いた!? 文芸春秋 http://hon.bunshun.jp/articles/-/3565>)
 
JR九州は台湾からの四人の客が事件に巻き込まれ旅行を楽しめなかったであろうと、あらためて「ななつ星」一泊二日の旅に招待した。旅行を終え周作文は礼状を残し台湾に帰った。
「二度にわたって、すばらしい会場というか車両を私たちのために提供して下さったことにお礼申し上げたいと思います。日本人と同じく、私たち中国人(台湾人)もななつ星のような豪華な部屋というか、列車が大好きで、そこに入り、ゆったりと寛いで、難しい話をするのが好きなのです。貧しい部屋からは貧しい考えしか生まれませんから。
最後に私の妻、紅花の言葉を添えさせて頂きます。ななつ星の洗面鉢に十四代柿右衛門の陶器が使われていたことに、紅花は感激したと、いっております。何しろ、紅花は、大変な柿右衛門ファンですから」
 
西村は日中戦争終盤の蒋介石による和平工作とその失敗について、さらにそこに参謀本部の動きなども絡めて、あえて豪華列車の中という舞台で関係者に話をさせた理由は、『ななつ星』というのは、現代の日本の平和の象徴だと思うんです。これがゆとりのない場所での話し合いだと、関係は余計にぎすぎすするだけで、あんまり建設的ではないのかと……」と語っている。(『本の話Webインタビュー・対談 豪華列車「ななつ星」にあの十津川警部も驚いた!?
ななつ星」に使われた有田の磁器はじめ九州の工芸作品は、冷静で建設的な検証のできる舞台に大きな役割を果たしている。
 
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『「ななつ星1005番目の乗客』では長崎、湯布院、宮崎、鹿児島、阿蘇を回る「ななつ星」ツアーに次期アメリカ駐日大使が参加したことから、事件が起こる。シャリ―・杉山・ケイコは大使になる前に日本のことを知っておきたいと来日し、九州を周遊する四泊五日のツアーに外務省の女性事務官とともに参加するが、ツアーの途中、二回行方をくらます。
一回目の行方不明後、外務省北米局長から依頼があり、十津川警部はケイコの警護に当たることになり、レンタカーで列車を追う。「ななつ星」ツアーの人気は高く、タイトルの「1005番目の乗客」とはキャンセル待ち1005番でこの列車に乗り込んだ謎の人物のことだ。
 
ケイコの祖父アーノルド T. シャリーは太平洋戦争後、占領軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の副官として来日した。アーノルドは日本人子爵の未亡人と結婚したが、米国の家族に敵国の女性との結婚を反対され杉山子爵家の養子になった。
アーノルドは民政局の局長として、接収した天皇のお召列車をアーノルド号と名付け、占領政策を徹底するため全国を廻っていた。しかし、1948年プライベートで九州を旅行している時、この列車が消えてしまった。その後朝鮮戦争がはじまり、アーノルドは従軍し、そのまま帰国した。占領下の日本では列車の行方の捜索もうやむやになってしまった。
 
このツアーには胡散臭い何人かの人物が参加している。親孝行旅行がしたくて悪知恵を働かせ母と乗り込んだ若い男が、悪徳骨董商がなぜいるのか不思議がる。
 
「この『ななつ星』は、全く、新しい豪華列車だよ。車内を見て歩いたが、古いもの、骨董品などはどこにも見当たらなかった。例えば、十四世柿右衛門が作ったものが並んではいたが、まだ、骨董品としての、値打ちは出ていないんだ。」
 

ツアーが立ち寄った地にあった三つの歴史的貴重品が盗まれ、乗客に疑いが掛かり足止めをくってしまう。これらは三種の神器八咫鏡 (やたのかがみ) 草薙剣 (くさなぎのつるぎ)のレプリカと、天皇世襲制に憧れたアーノルドが造らせたお召列車の三十二分の一の金の模型で接収した貴金属、宝石で飾られている。アーノルドは、これらを持ち帰れなかったが、ケイコが相続者になっている。

ケイコが「ななつ星」に乗ることを知った宝石の通信販売会社社員が、これらの宝物を盗み、ケイコに売りつけようとしたが失敗した。宝物はケイコの手に戻り、アメリカ大使館に飾られた。

新聞に大きく報道され、写真を見た摂収品の本来の持ち主達は返却を求め大使館に押し掛けた。接収品は調べが済んだら持ち主に返却されることになっていた。

十津川警部はケイコの宝物を飾る宝石の写真を沢山撮っていた。元の持ち主が写真を見て大使館に押し掛けたことで、福岡県警の警部に問われた十津川は「私の小さな愛国心からかな」といって一人で照れた。

 
お召列車行方不明、接収施策など史実を踏まえて物語は展開するが、占領時代の歴史は謎が多く、この物語は『「ななつ星」極秘作戦』に比べフィクション色はつよい。 
 
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『「ななつ星」極秘作戦』西村京太郎文芸春秋 2015; 初出『「ななつ星」が歴史を変える』「オール読物」2014 5月-11月)
『「ななつ星」一〇〇五番目の乗客』西村京太郎(光文社 2015; 初出「小説宝石2014 5月―11月)
*「偕行」は旧陸軍将校の親睦、学術研究を目的とする団体で、第二次大戦後に解散したが、のち元陸軍将校と陸上自衛隊幹部の親睦団体として復活した偕行社の発行する月刊誌。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

大英博物館からカキエモンが盗まれた?

 
 

 江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌、美術などを紹介する。
 
 
 
 

イギリスの作家アーサー・コナン・ドイル(1859-1930)の生んだ名探偵シャーロック・ホームズ1887年に『緋色の研究』で登場して以来、世界中の探偵小説ファンに読み継がれている。魅力的な名探偵は、又多くの作家により多彩なパロディ小説を生んだ。
作家で博物学者の荒俣宏の短編「盗まれたカキエモンの謎」は、古陶磁ファンの興味を引くホームズ・パロディだ。
舞台は大英博物館1896年のロンドン。粘菌の研究で知られる生物学者民俗学者でもある南方熊楠がイギリスに滞在中、博物館で起きた盗難事件の調査でホームズと対決する。大英博物館館長フランクスの私的なコレクションから柿右衛門がごっそり盗まれたのだ。 
 
17世紀の日本は、伊万里焼や柿右衛門など美しく彩色された絵付け陶器を、ヨーロッパに大量に輸出していた。美しくエキゾチックな日本製陶器は、〈イマリ〉とか〈カキエモン〉と日本語そのままに呼ばれ、ものすごい人気を博したのである。1896年の今も、こうした陶器はすさまじい高値で取引されていた。 フランクス氏としては、いずれこのコレクションを博物館に寄贈するつもりでいたのだ。(筆者注・陶器には“ポーセリン”とフリガナがある。)
 
 大英博物館は医師ハンス・スローン卿の八万点に及ぶ博物学的収集品の寄贈を起源に 1759に開館した。博物館は、初期は骨董品や遺物を買い集めるのではなく大口の寄贈を受け発展するものとされていた。
 
フランクス館長も柿右衛門を収集し、博物館のコレクションに残すつもりだった。
館長の依頼で調査に来たホームズと東洋書籍部長のサー・ロバート・ダグラスに助けを求められてきた南方が鉢合わせになり、盗まれた柿右衛門と犯人探しの推理合戦が始まる。
ホームズはカーペットに残る泥を調べ、「これは粘土ですな。それも、かなり特徴のある粘土だ。それに石英の粉が混じっている」と言い、ロンドンのチェルシー窯に関わる者の犯行と推理し、工場に行きすぐに犯人を突き止めた。
犯人はフランクス館長の収集品の内、三点を盗まず残していった。南方が調べると三点は本物の柿右衛門であった。しかし犯人が盗み出す途中に慌てて落とし割ってしまい、あとに残した破片の一つに錨のマークがあった。チェルシー窯のマークだ。
 
18世紀初頭ドイツのマイセン窯で磁器焼成に成功して以来、ヨーロッパの窯は柿右衛門写しを大量に生産した。マイセン窯、ロンドンのチェルシー窯、ボウ窯、フランスのシャンティ窯などヨーロッパ産カキエモンは人気を誇った。
 
盗まれたカキエモンは忠実な模倣品でフランクス館長も本物と見間違えたのだった。
多くのヨーロッパ窯のカキエモンからは本物の柿右衛門の絶妙な余白、デザイン化されていない日本画風の絵付けは失われている。南方はこの点で他のヨーロッパ窯のカキエモン写しと格段に上の盗まれたニセモノの謎に迫る。
 
「精巧なニセモノをつくるために、本物のカキエモンを写真に撮って、その紋様を幻灯機から無地の陶器の上に投射したんだ。そして、写された絵柄どおりに色付けして、そいつを窯で焼きあげれば、はい、チェルシー産カキエモンの一丁あがり! ただし、職人の悲しさで、工場の印をうっかり付けてしまっていた」
 
財産家の息子、南方熊楠は写真機を持ち、写真に興味を持っていた。ロンドンの下宿の同居人が写真師であったことから、彼の撮影に同行したり、現像に立ち会い写真術を教えてもらっていた。柿右衛門とヨーロッパの窯のカキエモン写しの大きな違いは、余白の取り方。南方は本物の余白をまねる手段として、犯人が最新の写真術をニセモノ作りに利用していたと突き止めたのだ。
ホームズは「原因は、ミナカタ、あなただ」といい、大英博物館に日本人の目利きが雇われたと聞いた犯人は、博物館に大量に売りつけている〝自信作″のカキエモンが贋作とバレるのを恐れて、南方がいる間は、全部引上げておこうとしたのだと説明する。
南方は博物館はフェイクの宝庫だが、フランクス氏の名誉にかかわる問題だからと、盗み出されたカキエモンを全て叩き割ってしまった。贋作だったことは伏せて、館長には盗難品はすべて破壊されていましたと報告するのが無難という南方に、ホームズは唖然とするだけだった。
 
館長フランクスは、南方熊楠(1867-1941)がロンドン滞在中に出会い、大英博物館で和書の整理をするきっかけとなったサー・オーガスタス・ウォラストン・フランクス(18261897)がモデルであろう。 ウォラストン・フランクスはロンドン万博で日本の陶磁に魅せられて、以来収集していたといわれる。英国先史時代の遺物、仏教、ヒンズー教美術、中国、日本の陶磁器などのコレクションを大英博物館に寄贈した。
二十代半ばの南方はウォラストン・フランクスが部長を務めていた英国・中世古美術および民族誌学部で収集品の調査をした。当時の大英博では図書館部門の長、プリンシパル・ライブラリアンが館長を兼任していたのでウォラストン・フランクスはこれに次ぐ副館長といった存在で、最晩年まで勤め、収蔵品を充実させ、博物館発展に大いに貢献した。
現在開催中の「大英博物館展―100のモノが語る世界の歴史」に展示の為、里帰りしている「柿右衛門の象」はこの短編の時代にはまだ大英博物館にはなかった。「柿右衛門の象」一対は空気力学学者で東洋陶磁のコレクターとして有名なサー・ハリー・メイソン・ガーナー (1891 – 1977) のコレクションで1980 年に寄贈された。
 
ダグラスは、中国学者1892年に創設された東洋書籍部の初代部長サー・ロバート・ケナウエイ・ダグラス(18381913)がモデルだ。南方はダグラスの補佐として働いていた。変人熊楠が博物館で起こしたトラブルの収拾にダグラスが尽力してくれたことに触れた熊楠の手紙が残っている。
 
『達人たちの大英博物館』の第五章 大英博物館学派とその時代Ⅱの「名探偵と博物館」に、ホームズは犯罪調査に必要な幅広い、実践的な知識を大英博物館で培ったとした「マズグレーヴ家の儀式書」(『回想のシャーロック・ホームズ』 アーサー・コナン・ドイル著、深町眞理子訳、創元推理文庫  2010)からの以下の引用がある。
 
ロンドンに初めてやって来たとき、私(ホームズ)はモンタギュースクエアのちょうど大英博物館の角あたりに下宿した。そしてそこで、ありあまる余暇を利用して、私をより有能にしてくれるために必要なすべての学問分野で研鑽をつみながら、ひたすら待った……
 
この短編の収まるシャーロック・ホームズのパロディ短編集の編者北原尚彦は、個性的な実在の人物をモデルとし、当時の大英博物館、ヨーロッパの窯業事情を織り交ぜ、柿右衛門の余白をまねる手段として幻燈を用いたというユニークな発想の荒俣宏の短編を、名探偵ホームズのパロディーの中でも一味違う洒落たパスティーシュと分類する。
北原は、荒俣を「博学という意味でも奇人という意味でも(失礼!)〝現代の南方熊楠"であるといえる」と紹介する。怨霊平将門の力で東京破壊をもくろむ魔人とそれを阻止しようとする人々の戦いを描く代表作『帝都物語』(全10巻)は1987年日本SF大賞を受賞。
 
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「盗まれたカキエモンの謎」荒俣宏 (『日本版シャーロック・ホームズの災難』北原尚彦・編 論創社 2007
『達人たちの大英博物館』松井竜五、小山騰、牧田健史講談社 1996
 

ヨーロッパを魅了した柿右衛門、アウグスト二世とマイセン、14日、15日 NHKBSプレミアムで放送

NHKBSプレミアム「プレミアムカフェ」〈900~〉は、414日から 16日まで、「陶磁器の美」を特集する。14日、15日は2003年、2004年に放送された2本のドキュメンタリーを中心に、17世紀後半よりヨーロッパに大量に輸出され、愛された柿右衛門伊万里焼の魅力とヨーロッパでの受容の足跡を探る。16日は織部焼を制作するニューヨーク大学の学生の挑戦を紹介する。ゲストは古美術鑑定家中島誠之助さん。
 
柿右衛門 果てしなき旅路〜ヨーロッパが愛した日本の美〜」
414日(火)、午前9001115(再放送は422() 午前215分〜 [火・深夜]
17世紀後半、「柿右衛門」は大量に輸出されヨーロッパの王侯貴族を魅了した。温かい白の地肌を持つ華麗な色絵磁器を競って蒐集し館を飾った。十四代酒井田柿右衛門さん(19342013)がヨーロッパに残る祖先の創った「柿右衛門」を訪ねその美、影響の大きさを探り、自身、柿右衛門窯の伝統継承の果てしない旅路を見つめる。2003年初放送))
 
城・王たちの物語「マイセン 幻の磁器の城〜アウグスト2世の尽きせぬ欲望〜」
415() 午前900分〜1105(再放送は423() 午前045分〜 [水・深夜]
ザクセン公国のアウグスト二世は、「白い黄金」と呼ばれ、当時はまだヨーロッパでは作ることができなかった磁器を作り出すことを職人たちに課した。1709年、欧州初の白磁を作ることに成功し、王立の磁器工場がマイセンの城内に作られた。アウグストの磁器に対する情熱、欲望は職人たちに過酷な運命をもたらしもしたが、色絵を焼くことに成功し、以来マイセンは名窯として君臨した。17世紀、ヨーロッパの王たちの「柿右衛門」、伊万里焼など東洋磁器への熱狂の跡を辿る。(2004年初放送)
 
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柿右衛門の象」、「大英博物館展」連動ラジオ番組で521日に放送予定
418日から東京都美術館で開催される「大英博物館展 100のモノが語る世界の歴史」連動のラジオ番組「モノが語る世界の歴史 耳で楽しむアート×歴史」がNHK第一で放送されている。30回シリーズ(前期 46日~24日、後期511日~29日)、各回10分の番組で展示されるモノを一点ずつ取り上げ解説する。月曜から金曜まで、午前145頃からラジオ深夜便内で放送されている。田中麗奈がナビゲーター役をつとめる。
翌日午前1139から再放送。又、日曜午後405455の「とっておきラジオ」でその週の月曜から金曜までに放送された5本を再放送する。
☆〈www.nhk.or.jp/から→NHKオンライン→ラジオ第1に入り「モノが語る世界の歴史」でも放送後、聴くことができる。