大英博物館からカキエモンが盗まれた?

 
 

 江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌、美術などを紹介する。
 
 
 
 

イギリスの作家アーサー・コナン・ドイル(1859-1930)の生んだ名探偵シャーロック・ホームズ1887年に『緋色の研究』で登場して以来、世界中の探偵小説ファンに読み継がれている。魅力的な名探偵は、又多くの作家により多彩なパロディ小説を生んだ。
作家で博物学者の荒俣宏の短編「盗まれたカキエモンの謎」は、古陶磁ファンの興味を引くホームズ・パロディだ。
舞台は大英博物館1896年のロンドン。粘菌の研究で知られる生物学者民俗学者でもある南方熊楠がイギリスに滞在中、博物館で起きた盗難事件の調査でホームズと対決する。大英博物館館長フランクスの私的なコレクションから柿右衛門がごっそり盗まれたのだ。 
 
17世紀の日本は、伊万里焼や柿右衛門など美しく彩色された絵付け陶器を、ヨーロッパに大量に輸出していた。美しくエキゾチックな日本製陶器は、〈イマリ〉とか〈カキエモン〉と日本語そのままに呼ばれ、ものすごい人気を博したのである。1896年の今も、こうした陶器はすさまじい高値で取引されていた。 フランクス氏としては、いずれこのコレクションを博物館に寄贈するつもりでいたのだ。(筆者注・陶器には“ポーセリン”とフリガナがある。)
 
 大英博物館は医師ハンス・スローン卿の八万点に及ぶ博物学的収集品の寄贈を起源に 1759に開館した。博物館は、初期は骨董品や遺物を買い集めるのではなく大口の寄贈を受け発展するものとされていた。
 
フランクス館長も柿右衛門を収集し、博物館のコレクションに残すつもりだった。
館長の依頼で調査に来たホームズと東洋書籍部長のサー・ロバート・ダグラスに助けを求められてきた南方が鉢合わせになり、盗まれた柿右衛門と犯人探しの推理合戦が始まる。
ホームズはカーペットに残る泥を調べ、「これは粘土ですな。それも、かなり特徴のある粘土だ。それに石英の粉が混じっている」と言い、ロンドンのチェルシー窯に関わる者の犯行と推理し、工場に行きすぐに犯人を突き止めた。
犯人はフランクス館長の収集品の内、三点を盗まず残していった。南方が調べると三点は本物の柿右衛門であった。しかし犯人が盗み出す途中に慌てて落とし割ってしまい、あとに残した破片の一つに錨のマークがあった。チェルシー窯のマークだ。
 
18世紀初頭ドイツのマイセン窯で磁器焼成に成功して以来、ヨーロッパの窯は柿右衛門写しを大量に生産した。マイセン窯、ロンドンのチェルシー窯、ボウ窯、フランスのシャンティ窯などヨーロッパ産カキエモンは人気を誇った。
 
盗まれたカキエモンは忠実な模倣品でフランクス館長も本物と見間違えたのだった。
多くのヨーロッパ窯のカキエモンからは本物の柿右衛門の絶妙な余白、デザイン化されていない日本画風の絵付けは失われている。南方はこの点で他のヨーロッパ窯のカキエモン写しと格段に上の盗まれたニセモノの謎に迫る。
 
「精巧なニセモノをつくるために、本物のカキエモンを写真に撮って、その紋様を幻灯機から無地の陶器の上に投射したんだ。そして、写された絵柄どおりに色付けして、そいつを窯で焼きあげれば、はい、チェルシー産カキエモンの一丁あがり! ただし、職人の悲しさで、工場の印をうっかり付けてしまっていた」
 
財産家の息子、南方熊楠は写真機を持ち、写真に興味を持っていた。ロンドンの下宿の同居人が写真師であったことから、彼の撮影に同行したり、現像に立ち会い写真術を教えてもらっていた。柿右衛門とヨーロッパの窯のカキエモン写しの大きな違いは、余白の取り方。南方は本物の余白をまねる手段として、犯人が最新の写真術をニセモノ作りに利用していたと突き止めたのだ。
ホームズは「原因は、ミナカタ、あなただ」といい、大英博物館に日本人の目利きが雇われたと聞いた犯人は、博物館に大量に売りつけている〝自信作″のカキエモンが贋作とバレるのを恐れて、南方がいる間は、全部引上げておこうとしたのだと説明する。
南方は博物館はフェイクの宝庫だが、フランクス氏の名誉にかかわる問題だからと、盗み出されたカキエモンを全て叩き割ってしまった。贋作だったことは伏せて、館長には盗難品はすべて破壊されていましたと報告するのが無難という南方に、ホームズは唖然とするだけだった。
 
館長フランクスは、南方熊楠(1867-1941)がロンドン滞在中に出会い、大英博物館で和書の整理をするきっかけとなったサー・オーガスタス・ウォラストン・フランクス(18261897)がモデルであろう。 ウォラストン・フランクスはロンドン万博で日本の陶磁に魅せられて、以来収集していたといわれる。英国先史時代の遺物、仏教、ヒンズー教美術、中国、日本の陶磁器などのコレクションを大英博物館に寄贈した。
二十代半ばの南方はウォラストン・フランクスが部長を務めていた英国・中世古美術および民族誌学部で収集品の調査をした。当時の大英博では図書館部門の長、プリンシパル・ライブラリアンが館長を兼任していたのでウォラストン・フランクスはこれに次ぐ副館長といった存在で、最晩年まで勤め、収蔵品を充実させ、博物館発展に大いに貢献した。
現在開催中の「大英博物館展―100のモノが語る世界の歴史」に展示の為、里帰りしている「柿右衛門の象」はこの短編の時代にはまだ大英博物館にはなかった。「柿右衛門の象」一対は空気力学学者で東洋陶磁のコレクターとして有名なサー・ハリー・メイソン・ガーナー (1891 – 1977) のコレクションで1980 年に寄贈された。
 
ダグラスは、中国学者1892年に創設された東洋書籍部の初代部長サー・ロバート・ケナウエイ・ダグラス(18381913)がモデルだ。南方はダグラスの補佐として働いていた。変人熊楠が博物館で起こしたトラブルの収拾にダグラスが尽力してくれたことに触れた熊楠の手紙が残っている。
 
『達人たちの大英博物館』の第五章 大英博物館学派とその時代Ⅱの「名探偵と博物館」に、ホームズは犯罪調査に必要な幅広い、実践的な知識を大英博物館で培ったとした「マズグレーヴ家の儀式書」(『回想のシャーロック・ホームズ』 アーサー・コナン・ドイル著、深町眞理子訳、創元推理文庫  2010)からの以下の引用がある。
 
ロンドンに初めてやって来たとき、私(ホームズ)はモンタギュースクエアのちょうど大英博物館の角あたりに下宿した。そしてそこで、ありあまる余暇を利用して、私をより有能にしてくれるために必要なすべての学問分野で研鑽をつみながら、ひたすら待った……
 
この短編の収まるシャーロック・ホームズのパロディ短編集の編者北原尚彦は、個性的な実在の人物をモデルとし、当時の大英博物館、ヨーロッパの窯業事情を織り交ぜ、柿右衛門の余白をまねる手段として幻燈を用いたというユニークな発想の荒俣宏の短編を、名探偵ホームズのパロディーの中でも一味違う洒落たパスティーシュと分類する。
北原は、荒俣を「博学という意味でも奇人という意味でも(失礼!)〝現代の南方熊楠"であるといえる」と紹介する。怨霊平将門の力で東京破壊をもくろむ魔人とそれを阻止しようとする人々の戦いを描く代表作『帝都物語』(全10巻)は1987年日本SF大賞を受賞。
 
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「盗まれたカキエモンの謎」荒俣宏 (『日本版シャーロック・ホームズの災難』北原尚彦・編 論創社 2007
『達人たちの大英博物館』松井竜五、小山騰、牧田健史講談社 1996