初代柿右衛門の伝記物語
日本で初めて赤絵磁器の焼成に成功した初代酒井田柿右衛門(改名前:喜三右衛門)(1596-1666)の物語は、歌舞伎や国語の教科書で取り上げられて以来、多くの児童書や漫画の伝記物語シリーズ、又単行本として登場してきた。 榎本虎彦作 世話物狂言「名工柿右衛門」が、十一代片岡仁左衛門の名演で大正元年(1912)初演以来繰り返し上演され、大正11年(1922)から終戦まで小学五年生が、友納友次郎著の「陶工柿右衛門」(尋常小学国語読本巻十、後の初等科国語六巻では「柿の色」と改題)を学んだ。 失敗を繰り返しても諦めず、苦労の末「夕日に照らされ輝く柿の実の色」を焼物に再現した発明家の成功物語は多くの子供達の心に残り、世代を超え広く語られ、自身の目標達成に向かう人生訓としたことが随筆などに書かれた。
国語教育学者で文部省嘱託として多くの教科書教材を著した友納はその後、少年文庫読本物語シリーズ全三十巻の第二巻に「陶工柿右衛門」(1925)を著した。 教材を書くに当たっての調査で得た西松浦郡郡長樫田三郎の『陶工柿右衛門』などの資料、陶芸家板谷波山(1872-1963)の助言、歴史的背景を加えた約90ページの読物となった。
戦後出版された偉人物語文庫シリーズ中山光義の『日本陶業の父 陶工柿右衛門』は柿右衛門の忍耐と努力とともに、商人や中国、朝鮮の陶工との交流、ヨーロッパでの受容も詳しく綴る。 その後出版された多くの伝記はこの二冊に依拠するものが多い。 鵜飼まもるの漫画『陶工柿右衛門』も含め、三作は代表的な作品と云えるのではないか。
柿右衛門伝は定番として出版されていたが、2000年以降は非常に少くなる。
2010年の朝日新聞教育面の記事「伝記 変わる顔ぶれ」は半世紀前の 1970年代末に出たシリーズと2000年以降のシリーズではラインアップが変わってきていると指摘する。「今の社会につながりが深い業績を挙げた人物」が加わった。2017年の産経新聞くらし面でも子供向けの偉人伝に取り上げられる人物の様変わりを指摘し、歴史を変えるような発明、発見をしたり、人類のために尽くした偉人とともに、経営者、時代の先端を生きた女性,今を生きるヒーロー、ヒロインなどが登場しているという。
アップル社の共同設立者スチーブ・ジョブスの伝記は一般向け、児童向け、漫画ともに出され、本田宗一郎、手塚治虫、イチロ―、マザー・テレサ、オードリー・ヘプバーン、ネルソン・マンデラ等が全集、シリーズに登場してきた。
世界の偉人約60人を紹介している絵本『心すくすくはじめての伝記』には,「色あざやかなお皿をつくった 酒井田柿右衛門」が所収され、長年の努力の末の赤絵焼の成功と共に、日本オリジナルの美の創造、国内外の窯業発展への貢献、ヨーロッパでの受容と多大な影響に焦点を当てる。同じポプラ社の『心を育てる偉人のお話』の「柿の実の色のおさら 酒井田柿右衛門」も日本人の美意識、鉱物の化学が創りだす艶やかな厚みを持つ、紙に画く絵では表現できない、赤絵の表現に言及する。
日本の美術工芸の名匠20人の伝記集,江埼俊平、志茂田誠諦著『日本名匠列伝』の「酒井田柿右衛門 陶工『柿の色』伝説の名匠」は赤絵の創出、その成功に不可欠の日、明、朝鮮の商人や陶工との交流、濁手素地に調和する余白を生かした絵画的な文様の柿右衛門様式の美、ヨーロッパに輸出され、窯業の発展に寄与したことなど取り上げ著わす。赤絵の技術を伝えたとされる周辰官を清から明への政権交代時の混乱を避けて逃れてきた貿易商とし、景徳鎮の生産補填の為の有田焼量産の必要性からの分業制の導入に影響を与えたなどの視点からの時代背景、五代の弟渋右衛門の貢献も含め六代までの柿右衛門窯の盛衰も記す。
初代柿右衛門は偉大な陶工であった。初代が創意工夫した作陶技術に、中興の祖ともいうべき渋右衛門[五代の弟で六代の後見人]が新風を吹き込み、さらに柿右衛門窯や有田皿山の無名の陶工たちがその流れを絶やさぬように力をあわせてきたことが、柿右衛門の名を支えてきたといえよう。
『世界が称賛!すごい日本人』は古代から現代まで世界から称賛された50人の日本人を紹介する。柿右衛門の項は、日本の美意識を体現した柿右衛門様式の磁器が輸出され、ヨーロッパでそのコピーが製作された国際性と経済性に焦点をあてる。柿右衛門様式の磁器の製作は1660年頃始まり、輸出され、ドイツのマイセンが1725年色絵付けに成功しコピーを製作するようになり、以来フランスのシャンティイ、イギリスのチェルシー窯などでもコピーを製作し、現在まで続いている。 「美しい日本の磁器――。そのイメージを定着させた 酒井田柿右衛門の功績は、あまりにも大きいのである」と結ぶ。 この本では葛飾北斎をジャポニスムを巻き起こした「元祖クール・ジャパン」としている。 柿右衛門は十七世紀の「クール・ジャパン」と言える。
伝承されたぎじゅつの上に、今の人に受けいれられる作品を作っていくことが伝統だと思います。
工学者で『失敗学のすすめ』の著者畑中洋太郎は『技術の街道をゆく』第4章「ミクロの世界をのぞきに行く」で有田焼磁器の製法自体は400年、本質的に変わっていないことに興味を示す。技術屋は技術は新しく進歩すべきものと信じているが、十四代柿右衛門は「自分達はただ美しいものを作ることが第一で、技術はそのためにある」、「自分が美しいと思うものが作れるうちは変えない」という姿勢で技術と向き合っていると云う。畑中は、「美しいものを作る」という言葉の裏側には、「変わらないために変える」という柔軟な考え方が隠されていると云う。
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「この人も知っておきたい!」(『10分で読める 夢と感動を生んだ人の伝記』塩谷京子監修 学研教育出版 2015)
初代酒井田柿右衛門伝記所収全集リスト
「消えかかるカマの火 有田焼の名工柿右衛門」諸星竜 (『五分間伝記:東西七十五人の逸話』生活社 1955、国会図書館デジタルコレクション)話道研究家、講談師諸星が1952から4年間、文化放送と朝日放送「逸話の和泉」で演じた200人を超える自作の伝記より選択)
「すばらしい赤絵の陶器 新しい焼法を生み出した陶工柿右衛門」作・唐沢道隆、絵・佐多芳郎(『世界100人の物語全集 私はこんな人になりたい(10)芸術に生きぬく物語』 日本子どもを守る会編 集英社 1964、国会図書館デジタルコレクション)
「陶工柿右衛門」(偉人伝記シリーズ5 初版:『この人に学ぼう』国文社 1967)対象:児童
「陶工柿右衛門」(偉人伝記シリーズ5『この人に学ぼう』国文社 1971)対象:一般
広島の皿山
太平洋戦争終結から73年目の今年(2018)、8月のはじめNHK ETV特集 シリーズ アメリカと被爆者 第1回 「シュモーさんを探して」とラジオ第二の宗教の時間「平和の家を作る」でアメリカ人森林学者で平和活動家フロイド・シュモー(Floyd Wilfred Schmoe 1895-2001)の戦後広島での活動を特集した。シュモーは1949年8月から5年間、原爆で家を失った人々の為に、寄付を集め、アメリカから資材や道具、食糧を持ち込み、アメリカ人の仲間と日本のボランティアで21戸の住宅を建設し、「平和の家」と命名し市に寄贈した。
シュモーは多様な人々の交流が期待できるとして、「是非、江波の地に家を建てたい」と云い、1950年から52年にかけて中区江波二本松に10戸の住居と1戸の集会所を建て、ここを“ Eba Ⅴillage”又は“Sarayama Ⅴillage” と呼んだ。
この地は江戸時代末期から明治の初めまで、磁器を製造していた皿山の跡地だ。
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江波焼は広島浅野藩が、文政11年(1828 )に殖産興業政策の一環として製陶場を開き、有田から土を仕入れ、有田の陶工の技術を導入して生産を始めた。天保年間(1830-1844)を最盛期に約50年間、皿を中心に日用食器を生産した。明治になり藩の後ろ盾を失うと、遠方からの陶土の調達は難しくなり閉窯した。 江波焼の代表的な文様は広島湾の似島の安芸の小富士と二本の松、帆掛け船を描いた山水図だ。湾の島影、網干のある漁村などの海浜風景、鶴亀、鷺、うさぎ等の動物文もある。
余白をとり模様化されていない染付絵図が素朴なタッチで描かれている。周縁は15個前後の波状になっている輪花、又は染付で波状が縁に沿って描かれている。口縁に縁銹をもつものもある。 裏には唐草などの模様のない白地のままの裏白が多く、通常銘はない。普段使いの10枚揃、20枚揃の小皿、中皿、小鉢や、径30センチ前後の大皿が残る。
素地は純白ではなくやや黒味があり、焼成で染付の色が安定しない物もあり、底に歪みが出たりしていて、有田焼と比べると、技術的完成度は低い。
伝世品は多く、素朴な山水は古陶磁愛好家に人気がある。
しかし埋め立てや戦後の復興、急速な市街化で窯跡や物原が失われ、破片の発掘や明らかに江波窯製品と判断できる伝世品は非常に少なく江波焼は‶幻の焼物”といわれている。
素朴な海浜画の江波皿の人気とともに、日用雑器の小皿や小鉢、絵替わりの大皿、中皿等多様な伝世品が出回り、江波焼研究者もそれらすべてが江波の製品と言い切れない状況だ。
もとは広島湾に浮かぶ江波島が、土砂の堆積や干拓が進み海岸線は南下し、17世紀末には陸続きになる。上山と下山(現・皿山と江波山)の間は養魚場となり、上山の南東の麓に窯が開かれた。しかし閉窯後、江波南側の埋め立てや開発が進み、昭和初期まであったといわれる窯跡、物原があったと伝えられる養魚場は埋められた。
窯場の上に建つシュモーの住宅も1970年代、老朽化が進み取り壊され、集会所として建てられた一軒が2007年からの広島高速三号線(南道路)建設に際し北西に40メートル曳家され、広島平和記念資料館の付属展示施設シュモーハウスとして残るのみで、十分発掘調査がなされる前に遺跡は閉じ込められた。
藤葉平造は、江波焼は「窯跡は勿論物原や、破片もなく陶工も知れず、数行の記録と人々のうわさに聞くだけの幻の窯となっている」と述べ、「新芸州 江波皿考」で存在を明らかにする根拠となる史料や製品、証言の調査を以下の様に記している。
江波の古老達の記憶によると巾二間、長さ十三、四間(3.6 m x 24m)のなだらかな傾斜の窯跡があり、最上部には煙突のようなものがあった。
藩による開窯の経緯や事業の記録が古文献に残る。
「今中大学日記」には、文政十二年(1829)四月藩の執政今中大学等が真菰にある藩の別荘に「江波皿山窯元油屋忠右ヱ門と職人5人を召し製陶術を実見せし」とあり、五月には江波皿山に行き「製陶の実況を視察し」、六月には皿山掛りを任命し、「十月四日には藩主もその業務を観覧せられしことあります」との記述がある。
浅野十一代藩主の「温徳公斎美録」には九代藩主斎粛が天保六年(1835)、陶業を視察と記されている。
明治、大正時代の独文学者三浦白水(吉兵衛)の『蒔絵苦心談』(「尚古」第二年 第五号 明治40年)には「その染付(皿に紺色の染料で絵付けしたもの)の絵柄は江波から厳島を望んだ風景が多く、京都から招いた瀬平という人の手によった」と記述がある。
「新修広島市史」には古陶磁研究家高木正実の談話として、漆芸の一国斎塗の池田(木下)兼太郎(三代金城一国斎 1829-1915)も絵師であったと記される。三代一国斎は江波の陶工池田金五郎の長男で、一国斎高盛絵の秘法を受け継ぎ、江波村で業を営んだ。
“確定的な伝世品”がなく、窯跡は失われ出土品などの科学的な調査が難しい現状であるが、藤葉は江波焼を裏付ける参考品をあげる。
・高木正実採取の素焼破片は蛇の目高台の向付け、径13センチで素焼両面に染付と思われる黒い粗雑な唐草模様が残る。窯跡から出土の素焼は、重要な資料だ。高木はその他、32点の江波焼の特徴を持つ茶碗、深鉢、向付け、小皿、大皿等の破片を発掘した。
・「江波焼手塩皿」、「文久2年」(1862)と書かれている時代箱に収まる江波の旧家尼子家所蔵の手塩皿32枚は、径9センチの丸皿で宮島、又は安芸の小富士を眺望した山水画が描かれ、裏は無地。焼成むらで黒みがかったものも混ざる。尼子家は江戸初期より醤油業を営む旧家で茶屋も経営していた。
・窯跡近くの伊予家に残る伊万里風の白い破片は、裏にシンプルな竜の絵の染付のある磁器茶碗のもので先祖の作品として保存していた。見込みにウニか、栗のようなものが描かれている。先祖は旭屋(嘉八)の屋号を持つ窯元で、1969年頃の建築工事の時一緒に多くの道具や磁器破片が発見されたがほとんどを遺棄したり、庭に埋めたという。
・寛政時代から続く江波の白魚料理の料亭山文が先祖から伝承している輪花山水図の中皿十枚セットは周縁を装飾模様が囲む、時代のやや下ったものと推定される。
・旭屋の屋号を持つ浅尾家の子孫の香口家所蔵の達筆な“旭”の字が書かれた徳利は伊万里風で胎土はやや黒みがかっている。
藤葉は、これらの参考品の信憑性は高いが、伝世品に多い径30センチ前後の大皿やその出土破片で江波焼と特定できるものが無い為、すべてを江波焼と断定するのは不可能に近いという。
鍋島藩のきびしい統制下、胎土を取り寄せたり、技術の移入や陶工の招へいは難しいはずだが、1828年の文政の大火は有田内山を焦土と化し、多くの陶工が職場を失い、出稼ぎに出たと伝わる。江波で製作又は指導をした可能性も考えられる。
熊野町の光教坊の立派な鬼瓦に「天保三壬辰年五月調之」、「沼田郡江波村」と三人の職人の名前が刻まれているのが発見された。高さ2.55メートル、幅3.2メートルの大作の江波瓦の発見で、江波焼を始める時点で、高度な窯業が存在していたことが分る。
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1989年からの有田の大外山、嬉野市塩田町の志田焼の窯跡の発掘調査で、従来江波焼といわれてきた皿類の染付絵柄と類似の絵柄のある破片が出土したことから、江波焼は塩田で焼かれた志田焼だったとの説が出された。
江波焼の典型的な文様とされていた水辺の鷺、氷裂地に竹と雀のいる丸窓、雲竜等と一致する。江波皿に多い輪花の縁を持つものも多かった。
古陶磁研究家小木一良は江波焼と云われている伝世品数は膨大で、江波の古老の記憶に残る小規模な窯からはこれ程の量は作れないとし、これらは規模の大きい志田窯の作品と特定して間違いないことと思われると論じる。
『江波焼』(上写真:掲載の江波焼大皿)の著者で陶磁器コレクター浦上恒右衛門は「江波焼の諸種の疑問に対する解明は、今後にまつものが多いが、物原と思われる昔の養魚場附近が、市街地と化している今日では非常に困難である。今後、高層建築でも計画され、地下の掘起こし作業に伴い、民家の底に眠る破片が発見され、伝世品と対比検討されて解明の糸口となることを祈る次第である」と記す。
広島市文化財団の「ひろしまWeb博物館」の記事に広島城跡で発掘された広東碗の破片の目跡等に、江波焼の窯跡と推定される場所の近くで見つかった広東碗(伊予家所蔵)と共通の特徴を確認したとある。又、江波焼とされている資料は科学分析で、イットリウムを含む割合いが、伊万里、瀬戸、砥部等と比べ2~3倍高いことが判明したと報告がある。
第65回日本伝統工芸展で切金螺鈿箱「青麦」で2018年朝日新聞社賞を受賞した江波東に工房を持つ漆芸家七代金城一国斎(1965生れ)は、2018年5月14日付朝日新聞広島版の「ひとin広島」で、祖先が江波焼を手掛けた縁もあり、異分野だが江田島の土で江波焼の復活、再興という新たな挑戦を始めたと語っている。
2015年千葉県横芝光町の町民ギャラリーで開催された横芝光町在住の斉藤順一氏のコレクション展、「幻の青い皿 江戸後期志田窯の染付皿」の図録の編集後記で横芝光町の社会文化課学芸員道澤明は「ここに紹介した志田焼は、まだ産地が解明されてわずかしか経っていない。まだ、不明な部分が多々ある。これに出展器の解説をしたが、おそらく錯誤しているものもあると思う。この紹介によって、志田焼がより解明されることをのぞむ」と記す。出展品の多くは江波焼と伝承されていた。
幻の焼物を解明する努力は今も続く。さらなる研究の成果で、江波焼の真実が明かされることを期待する。
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「この世界の片隅で」のすずの生まれ故郷でもある。
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『江波焼』浦上恒右衛門 (浦上恒右衛門 1979)
「陶片は知っている」十五、志田西山六号窯作品ーそれは江波焼と云われてきた器物だった!ー」小木一良(「小さな蕾」280 創樹社美術出版 1991 11月号)
「埋もれた文化 江波焼」(『広島市立江波小学校創立百周年記念誌』 2000)
「シュモーさんを探して」<www.dailymotion.com/video/x6rft53>
皿屋敷
夏の風物詩といえば、怪談。日本三大怪談に数えられる「皿屋敷」は、主家の家宝の十枚揃の皿の一枚を破損、又は紛失したことを咎められ、殺されて井戸に投げ込まれた奉公人お菊が、幽霊となって夜な夜な悲しげに皿の枚数を数え、一枚足りないと恨むという各地の伝承に基づく幽霊話。お菊井戸と言われる古井戸が姫路城内に、又お菊の皿と言い伝えられる皿は国内数カ所に残る。
「皿屋敷」話は人形浄瑠璃、歌舞伎、講談、落語、映画や小説等の題材となった。十八世紀には人形浄瑠璃「播州皿屋敷」、講談「皿屋敷弁疑録」、歌舞伎「播州錦皿九枚館」、明治になって河竹黙阿弥作「新皿屋敷月雨暈」、大正に岡本綺堂の新歌舞伎「番町皿屋敷」が書かれ、この季節上演される機会も多い。
作品により、皿は色鍋島、唐絵の皿、絵高麗であったり、青絵、葵の皿、献上品、たいそうな皿等とあり、高級焼物は当時、十枚揃の皿一枚の破損や紛失で人一人の命まで奪う理由となりうる宝であった。
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火野葦平の河童を主人公にした短編作品「皿」は「皿屋敷」伝説の後日談で、河童は怨霊となり井戸に住みついて皿の枚数を数え続けているお菊に出会う。蛙を追い井戸に飛び込んだ河童はうら若い娘の行動を不審に思い、歴史を調べ事情を知る。腰元お菊は音川家の悪執権浅山鉄山の御家横領の企みを知ってしまった為、家宝の十枚揃の色鍋島の皿の一枚を隠され、紛失したと濡れ衣を着せられて、口封じのため殺され井戸に投げ捨てられた。以来お菊の幽霊は、江戸、明治、大正、昭和と何百年も皿を数え続けている。
お菊の美しさに魅了され、恋に落ちた河童は、助けたい一心で失われた皿を探し始めた。しかし皿はなかなか見つからず、仲間に応援を頼むことにしその皿のスケッチを見せる。
九州出身で、焼物に造詣がある火野は色鍋島の五寸皿(直径約15センチ)を細かく描写する。
その模様は九枚とも同じである。紅葉の林を数匹の鹿がさまよい、清流にかけられた土橋のうえで、神仙のような老人が二人ならんで釣りをしている絵がかいてある。空に紫雲がたなびいている。色どりはあざやかで、陶器の肌はつややかだ。
釣りをする老人は描かれていないが、鹿紅葉は江戸時代からの古典文様で、紅葉の葉が散る中を鹿が軽やかに走る色絵の初期柿右衛門と推定される「彩絵鹿紅葉図香炉」、二匹の鹿が戯れる巧みに構図を採る皿「彩絵鹿紅葉ちらし文角鉢」、「染付の山水鹿紅葉文皿」、「染付縁錆び紅葉鹿図皿」等、延宝様式の作品が伝わる。十三代柿右衛門作、あるいは十三代時代の柿右衛門窯に紅葉の間を数匹の鹿がさまよう錦鹿紅葉文の皿や花瓶、香炉がある。
河童の数百匹の仲間は失われた一枚の皿を求め全国を探し回り遂に見つけ出す。古井戸で見た皿と寸分違わぬ物だ。河童は喜び、お菊にこの皿を届ける。井戸の中は二人の明るい笑い声が響き渡る。しかしそれまでの静かで自然な美しさは失われ、神聖な雰囲気は消える。
笑い転げていた河童は我に返り、犠牲の美しさは無償の行為と信じている自分が, お菊の喜ぶ姿に何かの代償を求めていることに気付き、恥じ入る。真摯な河童は堕落してはならぬと、お菊の呼び止める声をふり切り井戸から逃げ出す。
しかし心は揺らぎ、会いたい気持を押さえきれず再び井戸に戻った河童は、目は憎悪に満ち、骸骨の様に変わり果てたお菊を見る。お菊は河童を見ると、悪魔と罵り、「この皿を持ってとっとと帰りやがれ」という。
皿が見つかる前は青ざめてはいたが、皿はいつかは見つかるという希望で生き生きとさえ見えたお菊だったが、十枚目が見つかるとすることがなくなり見る見る衰え、美しい九枚の皿を叩き割りその破片の中で命を絶える。
悲しいとはいへ次に望みを托し得る生活の持続感とは、お菊にとっては魂の火花であった。
河童は人間に化け、お菊から突き返された皿を骨董商に持ち込み高額で売る。河童は店を出た時,裏口から出てきた怪しい男達に襲われ金を奪われる。店では骨董商が粉々に砕けてしまった皿を前に茫然としている。
河伯洞と自宅を名付けた火野葦平は河童の世界を描いた。四十三の短編を集めた豪華版の作品集『河童曼陀羅』(写真:右上)がある。火野は「河童作品は自分のライフワークの一つだといえるかもしれない」と記している。 弟政雄氏によると兄弟は沖仲仕の父から寝床でタヌキやモモンガ、河童等妖怪の荒唐無稽の話を聞かされ、そのことで火野が河童好きになったといえるとふり返る。火野の出身地若松市(現:北九州市若松区)は河童伝説が多く残り、河童の祟りを封じたくぎ地蔵が祀られ、毎年七月に河童祭りが催される。隣県佐賀には『河童伝説発祥の地」を謳う武雄市の潮見神社や河童のミイラを保管する伊万里市の酒蔵などがある。
火野(1907-1960)は、北九州若松生まれ。1938年(昭和13年)『糞尿譚』で芥川賞受賞。太平洋戦争に従軍した火野は『麦と兵隊』等戦記物、若松で炭荷役請負玉井組を設立した父と母の伝記的小説『花と龍』等著した人気作家である。
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「皿屋敷」怪談は誘いを断わられた主人の腹いせ、奥方の妬み、陰謀を知られ口封じのため等バリエーションがあるが、主家の家宝の皿の紛失という濡れ衣を着せられ手討ちにされた女中のお菊が幽霊になり恨みを込め皿を数える復讐劇。
火野葦平の「皿」では皿が見つかり復讐は完結させる。
大正時代(1916年)に書かれた岡本綺堂の新歌舞伎「番町皿屋敷」は、旗本青山播磨と腰元お菊の悲恋物語といえる。愛を誓う仲だが、お菊は身分の違いや播磨の縁談話も聞こえて来て不安になり、青山家の家宝の十枚揃の高麗焼の皿を一枚割って播磨の愛を確かめようとする。血気盛んで潔癖な二十五歳の播磨は、家宝の皿の過失の破損は全く問題にしないが、お菊に彼女への愛を試されたと知り、怒りが収まらず残りの皿を全部割り、お菊を斬刹し井戸に投げ込む。お菊の命は皿ではなく、深い愛が疑われたことの怒りと失望で奪われる。
古典落語の演目「皿屋敷」、「お菊の皿」は、葵の皿を紛失し殺されたお菊の幽霊が毎晩井戸を出て皿を数え続けている。美しいお菊の噂を聞いた町内の若者衆が見物に押し寄せる。九枚と数える声を聞くと祟りで死ぬと伝えられているので六枚で逃げるよう言われていた見物人だが、美しいお菊に見とれ八枚で逃げ出したがお菊の計算は終わらず十八枚まで数える。一日に二日分数え、翌日は休日を採るという現代風の話に代わっている。
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火野の「皿」を原作とした水木しげるの漫画がある。 『河童の三平』等河童や妖怪の世界を多く描いた水木は火野の河童作品十四編を原作とする十一編の漫画を描いた。「皿」のように原作をなぞり、水木流の脚色をしたり、独自のオチで絞めたりしたもの、火野の作品二編を一編にまとめたもの等がある。
水木の「皿」の結末は河童の惨殺はなく、「なるほど 人間には いや生物には 満ちたりない 不足感が常に 必要なんだなあ」、と感慨にひたる河童の姿で終わる。
焼き物好きの火野が鍋島の皿の文様を詳しく描写しているのとは異なり、水木は 「天下の名器色鍋島」とし、皿の文様は走り書きでモチーフは判明しないが、余白をたっぷりとった絵文様の皿になっている。
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地図皿 若き陶工の異国への想い
1616年に朝鮮陶工李参平が肥前有田(現佐賀県)の泉山で良質の磁石鉱を発見して以来、有田、秘境大川内山に藩窯が置かれた伊万里は窯業の中心地となり、色絵磁器の優品を作ってきた。伊万里の港から積み出されたことから、この地方で作られた焼物全般は伊万里焼きと呼ばれた。海外文化にも影響を及ぼした伊万里焼、豊かな歴史を持つ有田、伊万里の窯業、そこに働く陶工の人生は多様なテーマで文学に描かれる。
日本地図、世界地図を描いた染付大皿は江戸後期に数多く製作され、伝世品も多い。 武家や豊かになった庶民の間で、テーブルを囲んで大皿に盛られた料理を小皿にとりわけ楽しむ卓袱料理の祝宴が流行し、伊万里焼日本図皿(写真右:神戸市立博物館所蔵、『図説 日本古地図コレクション』より)の需要が大きく伸びた。 地図文は異国を意識するようになった人々の好奇心を刺激する人気の意匠になった。主に天保年間(1830-1844)有田で焼かれ、外山の窯跡から陶片が出土している。
峯吉は下南川原の窯焼き兵太夫の息子だ。 兵太夫は大物手洗鉢を宗廟八幡宮や勧請寺に寄進した程の轆轤の名人だが、不窯が続き窮地に陥り、窯焼きの名代札を返納して農家になる。 しかし慣れない農作業で収穫もままならず、窯焼きとして再出発を期し名代札の再交付を願うが叶わず、借金を負い、不遇のうち病に倒れ生涯を終えた。
文政十二年(1829)の春、九代柿右衛門は大坂の蔵屋敷詰めの藩吏より、「余りにも不出来なので、用立て出来ず。 気の毒だが返品をする」との書状を受け取った。 大阪に送った赤絵小皿百十九個の内七七個が返品となったのだ。
内山の大火の翌年である。
復活した峯吉は、長崎に出稼ぎに行った仲間から、土産にもらった異人絵図や日本諸国絵図を見入り、時代の変化を感じ、そこに描かれる異国に憧れる。
、、、長崎の番所をとおり過ぎる異国船上で異人達が遠目鏡を見て両手をあげている絵図をみた峯吉は、皿山を出て海の彼方の南ばん国に出稼ぎにゆきたいと、いった夢を描いたものである。黒船の両側に車のついた版画や、日本の絵図の中に見出される九州の島々の形や、横広い版画に世界諸国の地図を描いてあるのをみると小躍りして喜ぶ峯吉である。
若い窯焼き峯吉の、遥かなる異国へのあこがれや、異国絵図に見入る喜びは、若い陶工のひとりひとりに相通っていった。峯吉は親ゆずりの器用さで尺八寸の大皿を、自由にこしらえてはこの皿に日本の地図を描いた。
彼の遥かなる願いは、いつのまにか、大皿に世界の地図絵を描く力となったのである。峯吉は染付の地図絵だけでは、物足りなく波文様を土型で浮き彫りにして、皿の天地に二羽の鶴を染付で描き、自ら「地図皿」と銘打っては、安眠をむさぼり、特権に名を借る内山の赤絵屋を驚かしたのである。
峯吉は地図を浮出した大皿に、思うままに日本の島々の形をかき、夢にみた未知の国の天ジュクの国や女人国、エゲレス国などを描いた。大皿の裏には本朝天保年製、肥前国南川原山とかいては、遠い異国への思いを走らせたのである。
永竹の『肥前やきもの読本』は 肥前窯業の歴史、肥前陶磁の魅力、史話、および詳細な年表からなる(第三章の「史話」は1961年初版にのみ所収。その後の増補版には含まれていない)。 著者は「歳月とともに―後書にかえて」で史話について記す。
近世時代に生きた、肥前陶工の足跡を、旧記により、伝え話により、私的な解釈で史話としてとりまとめたものである。 、、、お断りしたいことは、ある程度の虚構をまじえた史話として構成したものの、小説といったものではないことである。つぎに文中の陶工名は、筆者が好みのままにとりあげたもので、 、、、かならずしも実在した陶工とは限らないことである。 また現存する陶家に直接、間接に縁故のある陶工名や史実があるが、陶工達の思索のあと、作陶態度などは、往時の陶工の心を心とした私自身の全くの創作であることをご諒承ねがいたいと思う。
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史話の舞台、江戸時代後期の佐賀藩は飢饉、台風、異国船の出没する長崎沿岸の警護の負担で財政は悪化し、殖産興業による藩政改革に取り組んでいた。 農業の保護、主要産業の育成や交易を進め財政は潤った。ドル箱の陶磁器産業は大量生産を実現し内外に販路を広げたが、量産に走り技術が落ち粗悪品も増えていた。 有田内山の文政の大火(1828)後、職を失い外山や、長崎、他の窯業地へ出稼ぎに出たり、異国の存在に刺激を受けた陶工達の間に封建社会より抜けだそうとする意識も芽生えていた。
多くの日本図、世界図が出版され、その中心は長崎であった。 江戸時代中期から出版されていた浮世絵師石川流宣の日本図や、十八世紀末に出版された地理学者長久保赤水の経緯線の入ったより正確な日本図、世界図、それらに倣った地図が、寺子屋ができ、大衆文化の生まれた時代に普及、活用されていた。 流宣図は正確さより、大名、名所、宿場の情報が詳しく参詣旅行に活用されベストセラーとなった。
長久保赤水の世界地図を簡略化し、まわりに伝説の国女人国、小人国などの人物絵、異国船、方位図、長崎からの海里数表が描かれた「世界万国日本ヨリ海上里数王城人物図」(写真右上:神戸市立博物館所蔵、『図説 世界古地図コレクション』より)などの色刷版画が庶民の間で流行した。
人文地理学者応地利明は、「絵地図は、それを描いた人々、またその描かれた絵地図を受容した人々の、当時の生活世界や観念世界に関する知覚内容を図の上に表現したものだ」と云う。(『地図絵の世界像』)
正確な測量を基に制作された伊能忠敬の日本全図も完成し、1821年に幕府に提出されていたが、厳重な管理下に置かれ一般の目には届かなかった。
当時流布していたのは流宣図、赤水図を倣った地図であったが、皿の意匠となったのは行基図だった。近世各地の土木工事の指導をしたことから奈良時代の僧行基により最古の日本図が制作されたとする。 各国が楕円のような形で描かれ連ねられているもので行基の描いたものは残っていないが、これにならって描かれた同様の図を行基図と呼んでいる。
皿の意匠が単純な行基図となったのは、正確さより、工芸品のデザインとしての面白さからと思われる。 日本のまわりに朝鮮、その東に小人国(コヒトシマ)、松前、蝦夷、琉球国、伊豆諸島の南に女護国(あるいはニョコノシマ、女人国)が描かれる。 日本図の中には富士山、琵琶湖が描かれ、伝説の国も含み意匠はパターン化し量産された。
地図皿は円形、長方形の他、扇面型、水車型など多様で、海の部分は青海波、蛸唐草や網目、松葉文で埋められ、地図の周りに鶴や雲、南蛮船、煙を吐く黒船や方位図が描かれる。
テーブルを囲む宴席の皿の国名は一方向でなく、周囲から読めるように方向を変えて書かれている。 豊かになった町人の祝宴の皿は尺八寸(径54.54センチ)前後の物も多い。
江戸中後期の贅沢品をとりしまる幕府が経済統制を逆手に取り、地図皿は藍一色ですっきりした粋な意匠で、小紋等と共有する庶民の美意識を感じさせる。
日本図の場合、型押しで国を盛り上げ、国境を線で描く。 型造りは有田外山、南川原山の窯で多用された技法といわれる。
二つの伝説の国の起源は女人国は羅列国、小人国は雁道、又は韓唐という。女人国は今昔物語に出てくる女ばかりが住み男性が入ると戻らないという国で、此の国の女は実は鬼で男が行くと食われてしまうと伝わる。玄奘 (三蔵法師)の『大唐西域記』など世界の伝説にある雁道は、雁の来る道の果てにある渡り鳥の故郷で、大雁に導かれ行き着つくとそこに住むものは人の様に見えるが実は龍だった。本朝図鑑網目に韓唐:「この国不有人」とある。
ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』(1735年に完全版刊行)でガリヴァーは、唯一実在の国日本に短期間滞在するが、小人国、大人国、飛び島、馬の国など空想の国を訪ね冒険する。 1609年刊行の中国の『三才図会』、『三才図会』を下敷きに寺島良安編纂、1713年刊行の『和漢三才図会』、日本の「ガリヴアー旅行記」といわれる1774年刊行、谷遊子の『和荘兵衛』には小人国、長人国、不老不死国など伝説上の国が登場する。 海外に目を向け、未知の国を想像し夢を膨らませた時代の共通の世界観の表現だ。
1854)、又一重角福の銘もある。
有田外山の十八世紀後半から大正時代まで使われたとされる窯黒牟田多々良の元窯跡から地図皿の陶片が出土している。
陶磁器研究家水町和三郎は『伊万里染付大皿の研究』の染付地図皿の解説に、「地図皿は有田内山或は大外山では製産されないで専ら外山で製産されてゐる。 外山の内でも特に黒牟田、南川原山はその主産地であらう」(ママ)と記す。
海事史学者で古地図、地図皿のコレクター、南波松太郎は「カタカナで国名が書かれているのは加賀産、加賀国が極端に大きく書かれている」(「地図皿と器物に描かれた地図のいろいろ」『古地図にみる世界と日本:地図は語る―夢とロマン』)と指摘する。 銘は大日本文政年製とあり、変り形の四角が主で、伝統の幾何学模様や二羽のコウモリが羽を広げた図等の華美な枠模様がある。
伊万里地図皿より半世紀ほど早く、江戸中期の科学者平賀源内が長崎留学で学んだベトナムの焼物の技法を取り入れ、讃岐の志度で作らせた源内焼の地図皿がある。 緑、黄、紫の三彩でより正確な日本図世界図を国名、国境を陽刻で描き、実用というより知識人の観賞用といわれる。
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「兵太夫」、「峯吉」の名は史料に見ることが出来る。
宮田幸太郎著の『有田皿山の制度と生活』には皿山代官の下南川原庄屋 兵太夫他二名の庄屋と登心遣一名宛て、藩の殖産の方針に従い職務を果たしたことに対し褒美を与えるとの文書が残る。
鳥目一貫文ずつ
下南川原山庄屋 兵太夫
広瀬山庄屋 弥平次
谷・稗古場登心遣 十兵衛
土伐庄屋 武吉
其方共儀、庄屋・登心遣など仰せつけ置かれ候処、かねて心がけ厚く、窯火入れなど度数相増し、或は土伐り出しかた行き届き、旁、心遣行届き、御運上銀(を)御日限通りさきに納めかた相整い、神妙の至りに候。 右の次第御小物成所へ申し達し候処、御ほうびとして左に書載の通り御酒頂戴仰せつけられ候者なり。
中島浩氣の『肥前陶磁史』では 立林兵太夫、峯吉は「南川原の名工達」として取り上げられている。
立林兵太夫は下南川原の名陶家であった。そして彼は窯出しする時
に特殊品だけは直ぐそれを長持の中に匿くして誰にも決して見せ
なかった変わり者で、それは自分が工夫した意匠を模倣されるの
を嫌ったのであろう。
こうして彼は天保七年(一一九年前、1836)十二月二十六日に
死去し、 、、、
維新前の窯焼で下南川原の立林峰吉(森之助の祖父)が盛んに製造
したが、彼は天保九年四月六日に死去しており、、、
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『肥前やきもの読本』永竹威 (金華堂書店 1961)
『有田皿山の制度と生活』 宮田幸太郎(神近桂二、1975)
『伊万里染付大皿の研究』水町和三郎(桑名文星堂 1944)
『古地図にみる世界と日本:地図は語る―夢とロマン』(神戸市立博物館開館一周年記念特別展図書 1983)
『図説 世界古地図コレクション』三好唯義編 (河出書房新社 1999)
『図説 日本古地図コレクション』三好唯義、小野田一幸(河出書房新社 2004)
『小さな蕾』2000年2月号No.379 (創樹社美術出版 2000)
『続 ガリヴァ―旅行記 (飛び島・馬の国)』(岩波少年文庫) ジョナサン・スウィフト、中野好夫訳(岩波書店 1980)
染付皿の中の冒険
白磁の胎に鮮やかな藍の絵柄の染付は、日本では江戸時代初頭に朝鮮半島から渡来した陶工によって技術が伝えられ有田で生産がはじまった。 装飾は日本の茶人に珍重された中国の古染付を倣い中国風だった。 山水、人物、身近な動植物ののびやかな絵柄が自由な勢いのある線で描かれた。 大胆な構図の山水図、飄逸な人物図、幾何学文や吉祥文、唐草、青海波、亀甲、紗綾形繋ぎ文等、器の模様としてデザイン化され、その種類は無数だ。
十七世紀中期に需要の増えた富裕層の宴席を彩る大皿や什器、茶道具は墨はじき、ダミ染め、型押しなどの高度な技術で高級品がつくられる一方、十八世紀になると猪口やなます皿、長方形の焼き物皿等、幅広い層からの需要が増え、量産された。 染付の技術は各地の窯場に伝わり多様な器が作り出され、人気絵柄は絵付け師の自由な表現でつくられ続けている。
白と藍の調和の美しさ、生き生きした筆使いが生み出す素朴な絵柄の面白さで人気を得、染付は最も多く生産され、愛され、使われてきたやきものだ。
はせがわ はっちの絵本『さらじいさん』は、古伊万里染付の絵柄の世界に迷い込んだ小さな女の子の冒険を描く。
女の子の家には、骨董品店を営むおじいさんから贈られた、三人の不思議な人物が描かれているお皿が飾ってある。 三人は中国の仙人のような姿をしていて、一人は巻物をかかえ、もう一人は琵琶のような楽器を持っている。 一番右に描かれている人物は坊主頭で、ちょっと厳つい顔をしている。
ぼうずあたまのひとが おもしろくて
さらじいさんって よんでるの。
おかあさんはつかっちゃだめって いってた。
かざってあるのよ おさらなのにね。
女の子は一人で留守番をしている或る日、飾ってあったお皿が使いたくておやつのドーナツを盛った。 するとさらじいさんがお皿の中から手を伸ばしドーナツをつかんだので、ドーナツを取られまいとする女の子は、お皿の中に引きずり込まれてしまう。 女の子はドーナツをもって逃げるさらじいさんを追いかける。
お皿の中は昔の中国で、さらじいさんは、川を渡り、山を超え、野原を走り抜け、百子堂という学校にたどり着く。 川には漁夫、荷船の船頭、野原には筍掘り、牛を縄でつないで馴らす牧童、牛に乗って笛を吹く童子がいる。 兎や雁、蝙蝠などにも出会う。 百子堂には大勢の子供がいて、巻物を学び、楽器を演奏している。 さらじいさんは子供たちにドーナツを分けてあげている。
登場するのは皆、古伊万里染付の人気の絵柄のモチーフだ。 人物は表情豊かで、時にユーモラス、はせがわは落ち着いた藍色でのびやかに場面を描きだす。
手描きのどことなくいいかげんな、のびやかな感じがすごく楽しくて、ポーズや表情も「なんだこれは?!」というような愉快なものもあります。古伊万里の絵には絵本に通じるおもしろさがあると思っていました。
はせがわの伯父さんは京都で時代屋という骨董品店を営んでいた。小さい時から伯父さんの店を訪ね、沢山の古伊万里の器や様々な骨董品に親しんでいた。 絵本に登場するお皿はこの伯父さんから贈られた皿をモデルにしている。
お皿の三人の人物の背景には筍が描かれている。 近くに竹林があるのだろう。 三世紀後半の中国三国時代、俗世を避け竹林に集まり、酒を酌み交わし、音楽を奏で、清談したといわれる隠者達、竹林七賢の内の三人なのだろうか。 竹林七賢は絵画や様々なジャンルの工芸のモチーフとなり、染付でも人気の絵柄だ。 そのうちの一人阮咸は、お皿に描かれている仙人の持つ琵琶のような楽器をよく奏し、改良したことから、その楽器が彼の名を冠し阮咸と呼ばれている。
学習院大学の荒川正明教授は『初期伊万里展 染付と色絵の誕生』図録の解説「初期伊万里にみえる唐様の意匠―『八種画譜』と人物図を中心に」で初期伊万里が手本にした中国古染付は明代後期に盛んに出版された墨刷木版の『八種画譜』、『芥子園画伝』等の画譜、故事や歴史の挿絵本を手本に本格的な山水画や個性豊かな人物画の絵付けがなされと指摘する。
明末天啓年間(1621-1627)に編纂された『八種画譜』の翻刻版が寛文十二年(1672)京都と江戸で出された。
古伊万里「染付吹墨騎牛笛吹童子文皿」(今右衛門古陶磁美術館蔵)は『八種画譜』の「五言唐詩画譜」に載る盛唐の詩人崔道融の「牧豎」(ぼくじゅ=牛の世話をするこども)を絵画化した図柄を持つ古染付を倣ったといわれる。皿の表に過去の優れた画家の筆に倣うという意味の「倣筆意」という角銘が入っている。この皿に酷似した陶片(有田町歴史民俗資料館蔵)が有田西部の推定年代1610-1630の天神森窯跡より出土している。
『さらじいさん』にも牛に乗り笛を吹く童子と牛を綱でつないで馴らそうとしている牧童が登場する。 禅の修行で悟りに至る十段階を、牛を真の象徴として修行者との関係性を描いた「十牛図」の真を見つけ牧童と牛が穏やかに家に帰る「騎牛帰家」と真を見つけ自分の物にしようと縄を付け馴らしている「得牛」の図だ。
科挙の試験を受けている大勢の童子のいる百子堂、ひょうきんなポーズの唐子たち、三国志の赤壁の戦いのあった揚子江(長江)の断崖迫る名勝地赤壁を詠った宋の詩人蘇軾の七言唐詩「赤壁賦」からの船遊びの図、釣り人、船頭、筍掘り、隠者等、染付の絵柄のモチーフとして繰り返し描かれている人物、深山、竹林、吊り橋のかかる山、広い川、楼閣、うさぎ、水鳥、蝙蝠等、中国の画譜、故事の絵画化や挿絵本から引用したものだ。
その他、唐代の僧寒山拾得、梅うさぎ、波うさぎ等も、日本、中国の染付に現在に至るまで繰り返し描かれている。
柿右衛門様式の色絵にも『八種画譜』を手本としたものがある。色絵皿「周茂叔愛蓮文」は『八種画譜』中、「五言唐詩画譜」の「渓上」図を倣い、オシドリの遊ぶ蓮池で蓮を採取する婦人を描いている。「渓上」図にはない北宋の儒者周茂叔が岸辺で蓮の花を愛でている図を入れて李白の「蓮花」の要素を取り入れている。 同じく「五言唐詩画譜」より「送人遊湖南図」を倣い「色絵人物船遊文(皿)」が描かれた。
そば猪口のコレクター松岡寿夫はその著書『藍のそば猪口700選』に記す。
そば猪口の多種多様な文様は魅力的です。 数百種、いや数千種といわれる文様の種類が、私達の眼を楽しませてくれます。時代の変遷に連れ、文様も様々に移り変わり、その特徴の違いが器形の変化とともに、そば猪口を理解し、いつくしんでいくうえで、大きなキーポイントになるでしょう。
絵本の後半、女の子がおじいさんのお店を訪ねるとさらじいさんを追い出会った人々や風景が描かれたそば猪口や小皿がならんでいる。おおらかで素朴な美、有田他各地の窯場の無名の絵師の人気絵柄の自由な表現が生まれ続けている。
はせがわ はっちは1956年東大阪市生まれ。 2004年、『おうだんほどうかります』で富山県の射水市大島絵本館主催のおおしま手づくり絵本コンクールで最優秀賞受賞。2015年『さらじいさん』で南青山ピンポイント・ギャラリー主催、第16回ピンポイント絵本コンペで最優秀賞受賞。今年3月『さらじいさん』を出版し絵本作家としてデビューした。
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『さらじいさん』はせがわ はっち (ブロンズ新社 2017)
『藍のそば猪口700選』松岡寿夫 (小学館 2003)
昭和中期の有田の窯場
昨年有田焼は創成四百年を祝った。磁器の優品を作り続けた有田窯業の現場、窯場とそこで働く陶工を田中太郎と夫人の優紀子は油絵と短歌に印象的なスタイルで描き出した。
油彩作品は「窯」、「肥前窯場風情」、「有田窯場」、「肥前有田の窯場」、「陶磁窯場」、「素焼本焼窯」、「窯出風趣」等のタイトルが付けられ、窯場の様子や働く人々の姿が描かれている。これらの作品と共に、「対山窯」、「聖陶苑」、「辻製陶窯」(写真:『陶器油絵短歌作品集』より)、「柿右衛門窯」、「今右衛門工房」「深川製磁窯場」、「山徳窯」、「都山窯」、「武富窯」、「泉山貞山工房」、「舘林源右衛門窯」、「親和陶磁器窯」等、今も続く名窯の名がタイトルに入った作品も多い。100号、60号、50号等大きい画面に写実的に描かれている。
陽の当たる庭の後方に瓦門が見え、大きな石組の窯とその脇で働く女性が描かれている「対山窯」は岩尾対山窯ショールームに飾られている。ここに描かれている窯場は現存しない。岩尾対山窯は現在は岩尾磁器工業が母体で、水浄化用の耐酸磁器、レリーフタイル等、セラミック工業が中心になっている。ショール―ムには有田の大物を得意とした名人轆轤師が引き、対山窯が焼成した色絵人間国宝加籐土師萌の皇居新宮殿に納められた「萌葱金襴手菊文大飾壺」(1969)の姉妹作品が展示されている。
「岩尾対山窯」とタイトルの付けられたこの窯元を描いた作品はもう一点あり、1980年出版の『陶器油絵短歌作品集』に載る。広い窓を背景に成形作業をしている男性が描かれている。
終戦直後の昭和二十四年(1949)日展出品の岩谷川内の「聖陶苑」(50号)に描かれている窯は取り壊され、今は川側の後方に築かれている。後の建物は今も使われている工房と思われる。昭和三十年代生まれの窯関係者はこの場所に窯があった記憶はないという。終戦四年後の窯場ではあるが、窯の前には薪が積まれ、窯道具、鞘や素焼き作品と思われるものが山積みされ、働く人の後姿も見え、順調な復興をうかがえる。この作品は、『陶器油絵短歌作品集』に長埼県庁所蔵と記録されている。
「辻製陶窯」(1954)に描かれる辻精磁社の細工場は増築され、窯が後方に築かれているが、太い柱と梁、製品を置く棚、粘土を練る台等は半世紀以上前に描かれた絵とほぼ同じ位置にある。長い間仕事をしてきて、最も作業のしやすい動線でレイアウトが出来上がっているのだろう。日展に出品された60号の絵には、大甕の釉薬をかき混ぜる職人、長い板に製品を乗せて運んだり、屈んで仕事をする人物が描かれている。
「有田町裏通り」(又は「御用門のある露地」)は辻精磁社の宮内省御用窯の門札のある立派な瓦門とトンバイ塀の通りが描かれている。トンバイは窯の内壁に使われ窯変した煉瓦の廃材で、これを積み赤土で塗り固め塀を築いた。古い窯元の建物が残るこの通りはトンバイ塀のある裏通りと呼ばれ有田の観光名所になっている。道巾が広がり、道路が高くなっているが、この絵が描かれた半世紀ほど前の陶都有田の風情は、今も変わらない。一水会展に出品された。
「舘林源右衛門窯」(30号)に描かれた窯場の奥に見える素焼窯はないが、右上の窯は上部と内壁一部が現代の耐火煉瓦に代えられ鉄骨で補強されて、今も変わらず使われている。 焼成中に出る大量の煙は地下を通り、外に立つ煙突から吐き出される構造になっているそうだ。窯元社長によると轆轤場は別の場所にあるが、絵の構図上、轆轤を回す職人、床に並べられた沢山の製品、道具類が前景に描かれた。制作年は不明だが、活況を呈する窯場風景となっている。窯の古伊万里資料館に展示されている。
「泉山貞山工房」(60号)は轆轤を引く職人、製品が積み重ねられている頭上の棚、奥には大きな甕の釉薬を長い棒でかき混ぜている女性の姿を描いた静かな細工場風景。この工房は貞山窯が、共同工場で生産するようになり閉鎖された。有田町本町の馬渡クリニックが所蔵。
1956年に日展に出品された100号の「柿右衛門窯」に描かれている窯は現役で素焼き、本焼きに使われている。春、秋の有田陶器市期間に赤松を使う薪焼成が特別公開されている。窯場の屋根や周りの建物は建て直され、煉瓦は数年で脆くなるので代えられている。
この絵と1958年一水会出品の60号の「柿右衛門窯」の二作品に登場する庭の井戸の水は絵付け絵具を薄めるために今も使われているという。塩素を含む水道水とは違う成分の井戸水が伝統の色を保っているのだろうか。
田中の描く窯場や工房には静寂な雰囲気の中で働いている人物が二、三人描かれている。男性の職人と共にスカートの女性の働き手が目立つ。 伝統的に女性とされているダミ手ではなく、作品を運ぶ姿、釉薬を混ぜる姿が見られ、女性も窯業復活のために大きな役割を担っていた様子がわかる。
太平洋戦争中は量産物の製造を強いられ、技術が失われていくことの恐れもあったのだろうが、戦争が終わるとすぐに立ち上がり、その後の大躍進に繋がる昭和二、三十年代の日常を取り戻した窯場で働く人物は人数は少ないが、続々と作品が出来ている様子が伝わる。
田中太郎(1904-1988)は福岡生まれ。幼少から絵の才能を見せる。1945年五月に佐世保相浦海兵団に入団するが、終戦で家族が疎開していた夫人の故郷有田に移り住み、絵画、陶芸に専念する。二科展、日展、一水会展等に風景、静物等、具象画の出品を続ける。有田小学校で美術教室を開き青少年を指導した。
舘林源右衛門窯金子昌司社長は祖母に連れられ、この教室に通った思い出があるという。
アカデミックな美術教育は受けず、基本的には独学。太郎が私淑した坂本繁二郎は『田中太郎還暦記念作品集』(1964)に言葉を寄せている。
田中君の作品を思ふ時先づ胸にくるものはその強烈独特の色彩であるそれは抽象的に色彩斗りが誇張されたものではなく物を見られた色彩である。田中君は陶境有田に在りて陶の色彩に就ても永年実地に研究され北国方面にも独特の色彩感覚が物を言って成果があがりつつある。
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乳白色たをたをと湛ふる釉薬に素焼きを浸せりをとめはもろの手に
釉薬かけをする女工を詠うこの歌は、呉須に焼成された歌碑「白磁の韻」となり、有田大樽の田中家の庭に建つ。優紀子の実家藤井家は祖父、父が稗古場に十二軒登り窯を経営した。 登り窯は老朽化により、1948年に取り壊された。優紀子は「短歌 陶峡」に詠む。(『陶説』日本陶磁協会 1971)
父祖の業十二軒登りの稗古場窯ありしもいまは哀話となりつ
優紀子の有田の歌の多くは『白磁の韻』短歌集に載る。『田中太郎還暦記念作品集』、太郎との共著『陶器油絵短歌作品集』にも短歌を寄せている。
『白磁の韻』は1953年から1959年までの七年間の作品で、「光と音」、「白磁の韻」、「北辺」の三編からなる。「光と音」編の「柿右ヱ門の窯」に所収されている歌は1953から1955年に詠んだもので、太郎のこの窯の油絵作品と時代が重なる。
陳列場の初代がなせし陶の器柿のいろひをさながらになす
初代柿右ヱ門の大丼のしだれ桜やさしく描かれゐて冬陽うつり来
素乾きの彫りこまかなる女身美は真珠観音とふこの工房に成る
ごす絵の具練りて練りつむ数日を練りまはす呉須に白き冬陽落つ
バス待ち合う魚屋のゆふべ鰯鯖竹輪など買ふ男工員達
夥しく魚買ひし小父が窯の職婦に口説きゐるなり職場変更を
当時国道のバス停「柿右衛門入口」の向いに魚屋があり、仕事を終え帰途に就いた職人たちが夕餉の買い物に立ち寄ったのだろう。
藍グリーン紅が白磁の皿を彩へり陶絵の具代々秘めて継ぎたり
画工達が太き絵筆にダミてゆけばごす黒々と素焼きが吸ひあぐ
寡黙にて過ごすひと日の茶の時間巷のニュース聞きてくつろぐ
晴るる朝かけつらねゐし濯ぎ物に窯の煤煙ふりかかりくる
優紀子は九州出身の北原白秋に師事、初め耽美的な短歌を目指した。後に木俣修の形成に参加して実生活に題材を求めた今日的な歌を詠む。「柿右ヱ門の窯」の魚屋の歌等にその傾向がみられる。『白磁の韻』の後記に「木俣先生に依って歌の新分野が拓け、作品も少しずつ様相を変えてきたと思うのであるが、永い間つちかってきた対象への美的追究の態度からいまだ脱皮していないかも知れない。木俣先生の提唱にかかる人間主義的な方向が新しい時代の文学理念としてもっとも正しいものであるという信念もようやく深くなり、今はひたすら、その方向にむかって精進したいという念願に燃えている」と記す。
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田中太郎は有田の風物や陶磁器のある静物も描いた。泉山磁石場の作品は数点あり、佐賀銀行有田支店、肥前陶磁器商工共同組合等が所蔵し、展示されている。「黒髪山」は伊万里市農業組合三階ロビーに展示されている。黒髪山は標高518メートルの奇岩が連なる険しい山で武雄市と有田町に跨りそびえる。大蛇伝説のある黒髪山を詠う村田昭典の短歌がある。(『肥前の新しい歌枕』 白鷲短歌会・潮鳴り短歌会、1991)
黒髪山積乱雲に包まれて伝説の蛇の潜むがごとし
平安末期、今から八百五十年程前、黒髪山の麓の白川の池に大蛇が住み、村人たちに害を加えていた。領主が兵を連れ大蛇退治に向かうが、姿を隠し現れない為、美しい娘を囮におびき出そうということになる。応じる者がないなか、武雄の高瀬に住む万寿という娘が、お家再興を願い、身を犠牲にすると申し出た。家臣であった万寿の父は、陰謀からお咎めにあい命を落とし、家は断絶となった。万寿が池にしつらえた棚に座り大蛇を待つと、不穏な空気が広がり大蛇が現れ一飲みにしようとした時、鎮西八郎為朝が現れ長い矢を射ると、大蛇は火を噴いて山を転がり落ちて行った。弟小太郎は褒美に高瀬の里を与えられお家は再興となったという。
源頼朝、義経の叔父にあたる為朝は乱暴者だったため、父に九州に追放されたが一帯を制覇して鎮西八郎を名乗った。黒髪山一帯にはびこる群盗を弓の名人源為朝が退治したという口碑があり、これが大蛇伝説の起源といわれる。
元有田商工会議所会頭で対山窯十三代岩尾新一社長は『田中太郎還暦記念作品集』に寄せた。
ともすれば時代の繁忙に取りまぎれて忘れられ壊ち去られ様とするトンバイ塀のかなしさ、平素見なれたつもりでも絵になれば妖しい迄に美しい磁器の肌合ひ、さりげない作業場の気付かなかった構成美、之等を丹念に制作され継続して私達の前に取り出して惓まなかった田中さんの毎年の労作は有田の殆どの人の瞼にありありと遺って居るのである。
田中太郎の絵は芸術作品であると同時に、優紀子の短歌と共に、昭和中期、戦後の復興期の伝統と技術を持つ窯場の落着きとその後の繁栄をもたらすエネルギーを蓄える静けさを感じさせる作品で、記録としても大きな意味を持つ。
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『田中太郎還暦記念作品集』田中太郎(田中太郎還暦記念作品後援会1964)
『肥前の新しい歌枕』(白鷲短歌会・潮鳴り短歌会、1991)
瀬戸の加藤民吉
江戸時代末期、八百年の陶器生産の歴史を持つ窯業の中心地尾張藩瀬戸は厳しい状況に置かれていた。庶民の生活の向上で焼物の需要が拡大していく中、藩が殖産興業政策で窯屋を保護し利益の増大を図るシステムを築いていったが、窯屋は藩からの拝借金の利息支払いが負担となったり、問屋の代金滞納や踏み倒しに合い困窮していく。
瀬戸市美術館館長服部文孝氏によると「[従来言われていた有田の生産する良質な色絵]磁器に押されて困窮していたということではなく、生産が増大しても、その状況は厳しくなるという構造であったのである。この状況を打破するためにも、新しい焼き物である磁器焼造への期待が大きく、その研究が積極的に進められていくこととなる」。 (「瀬戸染付の歴史」、加藤民吉九州修業200年記念『瀬戸染付の全貌:世界を魅了したその技と美』 瀬戸市文化振興財団 2007)
清の磁器解説書「陶説」(1767-1774)全五巻を持ち南京焼(染付)製造法を研究していた熱田奉行津金文左衛門は大松窯の次男加藤民吉(1772-1824)に磁器の製造開発を命じた。一子相伝の取り決めがある瀬戸で、兄が窯を継いだため、父吉左衛門と熱田新田開発に携わっていた民吉は、文左衛門に製法を教えられ、磁器焼成に成功するが、その質は肥前で作られているものに大きく劣っていた。 民吉は肥前の先進技術を習得する為に、文左衛門の養嗣子庄七、瀬戸焼取締役で庄屋の加藤唐左衛門、代官水野権平等の支援を受け、1804年32歳の時九州に赴く。
九州では磁器の技法、特に釉薬、顔料の調合は秘法として守られ、他藩の者に漏らすことは固く禁じられていた。 民吉は各地の寺の住職の助けを得て、天草の高浜焼窯元、庄屋で天草陶石の総元締めでもある上田源作、肥前佐々、市ノ瀬窯の福本仁左衛門の下で働き、土作り、蹴ロクロでの成形から窯焚きまで習得し、釉薬、顔料の調合、色絵焼付も最後に伝授された。 帰路、原明から有田に入り柿右衛門窯を目指したが、外から威容を眺めるだけで宿に行き、翌日報恩寺を訪ねた。檀家堤惣衛門を紹介され、黒牟田山での築窯に参加し、1807年瀬戸に帰った。瀬戸で磁器用丸窯を築き、民吉が良質の染付磁器焼成に成功したのは、後藤才次郎により九谷で色絵磁器製造を始めた1655年に約150年遅れる。
瀬戸では陶を本業焼、新しく開発された磁器を新製焼と呼んだ。瀬戸窯業が陶器から磁器製造に発展し、世界的窯業地となる基礎を築いた民吉は藩主より苗字帯刀を許され、磁祖と呼ばれ、窯神神社に祀られている。
加藤民吉の九州での修業は、瀬戸深川神社宮司二宮守恒の民吉の口述の筆記「染付焼起源」(1818)に詳しく記録されている。奉行津金庄七の「新製染付焼開発之事」、瀬戸焼取締役加藤唐左衛門の手記「染付焼物御発端之事」、上田源作の「庄屋日記」など当事者による信頼できる資料も残っている。
加藤庄三(1901-1979)は『民吉街道:瀬戸の磁祖・加藤民吉の足跡』、「『染付焼起源』とその詳解」の章で二宮の記録を辿り民吉の修業の足跡を明らかにしていく。加藤は史料を丹念に調べ、九州各地を訪ね、関係者の子孫を取材した。
瀬戸の資料に民吉が修業地で妻を娶ったとは書かれていないが、磁器産業を守る為、技術の漏洩を厳しく禁じ処罰を科していた肥前、肥後での民吉の色絵磁器の秘技習得は、冷徹なスパイ行為や悲恋の逸話が史実を補うように口承され、多様な物語を生んでいる。
毎年九月に開かれる磁祖民吉の功績をたたえる瀬戸物祭りの二日間は雨にたたられることが多く、瀬戸では「民吉に捨てられた佐々の女性の涙雨」だと言い伝えられている
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昭和二年(1927)十月、大阪中座で上演された歌舞伎「明暗縁染付」(ふたおもてえにしのそめつけ)は「佐々の悪魔、瀬戸の窯神」という副題が付けられ、加藤民吉を肥前平戸焼の秘法を盗み、故郷瀬戸に伝えたスパイとして描く。
民吉は武蔵と名を偽り、佐々の御用窯に入り修業し、故郷に妻がいながら窯元の娘千鶴を娶り、秘技を伝授された後、行方をくらます。
序幕は佐々の皿山。秘技を他国人に盗まれた廉で窯主福本仁左衛門と息子の小助が水牢の刑に処せられた。怒った村人達が民吉の像を描いた染付の踏み絵を作り、千鶴に踏みつけるように迫っている。そこに皿山代官所の手代中里角右衛門が止めに入り、瀬戸に逃げ帰ったと見る民吉を必ず捕えてくると約束する。
舞台は瀬戸に移る。民吉は苦労の末染付焼に成功し、窯では職人たちが集まり祝が開かれている。そこに角右衛門が田舎商人を装い訪ねてくる。尾張藩主にお目見えした民吉は、苗字帯刀を許され大小を差して帰宅する。皆が奥へ行ったところに、千鶴が幼い息子嘉蔵を連れ現れ、弟子の一人に名乗り出るが、追い返されてしまう。民吉は千鶴と嘉蔵を見て、福本家を陥れてしまった不実を恥、ライバル忠治に秘法を伝え瀬戸を託し、死の覚悟を決める。民吉は窯場で千鶴と嘉蔵に再会する。千鶴はしかし肥前から皿山代官所の役人が民吉を捉えようと追ってきていることを告げ、逃げるよう勧める。陰から見ていた瀬戸の妻は、千鶴の直向きな愛を知り、追い返そうとした自分の嫉妬心を恥じる。
民吉: 六年以前、この瀬戸を水盃で出た時から命はもとよりない覚悟、したかお国で掟を設け我が国一手の産物で利を得やうとは狭い了簡、皆隔なく技を磨き高価な唐物を追のけて異国までも売拡ろめ日本の焼物の名を挙げてこそ真に国産とも云わるゝ道理、その生贄に捨つる命何の女々しう惜しまうか、そなたも福本仁左衛門の娘、技の為に命を捨てる私の心をよう察してこの嘉蔵を守り育て、立派な焼物師に仕立てゝくれ、いひ置く頼みはこれ一つ。
角右衛門: いや、私は見る通りの旅商人、御三家たる尾張公御寵愛の焼物師、加藤民吉保賢殿の意見を聞いてどうやら広い世間が見えて参った。
歌舞伎は人気を呼び、民吉の現地妻を裏切り秘技を盗んだスパイのイメージを広めたが、クライマックスの民吉と角右衛門の台詞には、陶工のスパイ物語の底に共通に流れる“経済、政治の論理では論じられない”物作りの道理がある。作り手は技術を共有し、技を磨き合いよりよいものを作ることを願い、交流があって物作り文化が熟すると考える。
瀬戸への帰路、民吉は天草の上田源作を訪ね、窯を脱け出したことを詫びた。源作は腕を上げた民吉に感心し、民吉の瀬戸の不況を救い、日本の磁器の発展に賭ける思いに共感し、色絵の技法を口授し調合書を渡し、帰藩する民吉に職人惣作を同道させた。
右は、秘事にそうらえども、ご熱心の実意に感じ、書外に授をもって、相伝え致しそうろう。決して他に伝えること、これありまじきそ也。
源作は民吉に渡した絵具調合の秘伝に書き、署名と花押をした。この秘伝書は今も天草の上田家に残る。上田家の「庄屋日記」には民吉がに東向寺の僧に伴われ初めて上田家に来た日の記述がある。
児童文学者神戸淳吉の「あたらしいやきもの―加藤民吉―」にはこの時、上田元作(二宮資料は元作と記す)が民吉に語る場面がある。
よく正直にうちあけてくださった。さぞこわい思いをしただろう。けれど、わしもよいやきものをつくろうと苦労しているものだ。わしの知っていることはぜんぶ教えてあげよう。瀬戸のために役立つならわしもこんなうれしいことはない。
示車右甫の歴史小説『瀬戸焼磁祖加藤民吉天草を往く』では民吉は佐々で修業を終え、有田に近い木原に淡青磁、色絵磁器を焼く横石治平を訪ね色絵の技法の教えを乞う。一子相伝が家訓で他国の人には教えられないという横石だが、民吉は横石の物作りの信念を見る。
、、、お前さんも、一廉の修業者であろう。であれば、先人の苦労によって得られたものを、わけもなく手に入れるなど、なすべきことではない。我らご先祖は、いかにして苦労の果て、赤絵の秘法を得られしや。 子々孫々、夢にも忘れるものでない。これが、手前の存念である。わかられたか。
一言もない民吉に治平は「とはいえ、お前さんも、遠いところ、よくぞこの鄙びた木原に来られた。これも縁であろう。よって、記念に一品進呈する」と赤い粉末の入った袋を与えた。 赤絵の顔料ベンガラで、白玉と硼砂の粉を混ぜ焼いたものと教えられ、分量は言えないが研究するようにとわれ、民吉は治平の恩情に感謝した。
「明暗縁染付」は若干筋を変えられるなどして大衆演劇が作られ各地で上演された。
「皿山炎上」はその後主演した玄海椿が一人芝居に脚色して九州を中心に上演されている。作詞・荒木とよひさ、作曲・三木たかしのテーマ曲「皿山情話」を玄海が歌う。この曲はその後嶺陽子が歌うCDに制作され、YouTube<www.youtube.com/watch?v=CIlS-XGkn6g>で聴取できる。歌詞は歌ネット動画プラス<www.uta-net.com/movie/76793/>に所載。
インターネットのデジタルライブラリー「藤澤茂弘の小説庫」所収の「焔街道 加籐民吉伝」は封建制下、藩の力の前に個人の意志を通す術のない民吉の悲哀に光をあてる。
民吉は肥前佐々の福本仁左衛門の窯で磁器製造法一切を教えられ、全幅の信頼を得て窯焚きまで任され、娘智と夫婦同様に暮らし心を通わせていた。 佐々を離れることは心苦しく、しかし瀬戸窯業復興の任を果たせねばならないと、必ず戻る約束をして佐々を離れた。
民吉が佐々を離れて数年後、智が幼い男の子を連れ訪ねてくる。 民吉は九州で習得した磁器製法を瀬戸に伝え、染付磁器焼成に成功し瀬戸は活気を取り戻していた。瀬戸焼取締役の加藤唐左衛門は、結婚して娘もいる民吉に佐々に戻れば殺され、秘法を洩らした家にも責任が及ぶと告げ、又「御三家筆頭の我藩が、有田から密かに磁器焼の秘法を探り出す陶工を送り、藩の財政改善に役立てた、など疑われるようなことがあっては、断じてならぬのじゃ」と藩の面子を理由に佐々に行くことを許さなかった。民吉は自ら生死をかけての仕事として行動していたつもりでいたが、唐左衛門が「藩のため」と繰り返すのを聞き、九州修業は尾張藩挙げての事業で、天中和尚はじめ曹洞宗の僧の協力、危険を知らせてくれた人や協力者、時々感じる尾行者の陰など思うと、自分は「藩の傀儡」に過ぎなかったのではないかと疑問を感じる。民吉は有田行きを志願し、磁器焼の秘伝を瀬戸に持ち帰り大望を成し遂げたのだと感じながら、智との再会もならず虚しさを禁じ得ない。
お智、許してくれ。
わしが必ずお前のもとに帰るといったのは、決して嘘ではなかった。裏切るつもりなど毛頭なかったのだ。わしにはどうにもならぬ力がこうさせたのだ。
…その子はもう五、六歳になっているはず。どんな男の子に育ったろうか。ひと目なりと会いたい。そして、お前にもその子にも心から詫びたい。
民吉はその年の暮れ、福本一家に贈り物を送ったが、何の便りもなかった。
藤澤は名古屋出身の元新聞記者で尾張関連の時代小説を多く手掛ける。
福岡県出身の詩人で文芸評論家の野田宇太郎(1909-1984)はその文学散歩シリーズで民吉の足跡を訪ね、瀬戸で妻の名も刻まれている民吉の墓を確認する。瀬戸訪問から三年後佐々を訪ね、福本家の墓地に福本仁左衛門の次女のものと思われる墓を発見した。「蓮室智香善女」という戒名が刻まれている墓は仁左衛門夫婦の墓のわきにあり、天保三年(1832)と没年がある。独身で50才位で没したことが窺える。その脇に次女の子供のものか、名もない石塊の墓が転がるようにあったのを見つけた。
邦枝完二(1892-1956)の『江戸名人伝』に収まる「陶工民吉」は天草の上田窯が舞台。窯に入り一年近く過ぎ、民吉は他藩から来た自分に釉かけや絵の具の調合は固く秘せられ伝授されないことを悟る。目的が果たせず悶々と悩むうちに、心が乱れ、自分を慕う窯の娘お絹に秘伝書を盗み出してもらい、駆け落ちする。
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「産地間の人や技術、あるいは情報の交流により、それぞれの産地で多様な製品が生み出された」、佐賀県立九州陶磁文化館学芸員徳永貞紹氏は有田焼創業400年記念の年を祝う『日本磁器誕生』展の図録に記す。開催中(2016年10月7日-11月27日)の同展には民吉作と伝わる「染付松竹梅文茶碗」、「染付花菱縦湧文手桶形瑞水指」が展示してある。
フィクションとは異なり、瀬戸と佐々は良好な関係にある。
民吉研究者加藤庄三の遺志を継ぎ、子息正高氏は庄三が没した翌1980年に佐々皿山に謝恩碑を寄贈した。高さ四メートルの大理石で「佐々皿山 加藤民吉翁習業之地」と記されている。瀬戸市は民吉が頼った曹洞宗僧侶の天草東向寺に民吉の記念碑を建てた。しかし加藤は磁器製造に移行して瀬戸の繁栄の基礎を築いた民吉に磁器の技術を伝えた佐々の窯こそ瀬戸が恩を感謝すべきと考える。加藤は1969に福本家墓地の参道入口に道標も寄贈している。
福本家の市ノ瀬窯は三代七十五年(1751―1825)続き閉窯した。皿山公園にある窯跡は長崎県指定文化財に指定されている。「民吉に白磁の技術を伝えた窯として、佐々皿山の窯跡は佐々町の誇るべき史跡である」と佐々町教育委員会の説明がある。
福本家の子孫はその後炭鉱業で成功したと伝えられる。
佐々町に「佐々音頭」がある。佐々の自然の美しさ、農業、大正から昭和にかけて栄えた炭鉱産業などを歌う五番まであり、その四番に民吉が歌われている。作詞矢野洋三、作曲川上英一。町制施行七十周年記念「長崎県佐々町町勢要覧2011」(dbook-佐々町 <www.sazacho-nagasaki.jp/youran>)に所載。町の祭や小学校の運動会で演じられる。
アーアー昔しゃ皿山皿焼く煙りヨー
加藤民吉ネよか男
瀬戸の茶碗も有田の皿も
種がこぼれて咲いた花チョイト
さっさよかとこよい佐っ佐ソレ
さっさよかとこよい佐っ佐
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加藤庄三は『民吉街道:瀬戸の磁祖・加藤民吉の足跡』に、「民吉に関する芝居や小説は、身分を隠し、染付の秘法を盗みに行ったことになっているが、スパイと修業では大変な相違である。民吉は各地の寺の住職に身元証書を書いてもらい紹介状を持ち窯元に修業を依頼した記録が残る」と記す。
曹洞宗僧侶で愛知学院大学教授の川口高風は「磁祖加藤民吉をめぐる洞門僧」(「宗学研究」1983 3月 駒澤大学曹洞宗宗学研究所)で民吉の九州修業の各過程で曹洞宗寺院の僧が重要な役割を果たしたと指摘する。尾張藩は九州行きを許可したが、九州との縁がないため、瀬戸出身の洞門の僧に民吉の紹介を託した。
1804年、民吉は尾張大森村の法輪寺の長老祖英の紹介状を持ち、瀬戸の隣菱野村出身の肥後天草の東向寺天中和尚を訪ね、天中の紹介で天草高浜の窯元上田源作の窯に入ることが出来た。半年ほど働き、磁器製造の大体のことを教わるが、絵具、上釉の作り方を教えてもらえない為、再び天中を訪ね肥前行きの望みを伝え、佐世保西方寺の住職洞水(天中の友弟子)を紹介される。洞水に紹介された早岐の薬王寺住職舜麟により江永村の福本喜右衛門を紹介され、喜右衛門の親戚の佐々市ノ瀬窯の福本仁左衛門の下で働くことになり、佐々の東光寺圭観に伴われ、仁左衛門窯に行く。
平戸焼三川内の流れを汲む仁左衛門の窯で、約二年働き磁器製造の技術のほとんどの工程を習得し、仁左衛門の息子が伊勢詣で留守の際、窯焚きまで任され、一窯焼き上げたことで自信をつける。ほぼ目的を達した民吉は瀬戸に戻りたいと告げるが難色を示され、一年近くお礼奉公の後、佐々を立つ。
佐世保西方寺に報告し、有田での錦手技法の習得の希望を頼んだが叶わず、有田の百婆仙の墓のある報恩寺に行き、檀家の堤惣右衛門の下で錦手用の丸窯作りを手伝った。瀬戸への帰路、報告と謝意を伝えるため東光寺、上田窯に立ち寄った。
川口は民吉の九州修業に大きな役割を果たしたとし、さらに二人の洞門僧珍牛と黙室を挙げる。二人の僧は共に天草出身で珍牛は国葬で送られる等、尾張藩主に破格の厚遇を受けた記録がのこる。川口は民吉が無事に磁器製法を習得出来た恩に対しての返礼と推測する。珍牛は天中を東向寺住職に推挙し、黙室が民吉を天中に紹介したと考えられるが、文書の記録は無い。川口はもし文書が存在したならば、肥前松浦藩や将軍との争いが生まれたかもしれないという。九州修業出発前に民吉父子が黙室に贈ったと伝わる獅子香炉が尾張の普門寺に残る。
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「磁器の原料製法を知るというのが民吉にとって〔三川内に来た〕最大の狙いだったと思います」、金内嘉一郎、三川内窯元で陶磁工業協同組合代表理事は「肥前から見た民吉譚」(「波佐見の挑戦―地域ブランドを目指して―」長崎新聞社 2011)で指摘する。
理由は質に問題があるものの瀬戸でも磁器を焼いていたことと、瀬戸の多くの人は民吉は佐々ではなく有田に行ったと思っているが、しかし有田は泉山の陶石をほとんど単味でつかっていたが、三川内の流れをくむ佐々では陶石を混ぜた土を使っていたため、数種の土を調合して作る瀬戸の磁土作りに役立った。民吉は天草陶石に佐世保の針尾島の網代陶石など交ぜ、虎の置物など細工が出来る粘り気のある土が欲しかった。そうすれば磁器の細工物ができ、有田と違ったレベルの高い焼物が出来ると考えたのであろうと云う。
加藤徳夫の『不況大突破 瀬戸の民吉』は銀行員の経歴を持つ経営コンサルタントの著者が『民吉街道』からの引用を交え民吉の半生を辿り、瀬戸の不況を乗り切るための技術革新と重ねる。陶業を「尾張の花」として保護した藩、奉行、代官、庄屋が力を発揮して技術革新を成し遂げ得たのは、「制度改革、政治への働きかけと活用、仲間の団結などで、いまの時代に通じる不況突破のモデルとなり得る」とする。
瀬戸では鍋島藩の御用窯を追われ、藩を出た副島勇七から製法を伝授され、民吉の親戚筋の加藤粂八、忠治が十八世紀末までに磁器を製造を始めていたと伝わるが、陶器産業を守る藩の方針で本格的には行っていなかった。
瀬戸焼取締役加藤唐左衛門は釉薬の融剤になるイスの木の植樹をしたり、原料確保などをして陶器の本業焼から磁器の新製焼に転換する者を援助した。陶窯の次男、三男が磁器窯を開いたり、他業から新しく磁器製造に参入することも可能になった。
1814年に千倉石鉱脈が発見され、砂絵と呼ばれる呉須が採れる。唯一国産の呉須で、鮮やかな瀬戸独特の染付を生む。
「染付山水図大花瓶」、「青磁染付龍文花瓶」などは民吉作と伝わるが数は少ない。佐々時代の木の葉形皿も残る。色絵磁器はほとんど作らなかったといわれている。
九州修業の最終段階に釉薬や絵具の秘法まで伝授され、窯業を救い、地域に貢献した民吉の成功の鍵を「決意が固い、理念がはっきりしている、誠実であること」と挙げる。
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会津本郷焼は十七世紀中葉に現在の福島県会津若松市に近い本郷で始まり、陶器と磁器両方を製産している。茶器や実用品を作っているが、近年では鰊の山椒漬けを作るタタラ作りの鰊鉢が民芸ファンの人気を集めている。
民吉が瀬戸を離れる少し前の1797年本郷で陶器を作っていた佐藤伊兵衛 (1842没 享年81歳)は磁器製造技術習得の為、肥前行きを志し、常滑、瀬戸、信楽、京都、有田、萩、伊部等一年間各地を回り技法を学んだ。京都では清水六兵衛の窯で修業した。
伊兵衛は大阪に立ち寄り、鍋島家御用達の布屋の紹介で鍋島家の佐賀の菩提所高伝寺に行き、有田の窯場入りの仲介を頼んだが、規則が厳しく叶わなかった。住職が皿山出身なので、伊兵衛は寺男となり窯場に通うことが出来、土の調合、釉薬、窯、道具など観察し、知識を十分得て、帰路、長崎に寄り呉須を買い求め帰藩した。1800年、伊兵衛は肥前皿山式の窯を築き白磁の製造に成功し、藩の産業として育てた。
瀧川雄の「陶工スパイ伝」は三川内(現・佐世保市)今村三之丞の秘技盗みを語る。
三之丞は秀吉の朝鮮の役(文禄・慶長の役 1592-96,1597-98)に出征した肥前平戸領主松浦氏が連れ帰った陶工巨関(松浦郡中野村窯を開き、後初代今村弥次兵衛を名乗る)の子で三川内で磁器を焼いていたが、南川原で焼かれるより優れた色絵磁器の技法を知りたかった。しかし鍋島藩は秘法を守る厳しい掟を敷いていた。そこで三之丞は女房を女工として柿右衛門窯に入れ、調合をさぐらせた。
ちょうど高原五朗七(竹原五朗七)が柿右衛門窯で南京焼や白手焼を教えていた。五郎七は優れた陶工で秀吉の聚楽台に召されて茶碗を焼いていたが、キリシタン禁令が出て疑われ処刑されるのを恐れ放浪に出る。九州を放浪していた頃、1626年から四年間、柿右衛門窯に逗留していた。
五郎七は女工に釉薬の原料を運ばせることにしているので、女房に五郎七のところに原料を持っていく前の重さと、五郎七が使い終わり残った物を持ち帰った時の重さを量らせた。これをもとに三之丞は絵具を調合したが、三川内と南川原(本文では南河原)では土や釉の成分が異なる為、すぐには成果は出ず、思うようなものが出来たのは、息子の代であったという。
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福成和光の小説『かくれ赤絵師』は新聞記者が現代版色絵秘法盗みにまつわる事件を追うミステリー(平岩弓枝の同名のテレビドラマ「かくれ赤絵師」とは関連はない)。
1923年(大正十二年)、美濃で農業のかたわら焼物を焼く貧しい家の二人の少年が有田の窯元に修業に出た。 二人は出身地を隠し技術を習得し、故郷に帰ることになっていた。
60年後、東京の新聞記者が知人から割れた瓢箪型の壺の鑑定を頼まれた。 友人である瀬戸の陶芸家に持って行った所、壺の釉薬の中に人骨と同じ成分が入っている疑いがあるといわれた。瓢箪型の壺は唐津の陶芸家の個展に出たものだった。
この頃、色鍋島の贋物が出回り、真贋論争が起きていた。
瀬戸の陶芸家の義父は作陶と共に全国の窯場を廻り作品を集め骨董商店に持ち込んでいたのだが、十年ほど前、旅先で行方不明になっていた。
新聞記者が調べるうちに、義父は美濃から有田に修業に出た少年の一人源吉だとわかり、一緒に修業に出た少年喜兵衛は有田の窯元の婿養子になり窯を継いだのだが、赤絵技術盗みのうわさが町で広まり有田を逃れた。
源吉は喜兵衛が唐津にいることを突き止め、色鍋島を作らせ売りさばいていた。喜兵衛には源吉が知る、肉親にも言えない秘密があった。喜兵衛は唐津を訪ねた記者に、源吉が筆が握れなくなった喜兵衛に代わって、息子に色鍋島を作らせようとしたことで思い余って源吉を殺したと告白し、窯の方を指さした。
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加藤庄三は『民吉街道』の第四章「肥前有田より技術導入」を“皿山五人男”を挙げ締めくくる。
歌舞伎に「白浪五人男稲瀬川勢揃の場」という一幕ものがある。立派な人ならともかく、大泥棒ばかり五人が花道に並んで勝手なことをしゃべり、大見得を切っているのを見て、見物人は大いに堪能している。
ここに、碗屋久兵衛・後藤才次郎・副島勇七・佐藤伊兵衛・加藤民吉と「皿山五人男」が揃う。
稲瀬川の勢揃いの台本を見本に「皿山五人男、閻魔ノ庁三途の川の場」と題して、伝説・事実関係を問答形式に書いたら、さぞ面白かろうと思う。
悪役に甘んじ、時に悲惨な運命の犠牲になった五人男はじめ“スパイ”達の存在があって、全国に美しい陶磁器が生まれ、焼物産業が発展し、栄えている。
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「焔街道 加籐民吉伝」 藤澤茂弘 <sigehiro.web.fc2.com/tamikiti1.html>
『瀬戸焼磁祖加藤民吉天草を往く』示車右甫(花乱社 2015)