文学に描かれた柿右衛門のイメージ

はじめに
 
一昨年(2010)の秋、茨城県陶芸美術館の展覧会イメージ 1人間国宝と古陶-対峙する眼と手」の関連イベントで十四代酒井田柿右衛門さんの講演を聴く機会を得た。事前に、十四代柿右衛門さんの著書『余白の美』を再度精読し、さらに何冊か参考図書を読んでおこうと市立図書館の蔵書を検索すると、リストのなかに多くの研究書と共に、園村昌弘の『柿右衛門の壺』、ニコルソン・ベーカーの『柿右衛門の器』という小説を収めた二冊の短編小説集を見つけた。
 
二つの短編には古い柿右衛門の壺と、イギリスのボウ窯製作の柿右衛門様式の舟形のソース入れが主要なモチーフとし登場し、物語のなかで重要な役割を果たしている。前者では古い柿右衛門の壺に霊が宿り喋りだし、後者ではボウ窯の磁器を愛する老婦人が、遺言に自身の遺骨を混ぜた土で鶉の絵付けのある柿右衛門様式のパンチ・ボールを作ってほしいと書き残す。作家、其々の「柿右衛門」観が、浮き彫りにされる。
 
1643年頃(寛永20年)、初代酒井田柿右衛門肥前有田(佐賀県有田町)で白い肌の磁器の上絵付けに成功して以来、鮮やかな色絵を施された柿右衛門の磁器はヨーロッパ中心に大量に輸出され人々を魅了し続けてきた。王侯貴族の館を飾りバロック文化を彩り、饗宴の器として使われた。
 
オランダ東インド会社1659年(万治2年)、56,700の磁器を有田皿山に注文したという記録が残るよう、大量に輸出された柿右衛門又は柿右衛門様式の色絵磁器は、アジア、中東、アメリにも広く普及し、裕福な市民の手にも届くものとなった。ヨーロッパでまだ磁器を作ることができなかった時代、マイセンはじめ多くの窯が柿右衛門の色絵磁器に刺激を受け開発に情熱を注ぎ、デザインを模倣した。今でも柿右衛門様式の磁器は作り続けられ、食器、身近な装飾品として人々の暮らしの中に生き続けている。国内でも名工作の焼き物として珍重され、骨董として愛され、また食器として幾世代にも受け継がれ大切に使われている。
 
柔和な白い肌の上に光をはらんだ色絵を持つ柿右衛門の色絵磁器は、日本の陶磁器の代名詞となり、人々は各々の「柿右衛門」観を持ち、多様なイメージを抱いている。
 
初代酒井田柿右衛門の逸話は歌舞伎になり1912年(大正元年)初演され、十一代片岡仁左衛門の名演で評判になった。1922年(大正11年)から終戦1945年(昭和20年)まで初等教育の国語教科書の教材にもなった。教科書に載った柿右衛門の物語を学んだ小学生のその時受けた感銘は色褪せず、赤絵開発に立ち向かう姿勢と偉業、十五代、400年近く伝統を守り上質の色絵磁器を作り続ける窯を、科学者、経営者はその後の自身の挑戦に重ね合わせる。
 
私自身も、歌舞伎好きの祖母や、国語の教材として習った父母から、折々柿右衛門の名を聞き、親しみ、「柿右衛門」のイメージを持つようになっていた。博物館や展覧会で改めてその美しさに魅せられ、柿右衛門は大好きな、最も興味を引く焼物になった。
 
柿右衛門の色絵磁器は国内外の小説、人気テレビシリーズ、随筆、詩歌、そして美術に、大切な食器として、高価な骨董として、霊の宿る不思議なパワーを持つ器として、理想郷のシンボルとして登場する。このブログでは「柿右衛門」が多様なイメージで描かれている広義の文学を紹介していく。手に入りにくい書籍や文献も多いことから引用をいれ、そのイメージを浮き彫りにしていきたい。
 
それはただ一条の朱の色を磁器の面にきざみつけるだけの発明であった。しかしそれは、いかにもおおくの苦悩をあたいした仕事でありました。 彼[初代酒井田柿右衛門]は少なくとも私たちの世界に、美の要素を一つおおくふやしてくれたのでした。
吉田絃二郎 『名工柿右衛門の村を訪う』より
(「新日本少年少女文学全集 27 吉田絃二郎集」ポプラ社 1960