染付皿の中の冒険

イメージ 1

白磁の胎に鮮やかな藍の絵柄の染付は、日本では江戸時代初頭に朝鮮半島から渡来した陶工によって技術が伝えられ有田で生産がはじまった。 装飾は日本の茶人に珍重された中国の古染付を倣い中国風だった。 山水、人物、身近な動植物ののびやかな絵柄が自由な勢いのある線で描かれた。 大胆な構図の山水図、飄逸な人物図、幾何学文や吉祥文、唐草、青海波、亀甲、紗綾形繋ぎ文等、器の模様としてデザイン化され、その種類は無数だ。
十七世紀中期に需要の増えた富裕層の宴席を彩る大皿や什器、茶道具は墨はじき、ダミ染め、型押しなどの高度な技術で高級品がつくられる一方、十八世紀になると猪口やなます皿、長方形の焼き物皿等、幅広い層からの需要が増え、量産された。 染付の技術は各地の窯場に伝わり多様な器が作り出され、人気絵柄は絵付け師の自由な表現でつくられ続けている。
白と藍の調和の美しさ、生き生きした筆使いが生み出す素朴な絵柄の面白さで人気を得、染付は最も多く生産され、愛され、使われてきたやきものだ。
 
はせがわ はっちの絵本『さらじいさん』は、伊万里染付の絵柄の世界に迷い込んだ小さな女の子の冒険を描く。
女の子の家には、骨董品店を営むおじいさんから贈られた、三人の不思議な人物が描かれているお皿が飾ってある。 三人は中国の仙人のような姿をしていて、一人は巻物をかかえ、もう一人は琵琶のような楽器を持っている。 一番右に描かれている人物は坊主頭で、ちょっと厳つい顔をしている。
 
ぼうずあたまのひとが おもしろくて
さらじいさんって よんでるの。
おかあさんはつかっちゃだめって いってた。
かざってあるのよ おさらなのにね。
 
女の子は一人で留守番をしている或る日、飾ってあったお皿が使いたくておやつのドーナツを盛った。 するとさらじいさんがお皿の中から手を伸ばしドーナツをつかんだので、ドーナツを取られまいとする女の子は、お皿の中に引きずり込まれてしまう。 女の子はドーナツをもって逃げるさらじいさんを追いかける。
お皿の中は昔の中国で、さらじいさんは、川を渡り、山を超え、野原を走り抜け、百子堂という学校にたどり着く。 川には漁夫、荷船の船頭、野原には筍掘り、牛を縄でつないで馴らす牧童、牛に乗って笛を吹く童子がいる。 兎や雁、蝙蝠などにも出会う。 百子堂には大勢の子供がいて、巻物を学び、楽器を演奏している。 さらじいさんは子供たちにドーナツを分けてあげている。
登場するのは皆、古伊万里染付の人気の絵柄のモチーフだ。 人物は表情豊かで、時にユーモラス、はせがわは落ち着いた藍色でのびやかに場面を描きだす。
 はせがわは付録のリーフレットに載る「絵本『さらじいさん』の生まれるまで 時代屋の青い皿」に古伊万里染付の絵柄の魅力について書いている。
 
手描きのどことなくいいかげんな、のびやかな感じがすごく楽しくて、ポーズや表情も「なんだこれは?!」というような愉快なものもあります。古伊万里の絵には絵本に通じるおもしろさがあると思っていました。
 
はせがわの伯父さんは京都で時代屋という骨董品店を営んでいた。小さい時から伯父さんの店を訪ね、沢山の古伊万里の器や様々な骨董品に親しんでいた。 絵本に登場するお皿はこの伯父さんから贈られた皿をモデルにしている。
お皿の三人の人物の背景には筍が描かれている。 近くに竹林があるのだろう。 三世紀後半の中国三国時代、俗世を避け竹林に集まり、酒を酌み交わし、音楽を奏で、清談したといわれる隠者達、竹林七賢の内の三人なのだろうか。 竹林七賢は絵画や様々なジャンルの工芸のモチーフとなり、染付でも人気の絵柄だ。 そのうちの一人阮咸は、お皿に描かれている仙人の持つ琵琶のような楽器をよく奏し、改良したことから、その楽器が彼の名を冠し阮咸と呼ばれている。
 
学習院大学の荒川正明教授は『初期伊万里展 染付と色絵の誕生』図録の解説「初期伊万里にみえる唐様の意匠―『八種画譜』と人物図を中心に」で初期伊万里が手本にした中国古染付は明代後期に盛んに出版された墨刷木版の『八種画譜』、『芥子園画伝』等の画譜、故事や歴史の挿絵本を手本に本格的な山水画や個性豊かな人物画の絵付けがなされと指摘する。
明末天啓年間(16211627)に編纂された『八種画譜』の翻刻版が寛文十二年(1672)京都と江戸で出された。
古伊万里「染付吹墨騎牛笛吹童子文皿」(今右衛門古陶磁美術館蔵)は『八種画譜』の「五言唐詩画譜」に載る盛唐の詩人崔道融の「牧豎」(ぼくじゅ=牛の世話をするこども)を絵画化した図柄を持つ古染付を倣ったといわれる。皿の表に過去の優れた画家の筆に倣うという意味の「倣筆意」という角銘が入っている。この皿に酷似した陶片(有田町歴史民俗資料館蔵)が有田西部の推定年代1610-1630の天神森窯跡より出土している。
 
『さらじいさん』にも牛に乗り笛を吹く童子と牛を綱でつないで馴らそうとしている牧童が登場する。 禅の修行で悟りに至る十段階を、牛を真の象徴として修行者との関係性を描いた「十牛図」の真を見つけ牧童と牛が穏やかに家に帰る「騎牛帰家」と真を見つけ自分の物にしようと縄を付け馴らしている「得牛」の図だ。
科挙の試験を受けている大勢の童子のいる百子堂、ひょうきんなポーズの唐子たち、三国志赤壁の戦いのあった揚子江(長江)の断崖迫る名勝地赤壁を詠った宋の詩人蘇軾の七言唐詩赤壁賦」からの船遊びの図、釣り人、船頭、筍掘り、隠者等、染付の絵柄のモチーフとして繰り返し描かれている人物、深山、竹林、吊り橋のかかる山、広い川、楼閣、うさぎ、水鳥、蝙蝠等、中国の画譜、故事の絵画化や挿絵本から引用したものだ。
その他、唐代の僧寒山拾得、梅うさぎ、波うさぎ等も、日本、中国の染付に現在に至るまで繰り返し描かれている。
 
柿右衛門様式の色絵にも『八種画譜』を手本としたものがある。色絵皿「周茂叔愛蓮文」は『八種画譜』中、「五言唐詩画譜」の「渓上」図を倣い、オシドリの遊ぶ蓮池で蓮を採取する婦人を描いている。「渓上」図にはない北宋儒者周茂叔が岸辺で蓮の花を愛でている図を入れて李白の「蓮花」の要素を取り入れている。 同じく「五言唐詩画譜」より「送人遊湖南図」を倣い「色絵人物船遊文(皿)」が描かれた。
 
 そば猪口のコレクター松岡寿夫はその著書『藍のそば猪口700選』に記す。
 
そば猪口の多種多様な文様は魅力的です。 数百種、いや数千種といわれる文様の種類が、私達の眼を楽しませてくれます。時代の変遷に連れ、文様も様々に移り変わり、その特徴の違いが器形の変化とともに、そば猪口を理解し、いつくしんでいくうえで、大きなキーポイントになるでしょう。
 
絵本の後半、女の子がおじいさんのお店を訪ねるとさらじいさんを追い出会った人々や風景が描かれたそば猪口や小皿がならんでいる。おおらかで素朴な美、有田他各地の窯場の無名の絵師の人気絵柄の自由な表現が生まれ続けている。
初期の「染付吹墨騎牛笛吹童子文皿」の絵は画譜に近い線書きだが、年代が下ると童子も牛もより写実的に描かれ、絵として完成度が高くなる。人物は表情が豊かになり、又時代を写した小道具も描かれる。
 
はせがわ はっちは1956東大阪市生まれ。 2004年、『おうだんほどうかります』で富山県射水市大島絵本館主催のおおしま手づくり絵本コンクールで最優秀賞受賞。2015年『さらじいさん』で南青山ピンポイント・ギャラリー主催、第16回ピンポイント絵本コンペで最優秀賞受賞。今年3月『さらじいさん』を出版し絵本作家としてデビューした。
 
*****
 
『さらじいさん』はせがわ はっち (ブロンズ新社 2017)
「初期伊万里に見える唐様の意匠―『八種画譜』と人物図を中心に―」荒川正明 (『初期伊万里展 染付と色絵の誕生』 NHK プロモーション 2004)
柿右衛門様式磁器に描かれた唐様人物文様の世界」山本紗英子 (九州産業大学柿右衛門様式当該研究センター論集 第五号』2009)
『藍のそば猪口700選』松岡寿夫 (小学館 2003)
 

昭和中期の有田の窯場

 
イメージ 1
 
 昨年有田焼は創成四百年を祝った。磁器の優品を作り続けた有田窯業の現場、窯場とそこで働く陶工を田中太郎と夫人の優紀子は油絵と短歌に印象的なスタイルで描き出した。
有田に暮らした洋画家田中太郎は昭和中期、二十年代、三十年代の窯場や有田の風物を勢力的に描き、日展一水会展等に出品した。
 油彩作品は「窯」、「肥前窯場風情」、「有田窯場」、「肥前有田の窯場」、「陶磁窯場」、「素焼本焼窯」、「窯出風趣」等のタイトルが付けられ、窯場の様子や働く人々の姿が描かれている。これらの作品と共に、「対山窯」、「聖陶苑」、「辻製陶窯」(写真『陶器油絵短歌作品集』より)、「柿右衛門窯」、「今右衛門工房」「深川製磁窯場」、「山徳窯」、「都山窯」、「武富窯」、「泉山貞山工房」、「舘林源右衛門窯」、「親和陶磁器窯」等、今も続く名窯の名がタイトルに入った作品も多い。100号、60号、50号等大きい画面に写実的に描かれている。
 作品の大半は窯元や有田商工会議所、有田小学校、有田中部小学校、佐賀県庁(佐賀県立美術館に委託)等の公共施設、肥前陶磁器商工協同組合、大有田焼会館等が所蔵し、展示されているものも多い。
 
陽の当たる庭の後方に瓦門が見え、大きな石組の窯とその脇で働く女性が描かれている「対山窯」は岩尾対山窯ショールームに飾られている。ここに描かれている窯場は現存しない。岩尾対山窯は現在は岩尾磁器工業が母体で、水浄化用の耐酸磁器、レリーフタイル等、セラミック工業が中心になっている。ショール―ムには有田の大物を得意とした名人轆轤師が引き、対山窯が焼成した色絵人間国宝加籐土師萌の皇居新宮殿に納められた「萌葱金襴手菊文大飾壺」(1969)の姉妹作品が展示されている。
「岩尾対山窯」とタイトルの付けられたこの窯元を描いた作品はもう一点あり、1980年出版の『陶器油絵短歌作品集』に載る。広い窓を背景に成形作業をしている男性が描かれている。
終戦直後の昭和二十四年(1949日展出品の岩谷川内の「聖陶苑」(50号)に描かれている窯は取り壊され、今は川側の後方に築かれている。後の建物は今も使われている工房と思われる。昭和三十年代生まれの窯関係者はこの場所に窯があった記憶はないという。終戦四年後の窯場ではあるが、窯の前には薪が積まれ、窯道具、鞘や素焼き作品と思われるものが山積みされ、働く人の後姿も見え、順調な復興をうかがえる。この作品は、『陶器油絵短歌作品集』に長埼県庁所蔵と記録されている。 
「辻製陶窯」(1954)に描かれる辻精磁社の細工場は増築され、窯が後方に築かれているが、太い柱と梁、製品を置く棚、粘土を練る台等は半世紀以上前に描かれた絵とほぼ同じ位置にある。長い間仕事をしてきて、最も作業のしやすい動線でレイアウトが出来上がっているのだろう。日展に出品された60号の絵には、大甕の釉薬をかき混ぜる職人、長い板に製品を乗せて運んだり、屈んで仕事をする人物が描かれている。
「有田町裏通り」(又は「御用門のある露地」)は辻精磁社の宮内省御用窯の門札のある立派な瓦門とトンバイ塀の通りが描かれている。トンバイは窯の内壁に使われ窯変した煉瓦の廃材で、これを積み赤土で塗り固め塀を築いた。古い窯元の建物が残るこの通りはトンバイ塀のある裏通りと呼ばれ有田の観光名所になっている。道巾が広がり、道路が高くなっているが、この絵が描かれた半世紀ほど前の陶都有田の風情は、今も変わらない。一水会展に出品された。
「舘林源右衛門窯」(30号)に描かれた窯場の奥に見える素焼窯はないが、右上の窯は上部と内壁一部が現代の耐火煉瓦に代えられ鉄骨で補強されて、今も変わらず使われている。 焼成中に出る大量の煙は地下を通り、外に立つ煙突から吐き出される構造になっているそうだ。窯元社長によると轆轤場は別の場所にあるが、絵の構図上、轆轤を回す職人、床に並べられた沢山の製品、道具類が前景に描かれた。制作年は不明だが、活況を呈する窯場風景となっている。窯の古伊万里資料館に展示されている。
 「泉山貞山工房」(60号)は轆轤を引く職人、製品が積み重ねられている頭上の棚、奥には大きな甕の釉薬を長い棒でかき混ぜている女性の姿を描いた静かな細工場風景。この工房は貞山窯が、共同工場で生産するようになり閉鎖された。有田町本町の馬渡クリニックが所蔵。
1956年に日展に出品された100号の「柿右衛門窯」に描かれている窯は現役で素焼き、本焼きに使われている。春、秋の有田陶器市期間に赤松を使う薪焼成が特別公開されている。窯場の屋根や周りの建物は建て直され、煉瓦は数年で脆くなるので代えられている。
この絵と1958一水会出品の60号の「柿右衛門窯」の二作品に登場する庭の井戸の水は絵付け絵具を薄めるために今も使われているという。塩素を含む水道水とは違う成分の井戸水が伝統の色を保っているのだろうか。
 1957日展出品の「今右衛門工房」(100号)に描かれている工房も基本的なレイアウトは変わっていない。中央の柱も轆轤の位置も同じで、今もここで作業が行われている。
 
田中の描く窯場や工房には静寂な雰囲気の中で働いている人物が二、三人描かれている。男性の職人と共にスカートの女性の働き手が目立つ。 伝統的に女性とされているダミ手ではなく、作品を運ぶ姿、釉薬を混ぜる姿が見られ、女性も窯業復活のために大きな役割を担っていた様子がわかる。
太平洋戦争中は量産物の製造を強いられ、技術が失われていくことの恐れもあったのだろうが、戦争が終わるとすぐに立ち上がり、その後の大躍進に繋がる昭和二、三十年代の日常を取り戻した窯場で働く人物は人数は少ないが、続々と作品が出来ている様子が伝わる。 
田中太郎(19041988)は福岡生まれ。幼少から絵の才能を見せる。1945年五月に佐世保相浦海兵団に入団するが、終戦で家族が疎開していた夫人の故郷有田に移り住み、絵画、陶芸に専念する。二科展、日展一水会展等に風景、静物等、具象画の出品を続ける。有田小学校で美術教室を開き青少年を指導した。
舘林源右衛門窯金子昌司社長は祖母に連れられ、この教室に通った思い出があるという。
アカデミックな美術教育は受けず、基本的には独学。太郎が私淑した坂本繁二郎は『田中太郎還暦記念作品集』(1964)に言葉を寄せている。
 
田中君の作品を思ふ時先づ胸にくるものはその強烈独特の色彩であるそれは抽象的に色彩斗りが誇張されたものではなく物を見られた色彩である。田中君は陶境有田に在りて陶の色彩に就ても永年実地に研究され北国方面にも独特の色彩感覚が物を言って成果があがりつつある。
 
*****
 
 乳白色たをたをと湛ふる釉薬に素焼きを浸せりをとめはもろの手に 
 
  田中太郎の妻優紀子は歌人で、窯場や有田の風物を詠う多くの短歌を残している。
釉薬かけをする女工を詠うこの歌は、呉須に焼成された歌碑「白磁の韻」となり、有田大樽の田中家の庭に建つ。優紀子の実家藤井家は祖父、父が稗古場に十二軒登り窯を経営した。 登り窯は老朽化により、1948年に取り壊された。優紀子は「短歌 陶峡」に詠む。(『陶説』日本陶磁協会 1971
 
父祖の業十二軒登りの稗古場窯ありしもいまは哀話となりつ 
 
優紀子の有田の歌の多くは『白磁の韻』短歌集に載る。『田中太郎還暦記念作品集』、太郎との共著『陶器油絵短歌作品集』にも短歌を寄せている。
白磁の韻』は1953年から1959年までの七年間の作品で、「光と音」、「白磁の韻」、「北辺」の三編からなる。「光と音」編の「柿右ヱ門の窯」に所収されている歌は1953から1955年に詠んだもので、太郎のこの窯の油絵作品と時代が重なる。
 
 陳列場の初代がなせし陶の器柿のいろひをさながらになす
 
 初代柿右ヱ門の大丼のしだれ桜やさしく描かれゐて冬陽うつり来
 
 轆轤場は素乾きの酒器のふち削り廻る蹴ろくろが須の間あらせず
 
 素乾きの彫りこまかなる女身美は真珠観音とふこの工房に成る
 
 ごす絵の具練りて練りつむ数日を練りまはす呉須に白き冬陽落つ
 
 バス待ち合う魚屋のゆふべ鰯鯖竹輪など買ふ男工員達
 
 夥しく魚買ひし小父が窯の職婦に口説きゐるなり職場変更を 
 
当時国道のバス停「柿右衛門入口」の向いに魚屋があり、仕事を終え帰途に就いた職人たちが夕餉の買い物に立ち寄ったのだろう。
白磁の韻」編の「陶の有田 文化財今右衛門窯」には19561957年作の歌が載る。
 
 藍グリーン紅が白磁の皿を彩へり陶絵の具代々秘めて継ぎたり
 
 廻る轆轤に土盛りあがり盛りあがり来て刀の触るるや須型成りぬ
 
 画工達が太き絵筆にダミてゆけばごす黒々と素焼きが吸ひあぐ
 
 寡黙にて過ごすひと日の茶の時間巷のニュース聞きてくつろぐ 
 
 晴るる朝かけつらねゐし濯ぎ物に窯の煤煙ふりかかりくる
 
優紀子は九州出身の北原白秋に師事、初め耽美的な短歌を目指した。後に木俣修の形成に参加して実生活に題材を求めた今日的な歌を詠む。「柿右ヱ門の窯」の魚屋の歌等にその傾向がみられる。白磁の韻』の後記に「木俣先生に依って歌の新分野が拓け、作品も少しずつ様相を変えてきたと思うのであるが、永い間つちかってきた対象への美的追究の態度からいまだ脱皮していないかも知れない。木俣先生の提唱にかかる人間主義的な方向が新しい時代の文学理念としてもっとも正しいものであるという信念もようやく深くなり、今はひたすら、その方向にむかって精進したいという念願に燃えている」と記す。 
 
*****
田中太郎は有田の風物や陶磁器のある静物も描いた。泉山磁石場の作品は数点あり、佐賀銀行有田支店、肥前陶磁器商工共同組合等が所蔵し、展示されている。「黒髪山」は伊万里市農業組合三階ロビーに展示されている。黒髪山は標高518メートルの奇岩が連なる険しい山で武雄市と有田町に跨りそびえる。大蛇伝説のある黒髪山を詠う村田昭典の短歌がある。(『肥前の新しい歌枕』 白鷲短歌会・潮鳴り短歌会、1991
 
黒髪山積乱雲に包まれて伝説の蛇の潜むがごとし
優紀子の母方の実家は武雄の松尾家で、母の実弟松尾将一は佐賀銀行二代目頭取を務めた。松尾家は黒髪山の大蛇退治伝説の万寿姫の後裔という。
平安末期、今から八百五十年程前、黒髪山の麓の白川の池に大蛇が住み、村人たちに害を加えていた。領主が兵を連れ大蛇退治に向かうが、姿を隠し現れない為、美しい娘を囮におびき出そうということになる。応じる者がないなか、武雄の高瀬に住む万寿という娘が、お家再興を願い、身を犠牲にすると申し出た。家臣であった万寿の父は、陰謀からお咎めにあい命を落とし、家は断絶となった。万寿が池にしつらえた棚に座り大蛇を待つと、不穏な空気が広がり大蛇が現れ一飲みにしようとした時、鎮西八郎為朝が現れ長い矢を射ると、大蛇は火を噴いて山を転がり落ちて行った。弟小太郎は褒美に高瀬の里を与えられお家は再興となったという。
高瀬(現・西川登町)に万寿を祀る万寿観音堂と父と弟を祀る松尾神社がある。
源頼朝義経の叔父にあたる為朝は乱暴者だったため、父に九州に追放されたが一帯を制覇して鎮西八郎を名乗った。黒髪山一帯にはびこる群盗を弓の名人源為朝が退治したという口碑があり、これが大蛇伝説の起源といわれる。
 
元有田商工会議所会頭で対山窯十三代岩尾新一社長は『田中太郎還暦記念作品集』に寄せた。
 
ともすれば時代の繁忙に取りまぎれて忘れられ壊ち去られ様とするトンバイ塀のかなしさ、平素見なれたつもりでも絵になれば妖しい迄に美しい磁器の肌合ひ、さりげない作業場の気付かなかった構成美、之等を丹念に制作され継続して私達の前に取り出してまなかった田中さんの毎年の労作は有田の殆どの人の瞼にありありと遺って居るのである。
 
田中太郎の絵は芸術作品であると同時に、優紀子の短歌と共に、昭和中期、戦後の復興期の伝統と技術を持つ窯場の落着きとその後の繁栄をもたらすエネルギーを蓄える静けさを感じさせる作品で、記録としても大きな意味を持つ。
 
 *****
 
『陶器油絵短歌作品集』田中太郎、田中優紀子(田中太郎 1980
『田中太郎還暦記念作品集』田中太郎(田中太郎還暦記念作品後援会1964
白磁の韻』田中優紀子(形成叢刊 短歌研究社刊 1967
肥前の新しい歌枕』(白鷲短歌会・潮鳴り短歌会、1991
 
 

瀬戸の加藤民吉 

 江戸時代末期、八百年の陶器生産の歴史を持つ窯業の中心地尾張藩瀬戸は厳しい状況に置かれていた。庶民の生活の向上で焼物の需要が拡大していく中、藩が殖産興業政策で窯屋を保護し利益の増大を図るシステムを築いていったが、窯屋は藩からの拝借金の利息支払いが負担となったり、問屋の代金滞納や踏み倒しに合い困窮していく。
瀬戸市美術館館長服部文孝氏によると「[従来言われていた有田の生産する良質な色絵]磁器に押されて困窮していたということではなく、生産が増大しても、その状況は厳しくなるという構造であったのである。この状況を打破するためにも、新しい焼き物である磁器焼造への期待が大きく、その研究が積極的に進められていくこととなる」。 (「瀬戸染付の歴史」、加藤民吉九州修業200年記念『瀬戸染付の全貌:世界を魅了したその技と美』 瀬戸市文化振興財団 2007
清の磁器解説書「陶説」(1767-1774)全五巻を持ち南京焼(染付)製造法を研究していた熱田奉行津金文左衛門は大松窯の次男加藤民吉(17721824)に磁器の製造開発を命じた。一子相伝の取り決めがある瀬戸で、兄が窯を継いだため、吉左衛門と熱田新田開発に携わっていた民吉は、文左衛門に製法を教えられ、磁器焼成に成功するが、その質は肥前で作られているものに大きく劣っていた。 民吉は肥前の先進技術を習得する為に、文左衛門の養嗣子庄七、瀬戸焼取締役で庄屋の加藤唐左衛門、代官水野権平等の支援を受け、1804年32歳の時九州に赴く。
九州では磁器の技法、特に釉薬、顔料の調合は秘法として守られ、他藩の者に漏らすことは固く禁じられていた。 民吉は各地の寺の住職の助けを得て、天草の高浜焼窯元、庄屋で天草陶石の総元締めでもある上田源作、肥前佐々、市ノ瀬窯の福本仁左衛門の下で働き、土作り、蹴ロクロでの成形から窯焚きまで習得し、釉薬、顔料の調合、色絵焼付も最後に伝授された。 帰路、原明から有田に入り柿右衛門窯を目指したが、外から威容を眺めるだけで宿に行き、翌日報恩寺を訪ねた。檀家堤惣衛門を紹介され、黒牟田山での築窯に参加し、1807年瀬戸に帰った。瀬戸で磁器用丸窯を築き、民吉が良質の染付磁器焼成に成功したのは、後藤才次郎により九谷で色絵磁器製造を始めた1655年に約150年遅れる。
瀬戸では陶を本業焼、新しく開発された磁器を新製焼と呼んだ。瀬戸窯業が陶器から磁器製造に発展し、世界的窯業地となる基礎を築いた民吉は藩主より苗字帯刀を許され、磁祖と呼ばれ、窯神神社に祀られている。
 
加藤民吉の九州での修業は、瀬戸深川神社宮司二宮守恒の民吉の口述の筆記「染付焼起源」(1818)に詳しく記録されている。奉行津金庄七の「新製染付焼開発之事」、瀬戸焼取締役加藤唐左衛門の手記「染付焼物御発端之事」、上田源作の「庄屋日記」など当事者による信頼できる資料も残っている。
加藤庄(1901-1979)は『民吉街道:瀬戸の磁祖・加藤民吉の足跡』、「『染付焼起源』とその詳解」の章で二宮の記録を辿り民吉の修業の足跡を明らかにしていく。加藤は史料を丹念に調べ、九州各地を訪ね、関係者の子孫を取材した。
瀬戸の資料に民吉が修業地で妻を娶ったとは書かれていないが、磁器産業を守る為、技術の漏洩を厳しく禁じ処罰を科していた肥前、肥後での民吉の色絵磁器の秘技習得は、冷徹なスパイ行為や悲恋の逸話が史実を補うように口承され、多様な物語を生んでいる。
毎年九月に開かれる磁祖民吉の功績をたたえる瀬戸物祭りの二日間は雨にたたられることが多く、瀬戸では「民吉に捨てられた佐々の女性の涙雨」だと言い伝えられている
 
*****
 
昭和二年(1927)十月、大阪中座で上演された歌舞伎「明暗縁染付」(ふたおもてえにしのそめつけ)は「佐々の悪魔、瀬戸の窯神」という副題が付けられ、加藤民吉を肥前平戸焼の秘法を盗み、故郷瀬戸に伝えたスパイとして描く。
民吉は武蔵と名を偽り、佐々の御用窯に入り修業し、故郷に妻がいながら窯元の娘千鶴を娶り、秘技を伝授された後、行方をくらます。
序幕は佐々の皿山。秘技を他国人に盗まれた廉で窯主福本仁左衛門と息子の小助が水牢の刑に処せられた。怒った村人達が民吉の像を描いた染付の踏み絵を作り、千鶴に踏みつけるように迫っている。そこに皿山代官所の手代中里角右衛門が止めに入り、瀬戸に逃げ帰ったと見る民吉を必ず捕えてくると約束する。
舞台は瀬戸に移る。民吉は苦労の末染付焼に成功し、窯では職人たちが集まり祝が開かれている。そこに角右衛門が田舎商人を装い訪ねてくる。尾張藩主にお目見えした民吉は、苗字帯刀を許され大小を差して帰宅する。皆が奥へ行ったところに、千鶴が幼い息子嘉蔵を連れ現れ、弟子の一人に名乗り出るが、追い返されてしまう。民吉は千鶴と嘉蔵を見て、福本家を陥れてしまった不実を恥、ライバル忠治に秘法を伝え瀬戸を託し、死の覚悟を決める。民吉は窯場で千鶴と嘉蔵に再会する。千鶴はしかし肥前から皿山代官所の役人が民吉を捉えようと追ってきていることを告げ、逃げるよう勧める。陰から見ていた瀬戸の妻は、千鶴の直向きな愛を知り、追い返そうとした自分の嫉妬心を恥じる。
 
民吉: 六年以前、この瀬戸を水盃で出た時から命はもとよりない覚悟、したかお国で掟を設け我が国一手の産物で利を得やうとは狭い了簡、皆隔なく技を磨き高価な唐物を追のけて異国までも売拡ろめ日本の焼物の名を挙げてこそ真に国産とも云わるゝ道理、その生贄に捨つる命何の女々しう惜しまうか、そなたも福本仁左衛門の娘、技の為に命を捨てる私の心をよう察してこの嘉蔵を守り育て、立派な焼物師に仕立てゝくれ、いひ置く頼みはこれ一つ。
 
角右衛門: いや、私は見る通りの旅商人、御三家たる尾張公御寵愛の焼物師、加藤民吉保賢殿の意見を聞いてどうやら広い世間が見えて参った。
 
代官所手代角右衛門は二人の妻の愛と、民吉の磁器にかける思いを知り、自首する民吉を前に役目を捨てる。角右衛門は民吉を瀬戸に残し磁器窯業の発展を託し、千鶴と嘉蔵を連れて肥前に帰る。
二幕三場の芝居は大森痴雪(18771936)作、民吉を初代中村雁次郎、千鶴を高砂屋四代目中村福助(後の三代目中村梅玉)、民吉の本妻お品を三代目中村雀右衛門が演じた。
歌舞伎は人気を呼び、民吉の現地妻を裏切り秘技を盗んだスパイのイメージを広めたが、クライマックスの民吉と角右衛門の台詞には、陶工のスパイ物語の底に共通に流れる“経済、政治の論理では論じられない”物作りの道理がある。作り手は技術を共有し、技を磨き合いよりよいものを作ることを願い、交流があって物作り文化が熟すると考える。
 
瀬戸への帰路、民吉は天草の上田源作を訪ね、窯を脱け出したことを詫びた。源作は腕を上げた民吉に感心し、民吉の瀬戸の不況を救い、日本の磁器の発展に賭ける思いに共感し、色絵の技法を口授し調合書を渡し、帰藩する民吉に職人惣作を同道させた。
 
右は、秘事にそうらえども、ご熱心の実意に感じ、書外に授をもって、相伝え致しそうろう。決して他に伝えること、これありまじきそ也。
 
源作は民吉に渡した絵具調合の秘伝に書き、署名と花押をした。この秘伝書は今も天草の上田家に残る。上田家の「庄屋日記」には民吉がに東向寺の僧に伴われ初めて上田家に来た日の記述がある。
 
児童文学者神戸淳吉の「あたらしいやきもの―加藤民吉―」にはこの時、上田元作(二宮資料は元作と記す)が民吉に語る場面がある。
 
よく正直にうちあけてくださった。さぞこわい思いをしただろう。けれど、わしもよいやきものをつくろうと苦労しているものだ。わしの知っていることはぜんぶ教えてあげよう。瀬戸のために役立つならわしもこんなうれしいことはない。
 
示車右甫の歴史小説瀬戸焼磁祖加藤民吉天草を往く』では民吉は佐々で修業を終え、有田に近い木原に淡青磁、色絵磁器を焼く横石治平を訪ね色絵の技法の教えを乞う。一子相伝が家訓で他国の人には教えられないという横石だが、民吉は横石の物作りの信念を見る。
 
、、、お前さんも、一廉の修業者であろう。であれば、先人の苦労によって得られたものを、わけもなく手に入れるなど、なすべきことではない。我らご先祖は、いかにして苦労の果て、赤絵の秘法を得られしや。 子々孫々、夢にも忘れるものでない。これが、手前の存念である。わかられたか。
一言もない民吉に治平は「とはいえ、お前さんも、遠いところ、よくぞこの鄙びた木原に来られた。これも縁であろう。よって、記念に一品進呈する」と赤い粉末の入った袋を与えた。 赤絵の顔料ベンガラで、白玉と硼砂の粉を混ぜ焼いたものと教えられ、分量は言えないが研究するようにとわれ、民吉は治平の恩情に感謝した。
「明暗縁染付」は若干筋を変えられるなどして大衆演劇が作られ各地で上演された。
劇団テアトルハカタによって1988年に佐々町文化会館で上演された石山浩一郎原作の「皿山炎上」は佐々皿山に潜入した民吉と福本仁左衛門の娘いとの悲恋を描く。
「皿山炎上」はその後主演した玄海椿が一人芝居に脚色して九州を中心に上演されている。作詞・荒木とよひさ、作曲・三木たかしのテーマ曲「皿山情話」を玄海が歌う。この曲はその後嶺陽子が歌うCDに制作され、YouTubewww.youtube.com/watch?v=CIlS-XGkn6g>で聴取できる。歌詞は歌ネット動画プラス<www.uta-net.com/movie/76793/>に所載。
オペラ「民吉」は加籐庄三の『民吉街道』などを原典として創作され、  1997年、瀬戸市文化センターで上演された。同オペラは2005年の愛知万博長久手会場のEXPOホールで再上演された。
 
インターネットのデジタルライブラリー「藤澤茂弘の小説庫」所収の「焔街道 加籐民吉伝」は封建制下、藩の力の前に個人の意志を通す術のない民吉の悲哀に光をあてる。
民吉は肥前佐々の福本仁左衛門の窯で磁器製造法一切を教えられ、全幅の信頼を得て窯焚きまで任され、娘智と夫婦同様に暮らし心を通わせていた。 佐々を離れることは心苦しく、しかし瀬戸窯業復興の任を果たせねばならないと、必ず戻る約束をして佐々を離れた。
民吉が佐々を離れて数年後、智が幼い男の子を連れ訪ねてくる。 民吉は九州で習得した磁器製法を瀬戸に伝え、染付磁器焼成に成功し瀬戸は活気を取り戻していた。瀬戸焼取締役の加藤唐左衛門は、結婚して娘もいる民吉に佐々に戻れば殺され、秘法を洩らした家にも責任が及ぶと告げ、又「御三家筆頭の我藩が、有田から密かに磁器焼の秘法を探り出す陶工を送り、藩の財政改善に役立てた、など疑われるようなことがあっては、断じてならぬのじゃ」と藩の面子を理由に佐々に行くことを許さなかった。民吉は自ら生死をかけての仕事として行動していたつもりでいたが、唐左衛門が「藩のため」と繰り返すのを聞き、九州修業は尾張藩挙げての事業で、天中和尚はじめ曹洞宗の僧の協力、危険を知らせてくれた人や協力者、時々感じる尾行者の陰など思うと、自分は「藩の傀儡」に過ぎなかったのではないかと疑問を感じる。民吉は有田行きを志願し、磁器焼の秘伝を瀬戸に持ち帰り大望を成し遂げたのだと感じながら、智との再会もならず虚しさを禁じ得ない。
 
お智、許してくれ。
わしが必ずお前のもとに帰るといったのは、決して嘘ではなかった。裏切るつもりなど毛頭なかったのだ。わしにはどうにもならぬ力がこうさせたのだ。
…その子はもう五、六歳になっているはず。どんな男の子に育ったろうか。ひと目なりと会いたい。そして、お前にもその子にも心から詫びたい。
 
民吉はその年の暮れ、福本一家に贈り物を送ったが、何の便りもなかった。
藤澤は名古屋出身の元新聞記者で尾張関連の時代小説を多く手掛ける。
 
福岡県出身の詩人で文芸評論家の野田宇太郎1909-1984)はその文学散歩シリーズで民吉の足跡を訪ね、瀬戸で妻の名も刻まれている民吉の墓を確認する。瀬戸訪問から三年後佐々を訪ね、福本家の墓地に福本仁左衛門の次女のものと思われる墓を発見した。「蓮室智香善女」という戒名が刻まれている墓は仁左衛門夫婦の墓のわきにあり、天保三年(1832)と没年がある。独身で50才位で没したことが窺える。その脇に次女の子供のものか、名もない石塊の墓が転がるようにあったのを見つけた。
 
邦枝完二18921956)の『江戸名人伝』に収まる「陶工民吉」は天草の上田窯が舞台。窯に入り一年近く過ぎ、民吉は他藩から来た自分に釉かけや絵の具の調合は固く秘せられ伝授されないことを悟る。目的が果たせず悶々と悩むうちに、心が乱れ、自分を慕う窯の娘お絹に秘伝書を盗み出してもらい、駆け落ちする。
 
*****
 
「産地間の人や技術、あるいは情報の交流により、それぞれの産地で多様な製品が生み出された」、佐賀県立九州陶磁文化館学芸員徳永貞紹氏は有田焼創業400年記念の年を祝う『日本磁器誕生』展の図録に記す。開催中(2016年10月7-1127日)の同展には民吉作と伝わる「染付松竹梅文茶碗」、「染付花菱縦湧文手桶形瑞水指」が展示してある。
 
フィクションとは異なり、瀬戸と佐々は良好な関係にある。
民吉研究者加藤庄三の遺志を継ぎ、子息正高氏は庄三が没した翌1980年に佐々皿山に謝恩碑を寄贈した。高さ四メートルの大理石で「佐々皿山 加藤民吉翁習業之地」と記されている。瀬戸市は民吉が頼った曹洞宗僧侶の天草東向寺に民吉の記念碑を建てた。しかし加藤は磁器製造に移行して瀬戸の繁栄の基礎を築いた民吉に磁器の技術を伝えた佐々の窯こそ瀬戸が恩を感謝すべきと考える。加藤は1969に福本家墓地の参道入口に道標も寄贈している。
福本家の市ノ瀬窯は三代七十五年(1751―1825)続き閉窯した。皿山公園にある窯跡は長崎県指定文化財に指定されている。「民吉に白磁の技術を伝えた窯として、佐々皿山の窯跡は佐々町の誇るべき史跡である」と佐々町教育委員会の説明がある。
福本家の子孫はその後炭鉱業で成功したと伝えられる。
 
 佐々町に「佐々音頭」がある。佐々の自然の美しさ、農業、大正から昭和にかけて栄えた炭鉱産業などを歌う五番まであり、その四番に民吉が歌われている。作詞矢野洋三、作曲川上英一。町制施行七十周年記念「長崎県佐々町町勢要覧2011」(dbook-佐々町 <www.sazacho-nagasaki.jp/youran>)に所載。町の祭や小学校の運動会で演じられる。
 
アーアー昔しゃ皿山皿焼く煙りヨー
加藤民吉ネよか男
瀬戸の茶碗も有田の皿も
種がこぼれて咲いた花チョイト
さっさよかとこよい佐っ佐ソレ
さっさよかとこよい佐っ佐
 
*****
 
加藤庄三は『民吉街道:瀬戸の磁祖・加藤民吉の足跡』に、「民吉に関する芝居や小説は、身分を隠し、染付の秘法を盗みに行ったことになっているが、スパイと修業では大変な相違である。民吉は各地の寺の住職に身元証書を書いてもらい紹介状を持ち窯元に修業を依頼した記録が残る」と記す。
 
曹洞宗僧侶で愛知学院大学教授の川口高風は「磁祖加藤民吉をめぐる洞門僧」(「宗学研究」1983 3月 駒澤大学曹洞宗宗学研究所)で民吉の九州修業の各過程で曹洞宗寺院の僧が重要な役割を果たしたと指摘する。尾張藩は九州行きを許可したが、九州との縁がないため、瀬戸出身の洞門の僧に民吉の紹介を託した。
1804年、民吉は尾張大森村の法輪寺の長老祖英の紹介状を持ち、瀬戸の隣菱野村出身の肥後天草の東向寺天中和尚を訪ね、天中の紹介で天草高浜の窯元上田源作の窯に入ることが出来た。半年ほど働き、磁器製造の大体のことを教わるが、絵具、上釉の作り方を教えてもらえない為、再び天中を訪ね肥前行きの望みを伝え、佐世保西方寺の住職洞水(天中の友弟子)を紹介される。洞水に紹介された早岐薬王寺住職舜麟により江永村の福本喜右衛門を紹介され、喜右衛門の親戚の佐々市ノ瀬窯の福本仁左衛門の下で働くことになり、佐々の東光寺圭観に伴われ、仁左衛門窯に行く。
平戸焼三川内の流れを汲む仁左衛門の窯で、約二年働き磁器製造の技術のほとんどの工程を習得し、仁左衛門の息子が伊勢詣で留守の際、窯焚きまで任され、一窯焼き上げたことで自信をつける。ほぼ目的を達した民吉は瀬戸に戻りたいと告げるが難色を示され、一年近くお礼奉公の後、佐々を立つ。
佐世保西方寺に報告し、有田での錦手技法の習得の希望を頼んだが叶わず、有田の百婆仙の墓のある報恩寺に行き、檀家の堤惣右衛門の下で錦手用の丸窯作りを手伝った。瀬戸への帰路、報告と謝意を伝えるため東光寺、上田窯に立ち寄った。
川口は民吉の九州修業に大きな役割を果たしたとし、さらに二人の洞門僧珍牛と黙室を挙げる。二人の僧は共に天草出身で珍牛は国葬で送られる等、尾張藩主に破格の厚遇を受けた記録がのこる。川口は民吉が無事に磁器製法を習得出来た恩に対しての返礼と推測する。珍牛は天中を東向寺住職に推挙し、黙室が民吉を天中に紹介したと考えられるが、文書の記録は無い。川口はもし文書が存在したならば、肥前松浦藩や将軍との争いが生まれたかもしれないという。九州修業出発前に民吉父子が黙室に贈ったと伝わる獅子香炉が尾張の普門寺に残る。
川口は瀬戸の陶祖加籐四朗左衛門も曹洞宗の開祖道元と宋に行き、陶業を習得して以来、曹洞宗と瀬戸窯業の縁は深いという。
 
*****
 
「磁器の原料製法を知るというのが民吉にとって〔三川内に来た〕最大の狙いだったと思います」、金内嘉一郎、三川内窯元で陶磁工業協同組合代表理事は「肥前から見た民吉譚」(「波佐見の挑戦―地域ブランドを目指して―」長崎新聞社 2011)で指摘する。 
理由は質に問題があるものの瀬戸でも磁器を焼いていたことと、瀬戸の多くの人は民吉は佐々ではなく有田に行ったと思っているが、しかし有田は泉山の陶石をほとんど単味でつかっていたが、三川内の流れをくむ佐々では陶石を混ぜた土を使っていたため、数種の土を調合して作る瀬戸の磁土作りに役立った。民吉は天草陶石に佐世保針尾島網代陶石など交ぜ、虎の置物など細工が出来る粘り気のある土が欲しかった。そうすれば磁器の細工物ができ、有田と違ったレベルの高い焼物が出来ると考えたのであろうと云う。
 
加藤徳夫の『不況大突破 瀬戸の民吉』は銀行員の経歴を持つ経営コンサルタントの著者が『民吉街道』からの引用を交え民吉の半生を辿り、瀬戸の不況を乗り切るための技術革新と重ねる。陶業を「尾張の花」として保護した藩、奉行、代官、庄屋が力を発揮して技術革新を成し遂げ得たのは、「制度改革、政治への働きかけと活用、仲間の団結などで、いまの時代に通じる不況突破のモデルとなり得る」とする。
瀬戸では鍋島藩の御用窯を追われ、藩を出た副島勇七から製法を伝授され、民吉の親戚筋の加藤粂八、忠治が十八世紀末までに磁器を製造を始めていたと伝わるが、陶器産業を守る藩の方針で本格的には行っていなかった。
1807年、四年ぶりに瀬戸に帰った民吉は、肥前式の丸窯を築き、技法に工夫を加え染付磁器の焼成に成功した。丸窯は勾配が緩やかな登窯で各部屋は火の通りが穏やかで均一に火力を保つ。
瀬戸焼取締役加藤唐左衛門は釉薬の融剤になるイスの木の植樹をしたり、原料確保などをして陶器の本業焼から磁器の新製焼に転換する者を援助した。陶窯の次男、三男が磁器窯を開いたり、他業から新しく磁器製造に参入することも可能になった。
1814年に千倉石鉱脈が発見され、砂絵と呼ばれる呉須が採れる。唯一国産の呉須で、鮮やかな瀬戸独特の染付を生む。
「染付山水図大花瓶」、「青磁染付龍文花瓶」などは民吉作と伝わるが数は少ない。佐々時代の木の葉形皿も残る。色絵磁器はほとんど作らなかったといわれている。
九州修業の最終段階に釉薬や絵具の秘法まで伝授され、窯業を救い、地域に貢献した民吉の成功の鍵を「決意が固い、理念がはっきりしている、誠実であること」と挙げる。
                                                           
*****
 
会津本郷焼は十七世紀中葉に現在の福島県会津若松市に近い本郷で始まり、陶器と磁器両方を製産している。茶器や実用品を作っているが、近年では鰊の山椒漬けを作るタタラ作りの鰊鉢が民芸ファンの人気を集めている。
民吉が瀬戸を離れる少し前の1797年本郷で陶器を作っていた佐藤伊兵衛 (1842没 享年81歳)は磁器製造技術習得の為、肥前行きを志し、常滑、瀬戸、信楽、京都、有田、萩、伊部等一年間各地を回り技法を学んだ。京都では清水六兵衛の窯で修業した。
会津本郷焼の磁器導入も曹洞宗の僧の支援があった。
伊兵衛は大阪に立ち寄り、鍋島家御用達の布屋の紹介で鍋島家の佐賀の菩提所高伝寺に行き、有田の窯場入りの仲介を頼んだが、規則が厳しく叶わなかった。住職が皿山出身なので、伊兵衛は寺男となり窯場に通うことが出来、土の調合、釉薬、窯、道具など観察し、知識を十分得て、帰路、長崎に寄り呉須を買い求め帰藩した。1800年、伊兵衛は肥前皿山式の窯を築き白磁の製造に成功し、藩の産業として育てた。
 
瀧川雄の「陶工スパイ伝」は三川内(現・佐世保市)今村三之丞の秘技盗みを語る。
三之丞は秀吉の朝鮮の役(文禄・慶長の役 1592-96159798)に出征した肥前平戸領主松浦氏が連れ帰った陶工巨関(松浦郡中野村窯を開き、後初代今村弥次兵衛を名乗る)の子で三川内で磁器を焼いていたが、南川原で焼かれるより優れた色絵磁器の技法を知りたかった。しかし鍋島藩は秘法を守る厳しい掟を敷いていた。そこで三之丞は女房を女工として柿右衛門窯に入れ、調合をさぐらせた。
ちょうど高原五朗七(竹原五朗七)が柿右衛門窯で南京焼や白手焼を教えていた。五郎七は優れた陶工で秀吉の聚楽台に召されて茶碗を焼いていたが、キリシタン禁令が出て疑われ処刑されるのを恐れ放浪に出る。九州を放浪していた頃、1626年から四年間、柿右衛門窯に逗留していた。
五郎七は女工釉薬の原料を運ばせることにしているので、女房に五郎七のところに原料を持っていく前の重さと、五郎七が使い終わり残った物を持ち帰った時の重さを量らせた。これをもとに三之丞は絵具を調合したが、三川内と南川原(本文では南河原)では土や釉の成分が異なる為、すぐには成果は出ず、思うようなものが出来たのは、息子の代であったという。
三之丞は1633年に佐世保針尾島網代石を発見、さらに息子弥次兵衛(如猿)が、1662年に天草陶石と網代石との調合に成功して原料が揃い、三川内で磁器焼成が本格化した。
今村家の祖巨関は福本仁左衛門の祖先従次貫と同じ朝鮮南部熊川の出身。名工といわれた従次貫は豊臣秀吉に命じられ作った茶器の精巧さを激賞され福本の姓を賜ったという。
 
*****
 
福成和光の小説『かくれ赤絵師』は新聞記者が現代版色絵秘法盗みにまつわる事件を追うミステリー(平岩弓枝の同名のテレビドラマ「かくれ赤絵師」とは関連はない)。
1923年(大正十二年)、美濃で農業のかたわら焼物を焼く貧しい家の二人の少年が有田の窯元に修業に出た。 二人は出身地を隠し技術を習得し、故郷に帰ることになっていた。
60年後、東京の新聞記者が知人から割れた瓢箪型の壺の鑑定を頼まれた。 友人である瀬戸の陶芸家に持って行った所、壺の釉薬の中に人骨と同じ成分が入っている疑いがあるといわれた。瓢箪型の壺は唐津の陶芸家の個展に出たものだった。
この頃、色鍋島の贋物が出回り、真贋論争が起きていた。
瀬戸の陶芸家の義父は作陶と共に全国の窯場を廻り作品を集め骨董商店に持ち込んでいたのだが、十年ほど前、旅先で行方不明になっていた。
新聞記者が調べるうちに、義父は美濃から有田に修業に出た少年の一人源吉だとわかり、一緒に修業に出た少年喜兵衛は有田の窯元の婿養子になり窯を継いだのだが、赤絵技術盗みのうわさが町で広まり有田を逃れた。
源吉は喜兵衛が唐津にいることを突き止め、色鍋島を作らせ売りさばいていた。喜兵衛には源吉が知る、肉親にも言えない秘密があった。喜兵衛は唐津を訪ねた記者に、源吉が筆が握れなくなった喜兵衛に代わって、息子に色鍋島を作らせようとしたことで思い余って源吉を殺したと告白し、窯の方を指さした。
 
*****
 
加藤庄三は『民吉街道』の第四章「肥前有田より技術導入」を“皿山五人男”を挙げ締めくくる。
 
歌舞伎に「白浪五人男稲瀬川勢揃の場」という一幕ものがある。立派な人ならともかく、大泥棒ばかり五人が花道に並んで勝手なことをしゃべり、大見得を切っているのを見て、見物人は大いに堪能している。
ここに、碗屋久兵衛・後藤才次郎・副島勇七・佐藤伊兵衛・加藤民吉と「皿山五人男」が揃う。
稲瀬川の勢揃いの台本を見本に「皿山五人男、閻魔ノ庁三途の川の場」と題して、伝説・事実関係を問答形式に書いたら、さぞ面白かろうと思う。
 
悪役に甘んじ、時に悲惨な運命の犠牲になった五人男はじめ“スパイ”達の存在があって、全国に美しい陶磁器が生まれ、焼物産業が発展し、栄えている。
 
*****
 
 
『民吉街道:瀬戸の磁祖・加藤民吉の足跡』加藤庄三著、加藤正高編東峰書房 1982)、歌舞伎「明暗縁染付」の台本を巻末に付録として所収。
「焔街道 加籐民吉伝」 藤澤茂弘 <sigehiro.web.fc2.com/tamikiti1.html
「陶工民吉」 邦枝完二(『江戸名人伝』大都書房 1937
瀬戸焼磁祖加藤民吉天草を往く』示車右甫(花乱社 2015
「あたらしいやきもの―加藤民吉―」神戸淳吉(『新しい日本風土記 ぼくらの郷土(2)中部近畿』 和歌森太郎編 小峰書店 1957
「加藤民吉の旅 陶祖と磁祖」、「佐々にて」野田宇太郎『日本文学の旅 第八(東海文学散歩③山道編)』、『日本文学の旅 第十二(西日本文学散歩)』人物往来社 1968
『不況大突破 瀬戸の民吉』 加藤徳夫 叢文社 2001
「陶工スパイ伝」瀧川雄(『趣味の陶芸』 雄山閣 1938
『かくれ赤絵師』福成和光 文芸社 2010

加賀の後藤才次郎

 日本でいち早く磁器焼成に成功し美しい色絵を完成した有田焼は、国内外で高い評価を得、肥前鍋島藩の経済を支えていた。 藩はその技術の漏洩を防ぐ為、窯業者の相続、移動などに厳しい規定を設け、材料、製品を管理下に置いた。高い技術と芸術性を認め、産業としての窯業の繁栄を望む他の藩はその技法を得ようと様々試みた。
 加賀の後藤才次郎(1634-1704)、尾張の加藤民吉(1772-1824)は各々の藩の期待を背負い、進んだ技術習得のため、有田、又はその周辺の窯業地に赴いた。 その足跡は古文献、その他の史料に残り、出身地に於いては、有田焼の技法を習得し藩の窯業の発展に大きな貢献をしたとして、才次郎は九谷焼の祖、民吉は瀬戸の磁祖と崇められている。
 その一方で、才次郎と民吉は正体を隠し、有田やその周辺の窯元に入り、直向きに働き、妻を娶り子を儲けその地に落ち着く様子で、信用を得て秘技を伝授されるが、託された使命を思い、妻子を残し帰藩した秘技盗みのスパイのイメージも併せ持つ。
 波乱にとんだ二人の人生は史実を飛び越え、巷で語られた噂も交え伝説化された歴史物語となっている。
 
*****
 
 1640年代半ばに加賀大聖寺藩の九谷村の金銀山で良質の陶石が発見され、初代藩主前田利治(1618-1660、加賀本藩三代前田利常の三男)が、金銀を鉱石から吹き分ける煉金役を務めていた後藤才次郎と陶工田村権左衛門(権左右衛門と記すものもある)に製陶を試みさせたのが、九谷焼の始まりと云われている。 九谷焼創始については多説あるが、1655年に大規模な登窯築窯の記録があり、九谷の宮(明治二十三年に三柱神社と改名)に奉納されたと伝わる「明暦元年六月廿六日 田村権左右衛門」の銘のある白磁花瓶が残る。
 焼物好きで芸術を愛する利治は九谷焼に力を注いだが、品質に満足するまでに至らず、二代藩主利明がこの事業を引き継ぎ九谷焼の完成を目指した。
 才次郎は製陶業を学ぶため有田に赴き、数年の修業の後帰藩し、九谷に窯を開いた。 九谷焼はこれを機に格段の進歩をしたと伝えられる。
 九谷焼創成に関する最も古い文献である大聖寺藩士塚谷沢右衛門(1756-
1824)の筆録「茇憩紀聞」(ばっけいきぶん 1802国立国会図書館近代デジタルコレクション)、田内梅軒『陶器考付録』(出版社不明 1855、国立国会図書館近代デジタルコレクション)、松本佐太郎の『定本九谷』(寶雲社 1840)など、記録や研究書により上記のような才次郎像が定着している。
 しかし断片的な情報が多い上、後藤家が絶家したことから同時代の記録に乏しい為、才次郎が修業、または調査に行った窯業地、陶工であったのか、あるいは窯の統率者であったのかなど、謎も多い。 九谷焼は、絵の具、意匠とも、有田の色絵より中国の古赤絵に似ている等々。 十七世紀半ばの創始から半世紀弱、前田利明の没後窯が閉鎖されるまで焼かれたものを後に古九谷と称する。 その後約120年間良質の磁器は作られなかったが、京都の陶工青木木米が招かれ、金沢の春日山に開窯、これに続き一帯に多数の窯が築かれ作られた作品を「再興九谷」と称する。
 
*****
 
 刀剣師千手院村正、漆工佐野長寛、柿右衛門など、江戸時代の名匠を紹介する大山創造の『名工物語』所収の「色彩地獄―陶工後藤才次郎―」は九谷焼完成の栄光の陰の才次郎の悲劇を語る。
 殖産興業を志す大聖寺二代藩主利明は九谷焼完成に力を注いで、銀座役で冶金術に長じていた才次郎に磁器の製法を研究させていた。 十年努力したにも拘らず思うような結果を得られない為、才次郎は「名器を産する土地に行って、秘法を盗んでくる]より他はないと考えるに至った。 他藩で秘伝を習得して帰るということは命を賭しての仕事と考えた才次郎は、誰にも告げずこっそりと有田方面に向った。
 才次郎は伊万里の窯元で下働きから始め、その仕事ぶりが認められ、窯主の紹介で土地の商人の娘と結婚して子供も生まれた。 新生活は幸福で製陶の研究は進み、窯主の信用を得た才次郎は土練りから、焼成釉薬の調合まで伊万里の秘法を全て教えられた。 加賀を離れてすでに五年の歳月が経っていた。 窯主の恩、妻子を思うと留まろうと迷う気持ちも強いが、九谷焼を完成させるという大望を捨てることは出来なかった。
 才次郎が秘法習得の為他藩から来たと薄々感じていた妻は、一緒に逃げる覚悟は出来ていた。 寛文五年1665)に一家で加賀へと旅立つのだが、旅の途中で妻子を病で失う。
 一人帰藩した才次郎は九谷焼の製造を命じられ、悲しみに打ちひしがれながらも、九谷村に築いた窯で伊万里に劣らぬ物を焼き上げた。 五年前九州に向かう途中で出会った狩野派の画工久隅守景が才次郎による良質の磁器の完成を知り、九谷に来て絵付けを行い傑作を生む。 才次郎の苦悩を知り励ます守景もまもなく没す。 才次郎は藩主の死後、製陶の職を辞し、玄意と号し妻子の冥福を祈りつつ余生を送った。
 
 『名工物語 九谷焼後藤才次郎』は久保田正衛が少年少女の為に書いた物語だが、歴史背景を丁寧に入れて語られる。 才次郎が有田に旅立ったのは、中国で明が滅ぼされようとしている時期で、九州北部には明から多数の亡命者が来ていて、その中には陶工も多かった。
 才次郎は有田の富村という窯場で下働きを始め、三川内、大川内山、南川原と移り柿右衛門窯で祥瑞五郎太夫に出会う。 五郎太夫加賀藩初代藩主(加賀前田家二代)前田利長の命で東福寺の和尚と入明し、景徳鎮で働き磁器製造の技術を習得し帰国していた。 五郎太夫と才次郎は加賀に恩返しをしようと、いつの間にか柿右衛門窯から姿を消した。 1661年、二人は四、五人の陶工を連れ加賀藩に帰った。
 祥瑞五郎太夫は、明末景徳鎮で製陶修業をして帰国し、有田で磁器創始に関わったと伝えられる伊勢松阪出身の陶工伊藤五郎太夫とされていた。祥瑞といわれる染付磁器に認められる「五郎大甫 呉祥瑞造」の銘款を陶磁史研究家斎藤菊太郎は「呉家の五男の家の長子」と解釈し、日本人陶工説を否定した(陶器全集15『古染付・祥瑞』斉藤菊太郎 平凡社 1974)。 五郎太夫については諸説がありなお謎が残る。
 才次郎の晩年については、藩主の裏切り、追放、私刑など悲惨な逸話が語られた。 九谷焼の産業としての成功による本藩への遠慮、あるいは本藩の妬み、密輸を疑う幕府の睨みをかわす為などといわれる。
 
 瀧川雄の「陶工スパイ伝」では才次郎の製陶修業の地を高麗とした伝承を紹介している。
才次郎は焼物好きの藩主前田利長に発達した焼物作りの技を探る命を受け、慶安三年(1650)に三年の約束で高麗に遣わされた。 しかし高麗も守りが固くなかなか教えてもらえない。 窯元の一人娘と結婚し婿となり、秘伝を伝授され帰国したのは、加賀を後にして六年後であった。 利長はすでに亡く、三年過ぎても帰国しない才次郎に業を煮やし、たとえ帰国しても取り合うなという遺言を残していた。 藩主を喜ばせようと断腸の思いで縁を切り帰国した才次郎は、立つ瀬がなく落ち込んでいたが、家老の計らいで田村権左衛門と九谷村で製陶を始めることが出来た。 旅の途中立ち寄った画家久隅守景が下絵を描き、九谷で天下の逸品を焼けるようになった。
瀧川はこの広く一般に流布していた話は、藩祖利家の子、加賀藩初代藩主利長を大聖寺藩二代藩主とするなど人物と時代に混乱があると指摘する。
この他、修業の地が対馬や中国であったり、九谷焼完成後追放され、窯も廃業したなど才次郎の伝説は様々に語られていると云う。
瀧川は土、釉の原料の成分は土地土地で違うので、知り得た秘法を参考に工夫を凝らさなければ品物は出来ない、そして「創作や発明といっても、無から有は生まれない」と指摘する。 生産地は秘法の漏洩を警戒し、鍋島藩は自藩の陶工が九谷で働いていると判ると虚無僧の姿をした藩士を送り暗殺させた。 後の安永八年1779)、加賀藩も九谷赤絵の技法が漏れるのを防ぐ為、皿山会所で赤絵業者の相続法や使用人の移動、原料の扱いに厳しい規制を設け、転居、結婚にも警戒した。 瀧川は特許権のない時代、スパイは頻繁に起こり、「探偵小説じみた話が生まれているが、必ずしもでたらめでない」と締め括る。
 
後藤才次郎が描かれる物語は『古今名誉実録』第七巻(春陽堂1894)、『職長魂』嘉悦基猪(彰文館1943)、『勅語修身訓話:学生必読』吉岡平助(吉岡平1893)、『勅語修身訓画解説』(吉岡宝文館 1892)など、偉人伝、道徳の教科書的なものも多い。(四冊とも国立国会図書館デジタルコレクション収蔵)
 
*****
 
 日本美術の海外での普及に貢献した執行弘道(1853-1923)はワシントンDCのThomas E.Waggmanコレクションのカタログ(1893 編纂)の「九谷焼」の項に九谷焼は十七世紀前半期に、田村権左衛門が大聖寺藩主の指導の下、加賀九谷村に築いた窯で製造された陶磁器で、田村は初期瀬戸の技法で茶碗や壺を焼いたと記す。
有田の技法で焼かれた磁器は、有名な九谷の陶工後藤才次郎が、1650年頃肥前より帰藩した後に初めて製造した。才次郎は藩主前田侯により磁器製造と色絵付けの技法を習得する為に肥前に遣わされた。 南川原の有名な柿右衛門の窯の工人となり、柿右衛門の娘と結婚しこの地に留まると見せかけ、秘技の習得に成功した。才次郎帰藩後、九谷焼は一段と進歩したと続く。
執行は、九谷焼はこの頃加賀にいた狩野派の画家久隅守景による美しい輪郭線を持つ芸術的色絵付けで称賛されていたことも記している。
佐賀出身の執行は1871年アメリカに留学。外務省、商社勤めの後,      1913年工芸の輸出会社、起立工商会社のニューヨーク支店長となり日本美術の普及に尽力した。
 
1914年に結成された陶磁器研究会「彩壺会」の創立者の一人で、『柿右衛門と色鍋島』の著者大河内正敏は『古九谷:清美庵随筆』の中で、後藤才次郎が有田に技術を習業に行ったという説は疑わしいと記す。 物理学者の大河内は、才次郎は陶工ではなく、鉱石の精煉の仕事をしていた関係で大聖寺藩主の御庭焼の手伝いをしていて、藩侯が本式の焼物を始めるにあたり調査の為に窯業の発達した地に派遣されたとする。 大聖寺藩の分限帳に百五十石を領した士分と記録があり、彼の古九谷らしい作品は残っていないので、陶工として生産に従事したとは考えにくいと云う。
大河内は才次郎が窯元で修業し、窯の主人の娘と結婚し子を儲け、秘技を習った後に妻子を捨て帰藩し、九谷焼を完成させたという伝説は信憑性がないと断じ、古九谷は意匠も絵の具も柿右衛門肥前磁器のものとは違い、中国の古赤絵に近いことをみても、長崎で亡命陶工を見つけ九谷に連れ帰り窯を開いたという伝承(田内梅軒『陶器考』の説)に可能性があるという。
又九谷窯を差配していた才次郎だが、一代で廃窯になり、悲惨な伝説が語られていることについて、大河内は「[加賀藩が]古九谷については幕府に対して憚る處があって、事実を曖昧模糊の内に葬り去ってしまうと云う考えが強かったのではないかと思う」という。
 
数年前、肥前鍋島家の古文書から、鍋島家と加賀前田家との深い親交と姻戚関係を示す歴史資料が発見された。両家は藩主鍋島直茂の子勝茂の長女が米沢藩主上杉定勝(謙信の孫)に嫁ぎ、二人の長女徳姫と加賀大聖寺初代藩主前田利治(1618-1660)の婚姻により親戚となった。次女虎姫は勝茂の孫光茂に、腹違いの妹三女亀姫が大聖寺藩二代藩主前田利明1638-1692)に嫁ぎ、両家は強い姻戚関係を結んだ。鍋島藩は産業がない加賀に、有田の焼物職人数人を十年間貸すことになった。職人は沢山のサンプルと材料を持って加賀に行ったと記録されている。
 
NPO法人さろんど九谷の対談シリーズ「古九谷の真実に迫る」の「鍋島家と加賀前田家姻戚関係」で石川県九谷焼美術館の中矢進一副館長は、考古学者で東洋陶磁史の権威三上次男氏が調査委員長となり行われた1970-71年の石川県教育委員会九谷古窯発掘調査で、九谷の古窯や出土した窯道具が有田の物と類似したものであったことから、三上氏が「肥前からの工人の当然移入があったのではないだろうか」と指摘されたと振り返る。
中矢氏は両家の姻戚関係がこれを容易にしたと指摘し、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂加賀藩三代藩主前田利常の親しい親交を示す道具目録が残る1650年代初頭から利明がなくなる1690年代まで両家の交流は続き、この時期が九谷古窯の稼働期と重なり、鍋島家と大聖寺前田家の近しい姻戚関係という背景を考えると、広く伝承されている後藤才次郎の強引なスパイ活動の話を考えなくても「大名同士の付き合いの中で、人、物、技術といったものが、有田皿山と九谷の間に交流があったのではないか」との見方を示す。
いわゆる古九谷産地論争に関しては「結論(産地の断定)を出す問題ではなく、[古九谷は]両産地の交流のもとに生まれたと考える」と云う。そして百花手、幾何学手、九角手などの最高級品の古九谷は、前田家と加賀文化の背景なくして生まれてこなかったのではないかとし、真の古九谷の研究はここからスタートしたといえると語る。
 
*****
 
「色彩地獄―陶工後藤才次郎」大山創造 (『名工物語』 東京国民工業学院 1943
少年読物文庫 『九谷焼後藤才次郎』 久保田正衛 (同和春秋社 1957
「陶工スパイ伝」 瀧川雄 (『趣味の陶芸』 雄山閣 1938
“Catalogue of a collection of oil paintings and water color drawings by American and European artists and Oriental art objects belonging to Thomas E.Waggaman of Washington D.C.” (Compiled & edited by H. Shugio 1893)
『古九谷:清美庵随筆』大河内正敏 (日本陶磁協会、宝雲社 1947
「鍋島家と加賀前田家姻戚関係」中矢進一(「古九谷の真実に迫る」NPO法人さろんど九谷 2010、 www.salon-de-kutani.jp/kutani/sinjitu.html >)
 

悲運の名工 副島勇七

 十七世紀初頭に磁器焼成、次いで色絵付けに成功した有田の焼物はずば抜けて優品であった。積出港の名をとり伊万里焼と呼ばれ全国に出荷され、有田が海外貿易が唯一許されていた長崎に近いこともあり、焼物は藩のドル箱的存在であった。
藩は山に囲まれた大川内山の直営の窯に優秀な職人を集め、量産体制の下高級磁器を生産し、将軍家への献上品、大名等への贈答用や城内で使用するお道具とした。藩窯で働く御用職人は名字帯刀を許され、扶持をあたえられ経済的には保証されるが、高度な技術が他領に漏れないよう、私生活にも及ぶ規制はとりわけ厳しかった。
天明(1781-1789)の頃の伝説的名工副島勇七(祐七、久米勇七とも伝わる)は名工ゆえの悲劇的な運命を生きた。古文書にその名は残り、逸話が語り継がれた。勇七を主人公にした創作も書かれている。
 
吉川英治初期の作品「皿山小唄」は久米勇七の葛藤と悲劇を描く。
将軍家より鍋島藩に勇七の色絵皿百客献上の命があり、藩は勇七に制作を申し付けた。しかし勇七はこれを無視し、一向に作り始めない。藩の陶器を管理する納戸組御陶器方柴作左衛門が、注文の品を期日までに作らせる役を帯びて、息子彦七を介添に勇七の細工屋敷を訪ねる。勇七は鍋島藩の宝とまで言われる名工だが、「権力づくめの、期限をきっていいものを作れという仕事に我慢が出来ない」と、頑として命令を聞き入れない。
勇七の説得に努め、勇七の強情を堪えていた作左衛門だが、或る日勇七の雑言にカッとなって斬りつけてしまう。勇七は一命を取りとめるが、作左衛門は勇七宛に、恋しあう勇七の娘和歌と彦七の将来を託す遺言を残し、責任をとって切腹する。作左衛門の父の情に動かされ、勇七は百客の皿を焼く決意をする。しかし弟子の三次郎が奉行と相談の上、刎ね除けた傷物から百客を選んですでに荷出したと聞き激怒し、三次郎の首に斬りつけ、出奔してしまう。
窯は取り壊しとなり、一家は処払いとなった。藩は密偵を出して勇七の行方を追うとともに、彦七に勇七の捕獲を命じ、勇七を討取った折には帰参かなうという恩命を付けた。
 
何故に、かくも執念ぶかく、詮議するかといへば、それは彼が一代の名匠であるばかりでなく、鍋島家の唯一の財源とする色絵伊万里の陶法の秘密が、他国の藩窯に伝はっては、其の名声と財政上に、大打撃をうける惧れがあるからだった。
 
逃亡から十数年経った頃、寛政六年(1794)、江戸や上方に、伊万里手の優品が出廻っているとのうわさが立ち、藩の密偵は伊予(現・愛媛)の砥部の小さな陶器師の家に勇七を見つけ召し取ろうとした時、後ろから来た巡礼僧に斬り伏せられ勇七は難を逃れる。
巡礼僧の白衣をまとった彦七は、和歌と夫婦になり、勇七にとっては孫となる子もなしたことを告げ、その二人に会わせようとするが、勇七は喉を突き、「皿山の轆轤唄が聞こえる。…お和歌の小さい時よくわしも唄った。……」と昔日を想い命を果てる。
 
煩悩、優悶、愛憎、芸術の血みどろ――あらゆるものが去って、彼自身が、一個の白い壺みたいに、冷たいものに帰っていた。
              
陶工、陶器商人は運上銀を上納し、窯業が財政を支え、御用窯の製品に政治的役割を負わせる藩の体制は、時に陶工から物作りの自由を奪い過分の負担をかけた。勇七の台詞に芸術肌の陶工の葛藤が窺える。
 
「将軍家の藩公のと――権力づくめや日限を切って、この勇七に仕事をさせるといふのが無法だ。先が天下の将軍様なら、おれも天下の勇七だ。藝道にかけては、たとえ誰であらうと、勇七の我を曲げるこたあ難しい」
 
 「だから偉いと侍は[将軍家を]怖がるのだろう。だが、おれは陶器師だ。どこまでも藝術の上からいふのだ。――例へば皿を註文するのでも、やれ形はかうせい、寸法はかうだ、不吉な模様は相成らぬ、どれにも葵の紋を入れ、胎土はよく篩へ、轆轤の目の立たぬやうに引け、釉薬は濃くの、金泥は盛れの、何だのかんだのと、小喧しい、しかも成上り好みのごたくばかり並べて来て、揚句に、日限が一日違っても、すぐ追放だとか、縛り首だとか。――わはゝゝゝゝ笑はしちゃいけねえ、それでいい陶器が出来るなら、牢屋の土で囚人に焼かせるのが一番いゝゝ」
 
芸術は、経済論理と相いれないこと、芸術は独占されるべきものではなく、ひろく世の中に出て、より多くの人に受容されるべきものであるという吉川の芸術観が、芸道は曲げず自分の作品を作ることに命をかけた勇七の舌鋒に著される。
 
*****
                                        
 
 
佐賀に長く暮らした小説家滝口康彦の短編「鼓峠」は、遁走し他藩で作陶し鍋島の秘技を洩らしたとし処刑された副島勇七の首がさらされたと伝えられる鼓峠をタイトルにした。
イメージ 1
腕を認められ、若くして藩窯の細工人に登用されたが、芸術家肌の勇七は閉鎖的で注文通りのものしか作れない藩窯の仕組みに反発し、改革を訴えるが聞き入れられない。仲間たちも理不尽な待遇に不満を持つが、経済的に保証され身分も武士と同格であることから、同調しない。泉山の弁財天に奉納される狛犬一対(写真:雌 有田陶磁美術館リーフレットより)を作り、その腕の高さは認められているが、妬まれてもいる。御道具山の仕組みに陶工魂をつぶされると、執拗に抵抗する勇七に理解のあった御用赤絵屋の娘である妻お絹の気持も離れていき、喧嘩をした弾みに遁走してしまう。四国に渡り、その地の磁器産業に貢献するが、藩が放った密偵に京に卸された作品を見破られ捕獲される。処刑前に一世一代の作品を創りたいという希望が受け入れられ精根籠め色絵狛犬一対を創る。勇七はこの献上狛犬を条件に改革を求めるが、拒まれ割ってしまう。
勇七は1790年、三十一歳で処刑され短い生涯を終え、鼓峠に首がさらされた。
滝口康彦19242004)は長崎県佐世保市生まれ。佐賀県多久市に在住し九州を舞台にした時代小説を数多く発表した。代表作「異聞浪人記」は、1958年サンデー毎日大衆文芸賞を受賞。1962年、小林正樹監督、仲代達矢主演の「切腹」、2011年、三池崇史監督、市川海老蔵主演の「一命」として映画化された。
 
*****
 
戯曲「炎の陶工 副島勇七」は鍋島御用窯の罅青磁の秘技を持つ名陶工の工人魂を描く大矢野栄次の原作を川口眞帆子が脚色し、1996年、世界・炎の博覧会のプレイベントとして劇団若獅子により佐賀、福岡両県で上演された。
勇七は、八代藩主鍋島治茂も藩の宝と誉める名陶工だが、腕を誇り傲慢なので仲間から妬まれて、あらぬ噂をたてられ、藩窯から追放となる。弟弟子から処刑と嘘の藩令を伝えられ、伊万里津から加賀に向かう船で逃走する。旅芸人おあきの機転で追手から逃れ、京、大阪、瀬戸を経て砥部に辿り着くが、追い詰められ捕まり、藩に連れ戻される。勇七の技を認める藩主はどうにか命を救おうと手を打つが叶わず、処刑となった。逃走中、勇七はおあきに、本物の罅青磁を伝えて欲しい頼む。良い焼き物を作るということは、技術を学ぶことではなく、良い焼き物を知り、何を作るべきか知ることだと説く。
「罅青磁を焼けるのはこの国で、唯一人、俺しかいないのだ。俺が作る本物を見て覚えて、自分が打ち首になった後も、何が本物の焼物かを見極めてもらいたい。本物を作ろうという人が出て来たときに、本物を知る人が必要なのだ」
久留米大学経済学部教授である原作者は、近年の経済空洞化を防ぐには、今何を作るべきかを知り、よいものを作ろうと励む勇七の生きざま、物作りの心が不可欠とのメッセージを小説に込めたという。
川口の演出で、笠原章、仁支川峰子(旧芸名西川)が主演した。翌1997年にも佐賀、福岡、熊本で上演された。 劇団若獅子は1987年九月に解散した新国劇の中堅メンバーによって、翌十月に結成され時代劇を中心に公演を行っている。
               *****
 
陶磁研究家永竹威の『有田やきもの読本』1961年出版の初版にのみ所収されている第三章「史話 肥前陶工抄―有田、皿山の喜びと悲しみ―」で副島勇七の伝説が語られる。藩主より水戸藩への献上品の注文を受けたりする誰もが認める名工であるが、勇七は若く、名人気質ゆえ納める期日が決められていたり、分業で手頭(注文書)通りに製作することに納得しない。
 
「俺は、罪人にも等しい格子窓のある仕事場で、昨日もきょうも何の変りもなく、手頭のままに細工をつづけている。俺は一体、これから、どうしようというのだ。俺の手細工は、あの陶石を突く唐臼の水車にも劣っている。何の自由があるのだ。力のない仕事、伸びのない手細工だ」
 
弁財天社に奉納された赤絵狛犬の出来栄えが認められ、勇七は藩おかかえの御細工師ととなり、身分や処遇に喜んだが藩窯の実情を知るにつけ失望した。良いものを作りたいという一念で、改革を求めた。勇七は弁財天社の狛犬を作る前、太宰府天満宮、肥後水天宮なとの石像の狛犬や唐獅子を見て回り、日田の宿で江戸の瓦版屋から瀬戸の名陶工藤四郎作の天下一品の狛犬のことを聞いていた。他国焼物の技を学びたいと願いでたが受け入れられず、不満がつのり藩を出る決心をした。勇七は逃走途中、夜明け前、日ごろ慕っていた柿右衛門の窯場を訪ね事の次第を話した。
 
 「お前の陶工気質は立派だが、藩吏のきびしい眼は、ごまかせぬのでのお。陶工としての、そなたの気持は尊いもの、私にもよくわかる。だが、さりとて預かるわけにはゆかぬ」
 
柿右衛門は心を鬼にして慰め、路銀を与え、裏山から長崎街道への近道を教えた。勇七は薬売りに身をやつし四国砥部の窯場にたどり着き、窯場で働いていたが、やがて藩の追手に捕えられ、鼓峠で曝し首にされた。
 
*****
 
副島勇七についての記述は陶磁史家中島浩気の『肥前陶磁史考』に、十八世紀後半の轆轤、彫刻、捻り細工の名人で、窯詰め、原料調合、青磁制作に至るまで熟達していたとあり、寛政12年(1800)に処刑と記される。
 
「三田焼の研究」(三田市教育委員会編)に陶磁器研究家大橋康二が寄稿した論文「肥前磁器と三田焼」に「皿山代官旧記」に残る、拝借銀 明和五子[1768]申渡帳の下南川原釜焼 柿右エ門宛に、「あなたは近年、経済的に困窮しているが、お目見えをも仰せ付けられている者なので、資金援助として、一貫目を二十登返上で貸与する。……祐七は、細工巧者のため、今度、あなたの所に配属し、ふさわしい御用物などがあったときには作らせること。よってこの拝借銀のうち銀百五十匁を祐七に配当し、返上についてはあなたが取り立てて納めること」(現代語訳 大橋氏による)とある。そして祐七を藩の御用に役立つよう指導、監督するようにと記している。
上幸平山 祐七宛には、御用窯から追放されたが近頃は行跡もよいようだから、柿右衛門に配属するので御用物があるときは柿右衛門の指導の下、作陶するよう、又、配当金百五十匁を与えると申し渡しをし、今後も続けて御用に立つよう心得よと命じている。
柿右衛門にも祐七にも祐七の捻り細工は一般に売る事を禁じている。
大橋はこのことから祐七の捻り細工は特別巧みであったと推測する。
 
有田泉山の弁財天社には副島勇七の作と伝えられる色絵磁器の狛犬一対が奉納されていたと伝えられている。誰もが認める傑作で、一対の内口を開けた雌が残り、県の重要文化財に指定され、有田陶磁美術館に展示されている。勇七作と伝えられる青磁麒麟置物の大作が鍋島家に残る。
 
*****
                    
「皿山小唄」吉川英治 (吉川英治文庫131『松風みやげ』(短編集七)講談社 1976、「富士」19499月号 世界社、初出:「講談倶楽部」19386月号 講談社
「鼓峠」滝口康彦 (講談社文庫『謀殺』1987、初出「小説新潮19699月号 新潮社)
『炎の陶工 副島勇七』原作・大矢野栄次、脚色・川口眞帆子
大橋康二「肥前磁器と三田焼」(「三田焼の研究」三田市教育委員会2005)
〈www.nogami.gr.jp/chousa_kenkyu/.../mokuji1.html〉
『有田やきもの読本』永竹威(有田陶磁美術館1961
肥前やきもの読本』永竹威(金華堂1961
(注・『有田やきもの読本』、同内容の『肥前やきもの読本』とも確認できる限りでは1961年出版のもののみに、第三章 「史話肥前陶工抄―有田皿山の喜びと悲しみ―」が収録されている。両書ともその後の増刷版には第三章はない。)
 

吉川英治:「芸術には国境がない」

 『宮本武蔵』、『新・平家物語』、『三国志』、『親鸞』等著した国民的時代小説作家吉川英治18921962)には、江戸初期の肥前を舞台に名陶工を描いた三作品がある。
 
「彩情記」(別名「隠密色絵奇談」)は名匠と評判高い窯元旧家の鶴太夫の身に起きた悲劇を描く。
 
太夫の家がらは、同じ土地の柿右衛門などと並んで、その窯元の旧家の一軒であり、また初代柿右衛門以後の名匠ともいわれていた。
 
太夫仁和寺の宮方へ自作の献上香炉を届けるため、娘曾女を伴い京都へ行った。滞在中、侍務めが向かず芸術的な仕事をしたいという寺侍の義理の弟槇宗次郎に内弟子にしてほしいと頼まれるが、藩の難しい事情を話し断った。しかし宗次郎の決意は固く帰途に就いた鶴太夫父娘を追い弟子入りを懇願し許され、一緒に有田へ向かう。
芸術家肌で経営には無頓着な鶴太夫の窯は困窮していた。鶴太夫は長崎に立ち寄り、一度限りと藩の法度を犯し密貿易をする仲士十右衛門に自作の色絵磁器を売った。その帰りに賊に襲われ、旅を通して父娘の後をつけていた怪しい虚無僧に救われるが、槇宗次郎がこのどさくさで殺される。虚無僧は仁和寺執事の身元人別書を持つ宗次郎になりすまし有田入りする。
鍋島藩は藩の重要な財源である色絵製品は、藩印を受けなければ一切持ち出すことは許さず、技術が藩外に漏れないよう人物の往来も厳しく取り締まった。絢爛精緻な色鍋島は藩の産業として重要な財源になっていて、色絵釉の秘法が漏れると藩の財政に大きな崩壊をきたす。
偽者の宗次郎は鶴太夫の元で、誠実に働き腕を上げ、曾女と愛し合うようになる。
長崎の事件から三年程たったころ、死んだと思われていた本物の槇宗次郎が有田に出没し、窯焚きの百蔵と有田郡奉行親子も山で起きた不審な殺人事件等で宗次郎と名のる鶴太夫内弟子の素性に疑いをもつ。
太夫仁和寺から新たな香炉の注文を受け、制作にかかる。偽の宗次郎の使命を悟った鶴太夫は、仕事をしながら独り言を続け、天井裏に潜む偽宗次郎に色絵の秘技を伝授する。
香炉の生地が出来上がり、鶴太夫自ら指揮をとり焼き上げた。鶴太夫、偽の宗次郎、曾女は薪入れを終わり窯の火口に向い静かに合掌していた。
窯入れの前に、鶴太夫は新たに有田郡奉行となった宇佐伝右衛門に国禁を犯した罪は死して詫びると誓う献言書を血書した。そこには「芸術には国境はない」という言葉が繰り返され、「強いてそれを固守すれば、将来無数の犠牲者が生まれ、ひいては、固守する芸術も衰退してゆく」ことを力説していた。
太夫は駆け付けた伝右衛門に感謝のまなざしを捧げ、舌を噛んで命を果てた。
英君とたたえられる鍋島家の当主は覚り、鶴太夫の屋敷、扶持ち、家職等はすべて藩へ没収するが、伍堂大三郎と名乗った内弟子と妻曾女、生まれたばかりの息子は国外へ逐放とする公明正大な処置に出た。
 
それかあらぬか。
幾年かの後には、北陸の加賀からは、九谷焼の彩絵ものが製り出され、その他京や諸国の窯からも、三彩五彩の優雅な日本の色と姿を持った陶品(すえもの)が繚乱の花野のように産出されて来た。
それはまた、津々浦々の小さい家庭、大きい家庭の食器、酒器、茶器ともなって、われらの生活を彩ってくれた。
 
吉川英治文庫本版巻末に載る「『きつね雨』『彩情記』茶話」で松本昭は、「江戸初期の加賀の前田と、肥前の鍋島家との葛藤を中心に、有田焼の色絵の秘密を探って君家の為めに私生活を犠牲とした忠烈な武士にしてまた、九谷焼の祖と言われる名工後藤才次郎の伝を書こう」というのが『彩情記』の狙いである」とする「作者〔吉川〕の言葉」を引用する。
松本は昭和五、六年(1930-1931)にかけて有田で李朝肥前古窯跡群の発掘調査が行われ、有田焼の歴史が世間の関心を集めることになり、この時期、骨董美術に興味を持ち、蒐集にも熱心だったという吉川が有田焼の歴史に関心を惹かれたのは当然だろうと記す。
しかし才次郎の事件は藩史の秘密の部分である為、資料が集まらず久しく篋底にしていたという。
「彩情記」は「婦人倶楽部」1940年一月から翌年一月号に連載された。
松本は篋底から引き出された材料が「彩情記」として生まれたのが「昭和十五年(1940)であったということは、思いがけず深い意味合いが籠められているようである」と指摘する。
 
あの太平洋戦争突入の前年のこと、重苦しくたれこめた時代の暗雲の下で、言論活動は著しく制約されていた筈である。そんな中にあって吉川英治が「何気なく日常手にふれている一陶器にも、かつては古人の文化的な苦闘が、どんなに積まれてきたものか」(「作者の言葉」)としみじみと感慨をもって、このドラマを綴りつつ、最後に「芸術には国境がない」という言葉を以て結んだその胸中はいかなるものであったろうか。 
*****
 
吉川は「彩情記」とほぼ同じ構造の短編「増長天王」を書いている。
1927年「サンデー毎日春季特別号」に発表され、名工の聞こえの高い鍋島家の御用細工人久米一を主人公とする。六十代でかくしゃくとしていて、遊女に囲まれ贅沢な暮らしをし、誰にも屈せず、その傲慢な性格で増長天王とあだ名された。
山目付鈴木杢之進は春さきのある日、窯焚きの百助から久米一の絵描座の兆二郎が他藩から御用窯の秘法を盗みに来ている隠密だと告げられる。百助が、山目付と久米一の前で兆二郎に白状させようと迫ると、突然久米一が百助を足蹴にし、叱りつけた。
 
「おれの持つわざというものはな、自体こんな狭いやまだけに、秘し隠しにされておしまいになるような小さな物ではないのだぞ。芸の術が大きければ大きいほど、世にも響こう世間にも溢れで出よう。それが当然の成行きだわえ! だが兆二郎が加賀の廻し者だとは汝れだけの悪推量、娘の棗に懸想して、それが成らぬところから卑怯な作りごとをして、仇をしよう腹だろうが! ば! ばか者奴ッ」
 
久米一は、将軍家からの要望として、藩からあらたな献上品の注文を受けていた。なかなか制作にかからない久米一ではあったが、秋になると細工場にこもり作品作りを始めた。百助に罵られて呼ばれた「増長天王」の像と決め、「一生一品」の制作に取り組んだ。
久米一は皆が寝静まる頃になると、独り言を洩らし始める。仕事をしながら、へら使い、釉薬の調合、見ているだけでは分らない技の秘密を説き続ける。兆二郎は天井裏に忍び、小さな穴から師匠の仕事を見つめて、独り言に耳を凝らす。そして師匠は何もかも知っていると悟る。
一級の献上品を用意しなければならない藩は、機嫌を損ねた百助に大金を与えなだめ、久米一の作品を焼かせる。百助は焼成を始めたが、恨みは消えず、作品にひびが入るように火を調整していると、兆二郎と久米一の娘棗が現れ刺し殺される。二人は暗くなってきた窯に必死に薪をくべ火を蘇らせ焼き上る。
藩の掟を破った罪で捕らわれていた久米一が断罪となる日、窯が壊され中から巧緻な細工の豪華絢爛な染付の増長天王像が出てきた。「煩悩もあり、血の通っている、人間相手の陶器を焼くんだ」と言っていた言葉通りの名品だ。
山目付木之進は、窯焚きを終え国境へ急ぐ兆二郎と棗の姿を目撃した時、若い二人の前途を祈る心が湧き、飛縄する気にはなれなかった。久米一が「芸の術が大きければ大きいほど、世にも響こう世間にも溢れで出よう」といった言葉を思い出していた。
藩主は増長天像の完成の知らせを受け、久米一の助命の急便を走らせたが、久米一は刑場に送られる途中心血を注いだ作陶で命を燃やし尽くし息絶えていた。
 
天明四年(1784)、増長天王像は江戸に送り出された。久米一に告げた将軍家へではなく、鍋島家をにらむ田沼意知の機嫌を取り結ぶ賄賂として贈られるのだ。しかし同年三月、意知は刺殺され、増長天王像はしばらく鍋島家の上屋敷にしまわれていた。その後徳川家斉に懇望され献上したのだが、安政六年(1859)の江戸城の火事で土に返ってしまった。吉川はこの名品の数奇な運命で小説を結ぶ。
 
吉川はこの二つの陶工小説で、時代に翻弄されざるをえないものづくりの悲哀を描き、意志と情熱を注がれた芸術―作品は失われても、技は残る―は一国、一藩で独り占めすることはできない大きなものだと繰り返す。
 
吉川の肥前陶工小説にはもう一つ、伝説的名細工人副島勇七を描いた短編がある。
*****
  「彩情記」吉川英治 吉川英治文庫『きつね雨・彩情記』講談社 1977、『吉川英治全集第十六巻』講談社 1968、初出:「婦人倶楽部」19401月号から翌年1月号に連載)
増長天王」吉川英治(『吉川英治全集第四十七巻短編集一』講談社 1983、吉川英治歴史時代小説文庫75『治郎吉格子名作短編集(一)』 講談社 1990青空文庫 <www.aozora.gr.jp/index_pages/person1562.html>、
初出:「サンデー毎日春季特別号」1927 4月 毎日新聞出版

幸田露伴の「椀久物語」― 美術史を語る物語

 


 朝鮮陶工李参平が肥前有田(佐賀県)の泉山で良質の磁石鉱を発見して、今年で四百年を迎えた。有田、秘境大川内山に藩窯が置かれた伊万里は窯業の中心地となり、色絵磁器の優品を作ってきた。伊万里の港から積み出されたことから、この地方で作られた焼物全般は伊万里焼きと呼ばれた。海外文化にも影響を及ぼした伊万里焼、豊かな歴史を持つ有田、伊万里の窯業、そこに働く人々の人生は多様なテーマで文学に描かれる。
 
江戸時代前期、大阪の焼物を扱う豪商椀屋久右衛門は遊女松山への愛に溺れ、放蕩を続けた末、財を遣い果たし零落の内に精神を病み、遂に水死してしまう。
椀久の悲劇は巷で喧伝され、歌舞伎「椀久袖の海」が貞享元年(1684)大阪で上演され、井原西鶴の小説浮世草子「椀久一世の物語」が翌年(1685)刊行された。西鶴は椀久二十七歳から三十三歳までの六年間を描き、貞享元年十二月に水死したとする。
又、椀久は発狂した後、京に行き松山の愛で平癒したともいわれていて、紀海音は人形浄瑠璃「椀久末松山」(1710年4月以前に初演)に著した。備前の大尽が同情し、松山を身請けして、二人を大阪から連れ出す。
いわゆる椀久物が文芸や舞台の様々なジャンルで創作され人気を博した。
 
幸田露伴1867-1947)はこの二人をモデルに「椀久物語」(18991900)を著した。露伴以前の浮世草子浄瑠璃、歌舞伎等には椀久、松山の悲恋が描かれるが、露伴は舞台を明暦年間(1655-1658)の京都に移し、恋愛話に肥前の赤絵技法盗みの話を絡めた。 
露伴の物語は、京都の焼物商椀久が、有田の青山幸右衛門から藩外に洩らすことを禁じられている赤絵技法を聞き出し、陶工清兵衛に伝授し、京焼色絵陶器が誕生する経緯を語る。肥前焼物組合の手代幸右衛門は椀久の寵愛する島原の遊女松山の父で、京、大阪を廻って焼物の仲買をしている。身請け話が持ちあがって悲しむ娘を、焼物の代金を流用して自由の身にしようと考える。これを知った椀久は、松山に父に頼んで赤絵の秘法を手に入れて欲しいという。赤絵の焼成に苦心している清兵衛にそれを伝授し研究させれば、後援者の茶人金森宗和がお金を出してくれるので自分が身請けできるという。失敗を重ねるのみで弟子たちにも去られ苦境に陥っていた清兵衛は、秘法を得て赤絵焼成に成功する。椀久は松山を身請けし、妻とするが、肥前に帰った幸右衛門は秘法を漏らしたことが発覚して死罪になる。これを知った椀久は悔やみ発狂し苦しむが、松山の厚い介抱でやがて正気を取り戻す。
 
露伴は「椀久物語」発表の一年程前、少年少女向けの文化史「文明の庫」を書き、その「陶器の巻」で京焼の色絵陶器誕生の歴史を紹介している。
 
ここに壺屋久兵衛といふ陶器商ふものありしが、当時肥前には既に陶器の彩画の法開けたるに関はらず京都にては猶錦手といふやうなる美しきもの作ることを能せざるを憾みとし、肥前の人にて青山幸右衛門といふ男と心安く交れるを幸として、其人の彩画金焼付の法を知れるを、さまざまに頼み聞えて、少しづつ洩らし貰ひ、仁清に謀りて如何にもして彩画金焼付のものを造り出さんと思ひ込みたり。仁清も自己が技芸の上の事なれば、及ぶほどの力を尽して、さまざまに工夫しけるが、名工の事なれば一を聞て十をも悟りけん終に其企畫成就して、創めて美しきものを造りだしぬ。封建の制度のむづかしげに、同じ日本の中ながら此国彼国其主を異にして、自国の秘密を洩すことの堅く禁められたる折なれば、此事聞えて幸右衛門は自国の秘法を洩したる罪に行はれ、久兵衛はまた、幸右衛門の罪せられたる由を聞きて、気の毒なりとおもふ心の堪へがたさに発狂して遂に身歿りたりといふ。これはこれ寛永より少し後れて、明暦の頃の事なりとも伝ふれど……

 

この史実は江戸末から明治初めにかけ書かれたいくつもの美術関連の書物に見られる。
東海大学文学部日本文学科出口智之准教授は「『椀久物語』論」(「東京大学国文学論集」第3号 2008 東京大学文学部国文学研究室)で、露伴の「文明の庫」のこの記述は古賀静脩の『陶器小志』(1890 仁科衛)、田内梅軒『陶器考』(1854-1855、発行所不明)の付録の中のつほや六兵衛による「京都焼物初り書」の中の「金焼の初り」の項等に依拠すると指摘する。
古美術研究家で陶磁器を海外に紹介した蜷川 式胤(1835-1882)の『観古図説 陶器之部』第1 - 7巻(1876-1880)にも同様の記述がある。『観古図説』には仏語、英語の解説がつく。
露伴は歴史に語られる久兵衛と椀久を結び付け物語を創り上げた。
同論文で出口は、三井高保の「工芸遺芳」(1890)の仁清色絵焼成成功の記述のあと、「所詮演劇ニ仕組ミ演スル碗久ハ、此久兵衛カコトナリト云フ」とあると指摘している。

 

露伴は「文明の庫」の前書き「緒言」に、人の世にあるものはどんなに小さな、目立たないものでも、「忽然と現れたもの」ではなく、「必ず人の手によりて造り出されたものなり」と植物の実りに例える。

 

造りはじめたる人は、たとへば苗の如く、造りはじめんとしたる人は、たとえば種子のごとし。造らんとしたる人の茎の如く、造りたる人は穂の如し。種子より苗は出で、苗より茎は立ち、茎ありて後穂は生るなり。                                 

 

露伴は「文明の庫」で陶器の他、紙、銃器、仮名を取り上げ、今便利に使い、人々の生活を幸福にしているものは、陶磁器でも、織物でも長い年月の間の「多くの人々の頭より出で手より出でたる恩恵の糸よりて間も無くかがられたる」存在とし、人のあり方や人と作品(もの)との関わり方をみる文明史、すなわち人類の功績の記録であるという。
金工、陶工等の職人の他 蒟蒻芋を粉状にし、遠くに送れるようにして全国に普及した常陸茨城県)の農民中嶋籐右衛門や、ものとして存在しない郵便制度を作った人の功績をあげ、人間の幸福は必ず人によってつくられているとする。

 

「美術」という言葉は、 1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に参加の際、出品分類にドイツ語からの翻訳語として初めて使われた。明治期の美術史は万博との関係で語られ、ナショナリズムや輸出政策を内包した日本美術のアピールになり、作品を作家の評判や歴史、社会制度などを基準にして美術にヒエラルキーを持ち込んだ。この傾向は1900年(明治33年)第五回パリ万博を機に編まれた官製日本美術史“Histoire de l’art du Japon”(仏語版) と日本語版『稿本日本帝国美術略史』(帝室博物館編)等に見られる。ヨーロッパの「美術」の概念が持ち込まれ、工芸や装飾美術は「美術」から切り離され、美術史からは作り手の物語が抜け落ちてしまった。

 

「文明の庫」で、もの、あるいは文明は必ず人の手によって、人々が力を合わせることで生まれると主張する露伴は、『椀久物語』などの職人小説で作り手の物語を語ることで美術の歴史のひとこまに迫ったといえる。

 

露伴が求めていた「美術」をめぐる〈物語〉とは、同時代に求められていた「日本美術史」では決して集約されない、むしろ、そこから抜け落ちて行った、人と作品(モノ)とのつながりを問う<物語>だったといえる。おそらく、そうした〈物語〉を拾い集めていくことにこそ初めて、露伴は「美術」の〈歴史〉なるものを語ることの意味を見出していたといえるだろう。

 

西川貴子同志社大学文学部国文学科教授は「『美術』をめぐる〈物語〉― 幸田露伴『帳中書』を軸として―」(2007年 京都工芸繊維大学における口頭発表に基づく論文)で『帳中書』、『椀久物語』を考察して、こう結ぶ。

 

***** 
 
「椀久物語」幸田露伴(初出:「文芸倶楽部」1899年1月号及び1900年1月号に上下巻分載、『露伴全集』第五巻小説5 岩波書店 1978、『二日物語・風流魔 他二篇文庫』岩波書店 1986、『露伴叢書後編』(名家小説文庫)博文館 1909、同書 国立国会図書館デジタルコレクション<dl.ndl.go.jp/>)
「文明の庫」幸田露伴 (「少年世界」博文館 1898年1~9月、『露伴全集第十一巻 少年文学』岩波書店 1978、『露伴叢書後編』(名家小説文庫)博文館 1909、同書 国立国会図書館デジタルコレクション<dl.ndl.go.jp/>)