白い象がやってくる

 2013年1月の記事「色絵象とグローバル経済の夜明け」で紹介した大英博物館所蔵の柿右衛門の白い象がやってくる。上野の東京都美術館で4月18日から始まる「大英博物館展―100のモノが語る世界の歴史」で展示されるため、柿右衛門様式の色絵磁器の二頭の象の置物は、縄文土器、銅鏡等と共にロンドンから里帰りする。
展覧会は大英博物館の所蔵品の中から100点を選び、それらが作られ、どのような必然的役割を演じたかを通して人類の歴史を読み解こうと試みる。100点のモノはタンザニアの峡谷の200万年前の地層から見つかった動物解体の道具として作られた石器から、現代までに作られた道具や宝物、芸術作品まであり、今世紀のモノではモザンビークの銃のパーツで作られた「母」像(2011)や中国のソーラーランプと充電器(2010)が含まれる。
1660年から1690年の間に制作された柿右衛門の色絵の象は、第七章「15001800大航海時代と新たな出会い」に、17世紀、ヨーロッパとアジアを舞台に展開された地球規模の経済活動―単にモノの流通ではなく、技術の伝播、総合商社を介して需要に応じる生産と流通―の夜明けを象徴するモノとして展示される。
大航海時代、ヨーロッパの国々による海外進出で世界は海で結ばれた。オランダ東インド会社はアジアに拠点を持ち盛んに交易をおこなった。ヨーロッパに輸入された有田の色絵磁器は人々を魅了し、競って収集された。食器とともに動物像や人形も人気があり館を飾った。
 
小型犬位の大きさの柿右衛門の象は、小さめの四角い耳を持ち、頭に二つの瘤があり、背中が丸いアジア象の特徴を持つ。濁手の胎に明るい色の飾りを付けている楽しげで、気品を備える白象だ。
大英博物館の所蔵品解説によると、象は「当時の日本の陶工はおそらく目にしたことがない動物で、オランダ東インド会社の商人の輸出用の特別注文に応じたものだろう」とある。きれいな乳白色の濁手の磁器に色絵の模様が描かれ、日本人ような目を持つこの象の「制作者が日本人であることは疑いなく、見たことのない動物の姿を想像しながら作ったと思われる」、と大英博物館館長ニール・マグレガーは記す。
ロンドンのビクトリア&アルバート美術館は色絵の美しい鞍布をつけた、この象と同じ型の黒い象を所蔵する。この他数種のタイプの色絵磁器の白い象がヨーロッパに残る。柿右衛門様式の磁器のコレクションで有名なイギリスのバーリー・ハウスにも鼻を持ち上げた白い象があり、1688年の財産目録には、人形、虎、犬、鳥の置物とともに「二頭の大きな象」の記載がある。ミュンヘンドレスデンの博物館も白象の置物を所蔵している。
 
白象は仏教では普賢菩薩が乗る神聖な動物とされていた。象の生息する南アジアでは白象は祥瑞の印であり、健康と長寿の象徴でもある。王のみが所有を許され、崇められ、使役されない。アジアの国々やヨーロッパで、白象は古くから、大切な場面の贈り物とした記録が残る。
十三世紀、フランスのルイ九世はイギリスのヘンリー三世にロンドン塔の動物園用に象を贈った。修道士で歴史家のマシュー・パリスの『大年代記』(Chronica Majora)には、魅力的な画入りでこの象の生活の様子が記されている。ハンノと名付けられた白象は1514年の戴冠式ポルトガル王からローマ法王に贈られ大切にされた。十七世紀、ハンスケンと名付けられた雌象はサーカスをしながらヨーロッパを巡り、人気を博した。レンブラントの写実的なスケッチが残る。

 

 この時代の日本人にとって象は馴染みのない動物だったのだろうか。またどんなイメージを持っていたのだろか。象をモチーフとした日本人による美術品は以外と多い。
 
東京・六本木のサントリー美術館で開催中の「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展に伊藤若冲17161800)が白象を描いた作品二点が展示される。六曲一双の「象と鯨図屏風」は北陸の旧家に伝わったもので、2008年夏に存在が知られた。各隻に、勢いよく潮を吹く鯨と、座って鼻を高々とあげた象とを対置させた水墨画だ。「白象群獣図」(展示期間は422日から510日まで)は小動物とともに悠然と座る象が描かれている。若冲晩年の作と伝わる。若冲はこの他に何作も群獣楽園図や単独の白象を描いている。
京都の養源院には、1621(元和7)頃に描かれた俵屋宗達の杉戸絵「白象図」がある。二枚の板戸いっぱいに、一頭ずつ太い描線の白い象が描かれている。
「茶屋交趾貿易渡海図」(名古屋市情妙寺所蔵)は十七世紀、長崎を出てベトナム中部の交趾国に行った朱印船商人の旅を描いたもので、異国の田園風景に三頭の象が調教されている様子が描かれている。内二頭が白象だ。京都の豪商初代茶屋四郎次郎の三男、尾張に分家した茶屋新四郎(?-1663)の子、新六郎(?-1693)の朱印船貿易の様子を同行者が描いたといわれている。茶屋家は1612年に朱印船貿易の特権を得て巨万の富を築いた。
九州国立博物館所蔵の朱印船交趾渡航図巻」(「茶屋」絵巻を18世紀に書き写したものといわれる)には商人の館で飼われている白い象二頭が描かれている。神戸市立博物館の桃山時代の「南蛮屏風」(狩野内膳作)には異国の港町に灰色の象が描かれている。
京都・高山寺に伝わる国宝「鳥獣戯画」(1213世紀)乙巻にも二頭の白象が鼻を上げ、虎のような獣と威嚇しあっている様子が描かれている。また中国の「三才図絵」をもとに著された寺島良安の「和漢三才図会」(1713)の象の項にもイラストがあり、白象の存在も言及されている。
平安時代から普賢菩薩や釈迦涅槃の図に多様な白象が描かれている。東京国立博物館所蔵の国宝「普賢菩薩像」(12世紀)はじめ、普賢菩薩を背負う象は蓮華座の下にきれいな鞍布をつけている。美しい装飾と泰然とした象の姿は大英博物館柿右衛門の象と趣を共有する。柿右衛門の象たちは普賢菩薩が乗る白い象をモデルにしたのではないか。
 
朱印船交趾絵渡航図巻」をもとにした九州国立博物館企画・原案の絵本、『海のむこうの ずっとむこう』の巻末の解説の「日本に来た象」によると、初めて象が来日したのは1408年で、今のインドネシアにあった南蕃国から若狭の港に着き、日本の国王に贈り物として京都の足利将軍家に献上された。1597年、マニラのスペイン総督が秀吉にドン・ペドロという象を贈り、1602年にはベトナムの象が家康に献上された。もっとも有名な象は、1726年将軍吉宗の希望で中国商人がベトナムから献上したものだ。番いの雌は長崎で死んでしまうが、雄は長崎から江戸へ向う途中、京で中御門天皇も見物するため、官位が必要となり従四位という高い位が与えられた。尾形探香(18121868)の「象之絵巻物」(関西大学図書館)には御所の庭にいる象を天皇や貴族が見物している様子が描かれている。
このほか、1575年に明より豊後の大名大友宗麟に象と虎が献上されたとの記録もある。
 
有田の陶工、柿右衛門達は藩内の長崎に上陸した象を見る機会はあったであろう。上陸後、長崎街道を北上し、献上先の目的地まで長い旅をする象を多くの人が見物したと思われる。日本には生息しない大きな体の、不思議な形の動物はインスピレーションを湧き起こし、美術の魅力的なモチーフになる動物だったようだ。アジアの宗教思想や文化と大きな自然を体現した存在が結びつき、象の豊かなイメージが形成され魅力的な美術を生んだ。柿右衛門の色絵象もその一つだ。 

 

白い象は近代文学にも登場する。宮澤賢治の童話「オッベルと象」(1926)(『宮沢賢治全集第13巻』筑摩書房1980青空文庫www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/466_42316.html)は地主オッベルに重労働を強いられ苦しむ白い象を描く。象は仲間に助けを求め救われる。『新版中学国語1』(教育出版1978)に収録された。米作家マーク・トゥエインの短編「盗まれた白象」(『悪いやつの物語』筑摩書房 1988)はシャムからイギリス女王へ贈られる白象が、途中で寄港したニューヨークで盗まれ不幸な運命をたどる。白い象はインパクトのあるモチーフであり、神聖な動物のイメージは持ちつつも、悪、あるいは俗に無力になっている。
 
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・「大英博物館展―100のモノが語る世界の歴史」
東京都美術館での展示は2015年4月18日から6月28日まで。その後、福岡、神戸に巡回する。
九州国立博物館:7月14日―9月6日、神戸市立博物館:9月20日―1月11日、2016
展覧会公式サイトは<http://www.history100.jpwww.tobikan.jp/exhibition/h27_history100. html 
・“A History of the World in 100 Objects” Neil MacGregor (Viking 2011)
・『100のモノが語る世界の歴史』ニール・マクレガー、東郷えりか訳(筑摩書房 2012
翻訳版は三巻からなり、「柿右衛門の象」は第三巻「近代への道」に収録されている。
☆展覧会の原案となったBBCラジオ4の同名の番組(20109月放送)の録音はBBCのウエブサイト<www.bbc.co.uk/ahistoryoftheworld/about/british-museum-objects/で聴取できる。スクリプト100点の収蔵品の写真も掲載されている. 柿右衛門の象」はPart 16 The First Global Economy 1450-1650Episode 79: Kakiemon elephants
・「朱印船交趾渡航図巻」九州国立博物館所蔵 
収蔵品ギャラリー、ギャラリー1      www.kyuhaku.jp/collection/collection_gl01.html
・「茶屋交趾貿易渡海図」名古屋市情妙寺所蔵
きゅうはくの絵本 8 朱印船絵巻『海のむこうの ずっとむこう』フレーベル館 2009
『宮廷の陶磁器』英国東洋陶磁学会編 監訳:西田宏子/弓場紀知 (同朋舎出版 1994)
「全四巻鳥獣人物戯画web絵巻」「特別展鳥獣戯画京都高山寺の至宝」公式サイトwww.chojugiga2015.jp/。白象は乙巻の最後の場面。
「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展 サントリー美術館:2015年318510日、 滋賀県甲賀市 MIHO MUSEUM74830

 

「百婆」、赤絵創成の頃

有田は2016年、磁器創成四百年を祝う。
豊臣秀吉の二度の朝鮮出兵文禄・慶長の役15921598、朝鮮では壬辰・丁酉倭乱という)の撤退の際、多数の朝鮮陶工を連れ帰った。その中の鍋島軍に伴われ来日した李参平(日本名 金ケ江三兵衛)が四百年前の1616年有田泉山で白磁鉱を発見し、磁器焼成に成功した。九州各地で陶器を焼いていた渡来陶工が有田に集まり磁器の窯を開き、磁器生産は17世紀中期産業として成り立つまでになった。
 
村田喜代子の『龍秘御天歌』と『百年佳約』は、この頃の九州北部黒川藩の皿山を舞台に渡来陶工を率い手広く磁器を制作した大窯主の死後、あとを継ぎ窯を仕切った百婆とよばれた老妻を主人公とする物語だ
慶長の役後、武雄領主後藤家信の帰国に従って来日した深海宗伝は領内に窯を築き陶器を焼いていた。夫宗伝の死後、渡来陶工の集団を連れて有田の稗古場に移り磁器を焼き、明暦二年(1656)九十六歳で亡くなったと伝えられている百婆仙をモデルとする
 
『龍秘御天歌』は皿山随一の龍窯の窯主辛島十兵衛こと張成徹が没し、葬儀をめぐって妻の百婆こと朴貞玉と息子十蔵こと張正浩の対立を描く。 息子は日本式の葬儀を営もうとするが百婆は故国朝鮮の作法にのっとった葬儀を行おうと抵抗する。「龍飛御天歌」は李朝の建国を綴った古い詩歌集。
島原の乱の以後、幕府はキリスト教を禁じ全国に檀家制を定め、渡来陶工は日本名を得て帰化し、檀那寺に帰属した。このため葬儀は仏式で行うのが原則となった。
夫十兵衛を支え窯の繁をもたらし、渡陶工達の面倒をよく見、敬愛される百婆が「張成徹の葬式はクニの弔いでやろうと思う」と決意をえると息子等は狼狽し、長男十は「親爺の弔いは家のことではねえ。皿山の町ぐるみのでかえ葬式になる。わしの決めることや」と主張する。皿山に数百人の渡来仲間を率い大移動し、二十四連房式、日本初の登り窯を築き、生前苗字帯刀を許された大窯主十兵衛の弔いは渡来陶工のみでなく、藩役人、代官所、陶磁商人、町役、村役、窯き等の日本人も係わる。 
 
渡来した浪々の窯ぐれ仲間は九州各地へそれぞれ住み着いた。噂に聞けば薩摩などへ移住した仲間はクニの風を守っているという。だがこの皿山は他の土地とだいぶ違うのだ。良質の陶石を見つけて磁器の窯を起こして以来、黒川藩抱えになって藩政を支える窯産地となってからは渡来人だけで閉塞して暮らすわけにはいかない。皿山の磁器作りは多種の職人と多大な人間の手を要する大きな歯車だった。
 
皿山の渡来仲間には二つの試練があったのだ。一つは陶磁技術の精進。もう一つは日本人に溶け込むこと。だから故十兵衛と百婆夫婦も内にあっては移住当時の七百数十人の仲間の結束と同時に、黒川藩や皿山商人との渉外にも地道な付き合いを固めていった。新しく生れた赤絵磁器の繁盛と共に、十蔵らの代はいよいよそれが必要になるのである。
 
 
十兵衛の死は三代家光が没し四代家綱の代になったばかりの時とあるから1650年代初めのことである。赤絵創生は1647年頃と伝えられている。
 
皿山で白磁鉱が発見されたとき、団六の父は筑紫から移住して陶業を始めた。しかし寛永14年(1637)藩が日本陶工を所払い、団六は父と築いたたばかりの窯を打ち壊して八百人の日本人陶工と住みなれた土地を去った。団六は筑紫山中で窯の焼成の技を磨き、七年後、磁器造りにより藩財政が潤ったため日本人陶工の帰還許可が出て皿山に帰る。団六は三年後戸波津に来た清国人の赤絵付の伝聞を元に赤絵磁器焼成に成功した。
 
皿山の発展は初期の渡来陶工の労苦の上に、日本人陶工の研磨が加わって成ったものだ。団六はともすれば[渡来人の窯]龍窯や七山、河原山窯の者達が、日本人陶工のことを遅れてきた者を見るような目つきをするのが歯がゆい。もしも赤絵が出現しなかったら、そしてあのすべすべした濁し手の白い地肌がなかったら、皿山の今日はないと思う。
 
日本人の陶工も加わりロクロの技術が発展し、明の器のように薄い胎に華やかで多様な文様が施されるようになる。赤絵磁器は東インド会社によりヨーロッパへ、北前船で京都、江戸、東北まで売られていく。団六は皿山の輸出用赤絵磁器を一手に引き受けている赤絵師だ。
皿山では「葬儀を取りおこなう者つまり町役の晴れ舞台でもある。死せる過去の功労者と、生きている現在の功労者とが、共に華やぐまたとない舞台に、一人百婆という年寄りがことごとに不服を言い立てる」ことで、団六は百婆に腹を立てる。
「朝鮮風に葬らないと十兵衛たち渡来人がこの地に窯を作った証も消えてしまう」と百婆は主張する。
 
日本の葬儀は通夜、葬式、火葬を行い初七日に精進落としを行う。
一方朝鮮では3年は忌み明けしない。祈り、死んだ者の魂を呼び返す慟哭をする。喉を振り絞るような声、胸をたたき手を上げ足を踏み鳴らし号泣する。哭踊は日本の読経と同じ死者を成仏させる力を持つ。元結を切りザンバラにし粗末な黄麻(粗麻)の喪服を着る。親を失った男は100日間粥だけで過ごす。
 
朝鮮では亡骸を灰にすると無になる、「正しく葬られれば家を守る神となり、永遠に生き一族一門に果福をもたらす」と信じられている。百婆は夫の亡骸は火葬を行わず、朝鮮の言葉ので送り、朝鮮人の墓に葬ろうと仲間を策するが、息子は日本式に遺体をいてしまう。
 
精進落としの夜、百婆は一人細工場で夫成徹の墓に入れる碗を 作って いる。
「あの男の大きな手に握りしめられるくらいの、しこたま持ち重りのする磁器には不似合いな白磁碗」、「卵の殻みてえな今どきの薄手白磁碗」ではなく、「おれだちが渡来して初めて焼いたときの、石のようにずっしりした器」。
龍窯の窯焚き伊十が来た。百婆は渡来以来の仲間に自分より長生きして、自分の遺体は焼かせないようにしてくれと頼む。
 
「おれが死んだら朝鮮墓に埋めるんや。そしたら成徹に代わって、俺が龍窯を守る」
 
*****
 
辛島十兵衛の死から5年、百婆は台風の夜、大風に舞う赤松の薪に頭を直撃され命を落とした。享年八十歳。大雨が続き薪は水浸しになり、火葬の薪も調達できず、百婆は土葬され、願い通り子々孫々まで一族を守る神になった。渡来陶工たちが、皿山に窯をひらいて半世紀。 『百年佳約』は死んで神となり、一族の繁栄を願い孫の世代の結婚の手助けをする龍窯の母、百婆の奮闘をえがく。タイトルの「百年佳約」は結婚成就のこと。百婆は透き通った姿で皿山をめぐり現世と交流するが、仏式で火葬された夫や渡来仲間には霊が宿るものがなく消えてしまい、再会できない。
 
長男十蔵は、皿山で生き、窯を繁栄させるためには、渡来人の血や伝統に拘らず日本人との結婚での同化が不可欠と考え、一族の子供たちの縁談に奔走する。子供達世代は親の思わくどおりには動かず、もがきながら自分たちの意志を通し未来を切り開いていく。  
十蔵は百婆の四十五日の法要後の宴の席で早、娘フクと姪カチの婿探しを始める。「娘は皿山を動かす日本人の窯焼きにやる」との決意のもと、娘たちに料理を運ばせお披露目し、集まった若者の品定めをする。大窯主の法事に藩の役人、町庄屋、問屋、窯焼き、その子供たち等二百人の客が集まった。当時の皿山人口は三千二百、内二千人弱が渡来人であった。
親の法事は死者の功をたたえ同時に、息子の顔を売る場でもある。十蔵は宴の料理の味付けに醤油を取り寄せた。醤油は江戸、京都のみで使われる贅沢品で、代価は赤絵の膾皿五十枚分であったという。
故国朝鮮では娘は結婚するまで隠しておく。「谷間の小さな花のように育てよ」と百婆は言った。一方夜這い、娘攫いの習慣もある日本、結婚観も大きく違う。
十蔵の長男は村の庄屋の娘と結ばれる。母方が藩の陶石取締方だ。 姪カチは妻の父の窯の有望な日本人窯焚きを婿に迎える。皿山に赤絵を導入した「手柄者で飛ぶ鳥落とす勢い」の吉田団六の長男は焼物問屋の娘と結婚した。血が混ざり、同化していく。
 
正月、渡来人は町に出、綱引きや板飛びに興じる。日本人も参加する正月馬に乗りフクとカチは町を一周する。馬に乗ったフクを清二郎は町のはずれで待ち伏せし、心の内を話し求婚する。十蔵と母コシホは、日本人の窯焚きとの婚約を決めていたので、清二郎の強引なやり方に腹を立てるが、清二郎の気持ちを理解したフクは、清二郎と結婚したいという。 母に問い詰められたフクは二人の話を報告する。
 
「悪さはしなかったか!」
「しねえとも。小屋の入口に腰掛けて、清二郎が袂から干し柿を出した。それから去年のことを恥ずかしそうに謝ったど。昔から皿山の娘攫いはあんなもので、特別乱暴をする気はなかったと言うんや。それでおれだちは干し柿を食べながら、ぽつりぽつりしゃべったんや」
「それであの男とどんな話をした」
「赤絵の話や」
「赤絵?」
とコシホが妙な顔をすると、フクの目はきらきら光って、
「おっ母さん。うちの窯は染め付けばっかりやけど、清二郎の所の赤絵も本当にうつくしいど。清二郎がな、おめえは絵を描くかと聞くので、大好きやと言うたら、嫁にきて一緒に赤絵を描いてくれねえかと言うんや」
娘攫いめ。コシホは腹が煮え始めた。
「馬鹿たれ。それは赤絵の話ではねえ。おめえを奪おうとしているんや」
「でも清二郎は何もしてねえよ。嫁にこいと言うただけや」
「それがひとの家の娘を盗むこでねえか!」
「清二郎はな、赤絵屋の嫁には普通の娘をもらうわけにはいかぬと言うていた。おめえは絵描きは嫌いかと聞くので、好きというただけや。染め付は赤絵と違うて線書きだけで色は塗らぬが、花や鳥の絵を描いていると半日経つのも忘れると言うた」
娘を拐かして連れ込んだ水車小屋の密会らしからぬ話題である。
「清二郎はもじもじしながら、懐から小さい皿を一枚出して、黙っておれに差し出した」
「皿を?」
「おれのために焼いたと言うんや。白磁豆皿の裏をひっくり返すと、フク、清二郎と文字が書いてあった……」
コシホは溜息をついた。小娘は他愛ないものである。そうやってまんまと清二郎の手に乗せられてしまった。
 
神になった百婆は以前清二郎の仕事ぶりを眺めにいったことがある。  
 
清二郎は大鉢に花鳥文を描いていた。白磁の白をたっぷり残した地肌に、鷹と牡丹の構図が見事である。余白の取り方一つで絵描きの技量がまざまざとわかる。左下に大きな牡丹の花一つ、その対角線上に鷹が首を曲げたポーズで松の木に止まっていた。
……清二郎は団六の手ほどきを受け、若者と思えぬ端麗な筆使いで鷹の羽の毛筋一本一本まで描きこんでいく。
この暴れ者の小僧が。
清二郎の無骨な手が生み出す花鳥文に、百婆は見とれるうち、ふと気持ちが緩みかけた。職人は技で語る。暴者でも、ならず者でも、最後は腕が人となりを語るのだ。言葉のいらない妙な世界である。
 
「ちちうえさま。ゆうことをきかねむすめは、どうぞかんどうしてくだされ。フク」フクは書置きを残し家を出て、清二郎の家に身をよせる。
十蔵は巫女と芝居を打って、百婆に二人の結婚を命じられた形で許す。百婆は十蔵の本心は「染付の窯と赤絵の窯が親類になれば皿山一の窯業を営める」と、二人の結婚を狙っているとみる。現実の商売、龍窯の繁栄であり、窯一筋の団六にとってもこの結婚は願うものなのだ。
十蔵は、父の決めた縁談を拒み、村の娘と結婚を望む次男小吉と言い争っている。「結婚は家がする。おまえだちはそのただの駒や」と十蔵。 小吉は「そんなことないわい。結婚はわしがするんや、、、生きるのも、死んでいくのもこのわし、、、」、「クソ親父、……もう二度と帰ってやらねえからな」と言い家を飛び出す。
 
葬儀を舞台に皿山で二つの文化がぶつかり、同時に融合が始まる。渡来陶工の子の世代、孫の世代の結婚でも、朝鮮と日本、二つの民族の血が混ざり、融合はより自然な、強いものになり家の繁栄、皿山の繁栄へつながる。
清二郎とフクの結婚は民族の文化、美意識の統合で生まれた有田焼の成り立ちに重なる。                           
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百婆のモデルとなった百婆仙の墓は有田町稗古場の報恩寺に祀られている。報恩寺の裏には観音山とよばれる小高い巌があり、台地となっている頂上には「金ヶ江・深海 祖霊」の碑(写真)が朝鮮半島を背に建つ。渡来陶工達は海峡の向こうの故郷朝鮮半島に向く形でこの碑を拝み、故国を偲んだ。『龍秘御天歌』で語られる高麗山の山登りやブランコ遊び、節句の祝宴のように、人々は折々観音山に集った。山登りの習慣は今も続く。 
 
歴史小説、時代小説の史実とフィクションの関係は度々論争のタネになる。村田喜代子は「いつも小説を書いて感ずるのは、何ほどかの取材と調査で作り話を書く恐ろしさだ。それが史実と現実の大切な何かに傷をつけてはならないという思いで、いつも架空の土地と人物を作って仕上げる」、実名は使わない原則を貫くことにより「より自由に描け、それゆえ、真実を描けている様に思える」と言う。北九州で生まれ、今も「渡来陶工の足跡を身近に感じる」福岡市に住む。
 
『龍秘御天歌』は秋田県仙北市にホームベースをおくわらび座により「百婆」と言うタイトルでミュ-ジカル化された。日韓友情年記念の2005年、日本全国で公演された。
 
百婆仙の来日前の朝鮮での前半生を描く「火の女神ジョンイ」 (韓国MBC 2013、日本語字幕版全32回)が、アジアドラマチックTVSo-netで 1月14日(水)(毎週月~金、10:00-11:30)より放映。再放送は 119日(月)(毎週月~金、23:30-1:00)より。ケーブルテレビ、デジタル衛星放送で視聴できる。 出演はムン・グニョン、イ・サンユン他。「火の女神ジョンイ」オフィシャルサイト〈hinomegami-j.net/〉で予告編を見ることができる。
 
                 *****
 

龍秘御天歌』 村田喜代子文芸春秋 1998、初出「文学界」19982月号)

『百年佳約』村田喜代子 (講談社 2004、初出:東京新聞中日新聞西日本新聞北海道新聞 2003 16日-1018日、河北新報 2003 1月6日-1020日、神戸新聞 2003 1月24日-1028日、各紙 夕刊、単行本化にあたり加筆修正)
「火の女神ジョンイ」 韓国MBC 2013 DVD-BOX 第一章 (発売218日)、第二章(発売318日)、最終章(発売318日)(ノーカット完全版、日本語字幕版収録)
『慈雲山 報恩寺沿革史』報恩寺東堂加藤元章 (報恩寺 2012

江戸市中の「有田」 (2)

 山本一力の「蒼龍」は磁器の絵付けの図案コンテストに挑戦する江戸・深川冬木の大工弦太郎を描く。
 
 「新年初荷売出しの、茶碗・湯飲み。対の新柄求む。色遣い四ツまで。白無地焼物に描くに限る。但し焼物、寸法とも品には限りなし。礼金五両、ほかに一対焼くごとに、金二文。期限は本年八月一日。九月十五日、端選抜き(十五名)張出し。十一月一日、終選抜き(若干名) 張出し。売出し、新年二日」
 
 弦太郎は博打の失敗と身内の不始末の肩代わりで借金五十両を背負い、苦しい生活をしていた。絵心があり、図面や仕上がり絵図を描くのが得意な弦太郎は日本橋の瀬戸物屋岩間屋の茶碗・湯飲みの新柄公募の張り紙をみて、借金返済のためにと応募することにする。弦太郎は「一対焼くごとに、金二文」、作品が採用され、十万対焼いたら五十両返せると計算する。岩間屋は大店で、常陸国笠間の奥に自前の窯を持ち、ここで焼いた物を全国に卸している。
 弦太郎は初挑戦で、終選抜きまで残ったが初荷の器の絵柄には選らばれず、翌年、翌々年と応募を続ける。
 最終審査までいった一年目はカラスが雛に餌を与えている絵を描いた。 雛を襲う猫を果敢に追い払う親烏の愛情に心打たれ、感動を絵にした。 大工の道具の墨で鳥の姿を描いたが、くちばしを描く絵具を買えない。女房のおしのは赤い布で貼ったらと助言する。
 
 「そんなカラスがいるわけねえだろうに」
 「でも、、、、、、いる、いないじゃなくて、柄の見ばえがだいじでしょう?」
 「……」
 「墨に赤だと、焼き上がったとき映えるとおもうけど」
 
 二年目の作品は前年終選抜きまでいった柄の画料で買った群青の絵具で童を描いたが、終選抜きには残らなかった。 義兄が借金を作った廻船問屋の番頭孝蔵も玄太郎の才能を認め、挑戦を応援した。
 
 「カラスの柄には借金を返すために死に物狂いだという気合がこもってただろうよ。ところが今度のは、巧くなった分だけやわになった。きついこと言えば、素人が半ちくに黒がってるようなもんだ」
 
 「岩間屋が求めているのは、一品物じゃない。…… 数多く焼ける物を選んで、売れるだけ売ろうという腹積りだろう。」
 「選り抜いた柄を元絵にして、窯場の職人が総掛りでおなじものを手早く描くわけだ。そうだとしたら、余り込み入った柄はよした方がいい。カラスが残ったわけのひとつは、描きやすかったということがあったかも知れない。」
 
 弦太郎は度目の挑戦で龍を描いた。嵐でうねる川に立ちあがる波頭の群れを見て、龍を思い薄めの藍で描いた。
 弦太郎は借金を返すために始めたのだが、絵に打ち込んでいるうちに描くのが嬉しく、描きたい気持ちが強くなる。弦太郎の心境は絵付師はじめ物造りに携わる者の共有するものではないか。焼物の柄とは、良い絵付けとは、どういう絵付けが望まれるか、商売になるかなど登場人物に語らせる。
 
 いまのいままで、どうしてこんなにツキがねえんだって不貞腐れてたが、そうじゃねえ。描きたい絵が描けて、親方やら孝蔵さんやらに恵まれて、しっかり女房に病気ひとつしねえこどもがいて、きっちりおまんま食えて。みんな嬉しそうに笑ってらあ……。
重てえ気分が、すっきり消えた。
肝心なところで、おれはきっちりツキがあるじゃねえか。
 
 物語は、三回目の挑戦の若干名を選ぶ終選抜きの結果を知る前で終わる。
 弦太郎は、事業の失敗で約二億円の借金を背負い、普通に働いていたのでは到底返しきれない額を、作家になり、ベストセラーを書いて返済しようとする山本自身と重なる。山本は当時、小説雑誌の新人賞に何度も投稿し、あと一歩のところで賞を逃していたという。「蒼龍」は「開き直って一気に書き進めた」、又「読み返して見て、真っ向勝負の意気込みを感じた」と振り返る。
 「蒼龍」は平成九年(1997)の第七十七回オール読物新人賞を受賞した。
 
                 *****
 
「蒼龍」山本一力 (初出「オール読物」19975月号、『蒼龍』 文芸春秋 2002、文春文庫『蒼龍』 文芸春秋 2005
 

江戸市中の「有田」 (1)


 1616年に朝鮮陶工李参平が肥前有田(佐賀県)の泉山で良質の磁石鉱を発見して以来、有田、秘境大川内山に藩窯が置かれた伊万里は窯業の中心地となり、色絵磁器の優品を作ってきた。伊万里の港から積み出されたことから、この地方で作られた焼物全般は伊万里焼きと呼ばれた。海外文化にも影響を及ぼした伊万里焼、豊かな歴史を持つ有田、伊万里の窯業、そこに働く陶工の人生は多様なテーマで文学に描かれる。

  山本一力の江戸を舞台に、武士や商人、職人など様々な階層の人々の人生の断面を描く時代小説の中に有田焼にまつわる作品がある。輸出磁器として台頭した有田焼だが、国内でも赤絵は高級食器として人気が高く料亭などで使われた。高価な有田焼は金儲けをたくらむ者により時に不正に利用された。
山本の最新作『紅けむり』は有田と江戸を舞台に、幕府禁制の火薬、塩硝(焔硝)を密造する一味と隠密の戦いを描く。 塩硝が有田で密造され、江戸に運び込まれようとしているという噂に、隠密が放たれる。塩硝は密造が明らかになれば藩取り潰しにもなる。有田皿山の薪炭屋の若店主は隠密の密造団捕縛に協力する。
 
 物語は寛政八年(1796)元旦、初詣で賑わう有田皿山の陶山神社から始まる。前年、有田焼 (山本は「海外では、積み出し湊の名にちなみ、伊万里焼と呼ばれた」と注を付ける。江戸でも伊万里焼と呼ばれることが多い)の輸出を一手に担ってきたオランダ東インド会社が閉鎖され、不安な気持ちで冬をむかえた皿山の人々に、師走に江戸から吉報が届いた。
 
「来年春までに手代三名を同道のうえ、仕入れ商談に伺いたく存じます。 江戸日本橋駿河町 伊万里屋五郎兵衛」
 
飛脚便を受け取ったのは伊万里湊の焼物問屋、東島屋伊兵衛。長崎の中国人から伝授された赤絵の技法を初代酒井田柿右衛門に伝えた東島徳左衛門の血筋のものだ。大きな商談に違いないとみた伊兵衛は有田の出店に伝え、皿山の人々を喜ばせた。
江戸から来る大きな商売に期待を膨らませ、焼物景気が盛り返すよう祈願する人々が陶祖を奉る陶山神社に詣で、町に繰り出した。皿山の薪炭屋山城屋では窯焼きから大量の注文が入り、元旦から薪割りを始めている。
 
江戸・日本橋駿河町、市中一番の呉服屋越後屋のある本通りから一本裏の通りに伊万里屋がある。 伊万里焼(有田焼)の大問屋で、初代五郎兵衛は伊万里から江戸に出て1661年焼物問屋を創業した。創業は越後屋より一回り古く、当主も奉公人も伊万里屋が駿河町の元祖と自負し、越後屋のある本通りは裏だと思っている。六十名余りの奉公人を使い、五十畳の売り場座敷で商談を行っている。
正月の皿配り、商品の初納めは老舗大店にふさわしく華やかで人目をひき、伊万里焼の人気とブランド力が伺える。
正月八日、伊万里 屋には千人近い女房の群れが駆け付けている。皿配りが始まるのだ。前年寛政元年(17899月、旗本、御家人の借金棒引き命令の棄損令が出て、札差は大きな損失を出し、その影響で江戸は不景気に落ち、重い空気が流れていた。そんな中、伊万里屋は料亭が注文を取り消して余った200枚の小皿を縁起担ぎにと振る舞った。皿配りは恒例行事になり、多くの女が押しかける。
 
「江戸では名の通った焼物がもてはやされ、とりわけ伊万里焼は特有の赤絵が上客に好まれている。評判が高まるにつれ、伊万里焼の値もうなぎのぼりだ」
 
 小皿は、料亭へは一枚三百文で納める段取りだった。おなじ大きさで、江戸に近い笠間の皿なら一枚二十文だ。伊万里焼の値打ちはその十五倍ほどになる。
 正月十日に伊万里屋は得意先の料亭、本郷菊坂の花ぶさに初納めをする。大皿十枚を含め新しい伊万里焼、二百三十七両分を荷車三台に載せ運んだ。雪の中、伊万里屋の組頭と手代は揃いの濃紺の綿入れ半纏に深紅の襟巻きをし、道中笠をかぶり、車引きに同行する。
花ぶさに向かう途中、伊万里屋の組頭の誠吉が不審な事故で足を骨折する大怪我を負った。
 伊万里屋五郎兵衛はこの事件と噂に聞く伊万里焼の偽物造り一味の関わりを疑う。一味は伊万里屋主人と手代が有田に仕入れに行くのを阻止しようと同行予定の番頭に重い怪我を負わせたのではないか。五郎兵衛は頭取番頭四之助に語る。
 
 「焼継屋が、裏で大層な繁盛ぶりだというのは、おまえも知っているだろう」
 「存じております。傷物の伊万里焼を、法外な高値で売りさばいていると聞き及んでおります」
 「連中は焼継品のみならず、まがいものをも裏の伝手で流しているそうだ。七日の寄合で、それを耳打ちされた」
 
五郎兵衛に耳打ちしたのは焼物屋の越前屋で、出入りの土問屋の手代が旅先のいくつもの旅籠で「微妙に様子のおかしい赤絵」の器に気付いた。旅籠の女中は「ここいらに泊る客は、伊万里焼というだけで目を丸くするでよ。偽物でも安けりゃあ、うちらは重宝するがね」と言い、伊万里焼の偽物を使っていることを認める。 賭場を仕切る六蔵が、伊万里湊の蔵番と伊万里屋の手代を唆し手に入れた物を関東の国々で売りさばいている。
 
有田では、見慣れぬ黒装束の武家集団の姿が目撃されていた。幕府御庭番吉岡甚兵衛他四名の隠密が塩硝密造の諜報活動を行っているのだ。
 
伊万里周辺には塩 硝(爆薬)の密造一味が潜んでおる。密造された塩硝の多くは江戸に運び出されておる」
 
隠密のリーダー吉岡は、爆薬の塩硝が邪心のある者の手に渡れば戦国の世に逆戻りしてしまうので、塩硝の道を根元から断つべく江戸に向かうと言い、江戸に通じている山城屋健太郎に協力を求める。山城屋の跡取り健太郎は、薪造りの新しい技法を学ぶため五年間江戸で過ごし、江戸の女と結婚した。健太郎は「今の世の安泰を保つために身を挺して働いている」と言う吉岡の意気に感じ、藩の安泰のため協力を決断する。
 塩硝は焼物に紛れこませ梱包され伊万里港に運ばれている時、隠密の犬が嗅ぎつけた。密造団一味は塩硝を爆発させ逃走をはかったが、隠密の襲撃で一掃された。江戸での塩硝の受け取りの実態を把握するため、伊万里焼の回漕船に扮した隠密船が江戸へと向かう。この船に健太郎、妻、女中も乗り込んだ。江戸入港目前、不用意な事故により塩硝は破裂。受け取る側も命を落とした。伊万里焼の偽物造りにも関わるこの一味はその後内輪もめで自滅した。
伊万里屋が火薬の買い付を企てたという顛末で事件を終わらせようとした、江戸御蔵の御庭番頭領は健太郎等の共犯を疑い拷問にかけた。健太郎は自分の命のみでなく妻と使用人の命をも失う覚悟で伊万里屋の無実を主張し、事実を曲げなかった。真実を見抜いた若い御庭番が御庭頭領を納得させ健太郎の無実、伊万里屋の無実が明らかになった。
 
皿山では目出度いことがあると、登り窯からさくら色の煙を立ち昇らせる。これを紅けむりという。三月初め、山城屋の窯から紅けむりが立ちのぼり続けている。「伊万里屋が大量買い付けに出向いてくる」、「山城屋の健太郎も同じ船で戻ってくる」。噂が知れ渡り、皿山に活気が戻ってきた。
 
 公儀御法度の爆薬密造団の捕縛がテーマである長編小説で、有田が浮き彫りにされている。有田焼色絵の人気、金儲けの対象となる高価な有田焼、焼物問屋の繁栄などに、江戸市中で「有田」が確固とした存在感を放っている様子が描きだされる。有田、伊万里で暮らす人々、江戸で暮らす肥前出身の人物も登場し、其々個性的な役割をもち、交わり、又対峙して幅と深みを与えて、普遍性を持つ物語となっている。
  
山本は皿山の人々の生き方、その矜持を「ひとこそが財なり」という言葉で説明する。
 
皿山は焼物の町である。窯焼から絵付けまで、その分野の技量に秀でた職人が数多く暮らしていた。
住民の数はさほど多いわけではない。しかし職人はだれもが、余人をもって替えがたい技量を有していた。
ひとこそが財なり。
皿山の住人はこの言葉を胸に抱き、老若男女を問わず、だれもが強くて大きな矜持を持って生きていた。 
 
い拷門を受け大怪我を負った薪炭屋野屋の息子の治療に当たった町の名大川総徳、山城屋の健太、塩硝の密航をる野屋松右衛門等、皿山人が描かれ
 
*****
 
高価な美術品があれば、金儲けを企む者が現れ贋作が作られ、偽物が出回る。有田焼もこれらの悪事から逃れられない。
 山本一力の「損料屋喜八郎始末控え」シリーズは江戸を舞台に難事件を解決する元北町奉行同心喜八郎の活躍を描く。喜八郎は損料屋に身をやつして、奉行与力秋山の補佐をする。「赤絵の桜」とその前篇ともいえる「寒ざらし」(文庫判では「ほぐし窯」と改題)で喜八郎は有田焼の偽物で大儲けを企てる一味と対決する。 
 寛政元年(1789)に旗本、御家人等が札差に負った借金の棒引き令である棄損令が出され、札差は多額の債権を失い、江戸中不景気風が吹き荒れる。そんな時代に、江戸北東の郊外、田畑が広がる押上村に大規模な窯風呂ができた。寛政三年(1791)二月のことだ。
「寒ざらし」では喜八郎が江戸郊外の押上村に出来た窯風呂の正体を暴き対決する。
八部屋の窯風呂は小山の斜面に沿って登窯の様な造りになっている。ほぐし窯と称するこの窯に不審を抱いた喜八郎は配下の調べで、一番上の八番目の窯は柵で囲われ、下の窯とは違う上等な薪を使っていることや、有田、伊万里とその周辺出身の焼物に係わる者が出資していることを突き止めた
 
 「目つきのきつい窯焚き」[]
 「火加減を見ながら、薪をくべ続けてやした。ほかの窯焚きと違って、ここだけは形の揃った薪です。くべたあとも、いっときも火から目を離さねえんで」
 
配下の者は報告した。山積みになった薪は、値の張る赤松で強い火力が必要な磁器窯で使われるものだ。
 窯風呂を作った薪炭屋鋏屋森之助は三代目で初代が肥前国から江戸に出て店を開き百六十年になる。五代目青山清十郎の先祖初代は有田生まれで磁器の目利きを身に付け、野心を抱き江戸に出て焼物吟見方同心職で召し抱えられた。三代目の時代に幕府は御殿焼物師を城中に抱えたので、青山家の焼き物吟味の御用は無くなっている。鋏屋と青山家の交流は代々続いている。前年本郷に焼継屋を開いた有田屋吉右衛門肥前出身だ。
札差である米屋政八はこの窯風呂に出資する青山清十郎に三千両を用立てた。
喜八郎は一番上の窯を焼物の窯にして傷物の伊万里焼を焼き直し、箱書を偽造して正価で売る企みが隠されているとみた。 赤絵を用いた高級な有田焼(伊万里焼)は鍋島藩の重要な収入源なので、技法が他国に流出しないように、轆轤引き、絵付け師、窯焚きと完全な分業制で職人一人では作れないが、窯があり職人がいれば、修善できる。
 
 「鋏屋たちが狙っているのは、傷んで値打ちをなくした焼物を集めて焼継しあたかも新品のように売りさばくことです。有田屋が『ほぐし窯』の隠し窯で焼継した焼物に、青山清十郎が箱書すれば、伊万里焼として通用します」
 
喜八郎は磁器などの献上で幕府に味方の多い鍋島藩も絡んでいるので、表沙汰になると奉行与力では収拾できなくなるので、発覚する前に止めるよう米谷政八に掛け合わせることにした。発覚すれば、融通した三千両も帰ってこないし、縄に打たれる羽目になると言われ、政八は引き受ける気になった。
 
「赤絵の桜」は三代目酒井田柿右衛門と箱書のある皿をめぐる物語だ。
 深川の小料理屋、纏屋の主人富蔵は、ほぐし窯が開業した二月の晦日、堀にかかる橋の上から男が包を投げ捨てるのを目撃した。追って捉えると、練り足職人(空気を抜くため陶土を足で踏み込む職人)の長太郎だった。長太郎が持っていたもう一方の木箱には桜の花弁が描かれている皿が入っていた。ほぐし窯で湯女をしているつれあいが窯風呂から褒美にもらったものだと言う。
ふたの裏には『三代目酒井田柿右衛門』と箱書がある。富蔵の店を訪れた札差の伊勢屋四郎左衛門は皿の裏の銘を見てから、形や絵付けを詳しく見定めて、「三代目柿右衛門は、万治三年(1660)年ころからが盛りでした。箱書によれば、この絵皿は三代目柿右衛門の仕事ということになりますが、……」真っ赤な偽物と断言した。ほぐし窯で偽物造りは続けられている。
 三代目柿右衛門の時代は、濁手素地の柿右衛門様式が確立した頃で、作品に銘はない。焼き物に通じている伊勢屋は皿の裏に濁手が途絶えた数代後から使った渦福あるいは他の銘を見たのだろうか。既に江戸時代から、破格の初期柿右衛門作品の偽物を造り金儲けをたくらむ者が横行した。
 
 「箱書きされた焼物なら相当の目利きでない限りは本物だと鵜呑みにします。たとえ焼継された絵皿であっても、それが三代目柿右衛門の作であれば、途方もない高値で売りさばけるでしょう」
 
ほぐし窯が築かれた押上村の地に、今はスカイツリーが立つ。
 
              *****
 
『紅けむり』山本一力 (双葉社 2014、初出「小説推理」2004年2月号―2013 6月号)
「赤絵の桜」 山本一力(初出:「オール読物」20046月号、『赤絵の桜』文芸春秋 2005、文春文庫『赤絵の桜』 文芸春秋 2008
「寒ざらし」 山本一力 文庫判では「ほぐし窯」と改題 (初出:「オール読物」20042月号、 『赤絵の桜』文芸春秋 2005、文春文庫『赤絵の桜』 文芸春秋 2008

「美とはなんだろう?」

  2000年八月から翌年六月まで朝日新聞の朝刊に連載された村田喜代子の『人を見たら蛙に化れ』は北九州の田舎町で開かれる市に集まる骨董を生業とする三組の男女の物語を北九州、山口、ヨーロッパを舞台に描く。村田はこの小説は「美とはなんだろう?」という謎によって生まれたという。贋物、キズ物、盗掘品まで入り混じり、「美が売り買い」される骨董の世界で、「美とは何だろう?」という謎を追う。
タイトルの『人を見たら蛙に化れ』は美術評論家で骨董品の目利きとして知られる青山二郎19011979)が、外出する時、大切なお宝に向かって言った言葉といわれる。お宝を他人には知られたくないので、蛙に化けてトボケていろという意味だ。村田は「あとがき」で、この通説と共に小林一茶の句「人来たら蛙となれよ冷し瓜」を紹介し、人間の物への占有欲と蛙の取り合わせが面白く、タイトルとしたと記す。
 
大分市から車で三十分ほどの国道沿いの小さな町、荒田で十一日の骨董市が開かれる。古唐津の壺、古伊万里や古九谷の皿、漆器、掛け軸、使われなかったデパートの進物食器、もろもろの古道具が出品される。五月の市の最後に、元禄人形が競りに掛けられた。
 
どうするか、一瞬、建吾は迷った。元禄人形には写し、つまりニセモノが多い。たが首こそ継いでいても、これは本物だ。現代から見ればぼってりした醜女顔だが、それも逆に魅力となっている。当時の鑑賞用陶磁器で、人形の美しい衣装が特徴である。
着物は薄黄の小袖で、金茶の波に赤い小花が散っている。その上に重ねた打ち掛けは、白地に雪輪と菊花模様。
 
 「元禄人形。安からいくぞ。二万!」と競り子の声で始まり、五万五千円まで値がついた時、久住高原で骨董店を営む馬爪建吾は、「六万」と大きな声をかけ元禄人形を競り落とした。
家に帰り、建吾は寝床の上でコップ酒を飲みながら、人形の包を開いた。
 
ガムテープを剥がし幾重にも巻いた新聞紙をひらくと、白いとろりとした地肌の人形の顔が出てくる。続いて立膝に座った女の全身が現れた。
 
汚れ布団の上に人形は建吾と向かいあっていた。灯火に鮮やかな衣装が水を浴びたように光る。江戸が生きている……。独り暮らしの乱雑な部屋に、そこだけ江戸の色絵磁器の光彩が取り巻いていた。
これが柿右衛門手か。
 
それから人形の首に目を落とす。膠で継いだ跡が首輪のように白い喉元を巻いていた。ポッキリと折れたようである。枕元に人形を置いて布団に腹這いになると、建吾はしばらくその顔を眺めていた。
女房と別れて三年になる。
ぼってりした顔立ちがどことなく似ているが、こちらには福々しさがあった。
 
骨董品は家に持って帰って見た時、正真の姿が見えるという。建吾にも人形は市で見たときよりも、はるかに優品に見えた。
江戸中期の大阪の俳人小西来山もその俳文「女人形記」に片膝を立て脇息に持たれた柿右衛門人形に魅了され、楽しむ様子を余すところなく記している。
柿右衛門手の元禄人形は完全な形なら一千万円はする。首が折れている致命的破損があるので六万円で落札できたのだ。
馬爪はこの人形を福岡市に住む医大の解剖学教授加納に四百万円で売った。骨董愛好家で、首のないはにわ、口が欠けた信楽の壺など集めている壊れ物マニアの教授は、人形を膝に抱き見惚れている。
 
「何という色気だ。完品よりも情をそそる……。傷という物は美しいよ、君。無残なぶんだけ哀れでいとおしい。首吊り心中の片割れみたいな風情じゃないか。凄艶だよ。」
 
建吾の別れた妻富子は北九州市でアクセサリーなどを扱うアンティークの店を持つ。西洋骨董に興味がある富子は建吾をヨーロッパ旅行に誘う。
十七世紀、柿右衛門の華やかな色絵磁器はヨーロッパの人々を魅了し、人形も数多く輸出された。ロンドンの高級古美術店で、完品の人形は千三百万円の高値がついているが、多くは首が折れたり、手が欠けたりしたキズ物で、売ることが出来ず個人の家の地下室に放ってあるという。
博多の洋物骨董商で、イギリス、イタリアに詳しい鮫島を案内に、建吾は富子と共にヨーロッパへ旅立った。建吾はこの旅で二体の柿右衛門手の人形を手に入れた。
イギリスを立ちローマに滞在中、鮫島から紹介されたオックスフォードに住むイギリス人婦人から建吾にダンボール箱が届いた。中から濁手の肌に切れ長の目がほほ笑む元禄人形が出てきた。首、胴体、右手の三つに割れている。同封の手紙には、「故国に帰りたがっている人形が見つかりました。近所の友達が自宅の屋根裏から探し出した物です。馬爪さんへよろしくとの伝言です」とあった。
もう一体はフィレンツェ中央駅の近くの骨董品屋で手に入れた。アジアの陶磁器に疎い店主は「日本製の聖母マリア像」と思いこんでいる。破損はなかったが右肩から腕にかけて六、七センチのひびが入っていた。七百リラ、日本円で約六十万円で買った。
 
 帰国後建吾は解剖学者加納を訪ねると、加納は「壊れたものには命がない」と柿右衛門人形の返品を申し出た。建吾は壊れたものにも命があるからこそ、金継ぎされた茶碗等が名宝として大切にされているのではないかと問う。
 
 「首折れは、死体と同じなんだ。いくら愛情を注ぎ込もうとしても、一緒に抱いて寝ても、命の失せた死体なんだ。虚ろな人形の体が僕の想いをはねつける。布団の中で人形はしんしんと冷えた、抱いているぼくの体までその冷たさに凍えていくんだ」
 
加納は学会で京都に行った折に、完品の元禄人形を見つけそれを買いたいと言う。母と二人で暮らすこの教授は、「人形が待っていると、家に帰るのが楽しい」とまで言っていたのだが、楽しみ料三割を引き二百八十万、無理なら二百万でいいといい、人形を強引に返してきた。
元禄人形を求めて行ったヨーロッパ旅行で金は使ってしまった。旅費や仕入れのための金を融通し一緒に旅をした富子は、旅が終わると建吾から離れていった。
 
­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­*****
 
馬爪建吾が荒田の骨董市で買った元禄人形はハタ師飛田直彦の荷から出たものだった。
ハタ師は店をもたず、旧家に眠る骨董や古道具を買い集めて全国の市に出し利鞘を稼ぐ。妻の李子は目利きのハタ師の父親の商売を見て育ち目を肥やした。
大宰府に住む二人は、店を閉めた老骨董屋からダンボール箱一杯の骨董を只同然のような値で買い取った。韓国人の女が持ち込んだもので、その中の古道具が包まれていた古い紙が李朝前期の民画とわかる。朝鮮半島の放浪の絵師が一宿一飯のお礼に描いた自己流で大らかな絵で、祭礼や年中行事に飾られ、古い物は高値がついていた。 
民画はダンボール箱から七枚出てきて、湯布院の老舗温泉旅館、久住高原の長湯温泉宿泊の若いカップル、京都の市等で売り約四百万円になった。湯布院の旅館は、主人自身用と民画に心を打たれ、寮の部屋に飾りたいと言う美術大学生の息子の勉強の為にと二点買った。息子はその場で、民画に倣って太い幹の枝に咲く大きな赤い花のある絵を描き、「好きだわ!」と、褒めた李子に贈った。
その後、李子は乳癌と診断され手術を受ける。術後のリハビリや抗ガン剤治療の副作用は辛いものだった。李子は病室で「骨董の功徳」を語る。
 
  「李朝の壺の雨の朝みたいな雲った白……。綺麗やなあ、と思うと胸が一杯になるわ。その幸せな気持ちをゴクッと呑みこむ。薬一粒より効くみたい。」
 
「良い物の有難味はね、それがもう客の手に渡ってしもうた物でも、思い出せばありありと目に浮かんでくることやわ。酒匂さんに売った李朝民画は良かったねえ。あの花の赤の迫力。途方もない構図。思い出しとると、胸が一杯になって震えてくるわ」
 
「しがない商売でも、何度か良い物に巡り合うてきたわ。それを一つずつ取り出して見るの。一つで薬一粒分。ううん、薬よりずっときく」

美しい物、良い物はそれを見たときの感動は消えない。飛田もこの感動が残り、蘇るからこそ、この商売を続けることができるのだと思う。
「美とは何だろう!」村田は李子に謎の答を語らせる。
李子の治療費はかさみ、切羽詰まった飛田は湯布院の旅館の息子の描いた絵を李朝民画と偽って売った。売り先が県内の温泉旅館だった為に発覚し、詐欺罪で逮捕された。夫が刑を務めているので、病後の李子は独りで仕事を始めている。
 
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「[佐賀]県内の古窯跡はもう三百ほども発見されとるが、わしはまだ出るとにらんどる。というのも隠れ窯だけでも、四、五十は埋もれとるはずじゃ」と、ベテラン掘り師の寺西は県内の窯跡に精通する。隠れ窯とは薪の松の伐採で山が禿げるのを防ぐ為、藩が窯数を厳しく統制していた時代、鑑札を持たない業者が密かに築いた窯で、史料に記述はない。
窯跡を発見すると、ダンボール箱に二、三十個分の陶片が出て、絵がらの好い物なら破片でも万の値がつくという。焼成に失敗した製品が捨てられる物原は埋蔵品が多く、潰れ窯の跡からは完品にちかい物も出る。軽い欠損品は金継ぎでよみがえり、名窯からの物は百万円にもなるという。
萬田鉄治は寺西の元で修業した掘り師で金継ぎに定評がある。下関で若い安美と暮らす。手に怪我を負った寺西に一緒に仕事をしようと誘われ、安美も加え三人で唐津、有田、萩と各地の窯跡を埋もれている古陶磁をもとめ掘り漁る。
有田町から八キロ程山に入った木暮の窯跡は、数年前林道の新設工事の途中で見つかり県の文化財に指定された。今は工事が行われている。調査発掘の始まる前に盗掘に合ったのだが、寺西はまだ埋もれた窯跡があるはずとにらんでいた。三人はここで初期伊万里の首の曲がった徳利、人気のある月兎文の皿や下がり唐草の茶碗等を掘りあてた。
寺西の地元古唐津最古の岸岳窯は肥前松浦の領主波多氏が秀吉の勘気に触れ、文禄二年(1593年)に断絶した為、一緒に潰れた。古い窯は十四世紀後半まで遡り、宋の青磁に似たものが出たという岸岳群窯の外れで、三人が窯壁等掘り当て始めた頃、見回りに見つかり怒鳴られた。
 
「そうやって掘り返した土は二度と戻らんとぞ。窯跡の土層ば破壊されっと、窯の構造も判定も出来んごなるぞ」
 
走るぞ、と寺西が言った。
盗掘がみつかったら逃げるしかない。現行犯しか逮捕できないので、逃げ切れば助かるのだ。
 
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文化財保護法の罰則はとても軽い。佐賀県文化財保護条例は「県重要文化財を損壊し、き棄し、又は隠匿した者は、一年以下の懲役若しくは禁錮又は二十万円以下の罰金若しくは科料に処する」(第四十六条 刑罰)と規定する。
 
有田町歴史民俗資料館の公式サイトに「窯跡の盗掘発生」の記事が載っている。今年(2014年)五月の西部地域の原明・小溝中窯跡、続いて九月に山辺田窯跡周辺の窯跡で盗掘があったのだ。相次ぐ盗掘に憤り、国民全体の宝を侵害する行為は犯罪であると警告している。
同館サイトのブログ「泉山日録」の有田町出土文化財管理センターを紹介する記事20121031日付け「はじめに」)に、学芸員の村上伸之氏は何百年もの歴史を堆積する地層から出た発掘品の重要な役割を解説する。
 
こうした出土資料類は、有田焼の歴史を研究する上で、極めて重要なことは言うまでもありません。たとえば、よく博物館や美術館などに展示されている有田の古陶磁に、何年代頃などと製作年代が示されています。そういう年代もほとんどはその展示品自体から判明するわけではなく、発掘品の研究がベースとなっているのです。
 
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窯跡の見回りは厳しく動けなくなり、萬田は有田で掘り出した初期伊万里の皿の金継ぎに専念した。 萬田は「在るべき所に継ぎが在るというような感じで、この器はこのように割れたのだ、欠けたのだと、受難の来歴が淡々と自然に残されている」、自然で美しい金繕いをする。
唐津を断念し萬田と安美は下関に帰り、金継ぎを続けた。萬田はこの頃から安美の行動に疑いを抱きはじめる。
安美を町から離したかったこともあり、今度は萬田が寺西を萩行きに誘った。
萩焼文禄・慶長の役の際朝鮮から連れてこられた陶工李勺光、敬兄弟が山口県萩に窯を築き始めた。今に続く坂高麗左衛門は弟敬の家系で、本家兄勺光の山村家は五代で絶えた。毛利藩の管理の下、中ノ倉で城用や寺用に高麗茶碗を思わせる優品を焼いていたが、山中に隠れ窯も存在した。
地元の窯跡探しの名人興梠の案内で、三人は中ノ倉の奥の隠れ窯の物原を掘りはじめる。五メートルの深さのすり鉢状の穴があいた頃、細かい破片に混ざって、形のある物が出始めた。 三日月高台で見込みに貝殻の痕など残る古萩の完品に近いものがどんどん出た。安美は興梠の息子と姿を消していた。
 
十月の荒田の市に萬田の姿はない。山口の同業者によると、萬田は萩の中ノ倉で盗掘現場を見回りの警官に発見され、警官に殴りかかって重傷を負わせ現行犯で逮捕された。寺西は顛末書で釈放された。
 
*****
 
『人が見たら蛙に化れ』 村田喜代子朝日新聞社 2001
「女人形記」小西来山 『睡余小録』下巻附録 河津吉迪 1807『日本随筆大成』第一期第六巻 吉川弘文館 1975
「泉山日録」 rekishi.town.arita.saga.jp/>(有田町歴史民俗資料館公式サイト)
 

 

 
 

「柿右衛門」原マスミ様式


 

江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌、美術などを紹介する。


 
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                                   柿右衛門  原マスミ            ©Masumi Hara
                                                          (By courtesy of Gallery House Maya)
 
2013年一月、原マスミは個展「カメレオン」に磁器をテーマにしたオイルパステルの新作「柿右衛門」、「古九谷」、「蛸唐草」を発表した。
 「柿右衛門」は片膝を立てた少女の肖像で身体全体に柿右衛門様式の古典文様が描かれている。 傘と軍配を持つ唐人風の人物が両腕に、その前膊には赤い紗綾形文、胸から腹部にかけて梅と鶯に竹、足には牡丹と鳳凰、岩山、松、飛雲、家の山水が余白をとって描かれている。頭部には丸い摘みの付いた蓋がある。原特有の大きな眼の少女は正面を向き真っ赤なペディキュアをしている。鮮やかな色彩の不思議な雰囲気を醸す絵だ。
 「蛸唐草」の少女は藍色の唐草に全身を覆われ、「古九谷」の少女はブルーの丸文、紺の菖蒲と菊が黄土色のボディに描かれ、椿の枝を持つ。少女達は焼き物の壺の精のようだ。「柿右衛門」の少女の肌は濁手を思わせる乳白色、「蛸唐草」の少女の肌は呉須の藍色文様に生える純白に近い。
東京・北青山のGallery House Mayaで開かれた個展で、この有田焼三様式の作品は並べて展示された。(「古九谷」の産地に関しては石川県説もある)
 
原マスミ1955年生まれ。1976年からシンガー・ソングライターとしてライブ活動を始めた。独特の声、現代詩のような歌詞、卓越したギター演奏でコアなファンを持つミュージシャンで、ナレータ―、俳優としても活動する。1980年代半ばより画家、イラストレーター、絵本作家として個性的な作品を発表する。よしもとばななの本の装画や挿し絵で広く知られる。眼の大きな少女の肖像を様々なテーマで描く、独特なスタイルを確立した。
2007年、目黒区美術館開館二十周年記念の展覧会「原マスミ大全集」の開催要項が原のアートの世界を紹介してる。
 
彼の絵画=イラストレ―ションは、造形的には、対象のフォルム等を簡略化し、濃密でありながら明快な色彩を用いるものが多いと言えるでしょう。そこに描く対象への素朴な思いやユーモアを伴った親しみある感情、時にシニカルな批評を織り交ぜつつ、明るい孤独感に満ちた思索的かつ夢幻的な明暗のコントラストの際立つ世界を作り上げでいます。彼のポップ・シュールな音楽世界と共通する魅力が其絵画世界も共有するものであることの一端は、彼のサウンドの熱烈なファンの多くが、同様に絵画にも魅せられることによって明かされでいるでしょう。
 
 原は三点の焼き物の作品を“突然変異”という。
作品の多くは少女のポートレートでテーマを背景や衣装、小道具、顔など身体の一部で表現していたが、焼き物の作品では少女の姿がテーマの表現となる。
原は“フェルメールの青”等、芸術家は独自の、その作品を特色づける色を持つが、「柿右衛門の赤」もその一つで、少女が足の親指の爪に塗ったエナメルで表現しているという。ぺディキュアをする女性の成す矩形のポーズで描かれる。
 
原は初代酒井田柿右衛門を“マッドサイエンティスト”だという。 
対談集『夢の4倍』(北冬書房 1996)に所収されている物理学者渡辺一衛との対談で、原は科学、特に物理への興味を語り、「科学者のエピソードとか、人間について書かれた本も好きです。そういう人たちってみんな、どこかマッドサイエンティスト的に個性的ですよね」といっている。
柿右衛門1640年代、日本で初めて磁器の赤絵付けに成功した。不可能と思われていた赤絵焼成技術の開発は困難を極め、生活も困窮に陥りながらも、遂に成功する。
その物語が語られる歌舞伎「名工柿右衛門」や、大正末から終戦の年まで使われた小学校の五年生用国語教材「陶工柿右衛門」(後に「柿の色」と改題、 国定国語教科書 第三期)からも研究に没頭し続ける奇人科学者像が窺える。
 
人は此の有様を見て、たはけとあざけり、気ちがひと罵ったが、少しもとんぢゃくしない。彼の頭の中にあるものは唯夕日を浴びた柿の色であった。(旧仮名使い、原文のまま)(「陶工柿右衛門」友納友次郎)
 
マッドサイエンティストは、フィクションではしばしば犯罪に手を染め、あるいは精神を病んだ悪役キャラクターの印象が強いが、不可能と思われる研究を執拗に続け、遂に完成させてしまう天才科学者で、しばしばまわりの見えない変人だ。赤を創生した初代柿右衛門はこのような人物であったのだろう。
偉大な進歩には、既成概念に捕らわれず、ひたすら求めるものに突き進み、時に過激、“マッド”であることは不可欠である。前衛やパンクと共有する精神を感じる。 
 
 
十四代酒井田柿右衛門JR九州の豪華寝台列車ななつ星の室内に洗面鉢、テーブルランプ、花瓶等自身の作品を提供した。人間国宝である柿右衛門は「列車に自分の磁器を乗せることにまるで躊躇している様子はなかった」と列車のデザイナー水戸岡鋭治は振り返る。柿右衛門は乗客をびっくりさせるような小物を置くのも面白いのではないかと、装飾品として陶板等と共に磁器の蜂の巣とボタンを制作した。かねてから十四代の“圧倒的なデザイン力”を感じていたと云う水戸岡はそんな柿右衛門に前衛性を見た。
 
 「この人は本来はアバンギャルドな人で、もっととんでもない前衛的なことに挑みたいと思っているけれど、何百年も続いた家を継ぐ宿命の中で生きているのではないか」と忖度している。(『「ななつ星」物語:めぐり逢う旅「豪華列車」誕生の秘話 』一志治夫 小学館 2014
 
襲名30周年を記念した新作「濁手松竹梅鳥文壺」発表の時、柿右衛門は「今までやったことがないような色や絵柄、形に取り組み、若者が驚く作品を作りたかった」と語っている。(佐賀新聞 2012
927日)
柿右衛門様式の幅は無限。これまでのファンが『えっ』と驚くような、今まで描いたことがない絵を描いてみたい」(西日本新聞 2012 927日)、「これまでとは違った作品に取り組み、見た人から『変わりましたね』、『どうしたんですか』といわれたい」等とも語っていた。(毎日新聞 2012 927日)
“革新の積み重ねが伝統をつくる”といわれている様に、現在十五代を当主とする柿右衛門家には初代以来、前衛のマッドサイエンティスト的、あるいはパンク的血が流れているのであろう。
Art Life Museum the Net<www.art-life.ne.jp/creator/artist_top.php?artist_id=C0084>のインタビューで、埴谷雄高稲垣足穂寺山修司、ダダ等から刺激を受け青春を過ごした事が最高の財産だと思うと語る原もこの血を共有するのではないか。
 「宇宙と自然の恵みが熟成した素材が美しさの要素となる」と語り続けた十四代柿右衛門、原の歌も時空を超え、月や星、大空や海を舞台に深まる。
 
『夢の4倍』の映画監督鈴木清順との対談で原は「シュ―レアリズムが好きそうですね」と問われて、「多感な年齢で出会い『こういうのしてもいいんだ』って嬉しくなりましたね」と振り返る。そして肖像を描くことについて語る
 
「シュールねたは、子供の頃からの空想癖のキャリアでいくらでも頭の中でこしらえられるんですけど、最近は人間そのものを描きたくなってきたんです。 、、、、人間そのものを描いてぼく自身その人物と出会ってみたいというのがありますね。」 
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・「柿右衛門」、「古九谷」、「蛸唐草」等、原マスミ作品の画像はGallery 
House Mayaのホームページ
http://www.gallery-h-maya.com/artists/haramasumi/に掲載されている。
・「人間の秘密~原マスミ公式ホームページ」は、<human.secret.jp/
・『こわくない夢 原マスミ作品集』  原マスミ(新潮社 2007)  2007目黒区美術館で開催された
原マスミ大全集」のカタログを兼ねた作品集
・対談集『夢の4倍』  原マスミ北冬書房 1996
J-Lyric.netj-lyric.net/artist/a04df37/で、原マスミの曲の歌詞を検索、閲覧できる。
原マスミ氏の自作オイルパステル画「柿右衛門」に関するコメントは、十月三日(2014)、東京・吉祥寺のStar Pine‘s Cafe での公演の後に頂いたものです。
 

長谷川路可の屏風絵「或る日の柿右衛門 」


江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌、美術などを紹介する。

 

 
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 日本画家長谷川路可は昭和五年(1930)四月、上野の東京府美術館で開かれた第十回新興大和絵会展に「或る日の柿右衛門」と題する六曲一双の屏風作品を出品した。
実をつけた柿の木を見つめる柿右衛門第四扇に大きく描かれ、足元には廃棄された大壺と皿が転がっている。壺の上にはカラスが羽をひろげ止まっている。背筋を伸ばして立つ柿右衛門の真横からの姿はがっしりとしていて、壮年のエネルギーを感じる。初代柿右衛門が赤絵付に成功したのが四十代後半と伝わるが、この画は丁度その少し前の、満足がいくまでには至らないが、成果が見え始め、赤絵創成に決意を新たにした若々しい姿を表わす。
上のモノクロ写真は「美之國」昭和五年五月号に掲載されたもので、現在のところ六曲一双の屏風作品は一隻、この画像でのみしか知ることが出来ない。
 
この画が発表された昭和五年というと、歌舞伎『名工柿右衛門』が大正元年1912)の初演以来好評を博し再演され、又大正十一年(1922)より小学五年生用の国語教科書に「陶工柿右衛門」、後に「柿の色」として教材となり、庭の柿の実の色を赤絵焼付けに再現しようと苦心惨憺の末成功する老境に入った陶工としての柿右衛門のイメージが広く定着していた。十一代片岡仁左衛門の演じた歌舞伎の柿右衛門、あるいは教科書の挿し絵に描かれた柿右衛門である。
路可の屏風絵の柿右衛門は、歌舞伎や教科書で描かれる柿右衛門とは少し異なる。
 
酒井田柿右衛門家に伝わる喜三右衛門(後の初代柿右衛門)著名の古文書「覚」(通称「赤絵初りの覚」)には初代柿右衛門1640年代、四十歳半ば過ぎに赤絵創成に成功し、長崎で赤絵製品を大名や唐人、オランダ人に売ったと書かれている。
鈴田由紀夫は『Fourteenth RED 十四代酒井田柿右衛門』の「赤絵の始まり」に歌舞伎劇や教科書の物語より『覚』ははるかに現実的と書く。
 
陶器商の東嶋徳左衛門が中国人から赤絵の技法を大金を払って習い、その試作、商品化を柿右衛門に依頼している。赤絵の焼成がなかなかうまくゆかない柿右衛門はごす(呉須)権兵衛という、恐らく陶磁器絵の具の専門家と考えられるが、彼の協力によって遂に実用化に成功した。決して一人だけでゼロから赤絵を創出したのではないのである。今日の産業界でもあるような商社が外国の技術を買い、国内の優秀なメ―カ―を使って新しい商品をつくろうとする構図に似ている。
 
「覚」には完成した赤絵磁器を長崎に持って行き、唐人所に宿をとり、加賀藩の御買物師に売ったとある。その後中国やオランダ人に売ったのも自分が最初であったと続く。
柿右衛門は金銀の焼付けにも成功する。藩主に製品を献上しお目見えの栄誉も受ける。その後中原町(現・みやき町)の商人が長崎に売りに行くようになったと記されている。
「覚」から、焼物の制作だけでなく、商品を開発し、窯を統率し、商売にも積極的な、国際感覚のある人物を想像できる。
長谷川路可の絵は、そんな柿右衛門を描いているように見える。
 
求龍堂から1989年に刊行された「長谷川路可画文集」にこの作品の図版は載っていない。路可の二女深谷百合子さんによると、刊行に際してこの作品の所在を確認できなかったそうだ。路可三十代初めの作品で、百合子さんはまだ誕生していない。
百合子さんは、父上路可はこの作品は力を注いだ作品なので、作品のこと、柿右衛門のことをよく話されていたという。佐賀県出身の実業家藤山雷太氏が所蔵されていた。
 
藤山雷太(18631938)は明治から昭和初期にかけて、王子製紙、大日本製糖(現大日本明治製糖)等多くの会社の経営に関わり再建に力を発揮する。長男愛一郎は外務大臣経済企画庁長官を務めた。
佐賀県西松浦郡二里町大里(現伊万里市)生まれ。この地域は有田郷と呼ばれた一帯で、藤山家は代々大庄屋で、雷太の母は有田の製陶家溝上仁右衛門家から嫁いだ。
中島浩気の『肥前陶磁史考』に、実業界で成功を収めた藤山雷太は明治の末年には西松浦郡出身の在京有志、松尾覚三(前代議士、勧業銀行理事)、森永太一郎(森永製菓創設者、生家は伊万里の陶磁器問屋)等と十一代柿右衛門を引立て後援したとあり、歌舞伎「名工柿右衛門」初演の折には、起立工商会社などで日本美術の海外紹介に努めた佐賀市出身の執行弘道の考案に成る大壺図案の引き幕を、主演の片岡仁左衛門へ贈ったとある。
藤山は故郷の偉人柿右衛門のフィクションのイメージとは別の史実に近い人物像を、支援する若い日本画家路可に伝えていたのであろう。
藤山雷太旧蔵のこの屏風作品は、親族によると現在藤山家には伝わっていない。
 
長谷川路可(1897-1967)は東京芸術大学日本画を学ぶ。卒業後、ヨーロッパに留学し、油絵、フレスコ画を学び、日本で最初のフレスコ壁画を東京カトリック喜多見教会に制作した(教会閉鎖のため、神奈川県大和市聖セシリア八角堂に移された)。ヨーロッパ留学中制作した、現地の博物館が所蔵する敦煌等、アジアの壁画の模写は東京国立博物館、母校に残る。1951年イタリア、チヴィタヴェッキアの日本聖殉教者教会に日本二十六聖人をテーマにしたフレスコ壁画を制作。此の作品制作により1960菊池寛賞受賞。長崎日本二十六聖人記念館のフレスコ画「長崎への道」「長崎の春」が遺作となる。カトリックの信者で、日本人をモチーフにした宗教画がよく知られるが、日本画家としての意識は強く作品も多い。  
解体された東京新宿区の旧国立競技場の正面に設置されていた白黒のモザイク壁画は、 路可の1964年の作品。相撲の元祖野見宿禰ギリシアの女神像で「美と力」表現する。
競技場の主な美術作品は2020東京オリンッピクを機に建設された新・国立競技場に移された。 路可の壁画は競技場の東エントランス左右に設置された。
 
長谷川路可の「或る日の柿右衛門」は柿右衛門のもう一つイメージを表現する貴重な作品なので、所在、或いはカラー写真を調査を続け探し出したい。
 
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「美之國」第六巻五号(昭和五年五月号)(美之國社 1930
Fourteenth RED 十四代酒井田柿右衛門(かたりべ文庫  1992)
『長谷川路可画文集』 長谷川路可 (求龍堂 1989
『藤山雷太伝』 西原雄次郎編 (藤山愛一郎 1939)
肥前陶磁史考』 中島浩気 (肥前陶磁史考刊行会 1936
「長谷川路可伝」〔上、中、下〕渡部瞭(<kugenuma.sakura.ne.jp/k095a.html>、「鵠沼」第959697号 鵠沼を語る会2007)