柿右衛門窯訪問記 (1)


 
 江戸時代初期、初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功して以来400年近く、乳白色の
素地に明るい色絵を持つ柿右衛門磁器は広く愛された。日本の焼物の代名詞ともいえる
柿右衛門が、大切な食器、高価な骨董、九十九神の宿る器、理想郷のシンボルなど、
人々の抱く様々なイメージで描かれる国内外の小説、テレビドラマ、随筆、詩歌などを
紹介する。

 
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柿右衛門窯訪問記
政治漫画家近藤日出造は、雑誌「オール読物」の連載『現代版膝栗毛』で写真家樋口進と組み、「東海道中膝栗毛」の弥次さん、喜多さんよろしく日本各地のユニークな人物を訪ねる旅をした。この企画で近藤が有田の柿右衛門窯に十二代酒井田柿右衛門と子息渋雄を訪ねたのは昭和二十八年(1953)の秋のことだった。「生きている柿右衛門」と題して、柿右衛門をユーモアあふれる軽妙な文とイラスト、樋口の写真で活写した。
酒井田家は有田の町からは離れた小高い山の陰にある。大きな藁屋根の母屋のある立派な屋敷は「日の丸の旗でも立てればそのまゝカレンダーの正月絵になりそうな、素封家のかまえだ」と形容する。住居と仕事場、初代柿右衛門が赤絵の朱色のインスピレーションを得たというゆかりの柿の木の二代目があり、十二代夫妻、その二人の息子の家族が住み、三十人程の職人が働いている。
近藤は十二代柿右衛門から、初代柿右衛門の父がこの地で窯業を始めたところから、赤絵創成、濁手、柿右衛門様式の完成、窯の浮き沈み、一度途絶えた濁手の復元までの「柿右衛門」の歴史を聞く。
 
現十二代は明治十一年生れで、郷土の工業学校に学び、常に父祖の名を汚さぬよう自重しながら七十六歳(昭和二十八年)になった。
十二代柿右衛門氏は自重しながらも焦っていた。それは何代の頃からか濁し手のわざが著しく落ち、落ちたまま伝わっていることだ。秘伝を書いた極意書という虎の巻が門外不出他言無用でてもとにあるが、――あの山の土をなぞと書いてあって、あの山がどの山かわからないのだそうだ。
しかし長男の渋雄氏とよくよく暗中モサクの結果、「遠からず……」とニヤニヤするところまで現在は漕ぎつけている。「初代は赤絵の焼付を二十年かかって研究したんですからな」と気楽にいえるところまで漕ぎつけている。
 
樋口の印象的な写真がある。
広い板の間の部屋で十二代が絵付をし、十三代が、手を軽く握り、腰を浮かせ、父の方をまっすぐ見ている。夜の絵書座で十二代が十三代に芸の奥義を口授しているのであろうか。時計は八時になろうとしている。濁手復元に目途が立った頃だ。当時四十歳代の十三代の表情は初々しく真剣である。柿右衛門家ではこのように父から子に技術が受け継がれ、400年近く伝統が守られてきたのであろう。
同じ絵を生業とする近藤は、絵書座(工場)の職人たちが伝統的な意匠花鳥山水を
見事に描く様を見て目を見張る。
 
絵のお手本を傍に置くわけではなく、頭に覚えた花鳥風月を、まア遠慮なくいうと薄汚れた田舎のあんちゃん、ねエちゃん小母ちゃんたちが、スラスラスラと描いているのである。
 
少々無礼な表現だが、近藤は轆轤師も含めて職人たちの高い技量に驚き、当時、日給二,三百円、女性は百円から百五十円、と安い賃金に驚くのだが採算無視の納得のいくものを頑固なまでに良心的に作る十二代の職人気質を考えると、これ以上出せないだろうと考える。柿右衛門は、芸術家としての良心の呵責と経営者としての責任に折り合いをつけなければならない。
 
「昔はここ(有田)の土だけでやったものですが、今はこれに天草の土を混ぜてやって居るんです。
有田の土だけでやると地肌の色がちょっと黒ずみますが、それがまた何ともいえん味わいで、眼のある方にはこれでないといかんのですが、しかし知らん人は白い地肌の軽い感じを喜ぶんですね。
天草の土は運賃がかかるんでここの土より高価いんですが、これを混ぜると焼きが楽でヒビが入らん。細工がし易くて能率が上がる。結局うんと安くつくんです。それでまアみんな混ぜるんですが、本当はいかんことですね。しかし売るためにはやむを得んのです」
 
昭和二十年代末といえば、形だけは敗戦からの復興を遂げたものの、近藤は「伝統に輝く芸術味と、雰囲気をわれわれの身辺から奪って、トタン的、ベニア板的カサカサの環境がとり残された」と嘆く。自信喪失からのハクライ品崇拝、経済効率、合理主義がまかりとおる現状に、「誇るべきものは、名工、名人による日本的品物だけではないのか、」「民族の血というやつの好みで、この好みを正直に生かし得たものだけが、……本場物として通用するのだ」と伝統の窯訪問で確信する。
 
ビルディングをぶっ壊して数寄屋造りの会社にしろというのではない。娘はみんな高島田に結え、というのではない。実益は趣味に先行する。
ただ、たとえば、お互いの生活に欠くべからざる日本茶は、ガラスのコップや紅茶茶碗で呑んではどうもうまくない、ととぼけたもンであるからには、日本の茶呑茶碗も大事にしろ、ということはまったく実益に反しないのだし、同じ茶呑茶碗でも、形や色や模様によって、何となくお茶の味がちがう、と感じる、われわれの頭がとぼけたもンであるからには、そのおとぼけに素直に従い、お茶がうまい、心地がよろしい、と錯覚させるような「趣味のいい」茶碗をつくる名工を大切にし、たとえゼニがなくてそうした結構な器具が買えない者でも、名工の存在をわが誇りとするだけの雅量がなければ、日本は益々べニア板的マーガリン的非文化国家になり下がって行くのである。
 
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吉田絃二郎の『名工柿右衛門の村を訪う』は柿右衛門窯訪問記の古典ともいえる。吉田は小説・随筆・評論・児童文学・戯曲と幅広い分野で活躍した大正、昭和初期の人気作家で、歌舞伎『二条城の清正』、若尾文子、田村高広主演で映画化された小説『清作の妻』などの作品がある。佐賀県出身の作家は「柿右衛門」の美を愛し、文章を残した。
大正八、九年(19191920)吉田は佐賀県有田町を訪れた。町の中心から車で十分位の所を、出会う人々に道を尋ねながら、南のはずれ、南川原に歩いて向かう。
大正時代の有田は静かな山間の町で、ちょうど稲の収穫の時期にあたり若い男女が田に出て働いていた。町を取り囲む黒い岩山には赤松が茂り、その間を流れる川は小石を数えられる位澄んでいた。道の表面を陶土が白くうずめているので、まだ強い秋の日差しの照り返しがまぶしい。町の外れから南の方に山道に入り、小川に添って歩き柿右衛門の家にたどり着く。
 
小川にそうて草ぶきの小屋があって、そこには水車ではないが、小川の水をうけて陶土をつくしかけがしつらえてありました。ざーっと水が落ちるたんびに、どしんと小春日和ののどかな感じをよびおこすようなきねの音が聞こえてきました。私はちょっと、伊豆の修善寺あたりの山里を連想しました。
 おそらく[初代]柿右衛門がつかった陶土も、この小川の水でつかれたのでしょう。またこの小川のふちに、かれはいくどかぼうぜんとして、立ちすくんでいたこともあったでしょう。
 どこも畑や家のまわりには、ちょうど赤く熟した柿の実がたわわになっていました。柿右衛門だの渋右衛門だのという名ができたのも、きわめてしぜんなことのように思われます。
きわめて平凡な小山につつまれて、きわめて平和な感じをいだかせらるる山里が、名工柿右衛門の南川原という村です。
 
柿右衛門の屋敷には、黒い垣根があり、ガラス窓の新しい建物がかぎ形にならんでいて吉田は小学校のような感じをうけた。柿の木の下で、子犬が昼寝をしている。当主の十二代柿右衛門はちょうど留守で、工場は五、六人の男女が働いているだけで、がらんとしていた。吉田は職人が労賃問題で休んでいると聞き、労働問題の余波がのどかな山間の小さな仕事場にまで及んでいる現実に暗い気持ちになった。
 
私は小さなさらを手にとってみました。燃えるような朱の色が美しく白い盃底にかがやいていました。私は庭のかまと、柿の実とを見くらべました。私はかまをひらいて、ぼうぜんとしてなみだぐみながらたたずんだであろう、柿右衛門のすがたを想像しました。つぎのせつなに、私は一まいの磁器をかかえて狂喜しつつ、広い庭の中をとびまわったであろう、柿右衛門のすがたを想像しました。そのおりのかれのよろこびの声が、そこいらの建もののあいだに、まだひびいているようにさえおもわるるのでした。
……かくれたる山里に苦しみ悩んでいた人類の恩恵者!それはただ一条の朱の色を、磁器の面にきざみつけるだけの発明であった。しかしそれは、いかにも多くの苦悩をあたいした仕事でありました。かれは少なくとも私たちの世界に、美の要素を一つおおくふやしてくれたのでした。
人間の世界の美、幸福は、いつでもこのようなかくれた苦悩者によりてあたえられるということを、考えずにはおれませんでした。
 
吉田は帰路、初代柿右衛門の墓参りをしようと探しまわるのだが、帰りの汽車の時間が迫り果たせなかった。
 
吉田はその後柿右衛門の村を数回訪ねる。昭和八年(1933)の文藝創刊号に『陶工柿右衛門』と題した一文を寄せ、「柿右衛門」の歴史をたどり、その作品の美しさを語り、交友のある十二代の伝統、家風を守り芸術家の信念を貫き通す姿を綴る。
吉田は豊かな自然に彩られた秋の有田の径を柿右衛門窯へと徒歩で向かう。門を入った所の初代柿右衛門ゆかりの柿の木がある。吉田は大正八、九年(19191920)の訪問の時、手折ってもらった枝の実の種を東京・滝野川の家の庭に蒔いた。四本芽を出した時の嬉しかったこと、内一本が大雪で倒れてしまったが三本は一メートル位に育っていたことを想い出す。大正十二年(1923関東大震災が起きその借家を出たのだが、柿の木のことが気がかりだった。震災後の再訪で土産にもらった柿の種は静岡県島田の友人の家の庭に蒔いた。十年ほどした今、順調に生長している姿を想う。赤く実を付けたゆかりの柿の木の下で、初代柿右衛門がこの木を見上げ、「天工の巧みさを羨んだ」姿を思い巡らしていると、柿右衛門が自分のすぐ前に立って居るようにさえ思えたとふり返る。
吉田は有田の町を「小さな町ではあるが、南画的な山水にめぐまれた土地である。古松奇岩に凭る(もたる)姿はさながら有田焼に描かれた支那風景画そのものである」という。この地を熟知いている吉田は、子供のころ、そこここに捨ててあった焼き損じの焼物を拾い集め幾何かの口銭を稼ぐものがいたこと、のどかな春の物々交換市など想い出し、現在の有田とその周辺の窯業が近代的な経済力の支配下で多量製産を行う状況を憂い、柿右衛門が伝統を守り苦闘を続けながら少量の生産に甘んじている姿に安堵する。
 
柿右衛門の村が、秋になれば、今も家ごとに柿の実の赤く熟れ、天満宮の森に百舌の囀り、陶土を砕く水車の音を聞くような静かな山村である如く、現代十二代柿右衛門は時代の嵐にもその芸術家的良心を傷づけられていない。そこにわたしたちの心を強く惹くものがある。
 
酒井田家などに残る古い文献の引用をしながら、吉田は赤絵の発明については外国の影響を見逃すことはできないこと、南川原が長崎から70キロあまりの所に位置した幸運から、外国文化を吸収、消化し、日本磁器の優秀さを発信し輸出に繋げ得たことを指摘する。「柿右衛門」の魅力を外国の製陶に影響をも与えた国際性、装飾品である前に食器であり、その様式が市民的な審美を求めるものであったことをあげる。
 
「吉田絃二郎集」の年譜に昭和2012月、戯曲「陶工柿右衛門」を完成したとの記載がある。(『新日本少年少女文学全集27吉田絃二郎集』ポプラ社1960)出版の有無、原稿の所在は現時点で確認できていない。どんな作品であったのだろうか。
 
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『生きている柿右衛門 近藤日出造、樋口進(写真)(『日出造の膝栗毛』 文藝春秋新社1954、初出:「現代版膝栗毛」オール読物 1954 3月特別号)
名工柿右衛門の村を訪う』 吉田絃二郎 (「新日本少年少女文学全集27吉田絃二郎集」ポプラ社1960)
『陶工柿右衛門吉田絃二郎 (「文芸創刊号」1933 11月号)